「神の子のへりくだり」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書第42章1-4節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙第2章6-11節
・ 讃美歌: 231、183、513
アドベントを覚えて
本日はアドベントの第二の主日、日曜日です。アドベントの期間には四回の日曜日があります。第四の日曜日から始まる週の間に、12月25日のクリスマスの日が来るのです。私たちは、アドベント第四週の日曜日にクリスマス礼拝を守っています。その前の第二、第三の日曜日、つまり本日と来週には、アドベントを覚えてみ言葉に聞きたいと思います。アドベントとは「到来」を意味する言葉です。それは勿論主イエス・キリストの到来です。主イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋でお生まれになって、この世に来られました。その到来を喜び祝う時がクリスマスです。アドベントの四週間は、到来する主イエスをお迎えする準備をすることによって、クリスマスに備えていく時なのです。
パウロが引用した賛美歌
主イエス・キリストがこの世にお生まれになったクリスマスの出来事はマタイによる福音書とルカによる福音書に語られていますが、その出来事を別の仕方で語っているのが、本日の新約聖書の箇所、フィリピの信徒への手紙第2章6節以下です。ここには、主イエスがこの世に来られたことの根本的な意味が語られています。このフィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが書いたものです。しかしこの6~11節は、以前から教会の中で語られ、あるいは歌われていた讃美歌の言葉をパウロが引用した部分であると言われます。ですから6節の前で行を替えて、6~11節は少し字を下げて、通常の手紙の文章との違いを表している聖書もあります。ここに語られていることは、パウロが考えたと言うよりも、最初の頃から教会において信じられ、語り継がれてきたことなのです。
神が僕となられた
先ず6節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」とあります。この6節は以前の口語訳聖書ではこうなっていました。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」。今は「神の身分」となっている所が以前は「神のかたち」でした。原文の言葉は単純に訳せば「かたち」です。しかしそれだと、神の姿形の話かと思われかねないので、新共同訳は「身分」と訳したわけです。しかし身分というのは人間が作り出した制度の問題であって、神であることは身分の問題ではないわけで、良い訳とは言えないでしょう。なかなか相応しい訳語が見つからないわけですが、この言葉は7節にも出てきていて、両者が対になっています。7節には「かえって自分を無にして、僕の身分になり」とあります。口語訳聖書ではここも、「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり」となっていました。神のかたちであるキリストが僕のかたちをとった、神の身分であるキリストが僕の身分になった、と語られているのです。「かたち、身分」という言葉をどう訳すかはともかくとして、大事なことは、神であられるキリストが、自分を無にして、おのれをむなしうして、僕となられた、ということです。それが、主イエスの誕生、クリスマスの出来事の根本的な意味なのです。
ところで、大変細かいことのようですが大事なことなので言っておきたいのですが、口語訳が、神のかたちで「あられたが」と訳していたのを新共同訳が、神の身分で「ありながら」と訳したことに注目すべきです。ここは明らかに新共同訳の方が正しいのです。「神のかたちであられたが」という口語訳は、キリストが神であったのは過去のことで、この世に来られてからはもう神ではなくなったかのように感じられてしまう危険があります。しかし原文が語っているのは、キリストは以前も今もこれからも神であられるのに、僕のかたち、身分になった、と言っているのです。人間となってこの世に来られたキリストは神でなくなったのではなくて、神でありながら、しかし僕となって下さったのです。
神が人間となられた
キリストは「神のかたち、身分」であり、「神と等しい者」であり続けつつ、「僕のかたち、身分」となられました。そのことは7節後半では「人間と同じ者になり、人間の姿で現れた」と言い換えられています。「神と等しい者」が「人間と同じ者」になられたのです。神と等しい者、つまり神であられるキリストが、人間と同じ者となって下さったのです。それは驚くべきこと、本来あり得ないことです。「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」という言葉がその驚きを言い表しています。ここは口語訳では「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」となっていました。「固執する」と言うと、本当はどうでもよいことにこだわる、というような感じがしてしまいますが、神が神であって被造物である人間ではない、ということは、聖書の信仰においては、神とこの世界の秩序の根本であり、固守すべき、固く守るべき原則なのです。しかしそれにもかかわらず、神であるキリストが人間となられた、それが「自分を無にして」とか「おのれをむなしうして」ということの内容です。この驚くべきことが主イエスの誕生において起ったのです。
