「人生を変える出会い」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第6章1-8節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第5章1-11節
・ 讃美歌:7、127、521
キリストとの出会いは人生を変える
私たちの人生は様々な出会いによって成り立っています。私たちは日々、いろいろな人々と出会いつつ生きています。初めて会う人との出会いもありますし、既に知っている人との間でも、新しい出会いが起ります。よく知っていると思っていた人の新しい側面を発見して驚くという出会いも新鮮なものです。そのように私たちは日々様々な人々と新たに出会いつつ生きていますが、時としてその出会いが人生を大きく変えることがあります。あの時あの人と出会ったことによって今の自分がある、あの人と出会わなかったら全く違った人生を歩んでいただろう、ということが、多かれ少なかれ誰にもあるのではないでしょうか。出会いによって人生が決定的に変わることがあるのです。喜ばしく変わることもあれば、悪く変わってしまうこともあります。私たちの人生は出会いによって左右されるのです。
人生を変える出会いは、人との間においてのみでなく、神との間にも起ります。神と出会う時、人は信仰を持つようになるのです。教会に連なり、礼拝に集っているキリスト信者たち、いわゆるクリスチャンたちは皆、神と出会った人々です。聖書の信仰においては、神が人間となってこの世に生まれ、人間として生きて下さった方がイエス・キリストです。イエス・キリストはまことの神であると同時にまことの人間でもある方です。今も生きておられるそのイエス・キリストと出会った人が、信仰を持ち、クリスチャンとなるのです。イエス・キリストとの出会いは私たちの人生を大きく変えます。イエス・キリストと出会った人は、喜んで生き生きと生きる者となるのです。本日は聖書の中から、イエス・キリストと出会って人生が大きく、喜ばしく変わった一人の人のお話をご一緒に読みたいと思います。それは、キリストの第一の弟子となったシモン・ペトロという人です。
イエス・キリストと出会ったシモン・ペトロ
彼がイエス・キリストと出会い、弟子となったことを語っているのが、先程朗読された新約聖書の箇所、ルカによる福音書の第5章です。その最初の1節に、「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると」とあります。「ゲネサレト湖」はガリラヤ湖という名称でよく知られていますが、シモンはそこで漁師をしていました。ある朝彼は、夜通しの漁を終えて岸辺で網を洗っていました。つまり普通の、くる日もくる日も変わらない日常の生活を送っていたのです。しかし本日の箇所の最後の11節には「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。この日シモンは、すべてを捨ててイエスに従う者となったのです。昨日も今日も変わらない日常の生活を送っており、それが明日も明後日も続いて行くと思っていた彼の人生が、この日変わったのです。自分でも全く予想していなかった新しい道へと歩み出すことになったのです。イエス・キリストと出会ったことによって彼の人生がこのように大きく変わったのです。ここでいったいどのようなことが起ったのでしょうか。
イエスへの好意と尊敬
実はシモンはこの日初めてイエスと出会ったわけではありません。この頁の上の段、4章38、39節にこうあります。「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」。イエスはガリラヤ湖畔の町カファルナウムの、ユダヤ人の集会所である会堂で人々に教えておられました。その会堂の近くにシモンの家もあったのです。会堂での集会が終わると、イエスはシモンの家に行った、そういう関係が既にあったのです。シモンも会堂でイエスの話を聞いていたのでしょう。そしてよい話だと思い、イエスに好意を抱いていたのでしょう。そうでなければ自分の家に迎えるはずはありません。その家にはシモンのしゅうとめ、つまり妻の母が同居しており、高い熱に苦しんでいました。イエスは人々の求めに応えて彼女の熱病を癒したのです。シモンはイエス・キリストの癒しの奇跡を目の当たりにしました。身内の者の病を癒していただくという恵みを体験したのです。シモンの中で、イエスへの尊敬と好意はますます深まっていたでしょう。5章に入る前に既にこれらのことが語られていたのです。シモンはイエスのことを既に知っており、尊敬と好意を抱いていたのです。
