主日礼拝

忍耐と慰めの神

「忍耐と慰めの神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-8節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第15章1-6節
・ 讃美歌:

この礼拝を感謝して
 12月に入りました。本日はアドベント第二主日です。そして本日から、主日礼拝を、午前10時半と午後2時の二回とすることになりました。一年半ぶりに讃美歌を皆で歌うことも再開しました。今日は説教よりも讃美歌を歌えたことに皆さん感激して帰るのでしょう。それは私もそうです。まだ全員ではないにしても、皆の賛美の歌声がこの礼拝堂に響くというのは、本当に素晴らしいことです。それでこそ、この礼拝堂が生きると言ってもよいでしょう。このことは大きな喜びですが、しかし今また新たなオミクロン株というのが出てきて、その影響が心配です。来年に入った頃にはその感染が拡大していくかもしれません。状況をしっかり見極めて慎重に歩んでいきたいと思います。場合によっては、礼拝をまた三回に戻さなければならないかもしれないし、讃美歌をまた歌えなくなるかもしれません。そういう可能性も見すえつつ、今与えられているこの礼拝を感謝と喜びをもって守りたいと思います。

罪の現実を見つめつつ、神の救いを待ち望む
 アドベント、つまりクリスマスに備えていく日々を私たちは歩んでいます。主イエス・キリストが私たちの救い主として、この世に、弱く貧しい姿でお生まれになった、神の独り子でありご自身がまことの神である方が、私たちと同じ人間となってこの世に生まれ、生きて下さった、そのまことに驚くべき救いの出来事を記念し、感謝し、喜び祝う時がクリスマスです。その救いは、何事もなく平穏無事なところに与えられたのではありません。私たち人間が苦しんでおり、悲しんでいる現実があるからこそ、神はこの救いを与えて下さったのです。その苦しみ悲しみをもたらしたのは私たちの罪です。私たちは、この世界を造り、私たちに命を与え、人生を導いておられる神さまに感謝し、神さまを愛し敬って生きるのでなく、神を神としてあがめず、従わず、自分の思いや願いをかなえることばかりを求めています。自分が主人となって生きるために神を邪魔者のように思っているのです。そのように神との良い関係を失っていることが私たちの罪です。そして神との良い関係を失った私たちは、人間どうしの良い関係も失い、愛し合って共に生きるべき隣人を受け入れず、妬んだり軽蔑したりして、傷つけるようなことばかりしています。つまり神をも隣人をも愛するのでなく邪魔者扱いしているのです。そういう罪に陥っている私たちが作っているこの社会には、いろいろな悲惨なことが起っており、私たちはそれによって苦しみ悲しみを味わっています。新型コロナウイルスによって今私たちが体験しているのも、病気の苦しみだけではなくて、むしろ人との交わりが阻害され、心が通じなくなり、孤独に陥ってしまうという人間関係の苦しみであり、また自分のことで精一杯で、人のことまで構っていられない、という思いが広がる中で、苦しみの中に取り残されてしまう人が生じており、人と人との分断が深まっているという苦しみです。このウイルスは、私たち皆が元々持っている罪をあぶり出し、可視化したと言えるでしょう。私たち人間は罪を負っており、それによる苦しみ悲しみ、悲惨さの中にいるのです。その私たちを救うために、神はその独り子をこの世に救い主として遣わして下さったのです。
 その救いの恵みを覚えるクリスマスに備えていくアドベントは、人間の罪による苦しみ悲しみ、それによってもたらされている悲惨さをしっかり見つめて、神の救いを待ち望む時であると言えます。クリスマスを待ち望むっていうのは、あと何日でクリスマスプレゼントがもらえる、とワクワクしながら楽しみにするようなことではなくて、私たちが罪による苦しみ悲しみの中にいる、その現実を見つめながら、そこに与えられる神の救いを待ち望む、ということなのです。それがアドベントの信仰です。そういう信仰を語っている聖書の代表的な箇所が先ほど朗読されました。イザヤ書第40章1?8節です。本日は先ずこの箇所を味わうことによって、アドベントの信仰を深められたいのです。

罪の赦しによる慰め
 イザヤ書40章の1節に「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」とあります。神がご自分の民に「慰めよ」と告げて下さっている、と預言者は語っているのです。それは裏返せば、彼らが、神からの慰めを必要とする、つらく苦しい現実の中にいるということです。そのつらく苦しい現実は2節の後半に見つめられています。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」。「苦役」と言われるような苦しみの中に彼らはいるのです。その苦役は、罪の報いです。つまり彼らが味わっている苦しみ悲しみの原因は、自らの罪にあるのです。神に背き逆らう罪のゆえに苦しみの中にいる彼らに、神が「慰めよ」と告げて下さっているのです。それは、「彼女の咎は償われた、罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」からです。罪の報いとしての苦しみはもう十分だ、あなたの罪は赦された、と神が告げて下さっているのです。つまり神が与えて下さる慰めは、罪の赦しによる慰めなのです。

