主日礼拝

後になることの幸い

「後になることの幸い」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第8編1-10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第9章30-37節  
・ 讃美歌:22、206、464

後になることの幸い?
 本日の説教の題を「後になることの幸い」としました。本日の聖書箇所、マルコによる福音書第9章の35節からつけたものです。主イエス・キリストは、十二人の弟子たちを呼び寄せて、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」とおっしゃいました。この教えが語られるに至った事情が33節以下に語られています。それは、弟子たちが「自分たちの中で誰が一番偉いか」と議論していたということです。そういう議論が起るということは、彼らの中に「人よりも偉くなりたい」「一番先になりたい」という思いがあったということです。弟子たちがそういう思いを持っていることを知った主イエスが、「いちばん先になることよりも、むしろすべての人の後になることを求めなさい」とおっしゃって、「後になることの幸い」をお教えになったのです。  人よりも後になることは何故幸いなのでしょうか。スポーツの秋ですが、様々な運動競技においては、みんなが勝利を目指して頑張ります。競走なら、人より先にゴールしようと頑張るのです。そのように競い合うことによってこそ、充実した競技が行なわれ、喜びや感動が生まれます。例えば運動会のかけっこで、みんなが人よりも後になろうとしたら競技は成り立ちません。運動競技だけでなく、世の中には、また私たちの人生には、やはり先になることを目指して努力することに意義があることが沢山あります。勿論、自分が先になるために人を蹴落したり、人の足を引っ張るようなことはいけません。しかし努力して自分を強くし、高めていこうとすることは良いことであり必要なことです。そういう意味でやはり、先になることこそが幸いなのであって、後になることの方が幸いだとは言えないだろうと私たちは思うのです。

仕えることの大事さ?
 あるいは私たちは、主イエスのこのお言葉を、仕えることの大事さを教えている言葉として理解しているかもしれません。すべての人の後になることと並んで、すべての人に仕える者になることが勧められています。つまり「後になる」というのは「仕える者になる」ことなのです。だから、かけっこでビリになることが勧められているのではなくて、誰よりも謙遜に身を低くして、人に仕える者となること、私利私欲を捨てて、世のため人のために尽くす人になること、そのために人よりも後になり、損をすることになっても、なお人に仕える道を歩んでいくこと、そういう奉仕の精神の大切さを主イエスは教えておられるのだ、とここを理解することは多いのではないでしょうか。それは確かに主イエスの教えと一致することです。主イエスは、人を愛し、人のために尽くすことを何より大切になさいました。だから、偉くなって人を支配し、人の上に君臨し、命令し、威張るよりも、人に仕えることの方が、主イエスの教えにおいてははるかに尊いのです。それはその通りなのですが、このみ言葉をそのように読むことによって陥る落とし穴があります。それは、そのように謙遜に人に仕えている人こそが、本当の意味で一番先の、一番偉い人なのだ、という思いがそこに生まれてくることです。そうなると、一番先になるために、偉くなるために人に仕える、ということも起ります。言い方を換えれば、謙遜に仕えることにおいて人よりも先になろうとする、ということが起るのです。弟子たちが議論していたのもそういうことだったのではないでしょうか。「誰が一番偉いか」と議論していたというのですが、それは、誰が一番身分が高いかとか、誰が一番金持ちか、というような話ではなかったでしょう。彼らは、誰が一番イエス様にしっかりと仕えているか、弟子としての務めを最も忠実に果たしているのは誰か、ということを競い合っていたのだと思うのです。例えばペトロは、「自分こそ、一番先にイエス様に呼ばれて弟子になった者だ。自分は誰よりも長くイエス様に従い、仕えている」と主張したのでしょうし、それに対して他の弟子たちも、「イエス様に従い仕える思いなら自分だって決して負けてはいない」と反論したのでしょう。そのように彼らは、主イエス・キリストに仕えることにおいて、一番先になろうとしていたのです。その点で一番偉くなろうとしていたのです。  それと同じことは教会においてもしばしば起ります。教会では、自分の意見ばかりを主張してそれに固執し、人を自分に従わせようとするようなタイプの人はあまり好まれません。むしろ身を低くして神様と隣人とに仕えていくような人が尊敬されます。それは主イエスの教えからして当然のことですが、しかしそこにはともすれば、自分はいかに謙遜に奉仕をしているか、ということにおいて人よりも先になろうとする、という競い合いが起ります。「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちの思いは私たちの中にもあるのであって、彼らの気持ちはよく分かるのです。ですから弟子たちに対して語られた主イエスのみ言葉は、私たちに対するみ言葉でもあるのです。