群衆とシモン
さて5章の1節には、ゲネサレト湖畔に立っておられたイエスのもとに、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た、と語られています。会堂で教え、病気を癒しておられたイエスのことは人々の間で評判になっており、多くの人々がその教えを聞こうとして、また病気を癒してもらおうとして押し寄せて来たのです。彼らは、「神の言葉を聞こうとして」来たのだと語られています。つまり彼らは、奇跡を行なう人として今噂になっているイエスを一目見ようとして、アイドルやオリンピックのメダリストを見に来るような思いでやって来たのではありません。彼らはイエスが語っている「神の言葉」を聞こうという真剣な思いで押し寄せて来たのです。この人々は決して暇を持て余していたわけではないでしょう。それぞれ、自分と家族が生きて行くために必死に働かなければならない人たちだったはずです。でも、その仕事を投げ打ってでも、イエスの語る神の言葉を聞きたいと思ってやって来たのです。
一方、湖畔に立っているイエスの傍らでは、シモンとその仲間の漁師たちが、夜通しの漁を終えて舟から上がり、網を洗っています。シモンを始めとするこの人々は、日々の仕事に勤しんでいるのです。群衆たちのように、仕事を投げ打ってもイエスの教えを聞こうという思いは彼らにはないのです。つまりシモンは、イエスと既に出会っており、その教えを聞いたこともあり、身内を癒してもらったこともあり、イエスを尊敬し好意を抱いていましたが、しかしだからといってイエスの語る神の言葉を真剣に聞こうとしていたわけではありません。むしろ日々の仕事を大事にしていたのです。働いて家族を養わなければなりません。日々の生業を投げ捨てて神の言葉を聞きに行くなどという暇や余裕は自分にはない、と思っているのです。それが、この5章の始めの所におけるシモンの姿です。
あなたのお言葉ですから
ところがイエスが、水際にあった彼の舟に乗り込んで来られました。群衆が押し寄せて来るのを見たイエスは、シモンに少し舟を漕ぎ出してもらって、舟の中から岸辺にいる群衆に話をしたいとおっしゃったのです。3節を読むと、イエスはシモンにそのように頼んでから彼の舟に乗り込んだのではなくて、勝手に乗り込んでからそのように頼んだようです。シモンはイエスに、自分の舟に乗り込まれ、居座られてしまったのです。それで仕方なく言われた通りに漕ぎ出したのでしょう。イエス・キリストという方はそんなふうにけっこう強引に私たちの人生に乗り込んで来られます。
さてそのようにして、イエスとシモンの乗った舟が湖の上にあり、群衆たちは岸辺に集まっている、という中で、シモンの舟がこの講壇のように用いられて、イエスの話が始まりました。シモンにとってこれは、群衆の一人としてイエスの話を聞くのとは違う特別な体験だったと思います。シモンは、語っているイエスのすぐ傍らで、この講壇の後ろの席に座るような形で、聞いている人たちと対面しながら、イエスの語る神の言葉を聞いたのです。
話が終わるとイエスはシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とおっしゃいました。これはまたシモンにとって予想外の、驚きのお言葉でした。彼はこう答えます。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。シモンと仲間たちは昨晩一晩中漁をして、しかし何も取れなかったのです。そんなことはめったにないことだったのではないでしょうか。一晩中苦労して、場所をいろいろ変え、知恵を尽くして頑張ったけれども何も取れなかった、その失望感と徒労感は大きかったでしょう。今日はもうダメだ、余りにも日が悪い、というあきらめの思いの中で彼らは網を洗っていたのです。それなのにイエスはもう一度沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさいと言う。しかも彼ら漁師の常識においては、漁は夜の内にするもので、こんな昼間に網を降ろして魚が取れるはずはないのです。素人が変な口出しをしないで欲しい、こんな時間に魚は取れない。