「主イエスの苦しみ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章9-12節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第2章21-25節
・ 讃美歌:481、311
誕生の次にはもう受難
使徒信条の第二の部分、神の独り子である主イエス・キリストを信じる信仰が語られているところに導かれつつ、聖書のみ言葉に聞いています。使徒信条は主イエス・キリストの誕生について、「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」と語っています。先週まで二週間、聖書がそのことをどう語っているのか、そこに神のどのようなみ心が示されているのかを聞いてきました。本日はその次の文章に進みます。「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」に続いているのは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」です。ポンテオ・ピラトは、ローマ帝国のユダヤ総督だった実在の人物であり、この人の下での裁判において主イエスは死刑の判決を受け、十字架につけられたのです。つまり「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というのは、主イエスの十字架の死、いわゆる「受難」の苦しみのことです。使徒信条の第二の部分には主イエス・キリストのご生涯が見つめられていますが、誕生の次にはもう受難のことが語られているわけです。その間の主イエスのご生涯、そこで語られた教え、なさったみ業などには、使徒信条は全く触れていません。ですから、先週は主イエスの誕生に関する話だったのに、今日からはもう十字架の死に関する話となるのです。使徒信条は何故そのような語り方をしているのか。そのことは最後に考えたいと思います。
ポンテオ・ピラトのもとで
さて、主イエスはポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けました。ポンテオ・ピラトは先ほども申しましたように、ローマ帝国のユダヤ総督であり、その名が記された歴史史料があります。つまり世界の歴史の中にはっきりとその存在が跡付けられる人物です。主イエスと母マリアの他に、使徒信条の中に個人の名前があるのはこのピラトだけです。私たちは毎週の礼拝において皆で使徒信条を告白していますから、毎週この人の名前を口にしています。世界中でおびただしい人が、ポンテオ・ピラトの名を毎週語っているのです。そんな人は他にはいません。ある意味世界の歴史で最も有名な人だと言えます。彼のもとで主イエスは苦しみを受け、十字架につけられた、ということが毎週語られているわけですから、いささか気の毒にも思います。しかし、使徒信条に、ローマ帝国ユダヤ総督であった彼の名前が語られていることには大きな意味があるのです。主イエス・キリストのご生涯は、お伽話の世界のことではないし、神話や伝説の中の話でもない、この世界の具体的な歴史の中で起ったことなのだということが、このことによってはっきりと示されているのです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」によって、主イエスのご生涯はこの世界の現実と繋がり、人間の具体的な歴史と繋がっているのです。使徒信条は、主イエスが母マリアから生まれたということによって、神の独り子である主イエスが私たちと同じ肉体をもった一人の人間としてこの世を生きて下さったことを示していますが、それは同時に、この世界の具体的な歴史の中に身を置き、歩んで下さったということでもあります。そのことがポンテオ・ピラトの名によって示されているのです。
地上での御生涯のすべての時に
ローマ帝国ユダヤ総督であるピラトのもとで主イエスは「苦しみを受け」ました。彼によって裁かれ、死刑の判決を受けたのです。それに伴って主イエスは鞭で打たれ、唾を吐きかけられ、殴られ、茨の冠をかぶせられて「ユダヤ人の王、万歳」とからかわれ、という数々の侮辱を受けました。そして自分がつけられる十字架を担いで歩かされたのです。十字架の死刑というのは、手足を十字架に釘で打ちつけて晒し者にし、痛みと出血で次第に弱っていって死ぬのを待つという、最も残酷な処刑の方法であると言われます。主イエスがポンテオ・ピラトのもとで受けた苦しみとは、この裁判から十字架の死に至る苦しみであるわけです。しかし、私たちが大切に受け継ぎ、学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」は、この「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」をもっと広い意味で捉えています。「『苦しみを受け』という言葉によってあなたは何を理解しますか」という問37の答えは、「キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです」となっています。主イエス・キリストが苦しみを受けたのは、「その地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて」だと語っているのです。ポンテオ・ピラトのもとで受けた苦しみは、主イエスの歩みの終わりにおける苦しみです。それは「とりわけ」大きな苦しみだったけれども、主イエスはその地上のご生涯のすべての時に苦しみを受けた、主イエスのご生涯の全体が苦しみの歩みだったのだ、とハイデルベルク信仰問答は語っているのです。そのことは、ヘブライ人への手紙の第5章7、8節と繋がります。そこには、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と語られています。主イエス・キリストのご生涯は、多くの苦しみを受けつつ父なる神に従順に歩まれたご生涯だったのです。つまり「苦しみを受け」は主イエスの十字架の死だけのことではなくて、そのご生涯全体にあてはまるのです。
何故御子が苦しみを受けたのか
