週日聖餐礼拝

復活を信じる

「復活を信じる」 牧師 藤掛順一

・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第5章12-20節

復活を信じなければ信仰は無駄
 先程朗読したコリントの信徒への手紙一の第15章13、14節でパウロはこう言っています。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。そしてパウロは16、17節でも同じことを繰り返し語っています。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。もしこうだったなら、私たちの信仰も、教会がその信仰を宣べ伝えていることも、無駄なこと、虚しいことになる、とパウロは大変激しいことを言っているのです。信仰が無駄なこと、虚しいことになるということは、要するに信じても仕方がない、礼拝を守っても何の意味もないし、教会に連なって何かすることは時間の無駄だ、ということです。教会はさっさと解散した方がいいし、毎週日曜日の礼拝も、ましてやこの週日聖餐礼拝など即やめた方がいい、ということです。そのようになってしまう「もしこうだったなら」とは何か。それは、「死者の復活などない、従ってキリストも復活しなかった」ということです。復活を信じないなら、信仰など持っていても仕方がない、教会に通ったり礼拝をするのは無駄なことだからさっさとやめた方がいい、とパウロは言っているのです。
 皆さんどうでしょうか。復活を信じるということがそれほどに私たちの信仰の中心となっているでしょうか。復活を信じることは、それなしには私たちの信仰全体が無になってしまうような、信仰の不可欠な内容なのです。そのことをこの箇所から聞き取っていきたいと思います。

この世の生活しか視野にない
 パウロは19節でこう言っています。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。これが、「復活を信じなければ信仰は虚しい」ということの言い換えです。キリストを信じると言い乍ら復活を信じないのは、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけ」ということになるのです。この翻訳は確かに原文の語順通りの訳なのですが、これだと意味が分かりにくくなっています。つまり「だけ」という言葉がどこにかかっているのか不明確なのです。「キリストに望みをかけているだけで、つまり希望を持っているだけで、確信を持っていないなら」とも読めてしまいます。しかしここで言っているのはそういうことではありません。「だけ」は「この世の生活で」にかかっているのです。「この世の生活でだけキリストに望みをかけているなら」が分かりやすい訳です。多くの英語の訳はそうなっています。つまりパウロが語っているのは、この世を生きることの中でだけ、つまりこの地上の人生においてのみキリストに望みをかけ、キリストの救いや恵みを信じ求めているが、この世の生活が終わった後の、つまり死んだ後の希望は見つめていない、ということです。要するに地上の人生のことしか信仰の視野に入っていない、それが復活を信じないということです。復活は死者の復活です。死んだ後に与えられる恵みです。そういう希望はどうでもいい、この世の人生が平安であり支えられればそれでよい、という思いで生きているなら、復活など信じる必要はないわけです。

最も惨めな者
 パウロは、そのように生きている者は「すべての人の中で最も惨めな者」だと言っています。なぜならそのような生き方は、生きている間だけに意味があり、死んだら全てがおしまいだ、という前提に立っているからです。全てがおしまいになる死は必ず全て人にやって来ます。人間は、全てがおしまいになり、無に帰するその時に向かって生きている、その時に向けてのカウントダウンが人生だということです。だとしたらそこには本当の希望はありません。希望を持ち、それが叶ったように見えても、最後は死によって全てが失われるのです。それは、深い絶望に支配された惨めな人生です。だからそこには、死んだらあの世へ行って幸せになれる、という思いが生まれるのです。しかし「天国」だろうと「極楽」だろうと、死んだら幸せになれるという「あの世」の存在を誰が保障してくれるのでしょうか。それは、全がおしまいになり、無に帰する死を恐れる人間が「こうだったらいいな」という願望によって造り出しているものに過ぎません。死んだ後平安になれるあの世を本当に信じることができるとしたらそれは、肉体の死を超えた彼方でなお平安を与えてくれる存在を知っていなければなりません。つまり「死んだらそれでおしまい」ではない、生きている時も、死においても、そして死んだ後も、私たちを支配し、導き、守り、恵みを与える神を信じることなしには、私たちは、死によって全てが失われ無に帰する、という絶望から抜け出すことは出来ないのです。

