主日礼拝

主イエスの苦しみと死

「主イエスの苦しみと死」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第22編1-32節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第27章45-56節
・ 讃美歌:310、314、534

十字架上での唯一の言葉
 主イエス・キリストの十字架の苦しみと死を覚えつつ歩むレント(受難節)を過ごして来ました。本日からの一週間がその最後の週、「受難週」です。主イエスの地上のご生涯の最後の一週間を思いつつ私たちは今週を歩みます。木曜日がいわゆる「最後の晩餐」の日であり、金曜日が主の十字架の死の日、いわゆる受難日です。そして来週の日曜日は主イエスの復活の日、イースターとなります。主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活を、今週私たちは覚えつつ、その歩みに同行するように一週間を過ごすのです。そのために、毎日早朝祈祷会が行われますし、水木金と受難週祈祷会が行われます。ぜひどこかの日の祈祷会に参加していただきたいと願っています。
 本日は、マタイによる福音書第27章が語る、主イエスの十字架の死の場面をご一緒に読むことにしました。主イエスが十字架につけられたことは32節以下に語られています。それは午前9時のことだったとマルコによる福音書は語っています。本日の箇所は、それから三時間が経ち、昼の十二時になると、全地が暗くなり、三時までそれが続いたこと、そして三時に主イエスは大声で叫び、そして息を引き取られたことを語っています。そしてここには、主イエスが十字架の上でお語りになったただ一つの言葉が記されています。46節にあるように主イエスは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのです。四つの福音書全体で見ると、主イエスが十字架の上で語られたお言葉は他にもいくつか記されています。例えばルカ福音書には、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃったことが語られています。ヨハネ福音書には、ご自分の母を愛する弟子に託すようなお言葉も記されています。しかしマタイ福音書と、マタイ下敷きにしたとされるマルコ福音書では、この46節の言葉が、主イエスが十字架の上で語られた唯一のお言葉とされているのです。

絶望の叫び?
 このお言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。マタイとマルコにおいては、十字架の上で主イエスがお語りになった言葉はこの一言のみである、ということを私たちはどのように捉えたらよいのでしょうか。この言葉は、そのまま素直に読めば、神に見捨てられてしまったという絶望の叫びです。弟子たちも皆逃げ去ってしまって、一人捕えられ、十字架につけられた主イエスは、最後は神にも見捨てられたという絶望の内に死んでいった、ということになるでしょう。この言葉をそのように捉えて、これをキリスト教への攻撃の材料に用いた人々もいます。私が以前おりました富山において、明治十年代、キリスト教の伝道がなされていくと、それに対する仏教徒による妨害も強まりました。仏教徒たちは、キリスト教など信じるに値しない宗教であると門徒たちに教えるために、かぞえ歌を作ったのです。その中にこういう一節がありました。「最後に臨みてキリストは、天主(ゴッド)のうらみてな、泣き出す、この愚か者」。この「天主(ゴッド)のうらみてな、泣き出す」というのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの最後のお言葉のことです。死に臨んでキリストは、神が自分を見捨てたと嘆き、神に恨み言を言いつつ惨めに死んでいった。なんと愚かな、情けない奴であるか。そんな奴を信じているクリスチャンはさらに輪をかけて愚かな連中だ、というのです。確かに、自分たちの救い主と信じている人が、最後は神に見捨てられたという絶望の内に死んでいったのだとしたら、それは救い主とは言えないのではないか、という思いが私たちの内にも浮かんできます。主イエスが神に見捨てられたという絶望の内に死んだとは思いたくない、という気持ちが私たちの中にはあるのです。

信頼の言葉?
 そういう私たちの思いに応えてくれる解釈があります。主イエスがお語りになったこの最後の言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編22編からの引用なのです。22編の2節に「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」とあります。主イエスは十字架の上で、死に臨んで、この詩編22編の冒頭の言葉を語ったのです。そしてこの22編は、最初は確かに神に見捨てられた絶望を語っているようですが、読み進めていくと、最終的には、神の助けを信じ、神を讃美する歌になっていきます。最後は、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」と終っているのです。そうすると、主イエスのこの最後のお言葉の意味は全く違ってきます。主イエスは、十字架につけられて死んでいこうとする苦しい息の中で、この詩編22編をご自分の思いとして語ろうとなさったのだ。一見絶望に見える死の苦しみの中で、なお神に信頼していることを語ろうとしたのだ。だからこれは、神に見捨てられた絶望の言葉ではない。主イエスは十字架の死においても、父なる神への信頼を失うことはなかったのだ。詩編22編が背景にあることをみつめるなら、そのように捉えることもできるのです。 見つめるべきことから目を逸らしている?

