「全能の神」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第32章17-25節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第10章27節
・ 讃美歌:4、357
オールマイティー?
「使徒信条による教理説教」を始めて二ヶ月目に入ります。この一ヶ月間ずっと、「使徒信条」の冒頭の言葉「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」について、正確にはその中の「天地の造り主」について、いろいろな箇所からみ言葉に聞いてきました。本日はようやく次の言葉「全能の」に入ります。全能の神を信じる、それが教会の、そして私たちの信仰なのです。
「全能の」とは、何でもできる、ということであり、英語で言えばオールマイティーです。トランプで言えばオールマイティーの札は、どの札よりも強く、どの札の代わりにもなる、まさに何でもできる便利な札です。神さまはそのように何でもおできになる方だ、と私たちは信じているのです。しかしそう言ったとたんに、いろいろ疑問が生じてきます。神さまは何でもできるなら、どうしてこういうことをして下さらないのだろうか、とか、どうしてこういうことを防いでくれないのだろうか、という疑問です。この世界には人間どうしのいろいろな対立があり、争いがあり、戦いが起り、人が傷つき、死んでしまうようなことが起っています。神さまが全能なら、その力でどうしてこの世界を平和にして下さらないのか、と思うのです。また、戦争は起っていない私たちのこの社会においても、殺人や傷害事件は毎日のように起っているし、犯罪にはならなくても、人が人を傷つけてしまうことが多くあります。自分が人を傷つけてしまうこともあるし、人から傷つけられてしまうこともある。神さまが全能ならどうしてそういうことを防げないのか、とも思います。またいろいろな自然災害や、今まさに私たちを襲っているウイルスのパンデミックなどを、神は全能の力でどうして防ぎ、取り除いてくれないのか、とも思います。神は全能だというわりには、何もしてくれないではないか、と思ってしまうのです。それはある意味で深刻な問いではありますが、しかしそのような疑問を抱く時に私たちは、神の全能ということを、それこそトランプのオールマイティーの札のように、自分たちの願いを適えるための便利な道具のように捉えてしまっているのではないでしょうか。神が全能であるというのは、私たちがオールマイティーな札を持っていることとは全く違うのです。
全能の力によるご支配
では、神はその全能の力によって何をなさっているのでしょうか。私たちはこれまで「使徒信条」の冒頭の言葉から、神が「天地の造り主」であられることを見てきました。この世界の全てと私たち人間とを創造して下さったこと、それこそが、神が全能の力によってして下さったことです。聖書はそのことを、神が、私たち人間を愛して、私たちのために、この世界の全てを造り整えて下さり、準備ができたところに人間を造り、命を与えて下さった、という神の愛のみ業として語っていました。神はその全能の力によって、この世界と私たちを「極めて良い」ものとして創造して下さったのです。そして神は、この世界を最初に造っただけで後は放ったらかしにしておられるのではなくて、今も、この世界と私たちとを保ち、導いて下さっているのだ、ということも聖書は語っています。神はその全能の力によってこの世界を造り、私たちに命を与え、そしてこの世界と私たちとを今も支配し、守り、導いておられるのです。
そのことが、先ほど朗読された旧約聖書の箇所、エレミヤ書第32章17節以下に語られています。その17?19節で、預言者エレミヤはこのように祈っています。「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。あなたは恵みを幾千代に及ぼし、父祖の罪を子孫の身に報いられます。大いなる神、力ある神、その御名は万軍の主。その謀(はかりごと)は偉大であり、御業は力強い。あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます」。エレミヤはここで、主なる神の「大いなる力」によるみ業を見つめ、「あなたの御力の及ばない事は何一つありません」と、全能なる神をほめたたえています。