死者を復活させて下さる神を信じる
 私たち信仰者は、神を信じています。神を信じているとは、私たちの歩みが死んだらそれでおしまいではない、死を超えてなお私たちをみ手の内に守り導いて下さる方を信じている、ということです。神を信じる者は、死んだらそれでおしまいとは考えないし、逆に、この世の人生のことしか考えず、死んだ後のことを見つめようとしない者は、神を信じることはできないし、信じていないのです。
 そして聖書は、私たちに命を与え、人生を導いて下さり、私たちが死ぬ時にも、また死んだ後もなお私たちをみ手の内に守り導いて下さる神が、死者の復活を約束して下さっていることを語っています。つまり聖書の神は、死んだら私たちを天国に迎えて幸せにしてくれる神ではなくて、死者の復活を与えて下さる神なのです。死者の復活を与えて下さるというのは、言い換えれば、死を滅ぼして私たちに新しい命、永遠の命を与えて下さるということです。死んだ者がずっと死んだままであるなら、それは死が勝利し、支配しているということです。天国で幸せになる、という思いは、その死の勝利、支配を人間がごまかして見ないようにするために造り出したものです。しかし生きておられるまことの神は、そんなごまかしで事を済まそうとはなさらないのです。死と対決し、死を打ち負かして、死の支配から私たちを解放し、新しい命を与えて下さるのです。つまり復活させて下さるのです。まことの神は死の力に勝利なさる方です。復活を信じるとは、神が死の力に勝利する方であることを信じることなのです。それを信じないならそれは、死の力の方が神よりも強い、私たちを最終的に支配するのは神ではなくて死であると認める、ということなのです。

私たち自身の復活を信じる
 既にお分かりのように、復活を信じるとは、私たち自身の復活を信じることです。私たちの地上の命、肉体をもって生きる人生は遅かれ早かれ必ず終わります。私たちは皆死ぬのです。死の力に支配されるのです。神に背いている罪人である私たちにとってそれは神の恵みから切り離されてしまうという苦しみであり悲しみであり恐怖です。死を恐れ悲しむことは正常なことなのです。しかし神は主イエス・キリストによって、その十字架の死によって、私たちの罪を赦して下さいました。神と私たちの関係を、主イエスが十字架の死によって回復して下さったのです。その罪の赦しという救いの恵みを与えて下さった神は、私たちの肉体を捉え支配する死の力を打ち破り、滅ぼして、私たちを復活させ、新しい命、神のもとで永遠に生きる命を与えて下さることを約束して下さっています。それが、この世の終りに与えられる私たちの救いの完成です。今のこの世が終り、新しい世、神の国が完成する時、死は滅ぼされ、私たちは復活して新しい体、もはや死ぬことのない体を与えられ、主イエスと共に永遠に神のもとで生きる者とされるのです。この、私たち自身の世の終わりの日の復活を信じることが、死者の復活を信じることであり、それこそが、全てを支配しておられる神を信じることなのです。

キリストの復活と私たちの復活
 神は、私たちが自分自身の復活を信じて生きることができるようになるために、独り子イエス・キリストを復活させて下さいました。ここでパウロは、死者が復活しないなら、キリストも復活しなかったはずだ、と言っています。死者の復活があるからこそ、キリストは復活したのだ、と言っているのです。キリストの復活の根拠は死者の、つまりいつか必ず死んでいく私たちの復活なのです。このような言い方によってパウロが語っているのは、キリストの復活は信じるが自分の復活は信じないということはあり得ないということです。キリストの復活と私たちの復活は分ち難く結び付いているのであって、片方だけを信じることはあり得ない、両方を信じるか、両方共否定するか、どちらかなのです。キリストの復活も自分たちの復活も信じない、それは即ち、死に勝利する神などいない、ということであって、死の力こそが最終的に勝利し支配するのだと思っているということです。それは要するに神など信じないということです。神を信じるとは、死の力に勝利する方を信じることであり、その神がキリストを復活させ、永遠の命に生きる方として下さったように、私たちをも復活させ、永遠の命を与えて下さることを信じることなのです。

初穂としてのキリストの復活
 神は既に主イエス・キリストを死者の中から復活させて下さいました。死の力に対する神の勝利はそこに既に示されています。それゆえに私たちは、私たちをもいつか必ず捕え、支配下に置く死の力に神が勝利して下さり、復活と永遠の命を与えて下さることを信じて待ち望むことができるのです。そのことを語っているのが20節です。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。眠りについた人たちとは、死んだ人たちのことです。私たちもいつか死んで眠りにつきます。眠りにつくということは、いつか目覚める時が来るということです。死んでしまえばそれで全てがおしまいなのではなくて、神が私たちを死の眠りから目覚めさせ、新しい命、永遠の命に生かして下さる時が来るのです。その復活の初穂、最初の実りが主イエス・キリストの復活です。主イエスの復活を信じるからこそ、私たちは自分自身の復活をも信じて待ち望むことができるのです。だから私たちは、この世の生活においてのみキリストに望みをかけているのではありません。この世の生活を超えた、死の彼方にまで至る、キリストによる救いの恵みに望みをかけているのです。
 これからあずかる聖餐は、その望みを確かにしてくれる恵みの食事です。主イエス・キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちの罪の赦しを成し遂げて下さった、その恵みにあずかると共に、主イエスが復活して天において永遠の命を生きておられる、その主イエスのもとに私たちが心を高くあげ、世の終わりに私たちも復活して主イエスと共に永遠の命を生きる者とされる、その希望をこの聖餐において確かにされつつ、私たちはこの地上の人生を確かな希望を抱いて生きていくのです。

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