主日礼拝

十字架の主に従う

「十字架の主に従う」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第8章31-38節  
・ 讃美歌:18、280、443

人の子主イエス
 マルコによる福音書第8章31節には、主イエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められたことが語られています。「人の子」というのは、主イエスがご自分のことを語る時にお用いになった言葉です。文字通り「人間の子」という言葉ですが、旧約聖書には、この言葉が救い主メシアを指すものとして用いられている箇所があります。そういう特別な意味を持ち得る、しかし文字通りには「人間の子」という意味である言葉なのです。主イエスがご自分のことをこの言葉で呼ばれたのは、そういう二重の意味を持つ言葉がご自分に相応しいとお考えになったからでしょう。主イエスは神様の独り子であられ、救い主メシア、それをギリシャ語に訳せばキリストとしてこの世に来られました。しかし同時に主イエスは人間の母親から生まれ、私たちと同じ肉体を持つ一人の人間であられました。主イエスを見た当時の人々は、何の変哲もない普通の人間としか思わなかったのです。そういうごく普通の「人の子」である主イエスが、神の独り子、救い主という特別の意味を持つ「人の子」である、それが聖書の教える信仰の根本です。そういう意味で、本日の箇所の直前の27節以下で、弟子のペトロが、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに対して「あなたはメシアです」と答えたあの信仰の告白は、まさにキリスト教信仰の根本を言い表していると言えます。人々は主イエスのことを、偉大な教師だとか、その教えには聞くべきものがあるとか、いろいろと評価している、しかしそれらの人々は皆、主イエスを「人の子」として、一人の人間としてのみ捉えている、しかし主イエスの弟子、信仰者は、主イエスをメシア、救い主という意味での「人の子」であると信じるのです。

苦しみの予告の開始
 さて、本日の箇所で語られているのは、その「人の子」主イエスが、苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日後に復活するということを主イエスご自身が弟子たちに語り始められたということです。苦しみを受け、排斥され、殺され、復活する、という四つのことが並べられています。「排斥され」というところは、以前の口語訳聖書では「捨てられ」となっていました。「排斥され」というと敵対して斥けるという対立関係を感じさせますが、ここで使われているのは直訳すれば「捨てられる」という言葉です。主イエスは、ユダヤ人の長老、祭司長、律法学者という宗教的指導者たち、聖書の専門家たちによって、「価値のないもの、いらないもの」として捨てられ、そしてさらに邪魔なものとして殺されてしまうのです。救い主である「人の子」主イエスはこれからそのような苦しみの道を歩もうとしている、ということが主イエスご自身の口から語られたのです。  何気なく読み過ごしてしまいがちですが、ここで大事なのは「教え始められた」という言葉です。原文ではこの言葉が最初にあり、「そして教え始められた、これこれのことを」となっているのです。つまり主イエスはご自分が苦しみを受け、捨てられ、殺されることをこの時から語り始めたのです。それまでは語られなかったそのことが、この時点から、しかも32節にあるように「はっきりと」語られ始めたのです。主イエスはもともとご自分が苦しみを受け、殺されることを意識しておられましたが、そのことを弟子たちに語り始めるべき「時」がいよいよ来たのです。何によってその「時」が来たのでしょうか。先程申しましたように本日の箇所の直前には27節以下のペトロの信仰告白があります。主イエスこそメシア、救い主であられる、つまり主イエスは単なる人間の子ではなくて、救い主である「人の子」であられるという、最も大事な、基本的な信仰が言い表された、そのことによって、主イエスの苦しみと死について語り始められるべき時が来たのです。なぜならば、主イエスのメシア、救い主としての働きは、苦しみを受け、捨てられ、十字架にかけられて殺され、そして三日目に復活することを通してなされるものだからです。苦しみと死を経て復活へと至る道こそ、主イエスが父なる神様から示されていた、メシア、救い主として歩むべき道だったのです。  そのことは「人の子は必ず、これこれのことになっている」という言い方にも表されています。これは、こういう運命になっているとか、このままいけばそうならざるを得ない、ということではなくて、神様のみ心によってそうなる、ということです。主イエスが苦しみを受け、捨てられ、殺されるのは、成り行きでそうなってしまったのではなくて、父なる神様のみ心によるのです。神様がそのことによって救いのみ業を成し遂げようとしておられるのです。その神様のみ心を語っているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第53章です。「苦難の僕」と呼ばれる人が、自分は何の罪をも犯していないのに、民の救いのために身代わりになって苦しみを受ける。その苦しみと死とによって、罪の贖いがなされ、罪人に対する神様の救いが実現することがここに預言されています。主イエスは主にこの箇所を念頭に置いて、この受難の予告を語っておられるのです。主イエスが苦しみを受け、捨てられ、殺されるのは、それによって私たちの罪が赦され、神様による救いが実現するためなのです。