また無駄骨を折るだけであることは目に見えている、一晩中働いてもう疲れてるんだから勘弁してくれ、と思ったことでしょう。けれどもシモンは、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。ここの原文は「あなたのお言葉ですから」となっています。「あなたの」という言葉があるのです。イエス様、他ならぬあなたのお言葉ですから、私はもう一度沖へ漕ぎ出して網を降ろします、と彼は言ったのです。シモンは元々イエスを尊敬していましたが、しかしイエスの言葉を神の言葉として熱心に聞こうとしていたわけではありません。それよりも日々の生活が大事だと思ってこの日も仕事に勤しんでいたのです。しかしその彼の舟にイエスが乗り込んで来たために、彼は言わば無理矢理に、イエスの語る神の言葉を間近で聞く体験を与えられました。そのようにして聞いたイエスの言葉に彼は心動かされたのです。熱心にイエスの言葉を聞こうとして集まって来る多くの人々の気持ちが初めて分かったのだと思います。つまり彼もここで初めて、「神の言葉」を聞くという体験を与えられたのです。その体験によって彼は、他ならぬあなたのお言葉ですから、おっしゃる通りにしてみましょう、という思いを与えられたのだと思います。
そのようにして、「お言葉ですから」と網を降ろすと、なんとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。もう一そうの舟も呼んで二そうで魚を引き上げようとしましたが、両方とも舟が沈みそうになる程魚でいっぱいになったのです。昨晩はこれまで体験したことのない不漁だったのに、今や、これまで体験したことのない大漁となったのです。この奇跡の大漁を体験したシモン・ペトロは、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」とあります。シモン・ペトロをイエス・キリストを信じる信仰者へと変えた決定的な出会いがここで起りました。ここでシモン・ペトロに起ったことは何だったのでしょうか。
シモンと私たち
これまでのところで見てきたように、シモンは既にイエスのことを知っており、身内の病気を癒してもらったこともあって、好意を抱いており、尊敬していました。でもこの日までは、イエスの語る神の言葉を特に熱心に聞こうとしていたわけではありません。それよりも自分と家族の生活を大事にしていたのです。このシモンの姿を私たちに当てはめてみるならば、イエス・キリストのことをある程度は知っており、キリスト教や教会に対して反感は持っていない、むしろある好意を抱いている、家族が世話になったこともあったりして、世間の人よりも少しは教会に近い所にいるかもしれない、でも、日曜日に毎週礼拝に行く気にはなれない、他にいろいろしたいこともあるし、何よりも仕事が忙しくて、たまの日曜ぐらい家でゆっくりしたいと思っている、ということになるでしょうか。要するにシモンは私たち皆と同じ、ごく普通の人だったということです。
乗り込んで来るイエス
そんなシモンの所にイエスがやって来て、強引に舟に乗り込んで来て、彼はイエスの傍らで話を聞くという特別の機会を与えられました。これを私たちに当てはめるならば、何かのきっかけで教会に通うようになり、毎週のように礼拝で説教を聞くはめになった、と考えればよいでしょう。私たちが教会の礼拝に行くようになるのは勿論自分で行こうと思ってなのですが、でも何だか神様が、イエス・キリストが強引に自分の人生に乗り込んで来たように感じる、という人は多いと思います。自分の意志よりもキリストの意志によって、身近な所で語られる神の言葉を聞くはめになってしまった。私などはまさにそうでした。私は牧師の家庭に生まれ育ちました。だから神が、イエス・キリストが、最初から自分の人生の舟に乗り込んでおられたのです。私の意志なんてあったもんじゃありません。気がついたらイエスがそこにおられ、み言葉を語っておられるのを聞かされていたのです。私だけでなく、クリスチャンの家庭に生まれ、親に連れられて教会に来たという人はみんなそのように感じていると思います。しかしそうではない人でも、教会やキリスト教とは全然縁がなかったのに、何かのきっかけで教会に来るようになったという人も、自分の思いによってではなく、何かに導かれてここに来た、と感じている人がいると思います。それはまさに、主イエス・キリストが、その人の人生の舟に乗り込んで来ておられる、ということです。
