主日礼拝

励まし、励まされ

「励まし、励まされ」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第51章12節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第3章1-10節
・ 讃美歌:358、469

テモテの派遣
 テサロニケの信徒への手紙一を読み進めてきました。本日から第3章に入ります。その1-10節を本日は共に読んでいきますが、この箇所からこの手紙が書かれた経緯を読み取ることができます。パウロとテサロニケ教会の人たちがどのような状況に置かれていたのか、そしてなぜ、どんな思いでパウロは彼らにこの手紙を書いたのか、それらのことを思い巡らしつつみ言葉に聴いていきたいのです。
 1節冒頭に「そこで、もはや我慢できず」とあります。その直前の2章17-20節では、テサロニケ教会から離れたパウロがもう一度テサロニケ教会を訪れ、その教会の人たちと顔と顔を合わせて会いたいと心から願っていたこと、しかし何度か試みたにもかかわらず、結局、訪れることができなかったことが語られていました。「もはや我慢できず」とは、自分がテサロニケ教会を訪れることができないことにパウロが我慢できなくなって、ということです。そこでパウロがどうしたかが、続く1節後半から2節前半にこのように言われています。「わたしたちだけがアテネに残ることにし、わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。」パウロは自分がテサロニケを訪れる代わりにテモテをテサロニケ教会へ派遣することにしたのです。その際、パウロはアテネに留まったとありますが、その経緯を知るためには、パウロたちとテサロニケ教会が置かれていた状況を整理する必要があります。パウロはいわゆる「第二伝道旅行」においてシルワノ(シラス)とテモテを伴ってテサロニケで伝道し、キリストの福音をテサロニケの人たちに伝えました。彼らがその福音を受け入れ、テサロニケ教会は誕生したのです。テサロニケでの伝道は豊かな実りを生み、この手紙の1章でパウロは、テサロニケ教会から神の言葉が響き渡り、その教会の人たちの信仰が至るところで伝えられている、と記していました。しかしパウロたちは、この誕生したばかりの教会から不本意にも離れなければならなくなってしまったのです。その理由はこの手紙からははっきりしませんが、「第二伝道旅行」について記している使徒言行録によれば、テサロニケのユダヤ人たちが扇動した暴動によって、彼らはテサロニケにいることができなくなったのです。テサロニケを離れたパウロはベレアを経由してアテネにたどり着きました。テサロニケを離れてからどれぐらいの時間が経ったのでしょうか。その間パウロは、急に指導者を失った誕生したばかりの教会のために祈り続けていたに違いありません。そして、もう一度テサロニケ教会を訪れることを願い続け、実際、何度か試みましたが、その試みが成功することはありませんでした。そのような状況の中でパウロが、自分はアテネに留まりテモテをテサロニケ教会へ遣わすことにした、というのがここで語られていることの経緯です。

神の協力者
 テモテですが、しばしばパウロはテモテを自分の使者として教会に遣わしていて、コリント教会(一コリント4:17)にもフィリピ教会(フィリピ2:19, 23)にも遣わしています。そのテモテをパウロは2節で、「わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者」と呼んでいます。「キリストの福音のために働く私の協力者」ではなく「神の協力者」と呼んでいることに目を引かれます。言うまでもなく第二伝道旅行に同行したテモテはパウロにとって自分の協力者に違いありません。それにもかかわらずパウロはそのようには呼ばず、「神の協力者」と呼んでいるのです。それは、神こそがテモテを異邦人伝道に仕えるために召してくださり、用いてくださったからではないでしょうか。パウロとテモテが一緒に伝道したことの土台にあるのは、二人の個人的な関係ではなく、二人とも神によって伝道者として立てられたことなのです。そのことを強調して、パウロはテモテを「私の協力者」ではなく「神の協力者」と呼んでいるのです。「神の協力者」という言葉が意味しているのは、神は救いのみ業を前進させるために協力者を必要としている、ということではありません。神は全能であり、その意味で神は協力者を必要としているわけではないからです。それにもかかわらず、神はキリストの福音を宣べ伝えるために、一人でも多くの人を救うために伝道者を召し、その務めに立て、「神の協力者」としてくださるのです。もちろんこのことは、伝道者だけに限られたことではありません。すべてのキリスト者は、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを証しする者だからです。神は主イエスによる救いを証しする者として私たち一人ひとりをお立てくださり、救いのみ業を前進させるために用いてくださいます。ですから私たちの誰もが「神の協力者」にほかならないのです。「神の協力者」と呼ばれることに私たちは畏れを感じずにはいられませんが、しかし神が恵みによって私たちを選び、召し、立ててくださったことに目を向けるならば、その恵みにお応えして、それぞれが神から与えられている務めを喜んで担っていくことができるのです。

