「あなたを罪に定めない」 神学生 甲賀正彦
・ 旧約聖書:詩編 第87編1-7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第8章3-11節
・ 讃美歌:503、442
● 出会いの物語
これは出会いの物語です。イエス様との出会いです。出会いによって人が変化する、という物語です。
ここには2つの出会いが描かれています。一つはイエス様と女の出会いです。彼女はこの出会いによって、イエス様に向かって「主よ」と呼びかけるようになりました。そのことで、彼女に変化が起きたことが分かります。それまで彼女は、自分の人生の主人は自分だ、と思っていました。でも「主よ」と呼びかけています。主人がイエス様に変わったのです。
もう一つの出会いは、イエス様と男たちの出会いです。彼女を訴えた律法学者たちやファリサイ派の人々が、イエス様に出会ったのです。そして、変えられました。高ぶっていた思いが、イエス様との出会いによって鎮まり、ゆっくりとバラバラになって去っていくという変化です。出会う前と、出会った後では、はっきりとした変化があります。イエス様に出会うと、人は変わるのでしょうか?
● 女の罪
訴えられた女性は「姦通」の罪を犯しました。今で言う「不倫」「浮気」です。この問題は現代でも、大きな問題となります。メディアがこぞって取り上げる問題です。でも、それは「罪」というよりも興味本位の「話題」として取り扱われる、そんなところがあります。しかし、この当時は、姦淫が重大な犯罪、死罪に値する罪でした。
彼女はそのことを知っていました。自分のしていることが罪とされていることを知っていたのです。だから、彼女は一言も反論しません。罪を認めています。しかし、律法で罪とされていることは認めるけれど、根っこのところでは、彼女はそれを罪だと思っていません。自分の体は自分のもの。自分の所有物だから、自分の責任で管理する。自分の体の使い方は自分で決める。彼女の人生の主人は彼女自身でした。
しかし、彼女は2つの点で罪を犯しています。一つは、自分に命を与え、生かしてくださっている神様のみ心を無視していることです。自分の体は自分で作り出せません。作り出していただいたのです。だから自分の体は自分のものではありません。神様のものです。神様から期限つきで、貸し与えられたものです。その体は、神様のみ心に従って用いなければなりません。彼女は、人間を男と女として造り、結婚という秩序を定めてくださった神様のみ心を無視する罪を犯しています。
もう一つの問題は、共同体を破壊したことです。イスラエルの民は、神様が集めて下さり、聖なるものとして選び出された民です。特別に愛され、堕落した民になってはいけないとの思いから、民を守るものとして、神様は律法を与えました。律法は人間を縛るものではなく、神の民の共同体として生かすためのものなのです。しかし、彼女はそれを無視しました。律法によれば、姦淫の罪は結婚していることによって成り立ちます。つまり彼女には夫がいるのです。彼女は夫を裏切り、傷つけ、神の民の共同体の最小単位である家庭を破壊することによって、神の民であるイスラエルの共同体を破壊しているのです。
● 男たちの罪
彼女を訴えた男たちはどうでしょう。律法学者たちやファリサイ派の人々の罪は、明らかなように見えます。彼らは、姦淫の罪を裁く、という体裁で、計画的にイエス様に罠を仕掛けました。「イエスを試して、訴える口実を得るために」と、聖書はそう書いています。捕まった女は、イエス様を訴える道具として利用されたわけです。集まった男たちは、残忍で、好色な、軽蔑の眼差しで女を見ています。彼らは、怒りと好奇心で沸騰していました。彼らは正しいことをしていると思っていますから、自信を持って堂々と怒っています。
しかし、イエス様は彼らの罠と悪意を知っておられました。彼らの訴えを聞くと、「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」とあります。人間の罪の重さに耐えているかのような、人間の悲しみの重さに耐えているかのようなお姿です。そして沈黙をもって、彼らに対峙します。悲しんでおられるのです。しかし、怒りで沸騰している彼らには、イエス様の悲しみが分かりません。「しつこく問い続けるので」した。イエス様は立ち上がり、彼らに一言の言葉を語られます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。この言葉によって、彼らは変えられました。自分たちの罪に気付かされたのです。自分の内面を見つめさせられました。そのことによって高ぶりは消え、低くされました。イエス様との出会いによって、一つの塊となっていた怒りの集団が、バラバラになり、静かにその場を去ることになりました。それは誰にも予想できない展開でした。
● わたしたちの罪
この物語は他人事ではありません。この女の罪、律法学者とファリサイ派の人々の罪、それはどちらも、私たちの罪です。律法学者とファリサイ派の人々は、自分は正しい者として、罪ある女を上から目線で、軽蔑して見下しています。私たちもそれと同じように、律法学者とファリサイ派を、軽蔑の目で見下していないでしょうか? 姦淫の女がいる。それを一段高いところから見下している律法学者とファリサイ派の人たちがいる。そしてまた、その律法学者とファリサイ派の人たちを、さらに一段高いところから見下している私たち自身がいる、ということになっていないでしょうか? この物語を、まるで観客席から眺めるように、自分は罪のない者として見ているとそうなるのです。もしそうなら、そんな私たちに向かってイエス様は言うでしょう。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この律法学者とファリサイ派の人たちに石を投げなさい」と。私たちもこの罪人の中にいるのです。「姦淫」の罪も、私たちに無関係ではありません。私たちはイエス様の厳しい教えを知っているはずです。「みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」。私たちはイエス様との出会いによって、自分にも罪があることを自覚させられるのです。
また「姦淫」の罪は、男女間の不倫にとどまりません。旧約聖書では、イスラエルの民が、主なる神から離れ、異教の神を拝むこと、神以外のものに心を奪われることは、姦淫の罪だと断罪しています。神以外のものに心を奪われること、それは、この世のしきたりや権力、常識や伝統に従って生きることです。それらは人間が作り出したものなのに、私たちはそれに従うことで、安心していないでしょうか?