 このように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの最後のお言葉は、昔から人々を悩ませてきました。私たちもこのことが気になります。主イエスは神に見捨てられた絶望の内に死なれたのだろうか、それとも最後まで神への信頼を貫かれたのだろうか、それを知りたいと思うのは当然のことだとも思います。しかしここで私たちはよく考えなければならないことがあると思います。それは、この問いが、私たちの思いを、主イエスの十字架の苦しみと死とにおいて本当に見つめるべきことから逸らせてしまう働きをしてはいないか、ということです。なぜならこの問いは、主イエスの十字架の死を、他人事として、そこから距離を置いて、客観的に眺めているところに生じる問いだからです。
十字架の死の時イエスさまはどんなお気持ちだったのだろうかという問いは、一見主イエスのことを思い、そのみ心に心を寄せているように見えますが、実は、そのように問う時に私たちは、主イエスの十字架において本当に見つめるべきことから目を逸らしているのです。

主イエスの十字架を外から客観的に眺めている
 そもそも主イエスはなぜ十字架にかかって死なれたのでしょうか。主イエスの十字架において何が起ったのでしょうか。神がその独り子を救い主としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが、神の恵みのみ言葉を語り、救いのみ業を行って下さったのに、それを信じて受け入れようとしない罪深い連中が、逆恨みをして敵対し、主イエスを捕え、無実の罪で処刑してしまった。つまり主イエスの十字架の死は、罪深い悪人たちの仕業だった。私たちは、主イエスの十字架の死を、そのような出来事として捉えていることが多いのではないでしょうか。いやそんなことはない、主イエスの十字架の死は私たちの罪の赦しのためだったのだと思っている、と言うかもしれません。しかし、もし私たちが、主イエスの十字架は私たちの罪の赦しのためだったと言いながら、そこから、自分は神の子主イエスを拒み十字架につけるような罪に陥らないように気をつけよう、主イエスを信じてちゃんと従う者になろう、という教訓を聞き取っているならば、つまり信仰者として生きるためには、主イエスを十字架につけるような罪人にならず、ちゃんと従っていく正しい人にならなければ、と思っているならば、私たちにとって主イエスの十字架の死は、教訓とすべき出来事ではあるけれども、自分が関わってはいない他人事になっているのです。罪深い不信仰な人たちが昔こんなひどいことをしてしまった、自分たちはそうならないように気をつけようと、主イエスの十字架の出来事を外から客観的に眺めていることになるのです。
 主イエスのあの最後のお言葉の意味を問い、主イエスは十字架の死において神に見捨てられた絶望を感じておられたのだろうか、それともその中でもなお神に信頼しておられたのだろうか、と問うている私たちの思いも、基本的にはそれと同じです。神の子であり、救い主である主イエスが、罪深い人々によって無実の罪を着せられ、理不尽な裁きを受けて死刑を言い渡され、最も残酷な十字架刑に処せられてしまった。その時主イエスはどのような思いを抱いていたのだろうか。もし自分なら、絶望して神を恨んだに違いない。主イエスも同じように神に見捨てられた絶望を感じておられたのだろうか。それとも主イエスは、そのような苦しみの中でもなお、父なる神への信頼を貫かれたのだろうか。そのように問うている時私たちは、主イエスの十字架の死を、痛ましい出来事と感じてはいるけれども、しかし自分が関わってはいない他人事として外から客観的に眺めているのです。

