主日礼拝

平和の道に導く光

「平和の道に導く光」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第60章1-7節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第1章57-80節
・ 讃美歌:241、182、453

この子の名はヨハネ  
 アドベント、待降節の第三週を迎えました。いよいよ今週末の23日土曜日には、教会学校のクリスマス礼拝、祝会に続いて、讃美夕礼拝の一回目が行われます。そして翌日の24日、来週の主の日はクリスマス礼拝、愛餐会、そして讃美夕礼拝の二回目と、今年のクリスマスは怒濤の二日間となります。それに先立つ本日の主の日、静かにクリスマスへの備えを深めたいと思います。  
 本日の箇所、ルカによる福音書第1章57節以下には、洗礼者ヨハネの誕生と、その命名の場で歌われた父ザカリアの賛美の歌が語られています。ヨハネの父ザカリアは、エルサレム神殿の祭司でした。妻エリサベトと共に熱心に主に従い仕えていましたが、彼ら夫婦は子供が与えられないまま、既に年を取っていました。ところがある日、ザカリアがくじに当って神殿の聖所で香をたく務めをしていた時、天使が現れ、彼らに子供が生まれると告げたのです。しかしザカリアはその天使の言葉を信じることができませんでした。自分も妻ももう年を取っているのに、どうしてそんなことがあり得るでしょうか、と言ったのです。天使はそれに対して、あなたは私の言葉を信じなかったので、この事が実現する時まで話すことができなくなる、と言いました。神殿から出て来たザカリアはその通りに話すことができなくなっていました。その後エリサベトは天使が告げた通りにみごもり、そして月が満ちて男の子を生んだのです。そこからが本日の箇所です。男の子が生まれると、八日目に親類や近所の人々が集まり、子供に割礼が施されると共に、その子の命名がなされます。名前がつけられるのです。集まった人々は、父と同じザカリアという名にしようとしました。ザカリアに、年をとってからようやく与えられた跡継ぎです。父の名を受け継がせようとしたのは自然な思いだと言えるでしょう。しかし天使はザカリアへのお告げの中で、「その子をヨハネと名付けなさい」と語っていました。彼らに子供を与えて下さった主なる神ご自身が、その子の名を決めておられたのです。母であるエリサベトは人々に「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言いました。話すことのできないザカリアに代って彼女が、天使がお告げになった名を示したのです。天使のお告げを直接聞いたのではないエリサベトも、夫ザカリアが聞いたことを神のみ心として信じ受け入れていたのです。人々は父であるザカリアに、「この子に何と名を付けたいか」と尋ねました。するとザカリアは書き板に「この子の名はヨハネ」と書いたのです。ザカリアもエリサベトも共に、天使が告げたことを主なる神のみ心として信じて、それに従おうとしているのです。

この子は主のもの  
 子供に名前を付けることは親の特権です。親はいろいろな思いや願いを込めて子供に名前を付けます。このような人になってほしい、こんな人生を歩んでほしい、この子が幸せになれるように、そのような思いを込めて名前を付けるのです。親が子供を自分の思い通りにすることができるのはこの時だけです。そしてこの名前を付けることは、特に父親にとって、この子が自分の子であるということの表明でもあります。ですからマタイによる福音書において、ヨセフがマリアの生んだ子をイエスと名付けたと語られているのは、ヨセフが、自分によってではなく生まれたマリアの子を、自分の子として受け入れたことを意味しているのです。しかしザカリアとエリサベトがこの子にヨハネと名前を付けたことは、それとは反対のことを意味している、と言ったら皆さんは驚かれるでしょうか。しかしこの子がザカリアではなくヨハネと名付けられることは、彼ら夫婦が、自分たちの間に生まれたこの子を、主が自分たちに預けてくださった、しかし主によって選ばれ、そのご用に当る人になる子として、つまりこの子が根本的には自分たちのものではなく主なる神のものであることを認めた、ということを意味しているのです。この子は自分たちの思いや願いを負って生きるべき者ではない、ザカリアの名を受け継ぐべき者ではない、主によって生まれ、主がみ業のためにお用いになるのだ、この子にヨハネという名を付けることによって自分たちはこの子を主にお献げするのだ、それが、「この子の名はヨハネ」と宣言したザカリアとエリサベトの思いなのです。