人間の本来のあり方
「僕のかたち、身分」となったことが「人間と同じ者になり、人間の姿で現れた」と言い換えられています。僕となったとは人間となったということなのです。ひっくり返して言えば、人間となるとは僕となることなのです。ここには、神と人間との本来の関係が示されていると言うことができます。この世界を造り、私たち人間に命を与え生かしておられる神は主人であり、造られた者、被造物である人間はその僕、従い仕える者なのです。それが、神と人間との正しい関係であり、秩序です。人間は、自分が被造物であることを弁え、神の下で、神のみ心を求めて生きることによってこそ、人間らしい本来の生き方ができるのです。そしてだからこそ、神であり主人であるキリストが、人間となり、僕となられたクリスマスの出来事は驚くべきことなのです。しかもキリストはその地上のご生涯の最後まで、神に従い仕える僕であり通して下さったのです。7節の終わりから8節にかけて、キリストは「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。本来神の僕であるはずの人間となられた主イエスは、主人である神に徹底的に従順に、僕としての歩みを全うされたのです。それが主イエスのご生涯でした。つまり主イエスは、神に従い仕える僕としての人間の本来のあり方に忠実に、神と人間との正しい関係、秩序を守って、つまり人間の本来あるべき生き方を貫かれたのです。私たちは、人間としての本来のあり方から離れてしまって、神に従い仕えるのでなく、自分が主人になり、自分の思いを貫こうとして生きています。それが私たちの罪です。その罪によって私たちは神との良い関係を失っており、また隣人との間でも、愛し合う良い関係を築くよりもお互いの自己主張によって傷つけ合ってしまうような関係に陥っています。私たちが罪人であるというのは、要するに神との正しい関係を失い、そのために人間としての本来のあり方を失い、人間どうしの良い関係をも失っているということなのです。神であられる主イエスは、人間となってそのような罪人である私たちのところに来て下さり、父なる神に従順に生きることによって、本当に人間らしい生き方を示して下さいました。主イエスのご生涯は、本来人間とはこのような者であり、このように生きることができるのだ、ということ示して下さった歩みだったのです。本当に人間らしい生き方とは、主イエスのような生き方なのです。主イエスのご生涯を見つめることによって私たちは、人間としての本来の生き方から自分がいかに離れてしまっているか、つまり自分の罪を知らされるのです。
十字架の死に至るまで
さて、主イエスは僕となって下さり、死に至るまで神に従順だったということを語っているこの讃美歌に、パウロが付け加えた言葉があると言われています。「それも十字架の死に至るまで」という言葉です。ここだけは、もともとの讃美歌にパウロが加えた言葉だと思われるのです。主イエスの父なる神への従順をパウロは、十字架の死においてこそ見つめているのです。つまり主イエスは、父なる神のみ心に従って、十字架にかかって死なれたのです。主イエスが十字架にかかって死ぬことは、父なる神のご意志であり、主イエスはそのみ心に従順に従ったのです。つまり主イエスの十字架の死は、神に従順に生きていたら罪人たちの恨みを買って殺されてしまった、という不本意な結果ではなくて、父なる神が主イエスにお命じになったことなのです。神は主イエスの十字架の死によって、人間のための救いのみ業を成し遂げようとして、そのために独り子主イエスをこの世に遣わされたのです。十字架の死こそ、主イエスが人間となってこの世にお生まれになったことの当初からの目的であり、主イエスはその神のみ心に従ったのです。
私たちの罪の赦しのために
しかしどうして神である主イエスが十字架にかかって死ななければならなかったのでしょうか。それは先程から見ている私たちの罪のゆえです。私たちは、神に造られ生かされている人間としての本来のあり方を失っています。神の僕として生きることをよしとせず、自分が主人になろうとしています。自分の思い通りに生き、自分の願いを実現することが人生の目的になっています。その罪のために私たちは、主イエスのように愛に生きることができないのです。愛すること、赦すことによって交わりを築いていくことができないのです。愛し合う関係を築こうと努力はしても、自己主張、自分が損をしたくない思いが先に立って、本当に人を愛すること、赦すことができないのです。そういう罪に捕えられており、そこから自分の力で抜け出すことができない私たちのために、神の子である主イエス・キリストが人間となって下さり、神に従い仕える人間としての本来の生き方を貫いて下さり、その従順な歩みのクライマックスとして、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死に至る従順によって、神は、罪人である私たちを赦し、神の子として新しく生かして下さるという救いを与えて下さったのです。
十字架の死にまで至るへりくだり