信仰を励まし、慰める
 さて、テモテをテサロニケ教会に派遣した目的が2節後半から語られていますが、それは、そもそもパウロがテサロニケ教会をもう一度訪れ、テサロニケ教会の人たちと顔と顔を合わせて会いたいと願っていた理由でもあります。その目的は「あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするため」であった、と言われています。新共同訳では「あなたがたを励まして、信仰を強め」と訳されていますが、この訳は原文の順序に沿っていませんし、このように訳してしまうと、3章1-10節で見つめられている大切なことを見失いかねません。その大切なことについては後で見ていくことにしますが、ここは聖書協会共同訳のように「あなたがたを強め、あなたがたの信仰を励まし」と訳すべきでしょう。「あなたがたを強め、あなたがたの信仰を励まし、このような苦難の中で、動揺する者が一人もないようにするため」(聖書協会共同訳)にテモテを遣わしたのです。しかし新共同訳の「信仰を強め」と聖書協会共同訳の「あなたがたの信仰を励まし」は、意味としては大きく違わないのではないか、と思われるかもしれません。信仰を強めるにしても、信仰を励ますにしても、要するに、苦難の中で信仰を守るために「頑張りなさい、しっかりしなさい」と言うことであるように思えるからです。しかし聖書協会共同訳で「励ます」と訳されている言葉は、「慰める」とも訳せる言葉です。ですからパウロがテモテを遣わした目的は、テサロニケ教会の人たちの信仰を強めることよりも、彼らの信仰を励まし、そして慰めることにありました。このことは、苦難の中にある人の信仰を励ますということは、苦難によって傷つき弱ってしまったその人の信仰を慰めることでもある、ということを示しているのではないでしょうか。信仰を励ますとは、信仰を慰めることでもあるのです。

「このような苦難」とは
 このようにパウロは、苦難の中にあるテサロニケ教会の人たちの信仰を励まし、慰めるために、そして彼らの「だれ一人動揺することのないようにするため」にテモテを遣わしたのですが、彼らがどのような苦難に遭っていたかは、この箇所からははっきりとしません。「このような苦難」としか記されていないからです。しかしテサロニケ教会の置かれている状況やこの手紙のほかの箇所から推測することはできます。一つは、先ほど申したように、誕生したばかりのテサロニケ教会が指導者を失ってしまったことでしょう。生まれたばかりの未熟で不安定な教会にとって、指導者を失うことは大きな苦難に違いないからです。もう一つは、テサロニケ教会が置かれている状況が厳しかったことがあります。2章14節に「あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」とありますが、テサロニケ教会の人たちの多くは異邦人でしたから、「同胞から苦しめられた」とは、パウロのようにユダヤ人から迫害されたのではなく、同じテサロニケに暮らしている異邦人から苦しめられた、ということです。キリストの福音を受け入れ信じたがゆえに、職場の同僚から、友人や知人から、あるいは家族から心ない言葉を投げかけられたり、ひどい仕打ちを受けたりしたかもしれないのです。それは、彼らにとって苦難以外の何ものでもなかったはずです。
 ところがテサロニケ教会の人たちの苦難は、どうもそれだけではないということが、3節後半から4節を読むと気づかされます。3節後半から4節にはこのようにあります。「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。」ここで「わたしたち」はパウロたちのことであり、「あなたがた」はテサロニケ教会の人たちのことです。ですから、ここではパウロたちが苦難に遭っていること、そしてそのことをテサロニケ教会の人たちが知っていることが語られているのです。しかもパウロたちはテサロニケにいるときに、やがて自分たちが苦難に遭うことを彼らにあらかじめ伝えていました。このように、3節前半ではテサロニケ教会の人たちが苦難に遭っていることが言われていたのに、3節後半からはパウロたちが苦難に遭っていることが言われているために、前半と後半がうまく結びつかないように思えます。しかし思い巡らしてみると、自分自身が経験している苦難だけでなく、福音を自分たちに宣べ伝えた人たちが苦難に遭っていることも、テサロニケ教会の人たちにとって苦難であり、ここで記されている「このような苦難」に含まれるのではないでしょうか。福音を伝え、教会を立て、テサロニケ教会の人たちを導いてきたパウロたちが苦難の中にあることが、彼らの信仰に動揺を与えても不思議ではなかったからです。

