「再臨の主を待つ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編第98編1-9節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一第4章13-18節
・ 讃美歌: 239、240、572
主の再臨を待つアドベント
本日はアドベントの第三の主日です。先週も申しましたが、アドベントとは「到来」という意味です。主イエス・キリストの到来を覚えつつ、私たちはクリスマスに向けての四週間を過しています。主イエス・キリストはおよそ二千年前、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになって、この世に来られました。そのことを喜び祝う時であるクリスマスを私たちは来週迎えようとしているのです。クリスマスの出来事における主イエスの到来は第一の到来です。私たちがこのアドベントの時に覚える主イエスの到来は、その第一の到来だけではありません。主イエスはこの世界に、将来もう一度来られるのです。第二の到来があるのです。アドベントは、主イエスの第一の到来であるクリスマスに備えつつ、第二の到来、主イエスの再臨を覚えてそれに備えていく時でもあります。到来する主イエスをお迎えする準備をする、それはクリスマスに備えるだけではなく、主イエスが将来もう一度来られることを覚えて、その準備をすることでもあります。主イエスの到来に備える、という意味では、むしろこちらの方が重要です。到来という意味を持つアドベントという言葉は、私たちの思いを過去に向けるよりもむしろ将来へと、これからのことへと向けさせるのです。私たちの信仰は、クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストが、十字架の死と復活と昇天を経て今は天に、父なる神のもとにおられ、そして将来そこからもう一度来て下さり、その時生きている者とそれ以前に死んだ者とを、つまり全ての者をお審きになる、その再臨と最後の審判を信じ、「主の再び来りたまふを待ち望む」信仰です。私たちはこのアドベントの時、主の再臨を待ち望む信仰を確認し、養われていくのです。
世の終わりに起ること
そのために本日は、主の再臨を語っている聖書の箇所を選びました。テサロニケの信徒への手紙一の第4章13節以下です。特にその15節以下に、主イエス・キリストがもう一度来られること、再臨のことが語られています。16節にこうあります。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます」。「合図の号令」とか「大天使の声」とか「神のラッパ」とあるのは全て、この世の終わりを告げるものです。それらが鳴り響くと、主イエス・キリスト御自身が天から降って来られるのです。主イエスが天からもう一度来られる再臨によってこの世が終わることがここに語られているのです。
その再臨の時に何が起るのかを語っているのが16節の後半からです。「すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生きている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」とあります。主イエス・キリストの再臨において、「キリストに結ばれて死んだ人たち」つまりキリストを信じ、洗礼を受けてキリストの体である教会に連なって歩み、そして死んだ人たちが復活するのです。15節に「眠りについた人たち」と言われているのはこの人々のことです。14節にも「イエスを信じて眠りについた人たち」という言葉があります「眠りについた」とは「死んだ」ということです。既に死んでしまった人々が、キリストの再臨において復活する、と語られているのです。そして15節には、この「眠りについた人たち」と並んで「主が来られる日まで生き残るわたしたち」とあります。17節にも「わたしたち生き残っている者」とあります。それは、キリストの再臨の日まで生き残っている者ということで、この手紙を書いたパウロは、自分はその再臨の日まで生きている、つまり自分が生きている間にキリストはもう一度来られ、この世の終わりが来ると思っていたのです。このテサロニケの信徒への手紙一は、パウロの手紙の中でも最も古いもの、つまり最初に書かれたものです。最初の頃、パウロは、もうすぐにでもキリストの再臨が起ると信じていたのです。このパウロの期待はその通りにはなりませんでした。それからそろそろ二千年が経とうとしているわけですが、まだキリストの再臨は起っていません。パウロ自身も後には、例えばコリントの信徒への手紙一の第15章で復活について語っている所では、再臨の日まで自分は生き残る、ということは言わなくなりました。その日には死んだ者たちが復活する、ということだけを語るようになったのです。それはパウロの信仰が根本的に変ったということではありません。本日の箇所においても15節に、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」とあります。つまり、再臨の日まで生きていようと、それ以前に死んでしまおうと、本質的な違いはないと言っているのです。