主イエスを十字架につけたのは私たち
 しかし主イエスの十字架の死を私たちはそのように他人事として外から客観的に眺めていることはできません。神の独り子であられ、救い主であられる主イエスが十字架にかかって死んだのは、私たちのせいなのです。私たちが、主イエスを十字架につけて殺したのです。主イエスは、神を心から愛し、そして自分を愛するように隣人を愛しなさいとお教えになりました。しかし私たちはその教えを受け入れようとせず、自分のことばかりを愛しています。神が愛しておられる隣人を受け入れず、ないがしろにしています。それは神を主として受け入れずに拒み、自分が主人となって生きているからです。自分が主人でないと気が済まないから、自分の意に添わないことは一切受け入れず、神からの語りかけを受けても悔い改めて変わろうとせず、神に対しても隣人に対しても文句ばかり言い、自分を守るために人を批判し、攻撃してばかりいる、それが私たちの罪です。そのような罪人である私たちこそが、主イエスを拒み、排除し、十字架につけて殺しているのです。だから私たちは、昔の人たちのように主イエスを十字架につけるような罪に陥らないようにしようとか、主イエスに従って生きる正しい人になろう、などと呑気なことを言っていられる者ではなくて、既に主イエスをこの手で十字架に追いやっているのです。本日の箇所の少し前のところには、十字架につけられた主イエスをののしって人々が「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言ったとあります。また祭司長、律法学者、長老たちが、「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と言って主イエスを侮辱しました。一緒に十字架につけられた強盗たちすらも主イエスをののしったともあります。この人々の姿は全てそのまま私たち自身の姿です。私たちが、主イエスを十字架につけ、苦しめ、嘲り、殺しているのです。神の独り子主イエスを苦しめ、十字架につけて殺したのは、神に逆らっている罪深い誰か、ではなくて、この私なのです。そういう意味では、主イエスの十字架の死は私たちの罪の赦しのためだった、という言い方だって、まだ外からの、傍観者としての呑気な物言いです。私たちこそが、主イエスを苦しめ、十字架に追いやり、殺しているのです。

私たちの受けるべき裁きを引き受けた主イエス
 だとしたら私たちは、神の裁きを受け、神に見捨てられた絶望の内に死ななければならない者です。主イエスは捕えられた時、剣を抜いて抵抗しようとした弟子たちに、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」とおっしゃったことが26章の53節に語られています。神の子である主イエスはそういう権威と力を持っておられるのです。主イエスがその本来の力を発揮なさるなら、神に背き逆らい、主イエスを十字架につけ、罵り、嘲り、死に至らせている私たちは、裁かれ、滅ぼされるのです。しかし主イエスはそうはなさらず、本当は私たちが受けるべき十字架の苦しみをご自分の上に引き受け、死んで下さいました。神の独り子であられる主イエスが、罪人である私たちに代って、本来私たちがつけられるべき十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの十字架の死において起ったのはそういう出来事なのです。

自分自身の姿を見出す
 ですから私たちは主イエスの十字架の出来事の中に、二重の意味で、自分自身の姿を見出します。第一には、主イエスを十字架につけ、嘲り、苦しめ、殺した人々です。それが私たちです。その人たちの姿に私たちは、自分自身の罪の現実を見出すのです。
 そしてその時そこには第二に、主イエスご自身が、罪のために神に見捨てられて絶望の内に死ななければならないはずの私たちの絶望の叫びを、代って叫んでおられることが見えてくるのです。私たちは、主イエスのあの叫びはどんな意味だったのだろうかと呑気に考えていることはできません。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、私たち自身の叫びなのです。その叫びを、主イエスが私たちに代って叫ばれたのです。だからあの叫びは確かに神に見捨てられた絶望の叫びです。罪人である私たちが本来受けなければならない、神に見捨てられた絶望の中での死を、主イエスが代って引き受けて下さったのです。昼の十二時から三時まで全地が暗くなったというのは、私たち全ての人間が、罪のゆえに、神に見捨てられた絶望の中で死ななければならない、その希望のない暗闇の現実を、主イエスが十字架の死において背負われたことを示しているのです。

私たちの絶望を背負った主イエス
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、絶望の叫びです。主イエスが絶望したと言うよりも、私たちの絶望の叫びなのです。私たちはいろいろな苦しみ、悲しみを体験する時に、神さまに見捨てられてしまったという絶望を感じて、なぜ私をお見捨てになったのですか、と神さまに恨み言を言うことがあります。しかし私たちは根本的に、神が遣わして下さった救い主である主イエスを拒み、自分が主人であろうとしている罪のゆえに、神に見捨てられた絶望の内に死ななければならない者なのです。その私たちの絶望を、主イエス・キリストが私たちに代って背負い、その絶望の叫びをあげて死んで下さった、それが主イエスの十字架の出来事だったのです。