アテネ伝道の停滞とテサロニケ教会の人たちへの影響
 ここではパウロたちがどのような苦難に遭っていたかも記されていません。パウロの伝道はいつも苦難の中にあったので、なにか特別に具体的な苦難を想定する必要はないのかもしれません。それでも、想像をたくましくするならば、このことの背後にある苦難を思い描くこともできると思うのです。もちろんパウロが、テサロニケにいたときに具体的な苦難についてあらかじめテサロニケ教会の人たちに伝えていたということではありません。やがて苦難に遭うことだけを伝えていたに違いありませんが、その後に、その苦難が具体的に明らかになっていったのです。それは、パウロがアテネで味わった苦難ではないでしょうか。使徒言行録17章16節以下ではパウロのアテネにおける伝道が記されています。パウロはアテネでも福音を、キリストの十字架と復活による救いを告げ知らせましたが、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(17:32)のです。それでパウロは教会を立てることなくアテネを立ち去りコリントへ向かいました。パウロがテモテをテサロニケに遣わしたのはアテネですが、テモテがパウロのもとに帰ってきたのはコリントであることが、使徒言行録18章5節から分かります。前後関係ははっきりしませんが、テサロニケ教会の人たちがパウロのアテネ伝道がうまく行かなかったことを伝え聞いていたのかもしれません。アテネ伝道において福音が取るに足りないものとして軽視され、あるいは否定されたことが、彼らに少なからず影響を与え、そのことによって彼らの信仰が動揺したかもしれなかったのです。それだけでなく、その伝道の失敗を利用して、福音から引き離そうとする人たち、つまり「誘惑する者」がテサロニケ教会の人たちを惑わし、パウロのテサロニケ伝道の実りを無駄にしようとしていたのではないでしょうか。5節の「誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から」とは、このことをパウロが恐れ、心配していたということであり、その恐れと心配からパウロは「もはやじっとしていられなくなって」、テサロニケの人たちの「信仰の様子を知るために、テモテを派遣した」のではないかと思うのです。

テモテの帰還と「うれしい知らせ」
 さて、テサロニケ教会に遣わされたテモテがパウロのところに「今帰って来」たことが6節で語られています。先ほど申しましたが、テモテはコリントにいるパウロのところに戻ってきました。「今帰って来て」という言葉から、テモテが帰ってきてすぐにパウロがこの手紙を書いたことが分かります。そしてこの手紙を書いたパウロの想いを6節以下から読み取ることができるのです。テモテがパウロに伝えたのは、テサロニケ教会の人たちの「信仰と愛について、うれしい知らせ」でした。また、彼らが「いつも好意をもって」パウロたちを覚えていること、さらにパウロたちが顔と顔を合わせて彼らに会いたいと切望していたように、彼らもパウロたちに会いたいとしきりに願っていること、つまり対面での交わりを持ちたいと願っていることを伝えたのです。