さてシモンは自分の舟に乗り込んで来たイエスによって、神の言葉を聞くことの喜びを知りました。そして、この方の言うことなら、漁師としての体験や常識に反することでも、その通りにしてみようか、と思うようになったのです。そして彼はそのように歩み出しました。イエスのお言葉に従ってやって見たのです。信仰者となることにおいてこの体験は大事です。神の言葉を聞いているだけだった者が、そのみ言葉に従って歩み出してみるのです。そのように歩み出すことによって、人生に新しいことが起って来るのです。
神である主イエスとの出会い
イエスの言葉に従って歩み出したシモンは、奇跡の大漁を体験しました。漁師にとって、大漁は何よりの恵みです。それを求めて毎日漁に出るのです。しかし前の晩は全く何も取れず、がっかりしていました。それがイエスに従って歩み出して見たら、予想もしなかった結果が得られたのです。それはイエスによって与えられた恵み以外の何物でもありません。この大きな恵みを体験した彼はどうしたでしょうか。イエスの前にひれ伏して、「イエス様、ありがとうございます。あなたこそ神の子、救い主であられることが今はっきり分かりました。私はあなたを信じて生きていきます」と言った、こうしてシモン・ペトロはイエスの弟子となった…、そのように語られていてもよさそうなものです。でもそうではないのです。イエスの前にひれ伏したシモンは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。
シモンはあの奇跡の大漁において、確かにイエスの恵みを体験しました。しかしその恵みは、「ああよかった、イエス様ありがとうございます」というようなものではなかったのです。彼はこの大漁を喜んだのではなくて、むしろ恐れたのです。それは彼がこの大漁の体験の中で、人間の思いや常識や計画をはるかに超えた、また自分がイエスに対して好意を抱いているとか尊敬し信頼しているなどということが何の意味も持たない、神の圧倒的な力に触れたからです。生きておられる神の存在感に彼は圧倒されたのです。彼は確かに神の恵みを体験したわけですが、その神の恵みが自分に向かって大波のように押し寄せて来るのを感じたのです。舟が沈みそうになったとあるように、この恵みの大波を受けて人生の舟が転覆しそうになったのです。この圧倒的な恵みへの驚きと恐れの中で彼は主イエスの前にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んだのです。「わたしは罪深い者なのです」というのも、自分にはこういう罪がある、ああいう罪を犯したということではなくて、生けるまことの神の前に立つ時、人は自分が裁かれるべき罪人であり、神の前に出ることなど出来ない者であることを思い知らされたということです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書第6章でイザヤが体験したのはまさにそういうことでした。彼は神殿で、天の王座に着いておられる神を、その栄光を見たのです。その時彼は、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言いました。神の栄光を目の当たりにすることは、罪人である私たち人間にとっては「災いだ。わたしは滅ぼされる」と叫ばずにはおれないようなことなのです。このイザヤの叫びと、シモンの「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という叫びは同じ意味です。シモンは5節ではイエスのことを「先生」と呼んでいましたが、ここでは「主よ」と言っています。それまでは、ちょっと強引だが良い先生だと尊敬しており、この方の言葉なら従ってみようか、などと思っていたイエスが、単なる先生ではなくまことの神として、自分の人生の主として自分の舟に乗り込んでおられる、その神であり主であるイエスと彼は新しく出会ったのです。それは喜ばしいと言うよりもむしろ恐れに満ちた出会いだったのです。
恐れるな