先になろうとすることをやめよ
 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。この教えによって主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。人の後になり、仕える者となることによってこそ、本当の意味で人よりも先に立つ者、偉い者になることができる、ということではないでしょう。「後になり、仕える者になる」ことが、結果的に「先になり、偉くなる」ための手段になるとしたら、それは「人よりも先になろう、偉くなろう」という思いが形を変えて、より屈折した仕方で現れただけです。教会において、信仰者の間では、人よりも偉くなりたい、先になりたい、という思いがそのような屈折した形を取ることが多いのです。そのような私たちに主イエスはこのみ言葉によって、そもそも人よりも先になろうとすること自体をやめなさいと言っておられるのです。つまりこの教えは、例えば日本の諺にある「実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」というような、処世訓の一つとしての「謙遜の勧め」とは違うのです。

一人の子供を受け入れる
 主イエスの教えが処世訓とは違うことは、36節以下の教えによってさらにはっきりします。主イエスは一人の子供の手を取ってかれらの真ん中に立たせ、その子を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃったのです。このみ言葉を間違って受け止めてはなりません。ここに語られているのは「子供のように素直で純真な者になりなさい」という教えではありません。そういう教えは次の10章の13節以下に語られているのです。ここでの教えはそれとは違って、「このような子供の一人を受け入れなさい」ということです。子供を受け入れる、それは子供を可愛がり、大事にすることとは違います。この場合の「子供」とは、大人たちから排除され、邪魔者とされている者です。「子供の出る幕ではない」「子供はひっこんでいろ」と言われている子供です。当時子供は、女性もそうでしたが、社会において数に入れられず、一人前の人間とは見なされていなかったのです。主イエスはそのように低く見られ、まともに相手にされていない人々の代表として、一人の子供を真ん中に立たせ、抱き上げて、この子供のように低く見られている人を受け入れることを求めておられるのです。受け入れるとは、その人を共に生きる仲間として認め、その人と共に歩むことです。低く見られ、相手にされないような人々を仲間として迎え入れ、共に歩むことこそが、「このような子供の一人を受け入れる」ことなのです。ですから「私は子供が好きで、可愛いと思っているから子供を受け入れている」と思ったらそれは大きな間違いです。自分が可愛いと思い、いとおしいと思う人を受け入れることは何でもないことです。主イエスがここで教えておられるのはむしろ、可愛いとは思えない者、いとおしくない、共にいたくないと思うような者を「わたしの名のために」受け入れることなのです。そのことこそが、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となる」ことの具体的な実践なのです。それゆえにこの教えは、謙遜に人に仕える方が結局人々の尊敬を得ることができ、結果的に一番先になれる、というような処世訓とは違うのです。処世訓は私たちがこの世を上手に生きていくための知恵です。しかしこの教えは、この世を上手に生きていくことをやめなさいと言っているのです。