ですから、主イエスが神の僕として、十字架の死に至るまで神に従順に生きて下さったことは、人間としての本来の生き方を示して私たちの模範、手本となって下さったというだけではありません。罪に捕えられているがゆえにそのように生きることができない私たちの赦しと救いが、主イエスの十字架の死によって実現したのです。パウロはそのことを意識させるために、「それも十字架の死に至るまで」という言葉をここにつけ加えたのです。主イエスのご生涯は、この十字架の死を中心として見つめられるべきなのです。主イエスは、教えを説き、奇跡を行い、倣うべき模範を示すことによってではなくて、十字架にかかって死ぬことによってこそ、救いをもたらして下さったのです。十字架の死こそが、主イエスがこの世にお生まれになったことの目的なのであって、ここにこそ、神であるキリストが神と等しい者であることに固執しようとせず、自分を無にして、へりくだって、人間となって下さったことの根本的な意味があります。神の子のへりくだりは、十字架の死にまで至るへりくだりだったのです。クリスマスの出来事において、主イエスがベツレヘムの馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたことも、ヘロデ王によって殺されかけてエジプトに逃れたことも、そのとばっちりを受けてベツレヘム近郊の幼な子たちが虐殺されたことも、全ては神の子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを指し示しているのです。私たちはクリスマスの出来事に、神の子キリストのへりくだりを見ます。その時私たちはいつも、主イエスの十字架の死を共に見つめるのです。主イエスの誕生は、その十字架の死によってこそ、私たちの救いの到来の出来事となるのです。
イエス・キリストは主である
十字架の死に至るまで従順に歩み通した主イエス・キリストを、神は高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは父なる神によって主イエスが死者の中から復活し、天に昇り、今や全能の父なる神の右に座しておられるということです。私たちの救いのために徹底的にへりくだり、御自分を無にして僕となって下さった主イエスを、父なる神は高く挙げ、天における栄光を与えて下さったのです。そのことによって、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあります。主イエス・キリストによる救いにあずかるとは、私たちも「イエス・キリストは主である」と告白して、主イエスを遣わして下さった父なる神をたたえる者となることです。本来主であられるキリストが徹底的にへりくだって僕である人間となり、十字架の死に至る従順を貫いて下さいました。父なる神はその主イエスにあらゆる名にまさる名を与え、全てのものの主としての本来の栄光へと引き挙げて下さいました。そのことによって、本来僕でありながら僕としての生き方を失い、自分が主となろうとする罪に陥り、本来の、神と隣人を愛する生き方を失っている私たちが、その罪を赦され、主イエスの前にひざまずいて礼拝し、「イエス・キリストは主である」と、つまり自分が主なのではなくキリストこそが主であり、自分はその僕であると告白する者とされるのです。それは、神に従い仕える僕として生きるという人間の本来の生き方を回復されるということです。「イエス・キリストは主である」と告白する者は、神であられるキリストをこそ自分の主と仰ぎ、自分はその僕となって従い仕えていくのです。そこにこそ、神との正しい関係を回復されて、神と共に生きる本来の人間の生き方があります。「イエス・キリストは主である」と告白し、主であられるイエス・キリストに従い仕える僕として新しくされることによってこそ、私たちは、神と隣人を愛し、神との間にも隣人との間にも、良い関係を築いていくことができるのです。それこそが、主イエス・キリストによって与えられる救いです。この救いを私たちに与えて下さるために、神の子であられる主イエスは、自分を無にして、へりくだって、人間となり、ベツレヘムの馬小屋で生まれて下さったのです。
聖餐の恵み
今私たちは、この主イエスのご降誕を喜び祝うクリスマスに備えるアドベントの時を歩んでいます。この世に人間として生まれて下さった主イエスを、私たちはこの時、それぞれの心にお迎えしたいのです。それは、私たち罪人の救いのために徹底的にへりくだって下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった神の子主イエスをお迎えし、主イエスと共に生きていくということです。そのために本日の礼拝において聖餐が備えられています。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、神の子であられる主イエスが徹底的にへりくだって人間となって下さり、さらに十字架の死に至るまで神に従って下さったことによって私たち罪人のための贖いを成し遂げて下さった恵みを心と体で味わい、主イエスと共に歩む者とされるのです。洗礼を受け、聖餐にあずかって主イエスと共に歩むなら、私たちは神による罪の赦しの恵みにあずかり、神との正しい関係を回復されて、私たちも神を愛し、神に仕える者として、そして隣人を愛し、隣人に仕え、赦し合う交わりを築いていく者として新しく生きていくことができるのです。