彼が見つめている神の全能の力によるみ業は、天と地をお造りになったことだけではありません。「あなたは恵みを幾千代に及ぼし、父祖の罪を子孫の身に報いられます」と言っています。「恵みを幾千代に及ぼし」というのは、先祖が神を信じ、神と共に生きた、そのことへの報いとしての恵みを子々孫々にまで及ぼして下さる、ということです。しかしまたそれと並んで、「父祖の罪を子孫の身に報いられます」とも語られています。これは逆に、先祖が神に対して犯した罪に対する神の怒りが子孫にまで及ぶ、ということです。つまりエレミヤがここで見つめているのは、神がその全能の力によって、人間に恵みを豊かに与え、守り導いて下さると共に、人間の罪に対してはお怒りになり、裁きをなさる、しかもそのことが世代を超えてなされている、ということです。神はその全能の力によって私たち人間を造り、守り、導いておられると共に、人間の罪に対してはお怒りになり、罰をお与えになるのです。
罪に対する怒りと裁き
神が人間の罪に対してお怒りになるのは、神が人間を愛して、ご自分に似せて、ということはご自分と交わりをもって共に生きることを期待して造り、命を与えて下さったからです。その神の愛にもかかわらず、私たち人間は、創世記第3章に語られていたように、神と共に生きることをやめてしまって、自分が主人となって、神なしに、自分の思いを中心にして生きるようになってしまいました。それが人間の罪です。その罪によって私たち人間は、神との良い交わりを失ってしまったのです。そしてそれと同時に、人間どうしの良い交わりをも失ってしまったのです。向かい合って共に助け合って生きるはずだった最初の人間、男と女、夫婦の間にも、相手を傷つけるようなことが起りました。神はこの人間の罪に対してお怒りになり、人間は楽園を追放されて、荒れ野のようなこの世界を苦労しながら生きなければならなくなりました。それが、聖書が見つめている人間の現実です。つまり今この世界に様々な悲惨な出来事があり、人間どうしの争いや戦いが後を絶たないのは、神が何もしておられないからではなくて、人間の罪がもたらした結果なのです。
なお恵みを示された神
神はそのような人間の罪の現実の中で、それを悲しみ、怒りつつもなお、人間が神のもとに立ち帰り、神と共に生きる者となることを願って語りかけ、働きかけて下さっています。そのことが先ほどのエレミヤの祈りの続き、20節以下に語られています。20節に「あなたはエジプトの国で現されたように今日に至るまで、イスラエルをはじめ全人類に対してしるしと奇跡を現し、今日のように御名があがめられるようにされました」とあります。神はイスラエルの民をはじめ全人類に働きかけ、しるしと奇跡によってご自分をお示しになったのです。神が現されたしるしと奇跡とは何か、それが21節以下です。「あなたは、しるしと奇跡をもって強い力を振るい、腕を伸ばして大いなる恐れを与え、あなたの民イスラエルをエジプトの国から導き出されました。そして、かつて先祖に誓われたとおり、この土地を彼らに賜りました。乳と蜜の流れるこの土地です」。神は強い力、全能の力によって、イスラエルの民をエジプトにおける奴隷の苦しみから救って下さり、彼らが今住んでいる乳と蜜の流れる約束の地を与えて下さったのです。今彼らがエルサレムを中心とする約束の地に住んでいるのは、全能の神が、ご自分に背き逆らっている罪ある人間に対してなお働きかけ、恵みのみ業を行って下さったことによるのです。
神の裁きによる滅亡
しかし今、そのエルサレムが、バビロンの王の軍隊によって包囲され、攻め落とされそうになっています。エレミヤ書32章はそういう緊迫した状況を語っているのです。どうしてそんなことになってしまったのか。エレミヤはそれを23節以下で語っています。「ところが、彼らはここに来て、土地を所有すると、あなたの声に聞き従わず、またあなたの律法に従って歩まず、あなたが命じられたことを何一つ行わなかったので、あなたは彼らにこの災いをくだされました。今や、この都を攻め落とそうとして、城攻めの土塁が築かれています。間もなくこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカルデア人の手に落ちようとしています」。