主日礼拝

主の霊が注がれる

「主の霊が注がれる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第37章1-10節
・ 新約聖書:使徒言行録 第2章1-21節
・ 讃美歌:341、452

イースターから五十日目
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。弟子たちに聖霊が降り、主イエス・キリストの福音の伝道が始まり、教会が誕生したことを記念する日です。今年は4月12日がイースターであり、本日5月31日がペンテコステですが、新型コロナウイルスの影響で、イースターもペンテコステも、共に集まって礼拝をすることができませんでした。緊急事態宣言は先週解除され、自粛一色だった世の中も、いろいろな活動が再開されつつあります。しかしそのことによって感染の第二派が来るのではないかとの心配もあります。指路教会の長老会でも今、礼拝の再開に向けて慎重に準備中です。まもなくそのことを皆さんにもお伝えできると思いますので、もうしばらくお待ちいただきたいと思います。
 ペンテコステの出来事を伝えている使徒言行録第2章1節以下を本日ご一緒に読みたいと思います。1節に「五旬祭の日が来て」とあります。五旬祭と訳されているのが「ペンテコステ」で、五十日目という意味です。過越祭から五十日目ということですが、それは主イエスの復活から五十日目ということでもあります。今日は4月12日のイースターの七週間後の日曜日で、イースターの日を含めて五十日目に当るわけです。主イエスの復活から五十日目のこの日、弟子たちが共に集まっているところに、激しい風が吹いて来るような音と、炎のような舌が現れ、彼ら一同が聖霊に満たされたのです。聖霊に満たされた弟子たちは語り始めました。何を語り始めたのか。それは11節から分かるように、「神の偉大な業」です。具体的には、神が独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、主イエスの十字架の死と復活によって罪人である私たちに救いを与えて下さったという神の救いのみ業です。聖霊に満たされたことによって弟子たちは、主イエスによる救いの福音を力強く語り始めたのです。

全世界に福音を伝える教会の誕生
 エルサレムには、世界のあちこちに移り住んでいたユダヤ人たちが巡礼に来ていましたが、その人々が、それぞれの生まれ故郷の言葉で彼らが語っているのを聞いた、とあります。つまり様々な異なる言葉で福音が語られたのです。それは弟子たちが外国語をしゃべれるようになったというよりも、主イエスによる救いの福音が全世界に向けて宣べ伝えられ始めた、世界伝道が始まった、ということです。弟子たちに聖霊が降ったことによって、キリストの福音は全世界に伝えられ始めたのです。それは同時に教会が誕生したということでもありました。教会は、ペンテコステに伝道が始まったことの結果として生まれたのではありません。福音を伝道する群れである教会が、聖霊が降ったことによってこの日に生まれたのです。全世界に福音を伝えていく教会が聖霊によって誕生した、というのがペンテコステの出来事だったのです。

聖霊が注がれるのを待っていた弟子たち
 イースターに、つまり主イエスの復活によって教会が生まれたのではなくて、それから五十日後のペンテコステに聖霊が降ったことによって教会は生まれました。このことには大きな意味があります。もしも教会がイースターに生まれたのだとしたら、教会は、復活した主イエスに出会った弟子たちが、主イエスこそまことの神であり救い主だ、主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって救いが実現した、と信じて、主イエスによる救いを宣べ伝えていったことによって生まれた、ということになるでしょう。弟子たちはそれまでは主イエスのことがよく分かっていなかった、だから的外れなことを言ったこともあったし、肝腎な時に主イエスを裏切ってしまった、しかし主イエスが復活なさったことによって、ついに彼らは、主イエスこそ神の子であり救い主であるという確信を得た、その弟子たちの固い信仰によって教会が誕生した、ということです。しかし事実はそうではありませんでした。復活した主イエスと出会ったことによって、弟子たちは確かに主イエスこそ救い主だと確信したでしょう。しかしその弟子たちの確信によって教会が誕生したのではなかったのです。教会は、聖霊が彼らに降ったことによって誕生しました。聖霊に満たされることによって初めて彼らは、福音を宣べ伝えていくことができるようになったのです。全世界に福音を伝える教会は、聖霊の働きによってこそ生まれたのです。つまり教会は、人間の信仰や確信によって生まれたものではありません。人間が自らの固い信仰に基づいて伝道し、同じ信仰に立つ仲間を増やしていったことによって教会が出来たのではないのです。人間がいくら強い信仰の確信を得ても、そこに聖霊が働いてくださらなければ教会は生まれないのです。イースターからペンテコステまでの五十日間は、主イエスの復活によって信仰の確信を得た弟子たちの群れが、聖霊に満たされて教会となることを待っていた五十日間だったと言うことができます。そのことは使徒言行録第1章4、5節の主イエスのお言葉からも分かります。復活された主イエスは弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」とおっしゃいました。このみ言葉に従って弟子たちは、約束された聖霊を待っていたのです。そして五十日目のペンテコステに、この約束が果たされたのです。