主イエスを諌めたペトロ
 神様のみ心によって十字架の死へと向かおうとしておられる主イエスの道がここで初めて明らかに示されました。すると、それを聞いたペトロが、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。ここの訳文は日本語の表現の豊かさを感じさせます。「お連れして」という敬語の表現は原文のギリシャ語にはありません。「連れ出して」とあるだけです。また「いさめる」というのも日本語らしい表現です。その意味は、目下の者が目上の人に対して、その誤りや良くない点を指摘することです。しかし原文は単純に「叱る」という言葉です。次の33節には今度は主イエスがペトロを叱ったとありますが、実はそれと同じ言葉が用いられているのです。ですからここは直訳すれば「イエスを連れ出して叱り始めた」となるわけですが、日本語ではそれを「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と表現するのです。ペトロは何故主イエスを諌めたのでしょうか。それは主イエスが、自分はこれから苦しみを受け、捨てられ、殺されるとお語りになったことを、ペトロが、そんなことがあるはずはないし、あってはならない、と思ったからです。主イエスがそんなことを言ったら、せっかく従っている私たちの士気に関わる、従っていく元気を失ってしまう、とペトロは思ったのです。主イエスは三日後の復活のことをも語っておられますが、それはペトロの耳に入っていないようです。おそらくこの時点では、復活と言われても何のことか弟子たちには分からなかったのでしょう。ペトロの心を占領していたのは、主イエスが苦しみを受け、捨てられ、殺されるということです。そんなことはあるはずがないし、先生にそんなことを言ってもらっては困る、と彼は思ったのです。  つまりペトロは、主イエスの、これから自分は苦しみを受け、捨てられ、殺される、というお言葉は間違っている、主イエスには歩むべき正しい道が見えていない、だから正しい道を示してあげなければ、と思ったのです。弟子であるペトロが、師である主イエスをまさに諌め、正しい道を教え、導こうとしたのです。何と大それたことかと私たちは思います。しかし彼がそういう思いを抱いたことの土台には、あの「あなたはメシアです」という彼の信仰告白があったと言えるでしょう。世間の人々はともあれ、私は主イエスをメシア、救い主であると信じます、という信仰を、彼はたった今、主イエスに対して告白したのです。それは正しい告白であり、だからこそ主イエスは、ペトロのその告白を受けて、いよいよご自分の受難について語り始められたのです。問題は、主イエスがどのような仕方でメシア、救い主としての働きをなそうとしておられるのかです。主イエスがそのことを語り始めたとたんに、ペトロがそれを諌めたということは、ペトロには、主イエスがどのような仕方でメシアであられるのかについて、自分の思い描いていたイメージがあったのです。それは主イエスのおっしゃった、苦しみを受け、捨てられ、殺されるというのとは全く違うイメージでした。もっと栄光に満ちた、力強いメシア、敵を打ち破って勝利するメシアを彼は思い描いていたのでしょう。だから彼は主イエスのお語りになったことを間違いだと思い、間違いを正さなければと思ったのです。つまり彼は、メシア、救い主とはどのような方であるかを自分は知っていると思っているのです。その確信は、彼が「あなたはメシアです」というあの信仰告白をしたことによって得られたものだと言えるでしょう。あの信仰告白によって、そして主イエスがそれを受け入れて下さったことによってペトロは、主イエスのことが分かったと思い、ある意味で自信を得たのです。その自信によって、主イエスの間違いをも正してあげなければと思うようになったのです。  同じことは私たちにもしばしば起るのではないでしょうか。私たちも、主イエスを信じる信仰を与えられ、それを告白して洗礼を受けます。その信仰告白は、神様の導きによって、聖霊の働きによって与えられたものです。しかしそのように信仰を告白したとたんに私たちが陥る落とし穴があるのです。それは、信じ、告白したことによって、自分はもう主イエスのことを、神様のことを、全部ではないにしてもある程度は分かった、と思ってしまうことです。神様の恵みとはこういうものであり、主イエスによる救いとはこのようなものだ、ということが分かったような気になり、実は自分の勝手な思い込みに過ぎないことを、神様から示された真理と勘違いして、今度はそれに捕われてしまう、ということが起るのです。