今やエルサレムはカルデア人のバビロニア帝国によって陥落し、ユダ王国は滅ぼされようとしている、そうなってしまったのは、イスラエルの人々が、エジプトにおける奴隷の苦しみから解放して、約束の地を与えて下さった主なる神の恵みに応えず、神に聞き従って神と共に歩もうとせず、自分たちにご利益を与えてくれそうな偶像の神々を拝むようになってしまったからなのです。主なる神は彼らのその罪に対してお怒りになり、この災いを下されたのです。つまりイスラエルの民は、神がせっかく苦しみから救い出し、乳と蜜の流れる地を与えて下さったのに、その恵みに応えて神と共に、神に従って生きようとせず、自分の思いや願いを叶えることばかりを求める罪を重ねたことによって神の怒りを招き、国を滅ぼされようとしているのです。エレミヤのこの祈りは、全能の力によって天と地をお造りになった神が、ご自分を無視する罪に陥った人間をなおも愛して、恵みを与え、全能の力によってエジプトの奴隷状態からの解放という救いを実現して下さり、良い地を与えて下さった。しかし人間はその恵みをも無にして、神と共に生きようとしない、その罪に対して神は今や怒り、この国を滅ぼそうとしておられる、ということを見つめているのです。
神の全能の力によるご支配とは
ここに、神が全能である、ということを聖書がどのように捉えているのかが示されています。神は全能の力によって、この世界の全てを造り、私たち人間に命を与えて下さいました。そしてこの世界と私たちとを今も保ち、守り、導いておられる、つまりこの世界と私たちとを全能の力によって支配しておられるのです。しかしそのご支配は、私たち人間を力をもって無理矢理にコントロールして、ご自分に逆らうことは一切できないように、罪を犯すことができないようにする、というものではありません。神は私たち人間を、ご自分にかたどって、神に似たものとして造って下さったのです。それは先ほども申しましたように、神と交わりをもって、神と共に生きることができる者として、ということですが、それは言い換えれば、自由な者として造って下さった、ということです。交わりをもって共に生きることは、自由な意志をもって生きている者どうしの間にこそ成り立ちます。例えば奴隷と主人の間には、交わりとか共に生きるということは成り立ちません。そこにあるのは一方的な命令であり強制的な服従です。奴隷には自由な意志は認められないからです。神が私たちとの間に築いておられるのは、主人と奴隷のような関係ではなくて、自由な意志をもった者どうしが交わりを持ち、共に生きることです。勿論神は私たちを造り、命を与えて下さった方であり、私たちは造られたもの、被造物ですから、神と私たちとは対等な友達ではありません。私たちは神の下で、神に従って生きるべき者です。でも神は、私たちを愛をもって造り、私たちが自由な意志で喜びをもって神と共に生きることを願っておられるのです。ということは、私たちは神と共に生きるのでなく、神なしに、自分が主人となって生きようとする罪を犯すこともできるということです。神は私たちに、罪を犯すこともできる自由を与えておられるのです。この世界に、人間の罪による悲惨な出来事が満ちているのはそのためです。それは神が何もしておられないとか、何もできずにいる、ということではないのです。神は、人間が神のもとに立ち帰ることを、つまり悔い改めることを願いつつ、働きかけ、語りかけておられるのです。神の怒りとか裁きというのはその働きかけ、語りかけです。神は人間の罪による悲惨な現実の中で、その悲惨さを一気に取り去ることによってではなく、また人間を無理矢理にご自分に従わせることによってでもなく、罪に対する怒りと裁きを示しつつ、悔い改めを願って人間に語りかけ、働きかけ続けておられるのです。
神の全能の力はこのように発揮されています。つまり神はその全能の力を、私たちへの大いなる忍耐と寛容をもって、愛をもって行使しておられるのです。つまり神の全能とは、私たちへの愛における全能、私たちへの愛において発揮される全能なのです。私たちは、オールマイティーの札を手にしたら、それを自分の好きなように用いてゲームに勝とうとします。神がそれと同じことをなさったなら、罪人である私たちはとっくの昔に滅ぼされているのです。しかし神は、その全能の力を、私たちのために、私たちを愛し、救って下さるために行使して下さっているのです。
裁きの中になお示されている救い