この物語は、苦しい物語です。この聖書箇所を丁寧に読み込んでいくと、自分の罪が暴き出されるように感じます。自分は教会で結婚式を挙げ、そこで誓約したのではなかったか。「常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも堅く節操を守ることを約束しますか? 約束します」。そう神様の前で誓約したのではなかったか? 証人となってくれた友人、親族たち全員の前で誓ったのではなかったか? それが今ではどうだ。敬う気持ちはどこへ行った? 変わらぬ愛で慰め、助けたか? 一緒にいて「鬱陶しい」などと思って、心の内で裏切っていないか?
それだけではない。それなりに大人になって、少しばかり自分の仕事に自信を持つようになると、自分の正しさを押し出して、「あいつはダメな奴だ、間違っている」などと他者を裁き、断罪していないか? 見下していないか? この女の罪も、この男たちの罪も、私の罪ではないか。この物語は、私たちの罪を告発する、息苦しい物語ではないでしょうか。
● 罪の赦し
訴えた男たちは、その場を去っていきました。息苦しかったのです。イエス様に出会った男たちは確かに変えられました。自分の罪に気付かされたのです。しかし、そこで終わってしまいました。その場にいるのが耐えられずに、目の前にいるイエス様から背を向けて、去って行きました。そのために、その先にある、大事な言葉を聞くことができませんでした。
女はイエス様のもとに留まりました。取り残された、と言ったほうがいいかもしれません。しかし、その先にある、大事な言葉を聞くことができました。イエス様は再び身をかがめて、地面に何か書き続けておられましたが、身を起こして、女が予想もしていなかった言葉を語られました。「わたしもあなたを罪に定めない」。
イエス様のこの「わたしもあなたを罪に定めない」。という言葉はなんでしょう? 「あなたは無罪だ」と言われたのでしょうか? それとも「大目に見てあげよう」と言われたのでしょうか? それとも、「誰でも間違いは犯すものだ。あなたはすでに、社会的制裁を十分に受けた。もうこのくらいで良い。水に流そう」そういうことでしょうか? 違います。イエス様は罪と妥協しません。罪を見逃したり、罰を与えずに済まされない方です。罪を真剣に受け止める方です。中途半端に誤魔化したりはしません。律法学者とファリサイ派の人々の訴えは正しいのです。女の罪は死罪に値します。だからイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃったのです。イエス様は罪を誤魔化してはいません。罪は罰せられなくてはなりません。
しかし「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われます。彼女を憐れんでおられるのです。罪にどうしようもなく支配されてしまっている彼女への憐みのゆえに、赦しの宣言を与えてくださるのです。それは、人間が与えることのできる宣言ではありません。人間の宣言であれば、なんの慰めにもなりません。同じ罪人だからです。「お前がいうな」です。人間が与える赦しは「あなたも私も罪人の仲間だ、しょうがない」といった妥協の言葉でしかありません。「罪に定めない」この言葉は人間が言うことはできません。イエス様だけが宣言できるのです。
なぜ、イエス様だけが「あなたを罪に定めない」と赦しの宣言ができるのでしょうか? それはイエス様が、人間の罪を背負って十字架にかかって死ぬ方だからです。イエス様が身代わりになるのです。女の罪を引き受けると言う仕方で、自分が罰を受けると言う仕方で、自分が死罪になるという仕方で、罪を真剣に受け止めました。イエス様の十字架の死によって、罪に対する裁きが貫かれ、同時に赦しが実現するのです。ご自分が十字架にかかって死んでくださることによって、罪の赦しを与えてくださる。救い主との出会いを、彼女は与えられました。
● 派遣の言葉
「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」そう言われました。もし、イエス様が、罪を真剣に受け止めておらず、罪などは大した問題ではない、と考えておられたならば「行きなさい。罪などは気にせず、好きなように生きなさい。」そう言ったでしょう。しかし、「これからはもう罪を犯してはならない」、彼女のしたことが罪だと、はっきり言われます。イエス様は罪の力と戦っておられます。罪の力を打ち破り、人間を救おうとしておられます。そのために十字架と復活があります。「もう罪を犯してはならない」この言葉は、イエス様によって与えられた「罪からの解放」に生きることへの招きです。
「行きなさい」、これは派遣の言葉です。彼女は送り出されて、自分自身の生活の場所へ帰っていきます。そこは天国ではありません。厳しい現実が待っていると思われます。罪の渦巻くところです。罪と無関係に生きることはできないでしょう。罪の赦しの恵みを与えられた後でも、なお、罪の力に負けてしまうという現実があります。
しかし、彼女は、イエス様が罪を背負ってくださることを知っています。「あなたを罪に定めない」と言うイエス様の解放の言葉、この言葉に支えられて生きていくのです。
● 出会い
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この言葉は、そのまま、私たちに向けられた言葉です。私たちもイエス様に出会い、変えられました。私たちが罪人だということ、今も罪人として生きていることを知らされました。そしてイエス様が十字架の死によって私たちの罪を代わって背負い、赦しを与えてくださったことを知らされました。
そして私たちも「行きなさい」と送り出されます。私たちの送り出される場所も、罪の力が支配しているかのような世界です。罪と無関係に生きることはできないでしょう。しかし、イエス様はそのことをご存知です。憐れんでおられるのです。そんな私たちのためにイエス様は十字架で死んでくださったのです。この事実は変わることはありません。赦してくださっている、その事実が、私たちの希望です。「あなたを罪に定めない」この赦しの言葉で、私たちは生きていくことができるのです。