主日礼拝

主の救いを見た人

「主の救いを見た人」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第52章7-12節
・ 新約聖書:ルカによる福音書第2章25-35節
・ 讃美歌:247、255、268

幼子主イエスの宮参り
 主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスの礼拝を迎えました。この礼拝でご一緒に読む新約聖書の箇所、ルカによる福音書第2章25節以下に語られているのは、生まれて四十日目の主イエスが、両親に抱かれてエルサレムの神殿に来た時のことです。両親は主イエスのために犠牲を献げて礼拝をするために神殿に来たのですが、これは、赤ちゃんが生まれるとお宮参りをして元気な成長を願うという日本の風習とは全く違う意味をもったことです。旧約聖書には、最初に生まれた子供は主なる神のものであると書かれており、その子を主にお献げすることのしるしとして犠牲を献げることが命じられているのです。27節に「両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た」とあるのはそのことです。彼らは律法に従って幼子イエスを神に献げ、主なる神のものとなった子として育てていこうとしているのです。

シメオンの賛歌
 その時、シメオンという人が、幼子主イエスを腕に抱いて神をたたえて歌ったとされる歌が29節以下です。このシメオンは、25、26節によれば、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」のです。彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいました。それは主なる神がメシア、つまり救い主を遣わして下さることを待ち望んでいたということです。その救い主に会うまでは死ぬことはない、と聖霊によって告げられていたのです。この人が、両親に抱かれて神殿に入って来た幼子主イエス見て、自分の腕に抱き取り、神をほめたたえて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と歌ったのです。つまり、主が約束して下さっていたメシア、救い主に、ついにお会いすることができた、イスラエルの慰められる時がついに来た、主の救いをこの目で見ることができた、だからもう自分は安心してこの世を去ることができる、慰めを得て、平安の内に死ぬことができる、と彼は歌ったのです。

クリスマスの出来事の意味
 このシメオンの賛歌に、主イエス・キリストの誕生の意味が示されています。主なる神が約束して下さっていたメシア、救い主が、ついにこの世に来た、主なる神による救いが、慰めが、この目で見ることができる仕方で現された、それが主イエスの誕生の意味です。シメオンはさらに「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と歌っています。メシア、救い主である主イエスは、神の民であるイスラエルの人々に慰めを与えて下さる救い主としてお生まれになりました。しかしその救いは、イスラエルの民のみに与えられるものではありません。神は主イエスによって、救いを万民のために整えて下さるのです。異邦人というのは、イスラエルの民以外の人々、イスラエルの人々からは、あいつらは神の民ではないと思われていた人々です。しかし主イエスは、その異邦人をも照らす啓示の光、つまり異邦人にもまことの神を示して下さり、救いをもたらして下さる方としてお生まれになったのです。その主イエスが神の民イスラエルの誉れであると言われているのは、この方を通して、神の救いが全世界の人々に及んでいくことによって、イスラエルこそ世界の人々の救いのために神がお選びになった民であることが明らかになるからです。そのように万民に救いをもたらし、世界中の人々を照らす光である救い主がお生まれになった、それがクリスマスの出来事の意味であり、私たちがクリスマスを喜び祝うのはそのためなのです。