今のヘブライ人への手紙5章8節に、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって」とありました。主イエス・キリストは、神の御子でありご自身がまことの神であられるにもかかわらず、激しい苦しみを受けたのです。本当は苦しみなど受ける必要のない、そんないわれは全くない方が、苦しみを受けて下さったのです。これは驚くべきことです。神の独り子でありまことの神である主イエスがマリアというお母さんから肉体をもった一人の人間として生まれ、この世を生きて下さったというのは驚くべきことだ、と先週も申しましたが、その主イエスが、多くの苦しみを受け、死刑になって殺されたというのは、さらにさらに驚くべきこと、あり得ないこと、本来あってはならないことなのです。そのようなことは何故起ったのか。旧新約聖書全体はそのことを語っていると言うことができますが、それを直接語っている代表的な箇所が、先ほど朗読された新約聖書の箇所、ペトロの手紙一の第2章21節以下です。そこを味わっていきたいと思います。
私たちの罪を担って下さった
21節に「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」とあります。主イエス・キリストが苦しみを受けたのは、あなたがた、つまり私たちのためだったのです。それはどのような苦しみだったかが22節以下に語られています。「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」。主イエスは、人間として地上を歩まれた間にも、罪を犯したことはなく、偽りを語ったこともありませんでした。つまり、苦しみを受けなければならない理由は主イエスの中には何もなかったのです。それなのに、人々にののしられ、苦しめられました。いわれなくののしられ、苦しめられたのです。でも主イエスはそれに対してののしり返すことなく、苦しめる者から身を守るために戦うこともなく、自らの身に苦しみを引き受けたのです。それは、全てのことを、正しくお裁きになる方である父なる神にお任せになっていたからです。主イエスがこのように自らの身に苦しみを引き受けたのは、私たちのためでした。そのことが24節に語られています。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」。主イエスは、私たちの罪を担って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。それは先ほどの「ハイデルベルク信仰問答」の言葉で言えば、「全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた」ということです。主イエスが自らその身に私たちの罪を担って十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって、私たちは罪を赦され、救われたのです。
罪に対して死んで、義によって生きるようになるため
私たちは、自分が神の怒りを受けなければならない罪人だということがなかなか分かりません。私たちの命も人生も、全ては神が与えて下さったものであって、私たちが自分で作り出したものではありません。ところが私たちは、神に感謝せず、神に従おうとせず、自分が主人になって、自分の思い通りに生きようとしています。そして自分の思い通りにならないと不平不満を覚え、人と自分を見比べ始め、自分より幸せな人を見ると劣等感に苦しみます。そこで起っているのは、自分が自分であることを喜べず、自分に命を与えた神を恨んでいる、ということです。自分が主人となって、自分の思い通りに生きようとしている私たちは、神をも、自分自身をも、愛することができなくなり、恨みや不満に陥っていくのです。それでは他の人を愛することもできません。神を恨み、自分に不満を抱き、隣人を愛することができずに傷つけてしまう、私たちはそういう罪に捕えられているのです。神は、私たちが神と良い交わりを持って、神と隣人とを愛して生きることを期待して命を与えて下さったのに、その神の恵みと期待を踏みにじっている私たちは、神の怒りを受けなければならない罪人です。その私たちのために、ご自身は何の罪もない神の独り子主イエス・キリストが苦しみを受け、私たちの罪をご自分の身に担って、十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの苦しみと死とによって、神は私たちの罪を赦して下さり、良い交わりを回復して下さったのです。24節の「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」はそのことを語っています。主イエスが十字架の死の苦しみを受けて下さったことによって、私たちは罪に対して死んだ者、赦されてもう罪の支配から解放され、神の義によって、つまり主イエスによる救いの恵みによって新しく生きる者とされたのです。
いわれのない苦しみの中で
しかも先ほど見たように、主イエスは十字架の死においてのみでなく、ご生涯の全ての時に苦しみを受けて下さいました。それは、様々な苦しみを味わいつつ生きている私たちと同じ人生を主イエスも体験して下さったということです。主イエスは、私たちと同じように苦しみつつ人生を歩んで下さったのです。私たちは主イエスのように「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」者ではありません。私たちの歩みは罪だらけ、偽りだらけです。でもその私たちも、いわれのない苦しみ、不当な苦しみを受けることが多々あります。こんなことを言われたりされたりすることは納得できない、と怒りを覚えることがあります。だから、ののしられたらののしり返し、苦しめられたらそれに反発して人を脅すようなことをしてしまいます。主イエスも一人の人間となって、そのような苦しみの多い人生を歩んで下さったのです。そしてそこにおいて、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになって、私たちの罪を全て背負い、十字架の死への道を歩んで下さったのです。主イエスがこのように、地上での御生涯のすべての時に、とりわけその終わりにおいて苦しみを受けて下さったことによって、私たちは罪を赦され、罪に対して死んで、義によって生きる者、神の子として新しく生きる者とされたのです。
イザヤの預言の実現