主が来て下さる
 3節には、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とあります。その道とは主なる神のための道です。5節には「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」とあります。主が来て下さって、その栄光を現し、救いのみ業を行って下さる、そのために主の道を備えよ、と語られているのです。ここから分かるのは、主はこれから来られる、ということです。主の栄光はまだ現れてはいない、これから現れると告げられているのです。1節で告げられた「罪の赦しによる慰め」はこのことによって実現します。主が来て下さって、栄光を現し、罪の赦しによる救いを実現して下さる、そのことを告げることによって「わたしの民を慰めよ」と主は言っておられるのです。ですからこの「慰め」はまだ現実とはなっていません。人々はなお苦役の中にいるのです。罪の報いとしての悲惨さの中であえいでおり、慰めを求めているのです。

神の言葉はとこしえに立つ
 その人々に、主が来て下さって救いが実現する、という慰めが告げられているわけですが、しかし苦しみの現実のまっただ中にいる者たちにとっては、そのことが告げられただけでは慰めになりません。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」と言われても、なお苦役の現実は続いているのです。だから「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言われても、その慰めを実感することができないのです。それゆえに預言者は6節においてさらに「呼びかけよ」と言っています。何と呼びかけたらよいのか。それは6節後半以降のことです。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。このように呼びかけよ、と言われている。それは、このことをしっかり心に刻みつけよ、ということでしょう。人間とその営みは野の草や花のように枯れ、しぼんでいく。しかしわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。このことを心に刻みつけることが大事なのです。人間の知恵や力、努力や工夫に依り頼んでも、苦しみ悲しみの現実をどうすることもできません。なぜならその根本には人間の罪があるからです。神との良い関係を失っているから、これらの苦しみ悲しみが生じているのです。その関係をそのままにしておいて、人間がいくら知恵を尽くして努力しても、問題は解決しないのです。人間の罪によって失われた関係を回復することができるのは神のみです。神が罪を赦してくださることによってのみ、私たちと神との関係は良いものへと回復されるのです。そして神はその赦しを告げて下さっています。それが「慰めよ、わたしの民を慰めよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」というみ言葉です。罪の赦しを告げているこの神の言葉は、虚しく枯れ、しぼんでしまうことはありません。とこしえに立つのです。主が来て下さり、栄光を現して下さることによって必ず実現するのです。そのことを信じるなら、罪による苦しみ悲しみの現実がなお続いている中で、神による救いを希望をもって待ち望むことができる、慰められて生きることができるのです。つまりこの慰めの根底には、神の言葉はとこしえに立つ、という信仰があるのです。神の言葉はとこしえに立つと信じて、苦しみ悲しみがなお続く現実の中で、救いを待ち望みつつ歩む、そこに慰めが与えられる、それがアドベントの信仰なのです。

アドベントの信仰
 私たちもこのアドベントの時、その信仰を深められたいと思います。私たちの目に見えるこの世の現実はまことに厳しいものであり、苦しみ悲しみに満ちています。新型コロナウイルスによる苦しみが世界を覆っているし、その恐れや不安の中で人間の罪が増し加わり、さまざまな形でそれが現れています。先が見えない、これからどうなっていくのか分からない、その不安に私たちの心は押しつぶされそうになっています。慰めや希望が見出せない現実の中にいる私たちに、しかし神は今日、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と語りかけて下さっています。そしてこのイザヤ書が語っている、主が来て下さり、栄光を現して下さり、救いを実現して下さるという預言が、主イエスの誕生において実現したことを告げるみ言葉を私たちは毎年クリスマスに聞いているのです。そしてクリスマスにこの世に来て下さった神の独り子主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦し、神との良い関係を回復して下さったことを告げる神の言葉を私たちは毎週の礼拝において聞いているのです。人間とその営みは野の草や花のように枯れ、しぼんでいきますが、この神の言葉はとこしえに立つのです。必ず実現するのです。だから私たちは、神の言葉が告げている主イエスによる救いが、この自分に実現していることを信じて、その慰めを受けて生きることができるのです。
 神の言葉は、主イエスが二千年前にこの世に来て下さり、十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによる救いを告げているだけではありません。今や天に昇り、全能の父なる神の右に坐しておられる主イエスが、将来もう一度来て下さることをも告げています。主が再び来られる再臨の時、この世は終わり、神の国が完成するのです。その時私たちにも、主イエスと同じ復活と永遠の命が与えられます。この世の歩みに伴う苦役から解放されて、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない新しい命に生かされるのです。神の言葉はこのことをも告げています。その神の言葉はとこしえに立つのです。必ず実現するのです。私たちはそのことを信じて、主の再臨による救いの完成を待ち望みつつ生きるのです。アドベントの信仰とは、人間の罪による苦しみ悲しみの現実の中に主イエスの誕生によってもたらされた救いを待ち望むと共に、その主イエスが再び来て下さり、救いを完成して下さることを信じて待ち望むことです。その信仰によってこそ私たちは、苦しみ悲しみに満ちているこの世を、慰めを与えられつつ、忍耐して生きることができるのです。