倒したり立ち上がらせたり
 この賛美の歌に驚きとまどっている両親をシメオンは祝福しました。そして母マリアにこう言ったのです。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。これは、幼子主イエスがこれからどのように歩むことによって救い主としてのみ業を成し遂げていかれるのかを語っています。主イエスは、反対を受けるしるしとして定められているのです。つまり人々に受け入れられず、排斥され、十字架につけられて殺されていくのです。母マリアはそのことによって剣で心を刺し貫かれるような深い苦しみを味わうのです。そのように主イエスが殺されてしまうのは、人々の心にある思いがあらわにされるためです。私たちの心を支配している、神を受け入れず、自分が主人となろうとし、自分の利益や誉れ、権力や豊かさを追い求めて生きようとする罪の思いが、神のみ心に従って弱さと貧しさの中で、しかも他者のために生きられた主イエスを前にする時にあらわになるのです。罪に支配されている私たちは、主イエスを受け入れようとせず、むしろ目障りな者として抹殺しようとします。主イエスの十字架の死は私たちのそのような罪がもたらしたものであり、そこに人間の罪の思いがあらわになっているのです。しかしその十字架の死は、主イエスが私たちの救いのために、罪の赦しのために、自ら引き受けて下さったものでもありました。主イエスは私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスが私たち罪人の代りに死んで下さったことによって、私たちは罪を赦されたのです。主イエスの十字架によって神が与えて下さったこの救いを信じて受け入れるなら、私たちは罪を赦されて立ち上がり、神の子として新しく生き始めることができます。しかしそれを受け入れないなら、私たちは神を拒み、主イエスを十字架につけて抹殺する罪の中で躓き倒れていくのです。主イエスが私たちを倒したり立ち上がらせたりするためにと定められているというのはそういうことです。それを読むと私たちは、自分は立ち上がることができるのだろうか、倒されてしまうのではないか、と心配になりますが、神の基本的な御心は、全ての人々が主イエスの十字架による救いを信じて罪を赦されて立ち上がり、喜びと感謝をもって神の民の一員として生きていくことです。そのために神は独り子イエス・キリストをこの世に生まれさせて下さったのです。シメオンは幼子主イエスに、神のその救いの御心を見たので、このような賛美を歌ったのです。

死においても失われない喜び
 幼子主イエスの誕生に神の救いの恵みをはっきりと見たシメオンは、「今こそ私は安らかに去ることができる」と歌いました。それは先程も申しましたように、安心してこの世を去り、平安の内に死ぬことができる、ということです。そのように言うことができるのは、自分の人生に満足し、生きることの意味と深い喜びを感じている人です。しかもその満足や喜びは、死ぬことによって失われてしまわないものでなければなりません。今の生活に満足しており、充実した喜びがあるとしても、死んだらそれが全て失われ、おじゃんになると感じているなら、安らかに世を去ることはできません。そこでは死ぬことはむしろ残念無念なことになるのです。しかしシメオンが与えられた深い満足、生きる意味と喜びは、死においても失われないものです。彼は自分の死を、「主が去らせてくださる」と言っています。肉体の死は、主が自分をこの世から去らせる、本日の詩編交読の言葉には主が「取られる」とありましたが、いずれにしても主なる神のみ業なのです。それは一面においては、この世の生活から引き離され、持っているものを全て奪われ失うということであり、その面だけを見つめれば死は恐ろしいもの、無念なことに思われます。しかしシメオンは、主が自分をこの世から去らせる時にも、主の大いなる救いの恵みとその喜びは失われることなく、その恵みの中に自分があり続けることを確信しています。肉体の死によっても失われることのない救いの恵みを彼は幼子主イエスに見たのです。その救いは、彼が聖霊によって示され預言した主イエスの十字架の死を通して与えられます。私たちの罪を背負って死んで下さった主イエスを、父なる神は復活させて下さったのです。それは、主なる神の救いの恵みが、人間の罪と死に勝利したということです。シメオンが幼子主イエスに見たのは、人間の罪の思いを明らかにすると共にその赦しを与え、さらに死の力にも勝利して新しい命を与えて下さる主なる神の救いの恵みです。それゆえに彼は、死においても失われない深い満足、生きる意味と喜びの中で、安心してこの世を去り、平安の内に死ぬことができる、と言ったのです。神の子主イエス・キリストの誕生は、このような深い満足、生きる意味と喜びを私たちにもたらすのです。それを得るなら私たちは、自分の死をも平安の内に見つめ、迎えることができるのです。それは年齢とは関係のないことです。老人になって、自分の人生はそこそこに幸せだったからもう思い残すことはない、平安の内に死ぬことができる、という話ではないのです。シメオンはかなりの年寄りだったと想像されることが多いですが、聖書には彼の年齢は全く書かれていません。案外若い人だったかもしれないのです。主イエス・キリストによって神が私たちの罪を赦し、永遠の命を生きる者として立ち上がらせて下さるという救いの恵みを与えられるなら、私たちの誰もが、年齢に関係なく、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と歌うことができるのです。