幼児洗礼式への備え  
 来週のクリスマス礼拝において、一人の幼な子の幼児洗礼が行われることになっています。信仰者である親のもとに生まれた幼児に授けられる洗礼は、両親が、自分たちに与えられたこの子は、神がその選びのみ心によって自分たちに預け、委ねて下さった子であり、自分たちの子であるだけでなく、神のものであるという信仰によって、その子を神にお献げする、ということを意味しています。その洗礼において神がその子をキリストの救いにあずからせ、キリストのからだである教会の枝として下さり、その子は教会の子となるのです。教会に連なる者たち皆にとっても、幼児洗礼を受けたその子は、神が自分たちの教会に預け、委ねて下さった子です。教会の皆で、親と一緒にその子を育てていくのです。ザカリアとエリサベトが子供にヨハネと名付けた、この箇所に示されている彼らの信仰を覚えることは、私たちが来週のクリスマスに行われる幼児洗礼のための備えをするということでもあるのです。

沈黙と静寂の中から  
 ところで62節に、人々が父ザカリアに、この子に何と名を付けたいかと尋ねた時に、「手振りで尋ねた」とあります。ザカリアは話すことができなくなっていたわけですが、ここを読むと、耳も聞こえなくなっていたことが分かります。耳が聞こえることと話すことができることは結びついていますから、これはある意味では当たり前のことかもしれません。しかしここはザカリアが障がいや病気を負ったことを語っているのではありません。話すことができないと共に聞くこともできなくなっていたことには大切な意味があると思うのです。先々週に、このザカリアへのお告げのところについて説教をした時に、ザカリアが話すことができなくなったのは、天使の言葉を信じなかった罰を受けたということではなくて、ザカリアは沈黙の時を与えられたのだ、と申しました。自分の言葉を語ることが全くできなくなり、沈黙して、彼は神のなさるみ業を見つめる時を過ごしたのです。つまりいわゆる十月十日の間、妻エリサベトが身ごもり、次第にそのおなかが大きくなり、ついに男の子を出産するまでのことを、彼は黙って見つめ続けたのです。元々夫は妻の妊娠から出産をただ見ていることしか出来ませんが、ザカリアはさらに全くの沈黙を与えられて、神が人間の可能性を超えて、もう年を取ってそんなことはあり得ないと思っていた自分たちに子供を与えて下さるというみ業を見つめたのです。そしてその沈黙は、耳が聞こえないということを伴っていました。それは、自分が語ることができないだけでなく、他の人が語る言葉も全く聞こえない、人間の営みから来るあらゆる言葉や音から遮断された、全くの静寂を与えられたということです。私たちは普段、たとえ自分で言葉を発していなくても、他の人の言葉を聞き、また外界から働きかける様々な音を聞きながら生活しています。ザカリアはそれらの一切が聞こえなくなり、それらの声や音から解放されたのです。そこには完全な静けさがあります。自分の語る声さえも聞こえない世界です。だから、耳の聞こえない人は話すこともできないのでしょう。それは通常の場合には、普通の生活を妨げる障がいです。しかしザカリアが体験したこの静寂と沈黙は、聞くことや話すことが「できない」という欠乏や苦しみと言うよりも、むしろまことに豊かな、実り多い時でした。それは、この完全な静けさの中には常に、神が彼に語りかけて下さったみ言葉が響いていたからです。彼は自分の言葉を語ることも、他の人の言葉や外からの音を聞くこともない完全な静けさの中で、天使の告げたあの言葉をかみしめ続けたのです。13節から17節のあのお告げの言葉です。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。生まれて来る彼の子を通して実現する神の救いのみ業を告げるこの天使の言葉、神の言葉が、人間の一切の言葉やこの世の全ての音から解放された沈黙と静寂の中で、彼の心に常に響いていたのです。ザカリアはこの神の言葉を、それのみを心の内に聞きながら、神のみ業を見つめ続けたのです。そして遂に約束された男の子が生まれ、その子に名前を付ける時、彼は「この子の名はヨハネ」と書きました。それは、私は自分に語りかけて下さった神のみ言葉を信じて、それに従って生きる、と人々の前で公に言い表したということです。「この子の名はヨハネ」という言葉は、彼の信仰告白なのです。そしてこの信仰を彼が人々の前で告白した時、たちまち彼の口は開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました。天使のお告げを聞いて以来話すことができなかった彼が、神をほめたたえる喜ばしい言葉を語り始めたのです。それはあの沈黙と静寂の中で神の言葉を聞きつつ、み業を見つめつつ過ごしたことによって彼の内に与えられ、妻のおなかが大きくなっていくのに比例して大きく育ってきた言葉です。それがついに堰を切って、彼の口からほとばしり出たのです。