エレミヤの祈りにそのことが見つめられ、語られています。25節です。「それにもかかわらず、主なる神よ、あなたはわたしに、『銀で畑を買い、証人を立てよ』と言われました。この都がカルデア人の手に落ちようとしているこのときにです」。32章の全体をぜひ読んでいただきたいのですが、エルサレムが陥落し、国が滅ぼされようとしているこの時、主なる神はエレミヤに、親族の申し出に従って畑を買うようにとおっしゃったのです。国が滅びようとしている時に土地を買って所有権を得ても全ては無駄になることは目に見えています。しかし主はそうお命じになるのです。その主の思いが26節以下に語られています。後でそれぞれで読んでいただきたいのですが、抜粋して読みます。「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか」、つまり、私は全能の神だ、と主は言っておられるのです。そして主は27節以下で、イスラエルの人々の罪のゆえに私はこの都をカルデア人の手に渡し、焼き払わせる、と語っておられます。ユダ王国は主の裁きによって滅び、多くの者たちがバビロンに捕囚として連れて行かれてしまうのです。しかしこの主のみ言葉にはなお続きがあります。37節以下を読みます。「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。この国で、人々はまた畑を買うようになる。それは今、カルデア人の手に渡って人も獣も住まない荒れ地になる、とお前たちが言っているこの国においてである。人々は銀を支払い、証書を作成して、封印をし、証人を立てて、ベニヤミン族の所領や、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々で畑を買うようになる。わたしが彼らの繁栄を回復するからである、と主は言われる」。主なる神は、イスラエルの人々の罪のゆえに怒り、この国を滅ぼされるけれども、しかし将来再びこの地に彼らを立ち帰らせ、ご自分の民として新たに生かして下さると約束して下さっているのです。その救いの約束のしるしとして、エレミヤに、今畑を買うようにとお命じになったのです。天地を造り、私たちに命を与え、支配しておられる神は、人間の罪に対して怒り、裁きをお与えになります。神はその全能の力によって、被造物である人間をお裁きになるのです。しかし神は、同じ全能の力によって、人間の目には絶望としか思えないその裁きの中においても、罪人である私たちをご自分のもとに立ち帰らせ、新しく生かして下さるという救いを与えて下さることがおできになる。神が全能であるとはそういうことなのです。
神は何でもできる
神はこの全能の力によって、独り子主イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。私たちが負うべき神の怒りと裁きを、神の独り子である主イエスが代って負って下さったのです。そして神はその全能の力によって主イエスを復活させて下さいました。それによって私たちにも、復活と永遠の命の希望を与えて下さったのです。独り子主イエス・キリストによる救いのみ業にこそ、神の私たちへの愛における全能がはっきりと示されています。主イエス・キリストにおいて示された神の全能の力によって、私たちは救われるのです。マルコによる福音書第10章23節で主イエスは「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか」とおっしゃいました。それは、金持ちは救われないということではなくて、自分の持っているもの、自分の正しさや良い行いや信仰深さによって神の国に入ることはできない、ということです。だからそれを聞いた弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのです。私たちは、自分の持っているもの、自分ができること、自分の清さ正しさ信仰深さによって救いにあずかることはできません。イスラエルの民がそうであったように、そんなものは全て帳消しにしてしまうほどの深い罪を私たちは重ね重ね犯しているのです。でも主イエスは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とおっしゃいました。神は何でもできる、その全能の力によって神は、独り子の命をすら与えて下さり、私たちを救って下さっているのです。神が全能であることは、ここにこそ示されています。私たちを愛して下さることにおいて発揮されているこの神の全能の力によって、私たちは救いにあずかるのです。