神の選びの恵み
 「わたしはこの目であなたの救いを見た」、その信仰を言い表し、洗礼を受ける方々が本日四名起こされました。それぞれ年齢も性別も違い、これまで歩んで来られた人生も全く異なっている方々です。しかしどの方も、主イエス・キリストと出会い、その主イエスにおいて、神が私たちの罪を赦し、死に勝利する救いの恵みを与えて下さったことを、聖霊の導きの中で示され、そこに主が自分のために整えて下さった救いがあると信じ、この啓示の光に照らされて生きる者となりたいという願いを与えられたのです。また本日、一人の幼子が幼児洗礼を受けます。主イエスの両親が生まれて四十日目の主イエスを抱いて神殿で礼拝をした時と同じように、この幼子の両親も、主が与えて下さった幼子を主にお献げし、主なる神のものとなったわが子を、教会の子として育てていこうという願いを与えられたのです。幼子自身は信仰の自覚はないし、自ら告白をすることができませんが、主なる神が、教会員である両親の下に生まれさせて下さったことにおいて、既にこの幼子をご自分の民の一人として選び、導いて下さっている、その神の選びの恵みを信じて幼児洗礼は行なわれます。そしてこれは実は大人の洗礼においても同じです。大人の洗礼は本人の信仰の告白に基づいて授けられますけれども、その信仰告白は、神がその人を選び、導いてきて下さったことによってこそ与えられるものです。神は、私たちが信仰を自覚的に持つようになるずっと前から、私たち一人一人を選び、守り、導いて下さっていたのです。この神の選びの恵みを信じ受け入れること、つまり自分が意識する前から、神の恵みのみ業が自分に与えられていたことに気づいて驚き、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と感謝することの中で、洗礼は授けられるのです。

わたしはこの目であなたの救いを見た
 洗礼を受ける方々、また幼児洗礼を受ける幼子の両親はこのように、「わたしはこの目であなたの救いを見た」という体験を今与えられています。そして今日この礼拝に集っている私たち全ての者も、同じ体験を聖霊によって与えられているのです。主イエス・キリストが全ての人々を照らす啓示の光としてこの世に来て下さり、万民のための救いを整えて下さった、そのことを喜び祝うクリスマスの礼拝を今私たちは守っています。クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、私たちに罪の赦しを与えて下さいました。父なる神は死の力に勝利して主イエスを復活させて下さり、その恵みによって私たちを新しく生かし、肉体の死を超えて与えられる復活と永遠の命の約束を与えて下さいました。私たちはこの礼拝においてその救いの恵みを告げるみ言葉を聞いており、そして新たな方々が洗礼を受けてその救いにあずかり、キリストの体である教会に加えられようとしている、その場に立ち合っています。また私たちはこの後、聖餐にあずかり、主イエス・キリストが十字架にかかって、肉を裂き、血を流して私たちの贖いをなしとげて下さったその恵みを口で食し、味わおうとしています。ここにいる全ての者が今、この礼拝において、主の救いのみ業を見ているのです。あの日エルサレムの神殿で幼子主イエスを見た人々は多かったでしょうが、シメオンだけが聖霊の導きによって幼子主イエスに神の救いの業を見るころができました。私たちもこのクリスマスに、聖霊の導きによって主イエスとの出会いを与えられるなら、シメオンと共に、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と言うことができます。その時私たちは、主による救いの喜びと慰めと支えとを確かに与えられて自分の人生を生き始めることができます。そしてこの喜びと慰めと支えを知らされた者は、主がこの世を去らせて下さる肉体の死を、そこにおいてもなお主の恵みが失われることはないという信頼の内に見つめ、安らかにそれを迎えることができるのです。

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