忍耐と慰めと希望
 神の言葉はとこしえに立つことを信じ、そのみ言葉が告げている主イエス・キリストによる救いを信じて生きるなら、私たちは、忍耐と慰めに生きることができます。そしてそこに希望が与えられます。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第15章にそのことが語られています。その4節にこうあります。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」。「かつて書かれた事柄」とは、ここにも語られているように「聖書」のことです。この手紙が書かれた時の聖書は今で言う旧約聖書ですが、私たちは今、この「かつて書かれた事柄」に新約聖書も含めて受け止めることができます。旧新約聖書に書かれている事柄、つまり神の言葉は私たちを教え導くためのものです。その聖書から、つまり神の言葉から、私たちは、「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」。
 この忍耐と慰めと希望の関係ですが、私たちはとかく、忍耐することによって慰めが得られ、そして希望が得られる、と思いがちです。しかしそうではないでしょう。根本にあるのは慰めなのです。慰められているから、忍耐することができるのです。慰めがあるところに希望も与えられるのです。主イエス・キリストはそのように歩まれたのであり、私たちはその主イエスに倣って生きるのです。5節に「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」とあります。主イエスに倣って私たちも忍耐と慰めに生きるのです。そのことは2、3節にはこう語られています。「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」。「自分の満足を求めるのでなく」というのが「忍耐すること」です。「善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努める」というのも、自分の満足を求めるのではなくて、隣人のためになること、お互いに向上していけることをしていく、ということです。主イエスはまさにそのように忍耐して私たちの救いを実現して下さったのです。キリストに倣ってそのような忍耐に生きることが勧められているわけですが、でもそれは、忍耐して隣人に仕えていけば慰めが得られる、ということではありません。慰めが与えられているからこそ、自分の満足を求めるのでなく、忍耐して隣人に仕えることができるのです。そのことは1節から分かります。1節には「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とあります。自分の満足を求めずに隣人に仕えることは、強い者だからできるのです。その「強い者」というのは、神による慰めを与えられている者、ということでしょう。自分が神による慰めを与えられ、神の愛によって支えられていることを知っている者こそが、本当に強い者なのです。だからこそ、自分の満足を求めるのでなく、隣人のために、隣人に仕えて生きることができるのです。主イエスはまさにそのように歩まれたのです。神の独り子として父なる神に愛されていたからこそ、私たち罪人のために忍耐して、十字架の死への道を歩んで下さったのです。私たちも、神の愛を受け、主イエスによる救いを与えられて、まことの慰めを得ることによってこそ、強い者となり、強くない者の弱さを担うことができるようになるのです。忍耐して隣人に仕えていくことができるようになるのです。つまり私たちに求められている忍耐は、痩せ我慢ではありません。神によって慰めを与えられていることに感謝して、喜んでその恵みにお応えしていく中で、自分の満足を求めずに隣人を喜ばせ、お互いの向上につながることをしていくのです。痩せ我慢で忍耐していても、そこには喜びがないし、喜びがなければ続きません。しかし慰めに支えられた忍耐は持続可能だし、そこにこそ「希望を持ち続ける」、つまり絶望しない歩みが与えられるのです。

忍耐と慰めに生きる
 このように私たちは、慰めを与えられているからこそ、忍耐して生きることができるのです。神はその慰めを、独り子主イエス・キリストによって、既に私たちに与えて下さっているのです。3節に「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです」とあります。主イエス・キリストは、御自分の満足を求めるのではなくて、罪のために苦しんでいる私たちを救うために、神としての栄光を手放して人間となり、私たちのところに来て下さり、ベツレヘムの馬小屋で生まれて下さったのです。それがクリスマスの出来事です。その主イエスは、私たちの罪を担って下さり、私たちに代って十字架にかかって死んで下さいました。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」というのは、罪のゆえに本当は私たちが負わなければならない神の怒りと裁きが主イエスにふりかかり、主イエスがそれを代って背負って下さったということです。イザヤ書40章が語っていた、「彼女の咎は償われた、罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」という救いは、主イエスの十字架の死において実現したのです。主イエスがご自分の満足を求めることなく、私たちのために忍耐して十字架の死を引き受けて下さったことによって、私たちは救いを与えられました。この主イエスによって慰めを与えられている私たちは、忍耐して生きることができるのです。それは主イエスに倣って、隣人の弱さを担い、罪を忍耐して、隣人に対して善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるということでもあります。そのように人の罪を忍耐するだけではありません。私たちの誰もが罪があり、それゆえにお互いに傷つけ合ってしまうという苦しみ悲しみがこの世には満ちています。新型コロナウイルスによる恐れや不安の中でその罪がさらに大きくなり、苦しみ悲しみも増しています。しかし、神の言葉はとこしえに立つのです。そのみ言葉が告げている主イエスによる罪の赦しを信じて、その慰めを得ている者は、今私たちを取り巻いている苦しみ悲しみの現実の中でも、忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。慰めに支えられた忍耐と希望に生きること、それがアドベントを歩む私たちの信仰なのです。

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