夕礼拝

なんでわたしだけ

「なんでわたしだけ」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:申命記第8章1-10節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書第20章24-29節
・ 讃美歌:218,459

 今夕はヨハネによる福音書20章の24節以下を共に聞きました。この24節の前の部分に、十字架につけられて死んだイエス様が復活され、弟子たちのところに姿を現された、という事が書いてあります。その時にトマスという弟子がちょうど留守をしておりまして、復活されたイエス様にお会いすることができなかった。ですから、彼が帰ってきた時に、ほかの弟子たちが「わたしたちは主にお目にかかった」と、そう言ってとても、喜んでトマスに話しました。それに対してトマスがこのように答えています。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」この発言のゆえに、わたしたちはトマスという人を、大変疑い深い、不信仰な人、あるいは、頑固な人、そういうふうに思いがちです。しかし、実はそれは違いまして、彼は普通の人です。ほかの弟子たちにしても、もし復活されたイエス様にお会いしてなかったら、とてもキリストの復活を信じることはできなかったではないかと思います。復活されたイエス様にお会いするという、驚くべき出来事に出会って、神様の御業を目の当たりにしたので、彼らは信じて疑わなかったのです。ですから、その時にいなかったトマスが「それは信じられない」というのは、これはまあたいていの人ならだれでもそう言ったっておかしくはないことです。

 このトマスの言葉を見ますと、何かその弟子たちが言った言葉をばかにしている、というふうに、受け止めてしまいそうになりますが、実はそうではありません。トマスはイエス様を大変愛しておりました。前にイエス様がガリラヤからユダへ行こうと言われた時に、弟子たちは「命が危ないから、それは止めたほうがいいでしょう」と言ったことがあります。その時にトマスは「もし、イエス様と一緒に死ぬなら、死んでもいいじゃないか」そう言ってついていこうとしました。そのようにトマスという人は、イエス様を大変愛していました。ところが、そのイエス様が甦って弟子たちに御姿を現された、そしてその大事な場面に自分だけ居合わせなかった。これはトマスにとって大変残念なことでありました。「どうして自分だけが、なんで自分だけが、その恵みに与ることができないのか」このもどかしさ、情けなさ、そういうものがこの大変きつい25節の言葉になって表れています。決してこれは弟子たちの言葉を馬鹿にした言葉ではありません。なぜ自分だけがこの恵みに与ることができなかっただろうか、そういう非常に辛い思いを表している言葉です。実は、わたしが今日ここを選びましたのは、信仰生活において、このトマスと同じような思いをすることが、わたしたちにしばしばあるからです。

 自分ではない他の信仰者を見ていると、本当に恵まれた信仰生活をしているのに、自分は今、いろんなことがあって、なかなか神様の恵みを本当に実感するということができない。どうして自分だけこんなに悩まなきゃいけないだろうか、どうして自分だけこんなに不信仰なのだろうか。そういういらだち、不安、そういうものに悩まされることが信仰生活においては多々あります。そういうわたしたちの代表と言いますか、身代わりと言いますか、それがこのトマスの姿であります。ですから、このトマスがどのようにして、この問題を受け止め、それを解決したかということを見ることによって、わたしたちは自分の信仰生活にはっきりとした望みを与えられるでしょう。言わば、トマスは鏡に映ったわたしたちの姿です。そういうふうにして、トマスは自分の信じることができないいらだちを、激しい言葉で表したのですが、イエス様は、このトマスの悲しみを決して見過ごしにしておられなかった。見落としておられなかった。トマスが悩んでいる、信じることができないで悩んでいるということをちゃんと目を留めておられる。そして彼のために、彼が信仰をもつことができるようになるために、備えをしてくださったのであります。

 26節「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」これは信仰者全体に対するイエス様の祝福であります。しかし、イエス様がこのたびここに来られたのは、全体のためというよりも、ただ一人のトマスを目指して来ておられるのです。27節「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」 わたしはここを読むたびに、胸の迫る思いがします。信じることができないで、悩んでいるトマスをイエス様はちゃんと心に留めておられる。そして「手を伸ばして、イエス様の傷にさわったら、わたしは信じます」と言ったトマスに「では、さわってみなさい」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」実に深いイエス様の恵みの言葉です。