独り子イエス・キリストの苦しみによって私たちに救いを与えて下さることは、父なる神のみ心でした。神はそのことを旧約聖書において、預言者を通して語っておられました。22節の「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」は、先ほど朗読されたイザヤ書第53章9節の「彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに」からの引用です。ペトロの手紙一のこの箇所は、イザヤ書53章を意識しつつ語られています。24節後半の「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」も、イザヤ書53章5節の「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」から来ていますし、25節の「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが」というところも、53章6節の「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」から来ています。イザヤ書53章には、自らは何の罪もないのに、人々の罪を自ら背負って苦しみを受け、人々の罪の償いをする「主の僕」のことが語られています。11節の後半に「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」とあります。そして12節の最後のところには「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」とあります。預言者イザヤが語った「主の僕」による救いが、主イエス・キリストの苦しみにおいて実現したのです。
その足跡に続くようにと、模範を残された
ペトロの手紙一第2章の本日の箇所の冒頭に、「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」とあるように、主イエスの苦しみの歩みは私たちの模範であって、私たちはキリストの足跡に続いていく者として召されています。つまり私たちも、不当な苦しみを受け、理不尽な目に遭うことがあるけれども、主イエスに倣って、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せして、苦しみを耐え忍びつつ歩むことへと召されているのです。しかしそれは大変なことです。そんなこと言われても、と思います。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、というのは確かに立派なことだろうけれども、そんなことをしていたらこの世の中生きてはいけない、人間の罪が猛威を振い、弱肉強食の戦いがなされているこの世で、そんなお人好しな生き方は通用しない、と思うのです。しかしこの箇所に語られているのは、お人好しな生き方をしなさい、ということではありません。見つめられているのは、主イエス・キリストがそのように生きて下さったということです。主イエスは、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになって苦しみを引き受け、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って死んで下さったのです。それによって私たちは罪を赦され、新しく生きることができるようになりました。主イエスが受けた傷によって私たちは癒され、迷子の羊となっていたのが、魂の牧者であり監督者である方のところに戻って来ることができたのです。つまり、ののしられてもののしり返さず、不当な苦しみをも耐え忍んで下さった主イエスの苦しみによって私たちは救われたのです。この主イエスによって救われた私たちは、主イエスが私たちのために歩んで下さった苦しみの足跡に従って生きることへと召されているのです。でもそれは、私たちがののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、神に全てをお任せして歩むなら、そういう立派な行いによって救いを得ることができる、という話ではありません。罪人である私たちが、主イエスの苦しみと死とによって、そして復活によって、既に救われているのです。私たちはそのことに感謝して、主イエスが歩まれた苦しみの足跡に続いていくのです。もちろん、主イエスと同じことができるわけではありません。そもそも私たちは罪ある者、偽りに満ちた者、欠けの多い者です。でもその私たちが、主イエスの苦しみと死による救いの恵みに感謝して、まことに不十分ながら、その足跡に続いて歩もうとする、それが信仰をもって生きるということなのです。
主イエスのご生涯の中心は苦しみと死
使徒信条が、主イエスの誕生の後すぐにその苦しみと死のことを語っているのは何故か。それは、主イエスによる救いは、その苦しみと十字架の死によってこそ実現し、与えられているからです。主イエスのご生涯や教えやみ業は、その苦しみと死を中心として見つめることによってこそ、正しく受け止めることができるし、そこにこそ、その足跡に従っていく信仰が生まれるのです。例えば、マタイによる福音書5章には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とか「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」などの教えがあります。これらの教えも「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」と同じように、それだけを読むならば、「それは立派なことかもしれないが、この世の現実においてはそんなことは無理」と思わずにはおれません。しかしこれらの教えは、主イエスの苦しみと死の事実から振り返って、それを土台として読むべきなのです。するとそこに見えてくるのは、主イエスご自身が、神の敵であった私たちを愛して下さり、私たちのために苦しみを担って下さり、左右の頬どころか命をも与えて下さった、それによって私たちは救われたのだ、ということです。そうであれば、そのようにして救われた私たちも、もとより全く不十分なことしかできないけれども、主イエスの苦しみの足跡に少しでも従っていこう、という信仰がそこに与えられるのです。使徒信条が、主イエスの誕生の後すぐに十字架の死を語っているのは、主イエス・キリストのご生涯の中心を示すためです。主イエスが人間となってこの世を歩まれたのは、十字架の苦しみと死によって私たちの救いを実現して下さるためだったのです。その中心をしっかり見つめ、そこから振り返ることによってこそ、主イエスのご生涯や教えを正しく受け止め、主イエスの足跡に従っていく信仰に生きることができるのです。