このように深く驚き恐れて主であるイエスの前にひれ伏したシモンに、主イエスは語りかけました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。生けるまことの神として、人生の主として目の前におられる主イエスが「恐れるな」と語りかけて下さったのです。「私はあなたを罪人として裁き、滅ぼすためにここにいるのではない。あなたに、あなたがまだ知らない驚くべき恵みを与え、あなたを、この大漁にも優る豊かな収穫を得る者とするために私はここにいる。あなたはあなた自身の力によってではなく、私の恵みの力によって生きる者となるのだ」。主イエス・キリストがそのように告げて下さったことによって、シモン・ペトロは主イエスの弟子となったのです。信仰をもって生きる者、主イエスの救いのみ業のために用いられる者となったのです。それはあのイザヤ書6章で、神の栄光を見て「災いだ。わたしは滅ぼされる」と叫んだイザヤが、神によって罪の赦しを与えられて預言者として立てられていったのと同じです。彼は舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。すべてを捨てることなどどうして出来たのだろう、と私たちは思いますが、彼が捨てたのは、自分の力で歩み、自分の工夫や努力によって少しでも沢山魚を取り、そのようにして自分で人生を築いて行こうとしている自分です。自分が人生の主となって生きようとしている自分です。彼はそのような古い自分を捨て、まことの神であり主であられるイエス・キリストの赦しと恵みの中で生かされ、用いられて生きる新しい自分を与えられたのです。
人生を変える出会い
人がキリストと出会い信仰を与えられることにおいては、常にこういうことが起るのです。私たちは、イエス・キリストのみ言葉を熱心に聞き、学んでいくことによって、主イエスへの尊敬が、愛が、信頼が深まっていって、そこに信仰が生まれると思っているかもしれません。あるいは、主イエスのお言葉に信頼して、よく分からなくてもとにかく歩み出すことが大事なのではないか、そこでこそ神様の恵みを体験することができ、信仰を得ることができるのではないか、と思ったりもします。それらのことは、信仰を与えられていくための備えとして意味がないわけではありません。しかしそういうことだけでは、主イエスは私たちにとっていつまでも「先生」でしかありません。シモン・ペトロは、まことの神としての圧倒的な恵みをもって自分に迫って来る「主」であられるイエス・キリストと出会い、そのみ前に驚きと恐れをもってひれ伏しました。そこに、「恐れるな」という主イエスのみ声が響き、彼は罪を赦され清められて、主の恵みのみ業の中で用いられる、深い喜びに生きる新しい人生を与えられたのです。主イエス・キリストは、私たち一人一人と、このように人生の主として出会って下さいます。その出会いは、シモン自身がそうだったように、主イエスのことを最初に知った時に起るとは限りません。主イエスを知り、好意を持ち、尊敬し、そのみ言葉を神の言葉として聞いていても、またみ言葉に従って歩み出していても、本当に主であり神であるイエスとの出会いは得られていない、ということはいくらでもあるのです。その出会いは主イエスによって与えられるものですから、私たちはそれがいつどこで起るのかを知ることはできないし、こうすればその出会いが起る、という何か方法があるわけでもありません。しかしシモンがそうだったように、「お言葉ですからやってみましょう」と言って沖へ漕ぎ出して網を降ろしてみる、ということの中でこそその出会いは起る、ということは言えます。私たちはそのようにして主イエスとの出会いを求めていくことができるのです。そのように求めていく私たちに主イエスは必ず出会って下さり、私たちの主となって下さり、「恐れるな」と語りかけて下さり、主によって生かされ用いられる喜ばしい人生を与えて下さいます。私自身のことを振り返って見ると、牧師の家庭に生まれ、中学生で信仰告白をし、大学を出てすぐに牧師になるための神学校に行きましたが、それらのことは、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」という思いによってであったように思います。そして私はむしろその後、牧師になってから、自分の力や努力や信仰をはるかに越える主の圧倒的な恵みを体験し、その前にひれ伏す者とされ、そして「恐れるな、私があなたを用いる」というみ言葉を与えられつつ今日まで歩んで来ました。生きておられる主イエス・キリストが、この礼拝に集っている皆さんお一人お一人と、そのように出会おうとしておられます。その出会いは私たちの人生を真実の喜びに生きる新しい歩みへと変えるのです。