 わたしはここを読みながら、イエス様がルカによる福音書15章で言われた、羊飼いのたとえ話を思い起こしました。百匹の羊を持っている羊飼いの、その一匹が迷い出た。どうするか、経済的なことから言えば、百匹のうちの一匹なら、身の危険を犯してまで、捜しにいくことはない。しかし、羊飼いにとって一匹は経済の問題ではない。掛け替えのない一匹です。羊飼いは「九九匹を野において、その一匹を捜しに行かないであろうか」とイエス様は言われました。そして見つけるまでは捜す。で見つかったならば、これを肩にかけて帰ってきて、近所の人を呼び集めて「喜んでください。わたしの迷っておった羊が見つかりました」そう言って喜ぶ。その後にイエス様は言われました。「悔い改めの必要のない九九人にまさって、一人の罪人が悔い改める時には、天に喜びがある」と。まさにこのトマスにおいて、イエス様のこのたとえ話は実証されております。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」迷っておりましたトマスに、イエス様は手を伸べて、彼が信仰に立ち帰るように、ちゃんと導きをしてくださったのであります。

 しかし、そこでわたしたちは一つの疑問にぶつかります。「もしイエス様が初めからそうしようと思われたならば、何もトマスがいないときに、姿を現さなくても、トマスのいる時に姿を現されたらよかったじゃないか。そういうことがイエス様にできないはずはない」と思います。何でわざわざトマスだけがいない時になさったか、そしてトマスにこんな悩みを経験させなさったか。この問題が一つわたしたちの前に出てまいります。イエス様のこの「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたこの言葉によって「トマスはイエス様に答えて言いました。「『わたしの主、わたしの神よ』」つまり「分かりました。信じます」と言ったということです。

 このような面倒くさい道を通らなくても、ほかの弟子たちと同じように初めから復活のイエス様にお会いできた、そういう道もあったのではないかと思ってしまいます。なぜトマスだけが、こういう道を通らされたのでしょうか。それはその次の29節のイエス様の御言葉の中に表れております。「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」神様の驚くべき御業に接する、その事によって信仰が与えられるということは、確かに大きな恵みであります。わたしたちはそういう神様の恵みに出会ったことをいつも思い返して、そこからまた新しい出発をします。しかし、実は、恵みの御業を見て信じるということは、これは信仰の門口に来ていることでありまして、確かに目の前に神の国の門がある。しかし、見て信じたということは、まだその門から中へ入っていないということであります。見ないで信じるということがあって、初めてわたしたちは、その門から一歩中へ入る。そういうことができるのです。

 ヘブライ人への手紙の11章に、こういう言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」恵みの事実を見て信じる。心を動かされて、感動して信じたということは、確かに信仰の入口へ導かれたことでありますけれども、そこで留まってしまったならば、信仰の本当の恵みに与ることはできない。トマスにその大きな恵み、信仰とは何かということを本当に知らせるために、イエス様はわざわざこういう回り道をなさった。自分だけが信じることができないで悩んでいる、自分だけが喜びにあずかれていない、そういう耐えがたい悩みを通して、初めてこの「見ないで信じる」という信仰への道が、開かれてくる。イエス様はこの「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者はさいわいである」こういう言葉をトマスに語るためにこれだけの用意をなさったのです。

 そしてそれはただ一人トマスのためだけではありません。そこにいたほかの弟子たちにトマスを通して「信仰とはこういうものだ」「見ないで信じる」「信仰とは、望むところを確信し、見ないものを真実とする」そういう真理を知らせようとしておられる。そのためにトマスが選ばれたのです。わたしたちは神様の恵みというと、自分の期待どおりに神様がしてくださった時に「ああ、神様の御恵みがあった」ということを思います。よく世間で神社におまいりにいった時に、何をお祈りするかというと「家内安全、商売繁盛、無病息災」そういうことを祈ります。これはみなわたしたちがこうあってほしいと願う、その願いです。それはそのとおりなれば「ああ、神様はわたしを恵んでくださった」と感謝をする。これが人間の宗教です。

 しかし、神様の救いは違います。人間の注文どおりに事が運ぶというのが、「救い」なのではなくて、神様の御計画に従って、わたしたちを導いてくださる。ですから、ともすると、自分がうまくいかなくなると、わたしたちは、もうまるで神様がわたしの敵になったのではないかというように思う。神様はわたしを怒っておられるのではないだろうか。罰を与えておられるのではないだろうか。そう思う時があります。しかし、実は、そのことを通して神様は本当の恵みを与えようとしておられるのです。このことは申命記の8章に書かれております。今日共に聞いたところです。申命記の8章の2節のところをもう一度読んでみます。294頁ですが、開けなくてもいいですので聞いていてください。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」これはイスラエルの人々がエジプトを出て、40年の荒野の旅をした時のことを言っています。荒野の旅が終わっていよいよ、モーセが人々から引き離される、その時に残されていますイスラエルの人々に、モーセが残した言わば遺言です。

