クリスマス讃美夕礼拝

恐れるな

「恐れるな」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第9章1-6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書第2章1-21節
・ 讃美歌:260、268、265、267、261

2017年を振り返って  
 皆さん、横浜指路教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。  
 2017年がまもなく終わろうとしています。昨年のクリスマスは、トランプがアメリカの大統領に就任する直前でした。「アメリカ第一」と言っている彼が大統領になり、アメリカは、そして世界はどうなっていくのだろうか、と昨年の讃美夕礼拝においてお話ししました。実際トランプ大統領はこの一年、随分乱暴なことを言ったりしたりしてきました。公約にしていたオバマケアの見直しはうまくいかず、メキシコとの間の壁もまだ出来ていないようですが、アメリカの経済に悪影響があるという理由で、地球温暖化防止のために各国が合意したパリ協定から離脱すると宣言しました。最近はエルサレムをイスラエルの首都と認め、大使館を移すと言い出しました。そして北朝鮮との間ではどっちもどっちの意地の張り合いによって緊張が高まっています。そのトランプ大統領に最も近く寄り添っているのが日本の安倍首相です。アメリカを再び偉大な国にする、と言っているトランプ大統領と、アメリカの支配の下で成立した戦後レジームからの脱却を目指している安倍首相の主張は根本的には相容れないものであるはずですが、今両者を結びつけているのは、日本の軍事力を強め、日米の軍事同盟を強化しようという思いでしょう。そのしわ寄せを最も受けているのは、在日米軍基地の70%をかかえる沖縄であり、それに対する沖縄の人々の怒りが高まっています。  
 パリ協定については、アメリカの大企業や投資家あるいは州政府の中にも、大統領はああ言っているが自分たちはこの協定に留まる、という人々があり、さすがアメリカだと思わされます。日本でも、政府がどう言おうとも自分たちはこうする、という動きが出て来ないものかと思いますが、モリ、カケ問題であれほど批判されていた安倍首相の自民党が選挙であれだけ勝ってしまうわけで、日本には政権に対する批判勢力の受け皿が育っていないことを痛感させられます。

恐れと不安の中でのクリスマス  
 私たちは今このように、いろいろな点で緊張が高まりつつある社会の状況の中でクリスマスを迎えています。アメリカと北朝鮮との間で武力衝突が起きれば、当然日本も集団的自衛権を行使して戦争当時国となります。政府は北朝鮮の核ミサイルの脅威ばかりを語っていますが、通常のミサイルで原発を破壊すれば、核ミサイルと同じようなダメージを与えることができることを、あの原発事故は明らかにしました。エルサレムをイスラエルの首都と認めたアメリカに対しては一昨日国連でそれを認めないという決議がなされましたが、アメリカはどうするでしょうか。このことに対するイスラムの人々の反発は当然激しく、テロの不安がこれから世界的にますます高まっていくことが懸念されます。そして、豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなるような社会の構造への怒りが世界全体に深まっています。どちらを見ても、緊張や対立ばかりです。この世界が、社会全体が危機に瀕しており、しかもそれは自分の力でどうすることもできない危機であるゆえに、私たちは深い恐れと不安を感じずにはおれません。今はクリスマスをのんびり喜び祝っているような時ではない、と感じている方もおられることと思います。

クリスマスは悲しみの出来事  
 しかしクリスマスというのは本来、きらびやかな飾り付けの下で人々が「メリー・クリスマス!」と言ってプレゼントを交換し、ごちそうを食べてのんびりと能天気に喜び祝う時ではありません。クリスマスは言うまでもなくイエス・キリストの誕生を記念する時ですが、それはどのような出来事だったのか、それが先程朗読されたルカによる福音書の第2章に語られています。それによれば、ヨセフとマリアの夫婦は、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令によって住民登録のために旅をしなければならなかったのです。住民登録はローマが税金を取るために行うことです。税金を取られるために強いられた、その旅先のベツレヘムでマリアはイエスを生んだのです。旅先で出産するというのは考えただけでもぞっとする大変な苦しみです。しかも、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったとあります。だからマリアは馬小屋で出産しなければならなかった、と言い伝えられています。それは、生まれたばかりの赤ん坊のイエスを布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、と聖書に書かれていることによります。このことは要するにヨセフとマリアが貧しく、誰にも見向きもされず、家に迎えてくれる人が一人もいなかったことを示しています。無力な庶民が、権力者である皇帝の命令によって望んでもいない旅を強いられ、その旅先で、人間の泊まるべき部屋に迎えてもらえずに出産しなければならず、乳飲み子を飼い葉桶の中に寝かさなければならなかった。これがクリスマスの出来事です。それは涙なしには聞けないような悲しい話であり、この世の不条理、人間社会にある、権力のある者と弱い者、豊かな者と貧しい者の格差を見せつけられるような出来事なのです。

深い闇の中で  
 ルカ福音書2章の8節以下には、その地方で野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れたことが語られています。羊飼いたちは主の栄光によって照らされた、つまり明るい光が彼らを照らしたのです。しかしその光は、彼らの置かれている状況の暗さをかえって浮き彫りにしています。野宿しながら夜通し羊の群れの番をしなければならない羊飼いたちは、町に住む普通の人々のように生活することができなかったために、当時の社会で、人々から蔑まれていました。彼らは夜の暗さの中にいただけでなく、この社会における格差や差別による暗さ、その苦しみや悲しみ、恐れや不安の闇の中にいたのです。その闇は、焚き火をどんなに盛んに燃やしても打ち勝つことのできない深い闇だったのです。