なごやかさに生きる
 すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさいという教えは、このように、人より先になり、上に立つ者となろうとする思いを根本的に捨て、受け入れ難いと思う者を受け入れ、共に歩み難いと思う者と共に歩みなさい、ということです。ですからそれは大変厳しい、また困難な教えであると言わなければならないでしょう。主イエスはしかしそれを、厳しく堅苦しい教え、戒めとして語られたのではありませんでした。一人の子供を「おいで」と招き、その子を抱き上げて、「このような一人の子供を受け入れない」とおっしゃったのです。その主イエスの顔はにこやかなやさしさに満ちていたでしょう。そうでなければ子供は寄って来ません。これはまことになごやかな、心温まる情景なのです。それに対して、誰が一番偉いか、誰が一番謙遜に奉仕しているかと議論し、「途中で何を議論していたのか」と主イエスに問われるとおし黙っている弟子たちは、重苦しく暗い雰囲気を漂わせています。この弟子たちの姿と、にこやかに子供を抱き上げておられる主イエスのなごやかな、心温まるお姿とは実に対照的なのです。本日はちょうど、この礼拝後に「子ども祝福式」を行ないます。多くの子供たちをここに迎えて、神様の祝福を祈る時を持つのです。それは教会としてはまことに相応しいことです。主イエスの周りにはいつも子供たちが群れ集まっていました。主イエスは子供たちを喜んで迎え、受け入れ、祝福しておられたのです。子供たちの集まっている所というのは騒がしいものです。秩序や規律が整っている、というわけにはいかないものです。主イエスは、そういう騒がしさや、秩序、規律が整っていない様子を喜んで受け入れておられたのです。もっと静粛に、厳粛に私の話を聞け、などとはおっしゃらなかったのです。人を受け入れるというのは、そういうなごやかさに生きることによってこそ出来ることです。すべての人の後になり、すべての人に仕える者となるというのも、そのようななごやかさを身に着けることによってこそ出来ることだと言えるでしょう。どちらがより謙遜であるかと人と競い合ったり、どちらの奉仕がより優れているかと比べ合って一喜一憂し、人に対して苦い思いを抱いたりすることというのは、なごやかさとはかけ離れたことです。主イエス・キリストは、なごやかな、子供たちが安心して寄り集まり、だっこされて喜ぶような方だったということを、私たちはしっかり見つめなければなりません。神の国、天国というのは、子供たちの声に満ちている、明るくなごやかな、賑やかな所です。反対に地獄というのは、冷たい、厳粛な、静寂が支配している所なのではないでしょうか。それは私が勝手に言っていることではありません。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編の第8編の2節から3節にかけて、このように語られているのです。「天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」。神様は、幼子、乳飲み子の口によってほめたたえられることをこそ喜ばれる方なのです。その神様のみもとである天国は、子供たちの賛美の声が満ちている、なごやかな所なのです。

主イエスの名のために
 人を迎え入れ受け入れるなごやかさに生きることこそが、後になること、人に仕える者となることの基本であることを、主イエスは身をもって示し、教えて下さいました。それに続く37節にはこのように語られています。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。このみ言葉は何を語っているのでしょうか。低く見られ、相手にされないような、共に歩みたくないと思うような人々を受け入れる、その時、実はその人々の中に主イエスがおられるのだ、主イエスがそういう人々を通して私たちと出会っておられるのだ、だからその人々を受け入れることこそ、主イエスを、そして神様を受け入れることなのだ、というふうにこのみ言葉を読むことはできます。そういう教えは聖書の他の箇所にもあるのです。しかしこの教えをさらに深く読んでいくなら、以下のようなことが見えてくると思うのです。「主イエスのみ名のために」とは、主イエスによって成し遂げられた救いのみ業のために、ということです。その救いのみ業というのは、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって神様が私たちの罪を赦して下さったこと、さらに主イエスの復活によって新しい命の約束を与えて下さっていることです。この救いのみ業を見つめることによって私たちは、弱く貧しく罪深い自分が神様によって受け入れられ、神の子とされていることを信じることができます。「わたしの名のために」というのは、そういう救いの恵みによって、ということなのです。この救いの恵みによって私たちは、「このような子供の一人を受け入れる」、つまり低く見られ、相手にされない人々、共に歩みたくないと思うような人々を受け入れることができます。そのことは、主イエスと父なる神様が、受け入れられるに値しない弱く貧しい罪人である自分を愛と恵みをもって受け入れて下さった、その救いの恵みに感謝して、それに応えていくことの中でなされていくのです。そのように、主イエスによって受け入れられている恵みへの感謝のゆえに、自分も人を受け入れていく、それこそが「わたしを受け入れ、さらにわたしをお遣わしになった方を受け入れる」こと、つまり主イエスと父なる神様を信じることなのだ、と主イエスは言っておられるのです。  受け入れ難いと思われる人を、普通なら受け入れたくないと思うような人を、受け入れることには苦しみや痛みを伴います。その苦しみや痛みを私たちが負うことができるのは、神の独り子である主イエスが十字架の死という苦しみや痛みによって、受け入れ難い罪人である自分を受け入れて下さったことを覚え、その恵みに感謝し、応えていくことにおいてです。主イエスが苦しみや痛みを負って下さることによって私たちを受け入れて下さった、そのことを信じ受け入れることによって、私たちも、受け入れ難いと思われる人を受け入れる苦しみや痛みを引き受けていくことができるのです。低く見られ、相手にされない人々、共に歩みたくないと思うような人々の中に主イエスがおられる、というのは一方で聖書の語る真理ですが、ともすればそれは、隠れた仕方で私たちを訪れる主イエスに粗相があってはならない、とビクビクして生きるようなことにもなりかねません。私たちの信仰の歩みは、感謝と喜びの内に人を受け入れるという歩みであるはずなのです。