信じることと分かること
 このことは、私たちが信仰において考えておくべき大事な問題を指し示しています。それは「信じる」ことと「分かる」こととの関係です。信じるとは、ある意味では「分かる」ことです。神様の恵みが分かり、主イエスによる救いが分かるから信じるのです。「分かる」ことなしに信仰はありません。しかし「分かる」ことが信仰なのではありません。「あれも分かった、これも分かった」と、次第に分かることの量を増やしていくことによって信仰が深まるわけではないのです。私たちが「分かる」というのは、ある意味では危険なことです。何故なら、私たちは自分が分かったこと、分かったと思ったことに捕われてしまう傾向があるからです。自分が分かったこと、分かったと思ったことから自由になれなくなるのです。しかし本当の信仰とは、神様によって常に新しく分からせていただくことです。新しく分からせていただくことによって、以前「分かった」と思っていたことは打ち砕かれるのです。そういうことの繰り返しが真実な信仰の歩みです。それを別の言い方では「神の言によって常に改革される」と言うのです。私たちの教会は、「宣教基本方針」の中で、「神の言によって常に改革される改革長老教会の信仰と制度を大切にする」と謳っています。宗教改革者カルヴァン以来の改革派教会の伝統を受け継ぐことを表明しているわけですが、その「改革」とは、「神の言によって常に改革される」ということであり、その意味は、神様によって常に新しく分からせていただき、それによって変えられていく、ということです。この姿勢を失ってしまうと、私たちは、自分が分かったこと、分かったと思ったことに捕われて、ペトロがそうであったように、主イエスご自身の言葉をも受け入れずにそれは間違っていると思うようになってしまうのです。  私たちは、自分は主イエスを諌めるような大それたことはしていない、と思っているかもしれません。しかし主イエスの教えは今日では教会において、また礼拝を通して私たちに語られ、与えられています。勿論それは主イエスからの直接の教えではなくて、教会において立てられた人間の奉仕者を通して語られるものですから、そこには間違いも、不十分な点もあります。だからそれを絶対化することは正しくありません。しかし神様は今、教会を通して私たちに主イエスのみ言葉を聞かせようとしておられるのですから、私たちはそこで語られるみ言葉をしっかりと聞き、それによって新たにされ、変えられていくべきなのです。ところが私たちはそのような姿勢ではなくて、教会のこういう教えは人々に受け入れられない、もっとこういうふうにした方がよいのではないか、と思ったり、こういう説教は人々の心に響かないから、もっとこういうことを語った方がよい、と思ったりします。説教を聴いている皆さんがそう思うより前に、説教者自身が説教を準備していく中でそういう思いを抱くのです。聖書に語られている、キリストの十字架の死による罪の赦しなんていうことはなかなか分かってもらえないのではないか、みんなに受け入れられるようにするには、もっと違うことを語った方がよいのではないか…。しかしそれはまさに、主イエスに対して、「苦しみを受け、捨てられ、殺されるなんてことを言わないで、もっと元気の出ることを言って下さい。その方がみんなに受け入れられますよ」と言っているようなものです。そのようにして私たちは、このペトロがしたのと同じことをけっこうしてしまうのです。そのような大それたことが起るのは、私たちが、自分が分かったと思っていることに基づいて、聖書や主イエスの教えを判断し、こうした方がよい、ああした方がよい、と考えてしまうからです。そういう意味で、信仰において、「分かった」と思うことほど危険なことはない、と言うことが出来るのです。

神のことを思わず、人間のことを思っている
 主イエスを諌め、叱ったペトロを、主は逆に厳しくお叱りになりました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。サタンとは、人を罪へと誘い、神様の恵みから引き離そうとする力、いわゆる悪魔のことです。ペトロは主イエスから「お前は悪魔だ」と言われてしまったのです。しかしペトロはそんなに悪い人ではない、むしろ善意の人だと私たちは思います。主イエスも、ペトロが悪党だと言っておられるのではありません。ペトロの問題は、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことでした。「神のこと」それは神様がみ言葉において語っておられることです。「人間のこと」それは自分の思い、自分が「分かった」と思っていることです。神様のみ言葉に聞くよりも、自分が分かったと思っていることに固執している、それが主イエスを諌めたペトロの姿であり、そのようにして、善意の人がその善意によって神様のみ心に敵対する悪魔になってしまうのです。主イエスは神の国の福音を宣べ伝え始める前に、荒れ野でサタンの誘惑を受けました。その内容はマルコ福音書には記されていませんが、他の福音書によれば、例えば「石をパンにして食べればよい」ということでした。それは主イエスが空腹を満たすためと言うよりも、この世に飢えている人は大勢いるのだから、石をパンにしてその人々に与えたらよいではないか、ということです。神の国の福音の宣教などという腹の足しにならないことよりも、飢えている人に食べ物を与える方が多くの人々に喜ばれ、あなたが救い主であることを具体的に示すことができるではないか、とサタンは言ったのです。それは一見善意の提案のように見えます。サタンはそのようにして、主イエスを神様のみ心から、神様が歩ませようとしておられる十字架の死への道から逸らせようとしたのです。ペトロがここでしたのは、まさにそのサタンの誘惑と同じことだったのです。だから主イエスは「サタン、引き下がれ」とおっしゃったのです。

