夕礼拝

逃げて良い

「逃げて良い」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:創世記 第28章10-22節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第10章13節
・ 讃美歌:

青年主体の夕礼拝
 この夕礼拝は「青年主体の夕礼拝」として守っています。コロナ禍になる前は指路教会では年に二回、6月と11月の最後の週の夕礼拝で「青年伝道夕礼拝」を行っていました。2019年の6月と11月には行えましたが、それ以来行えていません。コロナ禍のために2020年度、2021年度は夕礼拝を休止していたし、広く声を掛けて多くの方を礼拝にお招きするのも難しい状況が続いているからです。しかし今年度から夕礼拝を再開することができ、「青年伝道夕礼拝」の代わりとして本日の夕礼拝を「青年主体の夕礼拝」として行うことになりました。「青年主体」というのは三つの意味を持っていると思います。一つは青年を招く礼拝であるということです。もちろんどなたでも出席できる礼拝ですが、特に青年を礼拝にお招きしたいという想いで準備を進めてきました。コロナ禍なので不特定多数の方に案内することは控えましたが、教会に連なる青年たち、教会学校の高校生、教会学校の卒業生を中心に案内はがきを送りました。青年を積極的に礼拝へ招くという意味で「青年主体の夕礼拝」なのです。もう一つは指路教会の青年会のメンバーが奉仕を担う礼拝であるということです。この礼拝の司式をしてくださっているのは青年会のメンバーですし、献金のお祈りもそうです。この礼拝の案内はがきもメンバーが作成しました。青年会のメンバーが主体となって礼拝を行うという意味で「青年主体の夕礼拝」なのです。さらにもう一つは、青年のことを覚える夕礼拝でもあるということです。指路教会の青年会の対象は未婚で30歳以下と決まっていますが、私は対象でない方にもこの夕礼拝に来てくださいとお声掛けしてきました。それは奉仕している青年会のメンバーを応援していただきたいという気持ちもありましたが、なによりも青年たちの救いを覚えて礼拝を共に守っていただきたいという願いがあったからです。ここに集えている青年だけでなく、ここに集えていない多くの青年たちの救いを覚えて礼拝を共に守っていただきたいのです。

厳しい時代に生きている
 今、青年の皆さんはとても厳しい時代に生きていると思います。コロナ禍のために高校生活でクラブ活動が思うようにできなかった方がいます。体育祭や文化祭が縮小されたり中止になったりした方、修学旅行に行けなかった方もいます。大学生活でもオンライン授業が続いてキャンパスに行くことができず、キャンパスライフを楽しめていない方がいます。なかなか対面で会えないために人間関係を築けず友だちができない方もいると思います。仕事においても働き方が大きく変わった方や、職種によってはコロナ禍の影響をまともに受けている方もいます。青年の皆さんに限りませんが、コロナ禍によって今まで当たり前であったことが失われ、ウィズコロナ時代のニューノーマル(新しい常態)に適応して生きていかなくてはならないのです。それだけではありません。青年の皆さんにとって、この社会はとても生きにくい社会、息苦しい社会なのではないかと思います。絶えず比べられ、評価される社会です。いつもなにかを求められ、なにかに追われています。忙しくてちゃんと食べてちゃんと眠ることができない。下ばかり向いていて空を見上げることがなくなった。笑顔を見せていても心の中では泣いている。そういうことがあるのではないでしょうか。