主による救い  
 そのようにして歌われたのが、67節以下の「ザカリアの賛歌」、ラテン語における最初の言葉から「ベネディクトゥス」と呼ばれている賛美の歌です。67節に「こう預言した」とあるので「ザカリアの預言」という小見出しがつけられていますが、「ほめたたえよ」という最初の言葉(それが「ベネディクトゥス」です)から分かるようにこれは神を賛美する歌です。「ほめたたえよ」は「祝福されよ」という言葉で、42節でエリサベトがマリアに「あなたは女の中で祝福された方です」と語ったのと同じ言葉です。人に対して語られる時は「祝福する」となり、神に対しては「ほめたたえる」となるのです。ザカリアはイスラエルの神である主をほめたたえて歌いました。その前半、75節までのところには、主がイスラエルのために、ダビデの家から救いの角を、つまり救い主を起し、敵の手から救い、解放して下さることが歌われています。それは主がイスラエルの民と結んで下さった契約の実現であり、昔の預言者たちがその救いを告げてきたのです。主イエス・キリストはその救い主としてこの世に現れようとしておられるのです。主イエスによる救いを受けると私たちはどうなるのでしょうか。それが73節の後半からのところに語られています。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」。つまり主の救いにあずかった者は、恐れなく主に仕えるのです。主イエスは私たちを、喜びと感謝をもって主に仕える者として下さるのです。心から喜んで仕えることができる、安心して自分の人生を預け、委ねることができる主に仕えて生きる者とされることこそまことの救いです。ザカリアはその救いを与えて下さる主をほめたたえたのです。

救いのみ業のために用いられる喜び  
 そして76節以下、この賛歌の後半には、自分たちに主が与えて下さった子であるヨハネが、現れようとしている救い主の預言者となり、主に先立って歩み、主のための道を整え、人々に、救い主を迎える備えをさせる者となることが語られています。その備えは、「罪の赦しによる救いを知らせる」ことによってなされるのだと77節にあります。救い主イエスは、私たちが神に背き逆らい、神のもとで生きようとしない、その罪を赦されて、私たちが神のもとに立ち帰り、神の子として新しく生きる、そういう救いを実現して下さるのです。その救いが、独り子主イエスの十字架の死と復活によって実現することは、この時はまだザカリアにも分かってはいませんでした。しかし彼はこの主の救いのみ業に備えるために自分たちの子ヨハネが用いられる、その喜びを歌っています。それは主が自分たち夫婦をも、そのみ業のために選び、用いて下さっているという喜びであり感謝です。自分たちを、恐れなく主に仕える者として用いて下さる、その救いのみ業が既に始まっているのです。その恵みを、エリサベトは自分の胎内に子を宿し、その子を育み、出産することによって体験しました。ザカリアも、あの沈黙と静寂の中で主のみ言葉をかみしめつつみ業を見つめたことによって、この恵みを自らのこととして体験し、主をほめたたえたのです。

平和の道に導く光  
 ザカリアの賛歌は、「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」という言葉でしめくくられています。暗闇と死の陰に座している、それは当時のユダヤの人々がそう感じていた、というだけではなく、いつの時代にも、私たち人間の世界に共通することだと言えるでしょう。なぜなら私たちには、神に従い仕えようとせず、自分が主人になり、自分の思い通りに生きようとする罪があるからです。その私たちの罪が、人と人との争い、対立をも生じさせ、この世に暗闇をもたらしています。その暗闇が今ますます深まっていることを私たちは感じています。また死が暗い陰として私たちを覆っているのも、罪によって私たちと神との関係が切れてしまっているからです。罪による暗闇と死の陰の中で迷い、平和への道を見出せずにいる私たちに、主が憐れみによってあけぼのの光をもたらして下さった、それが主イエス・キリストの誕生です。ご自身の十字架の死と復活によって、罪の赦しによる救いをもたらして下さる主イエス・キリストこそが、主から遣わされた救い主であられ、罪の暗闇と死の恐れに満ちた私たちとこの世界を照らし、私たちを平和の道へと導いて下さるまことの光なのです。このまことの光がいよいよこの世に輝こうとしているという恵みを、そのためにヨハネが、そして自分たちが用いられる幸いをザカリアは歌ったのです。