弟子たちの歩みの追体験
 このことをお話しするのは、私たちは今、イースターからペンテコステに至る弟子たちの歩みを、ある意味で追体験していると思うからです。弟子たちはこの五十日間、何かの活動をしていたのではありません。伝道を開始するための準備として聖書を学んだり、資金を集めていたのでもありません。彼らは、祈りつつ、主イエスが約束して下さった聖霊が与えられることを待っていたのです。私たちも、この四月と五月、教会の営みの中心である礼拝に皆で集うことができませんでした。勿論その他のいろいろな集会も、子どもたちのための教会学校もできませんでした。教会の使命は世の人々に福音を宣べ伝えることですが、そのための具体的な活動を何もすることができなかったのです。この間私たちがしてきたのは、それぞれの場で、み言葉を聞きつつ祈ることだけです。祈りつつ、共に集まる礼拝の再開を待っている、それが今の私たちです。それは、祈りつつ約束された聖霊が注がれることを待っていたあの五十日間の弟子たちの姿と重なるのです。
 そしてこのことは私たちに希望を与えます。あの五十日を経て、聖霊が降り、教会が誕生しました。聖霊が注がれたことによって弟子たちは力を与えられ、主イエスによる救いを、神の恵みを、全世界へと宣べ伝えていきました。しかしそれは、弟子たちが何かをしたことによって実現したことではありません。それは彼らの固い信仰によることでも、周到な準備によることでも、また彼らの努力によることでもなくて、ひたすら聖霊の力と働きによることだったのです。彼らは祈りつつその聖霊の働きを待っていた、そこにこのペンテコステの出来事が起ったのです。私たちも今、祈りつつ待っています。新型コロナウイルスの影響が終熄することをではありません。共に集う礼拝の再開を待っているのです。神が聖霊によって救いのみ業を行って下さることを待っているのです。そして神がそのみ業のために私たちを、この群れを用いて下さることを待っているのです。聖霊がみ業を行なって下さるなら、私たちは力を与えられます。新しく生かされます。そして、主イエス・キリストによる救いの恵みを世の人々に証しし、宣べ伝えていくことができるようになるのです。私たちが固い信仰を持つことによってそうなるのではありません。私たちが周到に準備して熱心に努力していけばそうなるのでもありません。主イエス・キリストの父である神が、聖霊を私たちの内に遣わして下さり、私たちをみ業のために用いて下さることによってそれが実現するのです。今は、そのことを静かに祈りつつ待つべき時です。集まって共に礼拝を守ることができなかったこの二ヶ月の歩みは、私たちにとっても、また教会の歴史においても、全く初めてことであり、戸惑いや不安や恐れを覚えずにはおれません。それは信仰の危機であることは確かです。しかしこの体験は、イースターからペンテコステにかけて弟子たちが体験したことと重なるのです。そのことに気づかされる時、私たちは、今のこの体験の意味と、今なすべきことは何なのかを示されます。そして、神が聖霊の風によって起して下さる新しい出来事を信じて待ち望む希望を与えられるのです。エゼキエルは、枯れ果てた骨が満ちている絶望の谷を行き巡りました。新型コロナウイルスの脅威の下で今私たちが体験しているのはまさにこのような現実かもしれません。しかしそこに主なる神の言葉が語られ、霊が吹き来ると、枯れ果てた骨に新しい命が与えられ、生きた群れとされていったのです。その聖霊の風が私たちにも吹き来り、エゼキエルが見た幻を私たちも見る、そのことを信じて祈りつつ待つ時を今私たちは与えられているのです。