 イスラエルの人たちは400年エジプトで奴隷の生活をしておりました。だれもこの生活から救われることができるとは思いませんでした。しかし、神様はモーセを通してこのだれも思いかけなかった恵みの業を現され、あの強大な力を持っていた時代のエジプトからイスラエルの人々を救い出した。これはまことに驚くべき神様の御業です。これを見て、人々は神の存在を信じることができた。しかし、神様はこのエジプトから真っ直ぐに約束の地カナンへと、人々を移されたのではありませんでした。彼らはすぐに楽しいカナンでの生活が始まると予想していたでありましょう。そのとおりなれば、これは人間の期待どおりであります。しかし、実際はそうではありませんで、それから40年、当時の人の一生が終わるほどの長い間、荒野の中で、食べ物がなく、水がなく、苦しい生活を続けました。そのことを今振り返って、モーセはこう言っています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。」なぜ神様は、あんな回りくどい、そしてひどい目に人々を会わせるようなことをなさったか。それは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」何が一番大事かということを知らせるために、神様はわざわざ愛するイスラエルの人々を苦しめた。

 わたしたちはそれぞれ、いろいろ悩みの中にあります。信仰生活とはこんなはずでなかった。そんな思いをしておられる方もあるかもしれない。その中で本当にわたしたちが求めるべきものは神様の御言葉です。その悩みの中でこそ、神様はわたしたちに言葉を掛けてくださる。わたしたちはもう死んだら一切がおしまいだ。希望も何もない。そう思っています。しかし、神様はイエス様を復活させられた。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」イエス様は十字架の上で叫びました。あれはもう絶望の叫びです。しかし、その人間にとって、もうこれから先はない。もう絶望だ。そういう人間の常識を打ち破ることを神様はなさる。それが復活であります。クリスチャンとは復活を信じている人たちであります。死は決して最後ではない。キリストの復活と共にわたしたちもまた甦らせられる。そういう希望をもって生きている者です。現在がどんなに暗くてつらくても、決して神様はわたしたちを見捨ててはおられない。今その悩みを通して初めて聞くことのできる神様の御言葉を聞かせようとして、その悩みを用意をしておられるのであります。そしてもしわたしたちがその悩みの中で御言葉を聞いて信じるならば、驚くべき神の恵みを見ることができるのです。

 わたしたちはそのことをヨハネによる福音書の11章、あのラザロの復活のところのイエス様の御言葉を、知らされています。ラザロが死んだ。墓に入れられて4日経った。そのラザロの墓にまいりまして、イエス様は姉のマルタに「墓の石を取りのけなさい」と言われました。その事のある前にイエス様はマルタに言われました。「あなたの兄弟は復活する」そう言われた時に、マルタが「終わりの日の甦りの時甦ることは、存じています」と言いました。そしたらイエス様が「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」「はい、信じます」とマルタはそう言っていました。ところがこのラザロの墓の前に来て「その石を取りのけなさい」と言われた時に、マルタは何と言ったかのというと、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。これは、「今さら墓の蓋を開けて何になるでしょう。弟は既に死んでしまったんですよ。」ということです。これは人間の常識から発せられた言葉です。そのマルタにイエス様は言われました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」わたしたちはこのイエス様の言葉を忘れています。

 ずうっと長い間「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」と、いう御言葉を聞いてわたしたちは今日まで生きてきました。しかし、現実の苦しみ、悩みに出会う時に「もう駄目だ」「もう駄目だ」と、そう言います。今さらと思います。そのわたしたちにイエス様は言われます。「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言っておいたではないか」見て信じるというのは、信仰の門の外に立っている。しかし、見ないで信じることができた人は、今度は門の内で本当に神様の栄光を知ることができる。わたしたちはその「見ないで信じる信仰」を養うために、今この信仰生活を続けています。長い方もいる。短い方もいる。しかし、目指すところは一つ「見ないで信じる信仰」がわたしたちの中で育っていくように、神様は毎日、道端で見向きもされないで踏みつけられている小さな植物のような、小さな花のようなわたしたちに、水を注ぎ、虫を取り、手入れをして育てていてくださいます。わたしたちの内に育っていく信仰を、神様はどんなに喜んでくださっているか。花が咲く時が来るために神様は共にいて養ってくださっています。どうか、今イエス様がこのトマスに対してなさった深い御配慮と導きとを、わたしたちは思い出したい。そしてこれは昔のトマスの話ではなくて、わたしたち一人一人に対するイエス様の深い御配慮を今わたしたちに届けられている。今トマスを通してイエス様が、わたしたちに語りかけておられる、それを、しっかりと受け止めたいと思います。

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