二度目の受難予告
 今見たように、私たちが受け入れ難いと思われる人をも受け入れて生きることの土台には、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死があります。そのつながりが、本日の箇所の前半、30~32節に、主イエスの二度目の受難予告が語られていることによって示されています。主イエスは弟子たちと共にガリラヤを通っていくその道において、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される、殺されて三日の後に復活する」とおっしゃったのです。これは二度目の受難予告です。一度目は8章31節でした。この二度目の受難予告の特徴は、主イエスを殺す者たちが、長老、祭司長、律法学者ではなくて「人々」となっていることです。このことは、主イエスの苦しみと死が、長老、祭司長、律法学者たちのせいと言うよりも、私たち全ての者たちがそのことに責任がある、私たち全ての者の罪を背負って主イエスは十字架にかかって下さったのだ、ということを語っていると言えるでしょう。そしてもう一つ、ここの特徴は、最初の時にはなかった「引き渡され」という言葉が用いられていることです。主イエスの十字架の苦しみと死が「引き渡される」ことによって起る。この言葉は、主イエスが人間によって捕えられ、十字架の死へと引き渡されるだけでなく、もっと深いところで、神様によって引き渡されるのだ、ということを語っている大事な言葉です。この言葉が語られる時に思い起こすべき箇所の一つに、ローマの信徒への手紙第8章32節があります。そこには「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。御子イエス・キリストを死に引き渡したのは、根本的には父なる神様なのです。それは「わたしたちにすべてのため」でした。私たち全ての者の罪を背負い、それを代って引き受けて、主イエスは苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、神に敵対する罪人である私たちを受け入れて下さったのです。受け入れ難い者を受け入れるために、父なる神様は御子イエス・キリストを苦しみと死とに引き渡し、主イエスはその苦しみと死を背負って十字架にかかって下さったのです。  そして最初の受難予告と同じようにここにも、三日目の復活が語られています。主イエスの復活は、十字架の苦しみと死によって罪人である私たちを受け入れて下さった、その神様の恵みが、罪と死とに勝利したということです。主イエスが復活して下さったことによって私たちは今や、神様の恵みの勝利の中にいます。その救いの恵みは、私たちのどのような罪によっても、また苦しみや死によっても、失われてしまうことはないのです。

人間としての本当の尊厳
 主イエス・キリストがこのように私たちを受け入れ、罪を赦し、共に歩んで下さっている、その恵みを見つめるなら、誰が一番偉いかといがみ合い、主イエスと隣人とに仕えることにおいてすら人よりも先になろうとする弟子たちの、また私たちの姿はなんと醜いものでしょうか。主イエスの救いにあずかり、その弟子として生きる私たちに求められているのは、主イエスのみ名のために、お互いを受け入れ合うことです。主イエスが十字架の死によって私たちを受け入れて下さったのだから、しかもその恵みを、一人の子供をやさしく抱き上げて祝福することによって示して下さったのだから、私たちも、そういう優しさ、なごやかさの中で、お互いを受け入れ合い、愛し合って生きたいのです。「すべての人の後になり、すべての人に仕える者となる」とはそういうことです。そこにこそ、本当の幸いがあります。また、人間としての本当の尊厳もそこにこそ生まれるのです。先程の詩編第8編は、神様が幼子、乳飲み子の口によってほめたたえられることを喜ばれることと共に、その神様が、私たち人間を、「神に僅かに劣るものとして」造って下さり、栄光と威光とを与えて下さり、「御手によって造られたものをすべて治めるように」して下さったという、私たち人間に与えられているすばらしい栄誉、尊厳を語っています。そのような人間の誉れ、栄光は、誰が一番偉いか、優れているか、謙遜に仕えているか、というような競走に勝つことによって得られるのではありません。人間の本当の栄光、尊厳は、私たちが偉くなり、立派になり、人よりも先になることによって得られるのではなくて、優しさとなごやかさの中で、お互いに受け入れ合い、共に生きていくところにこそ与えられるのです。主イエスはそのような歩みへと私たちを招いておられるのです。

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