すべての人に神の霊が注がれる
 聖霊に満たされた弟子たちは立ち上がり、その代表としてペトロが語り始めました。彼は、今起っていることは預言者ヨエルの書に語られていることの成就なのだと語りました。主なる神はヨエルを通して、「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とおっしゃいました。そのことが今実現し始めたのです。聖霊は彼ら弟子たちだけに注がれるのではありません。神は「すべての人に」霊を注いで下さるのです。聖霊が降って全世界に福音を宣べ伝えていく教会が誕生したことによって、すべての人に聖霊を注いで下さる神の恵みのみ心が実現し始めたのです。
 聖霊を注がれると、人は新しく生かされていきます。17節の終わりにはそのことが、「若者は幻を見、老人は夢を見る」と語られています。聖霊によって若者は幻を見、老人は夢を見る、それはどのようなことなのでしょうか。

若者は幻を見る
 「若者は幻を見る」ということが、今既に私たちの群れにおいても起っています。新型コロナウイルスによって礼拝を共に守ることができなくなったことによって逆に実現した一つの大きな恵みとして、今毎週日曜日の朝9時から、青年たちが、インターネット上で会議をするツールを使って「web祈祷会」を行っています。今朝も行われました。そこでは青年たちが毎週交替で奨励を語っています。それぞれ離れた所にいながら、共に同じみ言葉を聞き、それに基づく奨励を聞いて、皆で心を合わせて祈っているのです。この祈祷会は、最初は川嶋伝道師の勧めがあったにせよ、青年たち自身の意志で続けられています。私はそこに、聖霊を注がれて幻を見ている若者たちの姿があると思っています。インターネットの中で繰り広げられている世界はヴァーチャル空間と呼ばれます。「ヴァーチャル」は「リアル」と対になる言葉で、事実・現実ではないという意味です。「仮想空間」と訳されます。つまりそれは仮想であり一種の「幻」なのです。Web祈祷会も、実際に集まってはいない、パソコンやスマホの画面の上での幻の集まりです。しかしこのごろは、「VR(ヴァーチャル・リアリティー)」という言葉もよく聞きます。「仮想現実」などと訳されますが、ヴァーチャルな世界において現実をリアルに、場合によっては現実よりリアルに体験することができる、リアリティーを持ったヴァーチャルな世界を構築するという技術が今急速に発達しているのです。Web祈祷会は、ヴァーチャル・リアリティーの最新技術を駆使して行われているわけではありませんが、しかし私はそこに、ヴァーチャルな世界の中で起っているリアリティーを感じています。青年たちが、ヴァーチャルなつながりの中で、神の言葉に養われ、共に祈り合うことを体験し、そこに神の恵みとそれによって生かされているリアリティーを感じ取っているのです。だからこそ、青年たち自身が、この祈祷会を続けたいという思いを持っているのです。聖霊が注がれることによって若者は幻を見るということがまさにそこで起っていると思います。彼らが見ている幻は、そのうち消えて無くなっていく虚しい幻想ではありません。目には見えないけれども、神の恵みが確かにあり、それによって生かされているというリアリティーがそこにはあるのです。つまり日々の生活を、そしてこれからの人生を支える希望となる幻です。若い日に聖霊を注がれてこの幻を見ることができている若者は幸いです。目に見える現実を越えて、主イエスによる神の恵みのリアリティーを感じさせる幻を見ているなら、これからの人生に何が起ってきても、例えば新型コロナウイルスの影響によって仕事のあり方や人との関わり方、社会の有様がどのように変わっていっても、地に足をしっかり着けてそれに対応していくことができるでしょう。