ですから再臨がいつ起るかは根本的な問題ではないのです。主イエス・キリストの再臨が何時なのかは、パウロも、私たちも、知る事を許されていません。それは父である神のみがご存知なのであって、私たちはそれが何時かを詮索するのでなく、キリストの再臨を信じて、待ち望むことが大切なのです。パウロ自身も、自分は再臨の日まで生き残ると語ったことは傲慢であったことに気づかされていったのでしょう。教会の歴史の中にはこれまでにも時折、キリストはいつ再臨する、ということを語る人が現れました。しかしそれが当ったためしはありません。そういう人はこれからも現れるでしょうが、そういうことを言う人を信用してはならないのです。大事なことは、キリストの再臨が何時かを知ることではなくて、将来におけるキリストの第二の到来を信じることと、その時何が起るのかを正しく知ることなのです。
最後の審判
キリストの再臨の時には死者が復活します。そして、17節にあるように、その日まで生き残っている者たちが「空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ」るのです。復活した死者たちと、その日まで生きている者たちとが一緒に、天から降って来られる主と出会うために引き上げられるのです。「主と出会うために」ということがポイントです。キリストの再臨において、私たち全ての者が、それ以前に死んだ者もその時まで生きている者も、キリストと出会うのです。つまりキリストがもう一度来られたけれども自分は関係ない、ということはあり得ないのです。全ての者が再臨のキリストの前に立たなければならないのです。そこで行われるのがいわゆる「最後の審判」です。もう一度来られるキリストと出会い、その前に立つことによって、人間は審かれ、救われる者と滅びる者とに分けられるのです。キリストの再臨を信じるとは、この最後の審判をも信じることです。それは恐ろしいことでもあることは確かです。この世の終わりに、神であるキリストによる審きが行われる、その審きを恐れることは、私たちが神を神として信じて生きる上で不可欠なことです。神による審きを恐れる思いを失ってしまうなら、私たちは神を甘く見ることになります。どうせ神は救ってくれるんだ、人を救うことが神の義務なんだ、と高をくくることになります。それは神を人間に仕える者としてしまうことです。神を神として信じるとは、神が人間を審くことができる方であると信じ、その神への恐れを失わずに生きることなのです。
永遠の命 救いの完成
しかし、本日の箇所においてパウロが見つめているのは、「キリストに結ばれて死んだ人たち」、つまりキリストを信じてその救いにあずかり、キリストの体である教会に連なって生き、そして死んだ人たちのことです。「私たち生き残っている者」も、キリストを信じて教会に連なっている者たちです。その私たちは、再臨において主キリストと出会い、17節の終わりにあるように「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」となるのです。いつまでも主イエス・キリストと共にいることになる、それはキリストと共に生きる永遠の命を与えられるということであり、私たちの救いの完成です。キリストの再臨と最後の審判において、キリストを信じて生きそして死んだ者たちは、復活と永遠の命を与えられ、先に復活して永遠の命を生きておられるキリストと共にいつまでも生きる者とされるという救いの完成にあずかるのです。主イエス・キリストを信じて生きている信仰者にとっては、世の終わりのキリストの再臨と、そこで起る最後の審判は、救いの完成の時なのです。だから私たちは、「主の再び来りたまふを待ち望む」のです。キリストの再臨、第二の到来を、びくびく恐れるのではなくて喜びをもって待ち望むのです。そしてキリストの第二の到来を待ち望むことは、第一の到来を喜び祝うことと結び合っています。神の独り子であられる主イエスが、徹底的にへりくだって人間となってこの世に生まれて下さった、それが第一の到来、クリスマスの出来事です。そのように人間となって下さった主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、神に背き逆らっている私たちの罪の赦しを実現し、私たちが神の子として生きることができるようにして下さったのです。主イエスの第一の到来、クリスマスを喜び祝うことは、キリストの十字架の死によって与えられたこの救いを感謝することです。そしてこのキリストの十字架による罪の赦しのゆえに、私たちはキリストの第二の到来、再臨を喜びをもって待ち望むことができるのです。もう一度来て全ての者をお審きになる方は、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった方なのですから、その主イエスを信じる者は、キリストの第二の到来における最後の審判を、救いの完成の時として待ち望むことができるのです。このように、キリストの第一の到来による救いの恵みに支えられて、第二の到来における救いの完成を待ち望む、これが、アドベントに私たちが確認すべき信仰なのです。
荒唐無稽な話?