励まし、励まされ
 そしてパウロは7節でこのように語っています。「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。」このパウロの言葉に、3章1-10節で見つめられている大切なことが示されています。なぜなら「あなたがたの信仰によって励まされました」の「励まされました」は、聖書協会共同訳の2節における「あなたがたの信仰を励まし」の「励まし」と同じ言葉だからです。そしてこの言葉は、「励ます」だけでなく「慰める」という意味を持つのでした。苦難の中にあるテサロニケ教会の人たちの信仰を励まし、慰めるためにテモテを遣わしたパウロ自身が、テモテが知らせた、彼らの信仰と愛についての嬉しい知らせ、良い知らせによって、励まされ、慰められたのです。励ます者が励まされる者となり、慰める者が慰められる者となったのです。苦難の中にある人を励まし慰めることによって、同じように苦難の中にある自分が励まされ慰められることがあるのです。しかしこのことは、単に人間的な結びつきにおいて起こったのではありません。あの人も苦しい中で踏ん張っているのだから、自分も同じように苦しい中でも踏ん張っていこう、というような励まし合いではないのです。パウロは自分が励まされ、慰められたことについて8節でこのように言っています。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言えるからです。」「しっかりと結ばれて」と訳されている言葉は、「堅く立って」とも訳される言葉であり、しかもその行為が続いていることを示しています。テサロニケ教会の人たちが主にしっかりと結ばれ続けていることによって、主に堅く立ち続けていることによって、自分たちは今、生きているのだ、とパウロは言っているのです。指導者を急に失い、同じテサロニケに暮らす人たちから迫害を受ける中にあって、あるいはパウロの伝道の停滞や「誘惑する者」によって信仰が揺さぶられる苦難の中にあって、彼らは主にしっかりと結ばれ、堅く立ち続けました。そのテサロニケ教会の人たちの信仰と愛が、パウロたちに励ましと慰めを与え、彼らを生かす「いのち」をも与えました。苦しみや悲しみの中で、励まし励まされ、慰め慰められることは、主イエスにしっかりと結ばれ、主イエスに堅く立ち続けている信仰と愛によるほかにありません。より正確に言えば、私たちが主イエスにしっかりと結ばれ、主イエスに堅く立ち続けていることによってではなく、神が私たちを主イエスにしっかりと結びつけてくださり、主イエスに堅く立ち続けさせてくださっている、そのことを信じる信仰によって、私たちは苦しみや悲しみの中にあっても励まし合い、慰め合うことができるのです。

大きな喜びと尽きることのない感謝に溢れ
 神がテサロニケ教会の人たちを主にしっかりと結びつけ、主に堅く立ち続けさせてくださったことによって励まされ、慰められ、「いのち」をも与えられたパウロは喜びと感謝で満たされ、9節でこのように言っています。「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」「この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」という問いかけは、神へのどのような感謝もこの大きな喜びには見合わない、ということを意味します。言い換えるならば、この大きな喜びに対して神にいくら感謝しても感謝しきれない、ということです。
 私たちは、なおこの地上の歩みにおいて苦しみや悲しみを味わい続けます。「苦難を受けるように定められている」とパウロが言っているように、キリスト者は苦難を避けることができません。そしてそれは、決して楽なことではなありません。しかし苦難の中にあっても、主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与り、主イエスにしっかりと結びつけられている私たちは、信仰によって互いに励まし合い、慰め合っていくことができます。励まし励まされ、慰め慰められることにおいて、私たちは神にいくら感謝しても感謝しきれないほどの大きな喜びに満たされるのです。私たちの歩む道のりは決して楽ではありません。けれどもすでに救いに与った者として、終わりの日の復活と永遠の命の約束を信じて歩む道のりにおいて、信仰によって互いに励まし合い、慰め合うことにおいて、大きな喜びと尽きることのない神への感謝が起こされていくのです。その歩みは、まことに幸いな歩みなのです。

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