老人は夢を見る
 聖霊を注がれることによって「老人は夢を見る」、それはどういうことなのでしょうか。「幻」も「夢」も、実際の現実としてそこにあるものではない、という点で共通しています。聖霊が注がれることによって私たちは、目に見える現実を越えたものを見つめることができるようになるのです。それは若者も老人も同じです。信仰とはそもそも、目に見えない神を信じることであり、その神の救いの恵みのリアリティーを感じて、その神に信頼して身を委ねることです。聖霊は若者にも老人にも、神の救いのリアリティーを感じさせてくれるのです。そこにおいて若者は「幻」を見る。それは先程申しましたように、これから築いていこうとしている人生を支え導く神の恵みのリアリティーを見る、ということです。幻は将来への希望につながるものです。それに対して老人は夢を見るのです。私も老人の入口にいる者ですが、長寿社会となった今、「老人」という一言ではくくれない多様な姿があることを感じます。しかしいろいろな違いはあっても、根本的に言えることは、老人にはこれからの時間が限られており、そこで確実に起っていくことは、老いが次第に進んでいくこと、そして人生の終わり、死を迎えていくことだということです。その現実の中で老人が見る夢は時として不安と恐れに満ちた悪夢となるでしょう。次第に弱っていき、以前は出来たことが出来なくなっていく、病気も出てくる、確実に近づいて来る死をどのように迎えたらよいのか、そういう不安と恐ろしさにうなされることがあるでしょう。あるいは老人も良い夢、楽しい夢を見ることがあるでしょう。自分の人生が盛んだった頃、充実した日々を過し、幸せを感じていた頃のことを夢に見て、その時に帰ったような気持ちになるのです。しかし目覚めればそこには老いの現実があります。元気だったあの頃の幸せが今はもうないことに気づかされます。あの夢から覚めずにそのまま死んでしまえたらよかったのに、と思うことがあるかもしれません。老いという自然の現実の中で私たちが見る夢とはそのようなものなのではないでしょうか。しかし聖霊が注がれることによって、その夢が変わってくるのです。聖霊による夢は、悪夢でもなければ、覚めたくない幸せな夢でもありません。それは、神の救いの恵みのリアリティーを感じさせる夢です。自分がこれまで歩んで来た人生の全てが、主イエスの父である神の恵みのご支配の下にあったことを見つめさせる夢です。その人生の歩みは決して栄光に満ちたものではなかったかもしれません。自分は数々の過ちを犯してきた、なすべきことをしてこなかったことも多い、それらによって人を傷つけてしまった、そういう失敗だらけで弱さに満ちた歩みだったけれども、神の独り子である主イエス・キリストが、その自分の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神は自分を赦して下さっている、自分はその主イエスを信じて洗礼を受け、主イエスと結び合わされて、神の子とされ、神の愛の中に今置かれている、聖霊によって示される夢はそのことを確信させてくれるのです。そしてさらにこの夢は私たちに、父なる神が主イエスを十字架の死から復活させ、新しい命、永遠の命を与えて下さったことによって、その永遠の命が自分にも約束されていることを確信させてくれます。肉体の死を越えた救いの希望を示してくれるのです。

幻と夢を与えて下さる聖霊を信じて待とう
 聖霊は私たちに、今目に見える現実とはなっていない、神の救いの恵み、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現し、約束されている救いを見つめさせて下さいます。それは若者にとっては、人生を築いていくための希望を与える幻であり、老人にとっては、終わりが見えてきた自分の人生の全てが神の救いの恵みの中にあり、肉体の死においてもその恵みは失われることがないと確信させてくれる喜ばしい夢です。この幻も夢も、現実のつらさ、苦しさを一瞬だけ忘れさせるような虚しいものではなくて、様々な困難に直面し、苦しみや悲しみ、不安や恐れに陥る時に、喜びと感謝と希望をもって人生を歩むことを得させるものです。そして人生の終わりである死を迎える時にも私たちを支えるものです。今み言葉を聞きつつペンテコステの出来事を記念している私たちは、この幻や夢を与えて下さる聖霊のお働きの下に既にいるのです。なおしばらくの間、共に礼拝を守ることができない中で忍耐しつつ待つべき時が続きますが、神が聖霊を新たに注いで下さり、若者には幻を、老人には夢を、よりはっきりと見せて下さり、そして私たち一人ひとりが主イエスによる救いを証しする者として遣わされていき、この幻と夢を共に見る人々が新たに起されていく時が来ることを信じて、静かに祈りつつ待ちたいと思います。

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