主イエスの後ろに
 主イエスがおっしゃった「引き下がれ」という言葉は直訳すれば「私の後ろに廻れ」となります。つまりこれは「どこかへ行ってしまえ」ということではありません。主イエスはペトロに、彼が本来おるべき位置をお示しになったのです。それは主イエスの後ろです。主イエスの後ろを歩み、主イエスについていく、それが弟子としての彼の本来の姿なのです。この「後ろに」という言葉は、1章17節で主イエスが、ガリラヤ湖で網を打っていたペトロとアンデレに、「わたしについて来なさい」と声を掛けた時の言葉でもあります。これも直訳すれば「私の後ろについて来なさい」となるのです。ペトロは主イエスのこの招きによって、主イエスの後ろに従って行く弟子となったのです。ところが今、主イエスをわきへ連れ出して諌めている彼はどこに立っているでしょうか。それは主イエスの前です。主イエスの前に立って、その歩みを妨げ、自分の思いによって主イエスを導こうとしているのです。そのようなペトロに主イエスは、「わたしの後ろに、お前の本来の位置に戻れ」とおっしゃったのです。それが「引き下がれ」というお言葉の意味です。

自分を捨て、自分の十字架を背負って
 主イエスの後ろにつき従い、主の示して下さる道を歩んでいく者こそ弟子であり、信仰者です。信仰者は、自分が分かったことによって歩む者ではありません。信仰においていろいろなことが分かっていくこと、主イエスの恵みが、神様の救いのみ心が分かるようになることは素晴しい祝福であり喜びです。しかし私たちは、その分かったことによって歩むのではありません。それらを分からせて下さった方に従っていくのです。その方が、さらに新しいことを、もっと豊かな恵みを、もっと大きな喜びを分からせて下さることを求めつつ歩むのです。そのために、今自分が分かっていることに固執することなく、それを捨て去りつつ歩むのです。主イエスはそういう弟子としての歩みについて34節で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。これは弟子たる者の一般的な心構えを語っているのではなくて、「わたしの後ろに廻れ」とペトロを叱ったその言葉を受けて、主イエスの後ろに従って行くとはどういうことかをお語りになったのです。主イエスの後ろに従って行くとは、自分を捨て、自分の十字架を背負っていくことです。このことについては、9月の終りにもう一度同じ箇所からの説教をする時に語りたいと思っていますが、本日のこととの関連で言えば、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ことの一つの大事な要素は、自分が分かったこと、分かったと思っていることを捨てる、ということです。私たちはどうしても、自分が分かったこと、つまり自分が把握して自分のものにしたことに依り頼んで生きようとします。そうすれば、自分は確かな土台を持っている、と安心できるからです。しかしその安心を求めるゆえに、私たちは自分が分かったこと、自分のものにしたことに捕われていき、そこから自由になれなくなり、それを守ろうとすることによって、新しいこと、自分が変えられていくことには目と耳を塞いでしまうのです。しかし主イエス・キリストを信じるとは、私たちが、自分の分かったことに依り頼んで生きることをやめて、つまり自分の持っている何かを土台にして生きることをやめて、主イエス・キリストの後ろにつき、主イエスの示して下さる道を歩む者となることです。そのために私たちは、自分の分かったこと、自分のものにしたことを捨て去って、主イエスが新たに分からせて下さることを追い求めていくのです。そして神様の恵みを新たに分からせていただいたなら、そのことを喜び、感謝して、しかしまたそれに捕われることなく、さらに深い、さらに大きな恵みを分からせていただくことを求めていくのです。自分を捨てて主イエス・キリストの後に従っていくとは、一つにはそういうことです。9月を迎え、新しい思いで歩み出そうとしている私たちは、主イエスの後に従う弟子として、自分の分かったことに固執することをやめて、主が連れて行って下さる所にはどこにでもついていく、そういう身軽さを身に着けていきたいのです。

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