聖霊によって  
 「この子の名はヨハネ」という信仰を告白したザカリアは、妻エリサベトと共に、このような喜びに満ちた賛美の歌を歌いました。しかし67節が語っているのは、ザカリアが聖霊に満たされてこの賛美を歌ったということです。この賛美の言葉は聖霊によって与えられたのです。神のみ言葉に従って生きることを決意し、その信仰を言い表して歩むところには、聖霊が働いて下さって、このように喜ばしい賛美の言葉を、そして主に仕えて生きる幸いな歩みを与えて下さるのです。そして実は、神のみ言葉に従って生きるという信仰の決断もまた、聖霊によって与えられるものです。ザカリアにとってあの沈黙と静寂の日々は、聖霊なる神と共に歩んだ日々でした。人間の言葉や活動に心が満たされてしまっていると、聖霊の働きが分からなくなります。それらから遮断された沈黙と静寂の中でこそ、聖霊が働いて下さるのです。その聖霊によってザカリアは「この子の名はヨハネ」という信仰告白へと導かれ、そして聖霊に満たされてあの豊かな賛美の言葉を語ったのです。

洗礼式を覚え、聖霊の働きを求めて歩もう  
 来週のクリスマス礼拝においては、五名の方々が洗礼を受けることになっています。先程は、ザカリアとエリサベトが自分たちの子にヨハネと名前をつけた、その信仰を覚えることが、来週行われる幼児洗礼への備えとなると申しました。しかしこのことは、大人の洗礼への備えにもなるのです。ザカリアとエリサベトは、自分たちに告げられた神の言葉を信じ、そのみ言葉に従って生きることを決心しました。「この子の名はヨハネ」という言葉はその信仰の告白です。それは自分たちの子が神のものであることを信じ告白するという意味では、幼児洗礼における信仰であると共に、神が自分に語りかけて下さったみ言葉を信じて、それに従って歩み、神のみ業のために用いられることを喜びをもって受け入れるという意味では、大人の洗礼における信仰でもあるのです。来週洗礼を受ける方々は、この信仰を告白して洗礼を受けようとしているのです。そして既に洗礼を受けているキリスト信者は誰もが、この信仰を告白した者たちなのです。教会は、神が語りかけて下さったみ言葉を信じて、それに従って歩み、神のみ業のために用いられることを喜びとする信仰者の群れです。そしてその信仰は、聖霊が私たちに働いて下さったことによって与えられたものです。この信仰の告白を与えて下さった聖霊は、私たちをも、ザカリアが歌ったあの賛美を歌う者として下さいます。救い主イエス・キリストによって神が与えて下さった罪の赦しによる救いに感謝して、神をほめたたえつつ、主がそのみ業のために自分を用いて下さることを喜び、主に仕えて生きる者とされるのです。今新たに五名の方々に、そのような聖霊のお働きが与えられているのです。この一週間、私たちはそのことを覚えて、自分自身にもその聖霊の働きが新たに与えられることに備えて歩みたいのです。ザカリアは、完全な沈黙と静寂の中で、聖霊の働きを与えられました。それと同じというわけにはいきませんが、私たちもこのアドベント第三週を、主のみ前に沈黙して、人間の言葉や活動から自らを遮断して、ただ神のみ言葉を聞き、聖霊のお働きを受ける時を、生活の中に造り出しつつ歩みたいと思います。それが、私たちのなすべきクリスマスへの備えです。そのような備えの中で迎えるクリスマスには、私たちも、聖霊に満たされて、心からの喜びをもって主をほめたたえる歌を歌うことができるでしょう。主イエスによる救いのみ業を感謝し、喜んで主に仕える者とされるでしょう。そのようにして、暗闇と死の陰に座しているこの世に、主イエスによってもたらされたあけぼのの光を指し示しつつ、その光に導かれて平和の道を歩む者とされていきたいのです。

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