わたしの神
 その絶望の言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」はしかし、詩編22編の冒頭の言葉でした。詩編22編は、神が自分を見捨ててしまい、呼び求めても答えてくださらない、という深い絶望を語りつつ、なおその中で神が共にいて下さることを信じ、神が与えて下さる救いの希望を語っています。主イエスは、罪のゆえに神に見捨てられて死ぬしかない私たちの絶望を私たちに代って背負って下さったと同時に、その絶望の中で、神の独り子として、この詩編に歌われている、共にいて下さる神への信頼を失わずに歩み通されたのです。そのことは、22編を最後まで読むことによって初めて分かることではありません。「わが神、わが神」という呼びかけに既にそれが示されています。「なぜ私をお見捨てになったのですか」という絶望や恨み言を詩人は「わたしの神」に向かって叫んでいるのです。主イエスは十字架の上で、神に見捨てられた絶望の中で、「わたしの神よ」と呼びかけ、「わたしの神」と共にあったのです。このことによって主イエスは、神に見捨てられて絶望の内に死ぬしかない罪人である私たちに、あなたがたはその絶望の中でなお「わたしの神よ」と呼ぶことができる、その神と共にあることができる、と教えて下さったのです。教えて下さったと言うよりも、主イエスご自身がその恵みを打ち立てて下さったのです。罪人である私たちが本来受けなければならない絶望の死を主イエスが引き受けて下さったことによって、私たちは、最も深い絶望の中で死ぬとしてもそこで、主イエスの父なる神を「わたしの神」と呼び、その神と共にあることができるのです。主イエスが十字架の上であの一言を叫んで息を引き取られたことによって、私たちのためのそういう救いが実現したのです。

主イエスの十字架によって新しく生かされる
 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと51節にあります。神殿の垂れ幕とは、エルサレム神殿の至聖所と聖所とを隔てる幕です。この垂れ幕は、罪人である人間は神の前に出ることができない、神と共にあることはできないということを示していたのです。しかし主イエスの十字架の死と同時に、その垂れ幕が真っ二つに裂けた。それは、神と人間の間を隔てていた人間の罪が取り除かれたということです。神の独り子であられる主イエスが、罪のゆえに神から引き離され、絶望の内に死ななければならない私たちに代って「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んで下さったことによって、私たちは、もはや何の隔てもなく神のみ前に出て、神と共にあることができるようになったのです。
 それと同時に、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、死んでいた昔の信仰者たちの多くが生き返った、とあります。死者の復活が起ったのです。主イエスの十字架の死によって、罪のために死の力に捕えられていた者たちの解放が起り、人は新しく生きることができるようになったのです。それは主イエスの復活においてはっきりと現される救いの恵みです。だからマタイは注意深く53節で、彼らは「イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」と語っているのです。しかしこのこと以上に、主イエスの十字架の死が人を新たに生かす救いの出来事であることをはっきりと印象的に語っているのが、54節です。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。百人隊長は、ローマの兵隊の隊長です。彼と、彼の下で十字架の見張りをしていた兵卒たちは、総督ピラトの判決に基づいて、主イエスを十字架につけた人々です。十字架の下で主イエスから剥ぎ取った服をくじで分け合ったのも彼らです。「それでも神の子か、ユダヤ人の王か」と嘲ったのも彼らだったのです。その彼らが、「本当に、この人は神の子だった」と言った。これは、十字架につけられた主イエスに対する最初の信仰告白です。主イエスを十字架につけ、嘲っていた者たちが、最初の信仰告白をしたのです。それは死人の復活に匹敵する奇跡だと言うべきでしょう。他の福音書では、この信仰告白をしたのは百人隊長一人となっていますが、マタイは「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」と言っています。主イエスを十字架につけた人々がこの告白を与えられたのです。主イエスを十字架につけたのは私たちです。その私たちが、主イエスの死によってこの告白へと導かれるのです
 私たちは誰でも最初は主イエスの十字架の死を、外から、自分には関係のないこと、人々の罪によって昔起った悲惨な出来事として眺めています。しかし礼拝に集い、聖書を通して神のみ言葉を聞いていく中で、主イエスを十字架につけ、嘲り、苦しめているのは実はこの自分なのだ、ということに気付かされていくのです。そしてさらに、神に見捨てられた絶望の叫びをあげて死なれた主イエスのお姿に、自分に代って罪を背負い、その絶望を引き受けることによって私たちを新しく生かして下さる救い主のお姿を見つめることができるようになっていくのです。そして私たちも、「本当に、この人は神の子だった」という信仰の告白を与えられるのです。

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