「死んでも逃げるな」という考え
 そのような社会にあって、青年の皆さんを苦しめているもの、青年だけでなく私たち皆を苦しめているものの一つが、「死んでも逃げるな」あるいは「逃げたら終りだ」という考えだと思います。「死んでも逃げるな」は失敗や試練を乗り越えていくために気持ちを奮い立たせる言葉だ、と言う人もいるでしょう。確かに「死んでも逃げるな」、「逃げたら終りだ」と自分自身に言い聞かせることによって、失敗や試練を乗り越えられる人は良いかもしれません。でも、そうでない人はどうなるのでしょうか。「死んでも逃げてはいけない」ならば、「逃げたら終り」ならば、ハードルを乗り越えられない人は逃げることができず追いつめられるしかありません。しかも「死んでも逃げるな」という考えは、人生の中でずっとハードルを乗り越えていくことを求めます。逃げても逃げなくても良いというのではない。逃げないことを求め続けられるのです。ハードルを乗り越えられず追いつめられてしまう恐れや不安に絶えず襲われながら生きていかなくてはならないのです。そこには逃げ道がまったくありません。その先にはなにがあるのでしょうか。最悪の場合、自分で自分の命を絶つということが起こり得るのです。「死んでも逃げるな」、「逃げたら終りだ」というのは、突き詰めれば「逃げたら死ぬしかない」、「逃げたら終るしかない」ということです。私たちはそのような考え、そのように思い込ませる力を感じながらこの社会で生きているのではないでしょうか。
 実際、日本における自殺者の人数はいわゆる「先進国」の中で飛び抜けています。日本における昨年度(2021年度)1年間の自殺者数は21,007人でした。単純計算で1日57.6人、1時間に2.4人の方が自らの命を絶っていることになります。30歳未満の青年でも1年間で3,361人、1日9.2人が亡くなっています。これが私たちを取り巻く社会の現実です。もちろん理由は様々であり、簡単に原因が分かるわけではありません。しかし「死んでも逃げるな」、「逃げたら終りだ」という考えが、日本における自殺者数を増やしている原因の一つだと思います。

逃げて生きよ
 それに対して聖書は「逃げて生きよ」と私たちに告げています。逃げないで追いつめられて死んでしまうのではなく、「逃げて良いから生きなさい」と告げているのです。「逃げて生きる」というのはクリスチャン(キリスト者)のあり方の一つです。「死んでも逃げるな」、「逃げたら終りだ」という考えから解放されて、「逃げても良いから生きる」と考えるのがクリスチャンだと言っても良いかもしれません。私自身も様々な困難が重なって追いつめられたことがありました。普段から「死んでも逃げるな」、「逃げたら終りだ」と考えていたわけではありません。でも追いつめられれば追いつめられるほど冷静に考えることができなくなり、「逃げたら終り」だという思いに支配されてしまったのです。そのときクリスチャンの友人が一言、私に言ってくれました。「逃げるのもありだよ」。その一言で、とても気持ちが軽くなったのを覚えています。

無責任な言葉?
 とはいえそのように言われても、逃げたからといって試練がなくなるとは限らないし、苦しみから解放されるとは限らないと思う方もいると思います。「逃げて生きよ」というのは「心地よい言葉」だけど、逃げた後の保証がないのならむしろ「無責任な言葉」だと思う方もいるのではないでしょうか。この社会において「逃げたら終り」という考えが強いのは確かですが、その一方でネットや本を見ると「逃げても大丈夫」と言われていることもあります。そのような「逃げても大丈夫」と、聖書が告げる「逃げて生きよ」はどこが違うのでしょうか。「逃げて生きよ」というのは、「逃げてもなんとかなるから大丈夫」と無責任に言っているだけなのでしょうか。
 聖書には失敗したり試練にあったりして逃げてしまった人物がたくさん登場します。今日はそのような人物の一人の物語を通して、「逃げて生きよ」というメッセージをしっかり受けとめていきたいのです。