さて、これまで述べてきたことが、パウロがここでキリストの再臨について語っていることなのですが、現代を生きている私たちはこれらのことを、荒唐無稽な話のように感じてしまうのではないでしょうか。キリストの再臨によるこの世の終わりとか、死者の復活とか、最後の審判とか、永遠の命とか、今日の社会を普通の感覚で生きている者にとってはおよそ現実味のない、お伽噺の世界のようなことがここには満ちています。聖書に書かれていることは全て無条件に信じる、という強い信念を持っている人ならともかく、そうでなければこれらのことをすんなり受け止めることは難しいだろうと思うのです。そこで、そのような疑問を少しでも抱いている人のことを考えながら、これから先は語っていきたいと思います。「聖書に書かれていることは全て無条件に信じる」という人にとっては必要のない話かもしれませんが、聞いていただければと思います。
死んだ者たちについての希望
パウロがこれらのことを語ったのは、ある理由というか思いによってでした。その思いが最初の13節に語られています。彼はこう言っています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」。「既に眠りについた人たち」とは、先程も述べたように既に死んでしまった人たちのことです。死んだ人たちはどうなるのか、ということを思いつつパウロはここを語っているのです。そして彼は「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために」と言っています。死んでしまった人々について、ほかの人々が持っていない希望を私たちは持っているのだ、ということです。私たちとはキリストを信じている者たちのことであり、「ほかの人たち」とは信じていない人たちです。私たちキリスト信者は、教会に連なっている者は、死んだ人たちについて明確な希望を与えられているのです。その希望の根拠となる私たちの信仰をパウロは14節で、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」と言い表しています。イエス・キリストは死んで復活した、それは父なる神のみ業であり、神はイエスを信じて死んだ人たちをも、同じように導き出して下さる、つまり死者の中から復活させて下さる、そのことを私たちは信じており、そこに私たちの希望の根拠がある、ということです。つまり、死んだ人たちはどうなるのか、という問題について、キリストを信じる者たちには、復活の希望が与えられているのです。そしてその復活は、いつか自然に復活する、という話ではなくて、主イエスを復活させた父なる神が与えて下さるものです。父なる神が、死の力に捕えられている者たちを解放して、新しい命、永遠の命を与えて下さる時が来るのです。主イエス・キリストによる救いを信じるとは、このことを信じることです。つまり、父なる神の救いの恵みが、最終的に死の力に勝利することを信じるのです。その希望を持っているかいないかが、私たちキリストを信じる者と、ほかの人たちとの違いなのです。
最終的勝利者は死なのか
これは確かに荒唐無稽な教えかもしれません。しかしここで問われていることは、私たちの人生を最終的に支配するものは何か、ということです。私たちの歩みにおいて最終的に勝利するのは誰か、と言い換えてもいいでしょう。私たちの人生を最終的に支配し、勝利するのは死の力であり、死の力には結局誰も打ち勝つことはできないのか、それとも、その死の力に勝利し、それを打ち破って、もはや死に支配されない新しい命を与えて下さる神がおられ、神の恵みと愛の力が私たちを最終的に支配する時が来るのか、そのどちらが本当なのか、ということです。死が最後の勝利者であるなら、私たちが抱く一切の希望は死によって潰えます。希望や喜びと思えるものを持っていたとしても、それは生きている間だけの、期間限定のものでしかないのです。人生は、死が私たちに与えてくれている束の間の執行猶予期間でしかないのであって、私たちは何十年かの人生を、刹那的な喜びや満足を追い求めて生きているのです。人生に本当の希望などないのです。
死を越える希望