天使が喜び祝ったクリスマス  
 イエス・キリストの誕生はこのような深い闇の中での出来事でした。権力者の支配の下で弱く貧しい夫婦が体験しなければならなかった苦しみ、人々の差別や偏見の中で弱い立場に追いやられている人々の悲しみ、人間の社会に存在するそのようなつらく悲しい闇の現実の中に、救い主イエス・キリストが、一人の小さな赤ん坊として生まれたのです。誰もその誕生に気づきもしませんでした。イエス・キリストの誕生を喜び祝う人など一人もいなかったのです。そのことを喜び祝ったのは、人間ではなくて天使でした。天使が羊飼いたちに、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたのです。しかも天使は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」こそが救い主だ、と言いました。弱さと貧しさの中で誕生し、飼い葉桶に寝かされたイエスこそが、人々に蔑まれ、社会の片隅に追いやられているあなたがたのために神がこの世に生まれさせて下さった救い主なのだ、その誕生は世界中の人に与えられる大きな喜びの知らせなのだ、と天使は告げたのです。そしてそこに天の大軍勢も加わって、声高らかに賛美を歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。イエスの誕生において、天においては神の栄光が、地上には神によってもたらされるまことの平和が実現する、そのように天使たちは喜び歌ったのです。

闇の中での、救いのみ業の開始  
 ヨセフとマリアは強いられた旅の途上でイエスを生むという苦しみを体験しました。赤ん坊を飼い葉桶の中に寝かさなければならないことも、とてもつらいことであり、子供に十分なことをしてやれない自分たちのふがいなさを見せつけられるようなことでした。夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちも、差別と偏見の苦しみの闇の中を生きていました。これらの出来事だけを見るなら、どちらを向いてもつらいこと、苦しいこと、悲しいことばかりです。恐れや不安を感じずにはおれないことばかりです。しかし神は、その闇の現実の中に、救い主イエス・キリストを生まれさせて下さることによって、すべての人々のための救いのみ業を始めて下さったのです。人間はまだ誰もそれに気づいていません。当事者とされたヨセフとマリアにとっても、これはつらく苦しいことであり、どうして自分がこのような目に遭わなければならないのか、と思うようなことでした。しかし神は、彼らのもとにイエス・キリストを生まれさせることによって、全ての人々のための救いのみ業を確かに始めておられるのです。そしてその救いの恵みと喜びを、闇の中で生きていた羊飼いたちに伝えて下さったのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。神が彼らに告げて下さったこの言葉は、今私たちに対しても語りかけられています。私たちも、苦しみや悲しみ、恐れや不安の闇の中にいますが、その私たちがこのクリスマスに、「恐れるな」という神からの語りかけを聞くのです。

恐れるな  
 私たちを取り巻く現実は、恐れと不安に満ちています。自分の力ではどうにもならない、またいくら考えても解決策の見つからない緊張、対立のもたらす危機の中に私たちはいます。人間の現実を目をしっかり開いて見るなら、恐れを抱くことしかできないし、恐れを抱くことの方が正しいのです。しかしこのクリスマスに、神は私たちに「恐れるな」と語りかけて下さっています。それは決して無責任で能天気な話ではありません。人間の理性と善意に信頼して歩めば平和を実現することができる、という甘い理想論でもないし、私たちの目をこの世の暗い現実から背けさせようとしているのでもありません。神は、人間の罪が渦巻き、貧しい者弱い者が苦しめられているこの世の闇の中に、ご自分の独り子イエス・キリストをお遣わしになったのです。そして主イエスは私たちの全ての罪と苦しみ悲しみをご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さるという救いを実現して下さったのです。独り子の命をも与えて実現して下さる救いのみ業の最初の決定的な一歩を、神はクリスマスの出来事において踏み出して下さったのです。その恵みの事実のゆえに、神は今私たちに「恐れるな」と語りかけておられるのです。

神の語りかけを受けて新しく歩み出そう  
 神からのこの語りかけを聞いた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って新しく歩み出しました。私たちも「恐れるな」という神の語りかけを聞くことによって、新たに歩み出すことができます。この世の現実だけを見つめ、人間の善意や理性でどうにかしようとしているうちは、私たちは恐れや不安の暗闇からぬけ出して新しく歩み出すことはできません。しかし神が、人間の罪とそのもたらしている闇の現実のただ中に独り子を救い主として遣わして下さった、そのみ業を見つめるなら、私たちはそこに「恐れるな」という神の語りかけを聞いて、新しく歩み出すことができるのです。

アッシジのフランチェスコの平和の祈り  
 そしてこの「恐れるな」という神からの語りかけを聞く時に私たちは、神がイエス・キリストによって行って下さっている救いのみ業、天に栄光、地に平和をもたらして下さるそのみ業のために自分のこの身を用いていただきたい、という願いを与えられるのです。そういう願いを語っているのが、今年もこの後皆さんとご一緒に祈ろうとしている「アッシジのフランチェスコの平和の祈り」です。「わたしをあなたの平和の道具として用いて下さい」、というこの祈りを私たちは、神がその独り子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わすことによって始めて下さった神の救いのみ業は必ず実現する、と信じる時にこそ、心から祈ることができます。そしてこの祈りを祈ることによって、神がキリストをこの世に遣わすことによって始めて下さり、今もおし進めておられる救いのみ業のためにこの私をも用いて下さいと願いつつ生きていくなら、私たちは、闇のようなこの世の現実の中でも、恐れずに、希望を失うことなく歩み続けることができるのです。「わたしは独り子をあなたのための救い主としてこの闇の世に遣わした。だから恐れるな」という神の語りかけに応えて、ご一緒に「アッシジのフランチェスコの平和の祈り」を祈りたいと思います。

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