エサウとヤコブ
 先ほど読んでくださった創世記28章10節以下では、ヤコブという人物の話が語られています。ヤコブの物語は創世記25章から始まり36章まで続くとても長い物語ですが、今日の箇所はその一部分です。その冒頭10節に「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった」とあります。ハランにはヤコブの母リベカの兄ラバン、つまりヤコブの伯父さんが住んでいましたから、ヤコブは伯父さんの家に向かっていたのです。といっても伯父さんの家に遊びに行くためではありません。このときヤコブは逃亡中でした。逃げるためにハランに向かっていたのです。なぜヤコブは逃げていたのでしょうか。その理由は今日の箇所より前に語られています。ヤコブにはエサウという双子の兄がいましたが、二人の性格は対照的でした。兄エサウは「巧みな狩人」で、いつも狩りに出かけて行きましたが、弟ヤコブは「穏やかな人」でいつも天幕の周りで働いていたのです。その二人の関係が険悪になります。どちらが父イサクから祝福を受け継ぐかで争ったからです。普通なら兄であるエサウが父イサクの跡取りとなります。イサクもそのように考えていたし、そのように願ってもいました。兄エサウは当然自分が跡取りになると思っていたでしょう。しかし弟ヤコブも自分が跡取りになりたいと思っていたのです。

ヤコブの逃亡
 父イサクは年をとり、自分の死が近づいているのを感じました。ある日、彼はエサウを呼びます。狩りの獲物で自分の好きなおいしい料理を作って、持ってくるよう言ったのです。「死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい」(27:4)とイサクはエサウに言っています。エサウは獲物を取りに狩りに出かけました。ところがこの話をエサウとヤコブの母リベカが聞いていました。父イサクが兄エサウを愛していたのに対して、母リベカは弟ヤコブを愛していたので、エサウではなくヤコブが祝福を受け継いでほしいと願っていました。そこでリベカはヤコブが祝福を受けられるよう一計を案じたのです。それは弟ヤコブが兄エサウになりすまし、イサクを騙して祝福を受けるという計画でした。普通なら成功する見込みの低い計画です。しかしイサクは年をとり目がかすんで見えなくなっていたので、二人の顔を見分けることができませんでした。手で触って確かめるしかなかったのです。リベカとヤコブにはクリアしなければならない問題がありました。兄エサウはとても毛深かったのに対して、弟ヤコブの肌はすべすべしていたのです。イサクに触られたらすぐバレてしまいます。そこでリベカはヤコブの腕や首に子山羊の毛皮を巻きつけ、ヤコブの腕をエサウの腕のように毛深くしたのです。ヤコブがエサウになりすましてイサクのところに行くと、イサクはやってきた息子が本当にエサウなのか確かめようとします。手で触りながら「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ」(27:22)と言い、「お前は本当にわたしの子エサウなのだな」(27:24)とも聞いています。しかしついにその変装は見破られず、エサウになりすましたヤコブはイサクから祝福を受けてしまったのです。祝福を受けたヤコブが去るとエサウが狩りから帰ってきます。そのときイサクは騙されてヤコブに祝福を与えてしまったことに気づきました。そのことを知ったエサウは「悲痛な叫びをあげて激しく泣き」(27:34)父イサクに言いました。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください」(27:34)。しかしイサクは「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった」(27:35)と言います。この祝福は一人だけにしか引き継ぐことができないものでした。そして一度祝福を引き継いだら、もうほかの人には引き継ぐことができなかったのです。もちろんエサウの怒りは激しいものでした。「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる』」(27:41)と語られています。それを知ったリベカはヤコブに「大変です。エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています。わたしの子よ、今、わたしの言うことをよく聞き、急いでハランに、わたしの兄ラバンの所へ逃げて行きなさい」(27:42-43)と言いました。こうしてヤコブは兄エサウに殺されないためにハランへ向かって逃げ出したのです。