しかし主イエス・キリストを見つめる時、とりわけ主イエスが死んで復活されたことを見つめる時に、全く違う人生が私たちに開けてきます。主イエス・キリストの復活は、神が死の力に勝利して、新しい命を与えて下さったという出来事です。神の恵みの力は死よりも強いことが、キリストの復活において示されたのです。このキリストを信じる時、私たちの人生も、その神の恵みの下に置かれていることが見えてきます。死の力に勝利して下さった神が、私たちを復活させて下さり、新しい命を与えて下さるという希望が見えてくるのです。その希望を見つめて生きることは、要するに、「死んでしまえば全てはおしまい」ではないということです。私たちはよく、「生きてさえいれば必ず良いことがある」とか「死んで花実が咲くものか」と言ったりします。「死んだらおしまいだ」と思い、生きていることに執着するのです。それは、死が絶望であることの裏返しです。だから死ぬことは出来るだけ見ないように、考えないようにして、生きることだけを考えようとするのです。しかしそうかと思えば、何か不正をしていたのが発覚したり、世間から非難されたりした人がいとも簡単に自殺してしまう、ということがよく起ります。死ねばこの苦しみから逃れられる、死ぬことによって償いができる、という思いがそこにはあるのです。そこにおいては、「死んだら全てがおしまいだ」という思いが、「死んでしまえばこの苦しみをおしまいにできる」というふうに働いています。死が、現実の苦しみから逃げる場になっているのです。死を見ないようにすることも、死に逃げ場を求めることも、どちらも、死を正面から見つめていないところに起ることです。死を正面から見つめることを避けている人ほど、背負うべき苦しみを背負って本当に責任ある生き方をすることが出来ずにすぐに死に逃げ込もうとするのです。しかし死を正面から見つめて生きることは、死を越える希望を見つめることなしには出来ません。希望なしに見つめる死は絶望でしかないからです。しかし私たちは死を越える希望を自分の中にあるものによって、自分の力で生み出すことはできません。自分の力や持っているものの全てが奪い去られるのが死なのですから、それを越える希望は私たちの中にはないのです。その希望は私たちの外にあります。死の力に勝利して私たちに新しい命を与えて下さることができる方である神のみがその希望を与えて下さるのです。主イエス・キリストの復活は、神が死の力に勝利して新しい命を与えることのできる方であられることを私たちに証ししています。それゆえに、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」ということが大切なのです。主イエス・キリストを救い主と信じることは、主イエスの十字架の死と復活を抜きにしてはあり得ないのです。主イエスが死んで復活したことを信じるならば、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」ということを信じることができるのです。つまり神が私たちをも復活させ、「いつまでも主と共にいる」者として下さることを信じて、死を越える希望をもって生きることができるのです。
アドベントの信仰
主イエス・キリストの再臨と、そこにおける死者の復活、最後の審判という聖書の教えは、キリストの復活において示され証しされ、将来への約束として与えられている復活と永遠の命という救いが具体的に実現する日が、いつか必ず来るのだということを語っているのです。この世の目に見える現実においては、死の力こそが最終的な勝利者であるように見えます。死んでしまった人を生き返らせることは私たちには出来ません。それは医学がもっと進歩すればいつか出来るようになる、という事柄ではないでしょう。人間は死の力に勝利することは決して出来ないのです。私たちの誰もが遅かれ早かれ死の力に支配され、肉体において滅んでいくのです。しかし、全ての者をそのように必ず捕えていく目に見える力である死が、最後の勝利者、私たちの最終的な支配者なのかというと、そうではありません。主なる神様こそが、この世界を造り、支配し、今も導いておられ、そしてこの世界を終わらせる方なのです。この神が私たちに命を与え、人生を導いて下さり、そしてある時に、お前の命はここまで、とそれを取り去られるのです。しかしその神は、死の力に勝利し、それを滅ぼすことがお出来になる方です。そのことを神は既に、独り子主イエス・キリストにおいてして下さいました。主イエスを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる者として下さったのです。それと同じことを神は、この世の終わりに、私たちに対してもして下さいます。死の力を滅ぼして私たちをその支配から解放し、復活の命、主イエスと共に生きる永遠の命を与えて下さるのです。その復活と永遠の命という救いの完成を私たちに与えるために、神は主イエス・キリストをもう一度この世に遣わして下さるのです。キリストの再臨を信じて待ち望むところに、死を越える希望が与えられます。この希望に生きることによって私たちは、肉体の死を絶望と感じてそこから目を逸らすことなく、それを正面からしっかり見つめつつ、同時にこの世を生きる苦しみの中で死に逃げ込もうとするのでもなく、自分に与えられている人生の重荷、課題をしっかり背負って生きていくことができるのです。そのどちらのことも、主イエスの第二の到来を待ち望む信仰によってこそ与えられていきます。私たちがアドベントおいて養われていくのはこの信仰なのです。