逃げた先で
 今日の箇所では、逃亡中のヤコブがとある場所で寝ていたときに見た夢が語られています。12節にこのようにあります。「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。不思議な夢ですが、ポイントはこの天と地をつなぐ階段を上り下りしているのはヤコブではなく神の御使いであるということです。地上にいるヤコブが天の神さまを求め、階段を上って神さまに近づいていこうとしたのではなく、天の神の御使いが、つまり神さまご自身が地上のヤコブのところに降って来てくださったのです。そして神さまはヤコブに語りかけられます。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神。主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」。神さまはヤコブに土地を与え、たくさんの子孫を与えると約束されたのです。さらに続けて神さまは言われます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。
 ヤコブは人間関係で大きな失敗と挫折を経験しました。父を騙して祝福を奪い、兄から殺意を抱かれるほど憎まれました。家族との大切な関係が壊れてしまったのです。ヤコブはもともと自信満々の人間だったのかもしれません。だから普通なら兄が跡取りになるはずなのに自分がなろうとしたのです。しかしそのような彼が取り返しのつかない失敗をし、厳しい挫折を味わいました。そして逃げ出したのです。逃亡中の彼は孤独と不安と恐れの中にあったに違いありません。けれども逃げた先で、孤独と不安と恐れの中で、ヤコブは神さまの語りかけを聞いたのです。神さまが逃亡中のヤコブに出会ってくださり、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り…決して見捨てない」と約束してくださったのです。
 私たちも人間関係だけでなく様々なことで失敗をしたり、挫折をしたり、困難や苦しみを経験します。時には耐え難い苦しみに直面することもあります。そのような私たちに聖書が「逃げて生きよ」と告げているのは、「逃げてもなんとかなるから大丈夫」だからではありません。そうではなくヤコブがそうであったように、逃げた先で神さまが私たちと共にいて、導き、支え、守ってくださり、私たちを決して見捨てることがないからです。「逃げて生きよ」とは、逃げた先の保証がない「無責任な言葉」なのではなく、逃げた先で必ず神さまが共にいてくださるという保証が伴う言葉、約束が伴う言葉なのです。私たちにとって逃げるとは、色々なものを失い、捨てることのように思えます。人間関係を失い、積み上げてきたものを失い、自分の居場所を捨ててしまうからです。しかしたとえ私たちが逃げたとしても、神さまは私たちを見失わないし、見捨てることも決してないのです。なにもかもを失って逃げた先で、なお神さまは共にいてくださり「あなたを見捨てない」と言われるのです。だから私たちは逃げて良いし、逃げることができます。「死んでも逃げるな」、「逃げたら終り」と考えるのではなく、「逃げても良いから生きる」と考えることができるのです。逃げてもなお私たちは神さまの恵みの内にあり、神さまの愛から引き離されることはないのです。それは逃げた先で必ず良いことがあるとか、問題が解決するということではありません。この後、ヤコブは多くの苦労を重ねていきます。逃げた先で良いことがあったとは簡単には言えません。しかし彼がその苦労を負っていくことができたのは、彼が頑張ったからでも能力があったからでもなく、「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを決して見捨てない」という神さまの約束を信じていたからに違いないのです。

逃げて良い
 共に読まれた新約聖書コリントの信徒への手紙一10章13節にはこのようにあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。困難や試練に直面する私たちに、神さまはその困難や試練に耐えられるよう「逃げ道」を用意していてくださいます。だから「逃げて良い」のです。その「逃げ道」は人によって違うし、状況によっても違います。ヤコブのように本当に逃げ出してしまうという「逃げ道」があり、そうでない「逃げ道」もあります。さらに言うならば、逃げた先に神さまが共にいてくださるだけでなく、たとえ本当に逃げ出さなくても神さまが共にいてくださることが私たちの「逃げ道」であるのです。その「逃げ道」を私たちに与えるために神さまはイエスさまを私たちのところに送ってくださいました。イエスさまが十字架で死ぬことによって私たちの罪が赦され、私たちは神さまと共に生きられるようになったのです。ですからイエスさまを信じ、イエスさまによる救いを信じて生きることが、私たちにとって究極的な「逃げ道」です。私たちはイエスさまの救いによって「死んでも逃げるな」、「逃げたら終りだ」という考えから解放されるのです。逃げて良い。逃げた先で神さまが共にいてくださいます。逃げて良い。イエスさまを信じて生きることに、私たちが直面する耐え難い苦しみや悲しみからの「逃げ道」があります。逃げて良い。神さまはあなたと共にいてくださり、あなたを決して見捨てることはないからです。

関連記事

TOP