夕礼拝

信仰に生きるとはなにか

「信仰に生きるとはなにか」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:創世記第12章1-8節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書第2章1-11節
・ 讃美歌: 496、459

ヨハネによる福音書、第2章1~11節をともに聞きました。この箇所は、イエス様がなさった最初のしるし、 奇跡が書かれています。このヨハネによる福音書を書いた人は、起きたことを全部書いたわけではないという ことを、20章の終わりのところで書いています。このように言っています。「このほかにも、イエスは弟子た ちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 なたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるた めである。」
このヨハネによる福音書という書物は、どういう目的でこれが書かかれているかということを、ここにはっき りと書き残しています。それは、これを読んだ人が、イエス様を神の子である、救い主であると信じて、命を 得るように、そうなるためです。ですから、著者ヨハネは自分の知っているすべてのことを、ただ書き連ねる のでなくて、これを書けば、読んだ人がイエス様を信じるようになるだろう、そう思って書いているのです。 この2章の11節にも、このように書かれています。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、 その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」弟子たちは、この最初のしるしを見てイエス様 を信じたと書かれています。このように、このヨハネによる福音書は、わたしたちがこれを読んで「イエス様 を信じるように」という願いをもって書かれていますしかし、わたしたちは今このヨハネによる福音書2章 1~11節を読んで、直ぐにイエス様は自分の救い主だと信じることができるでしょうか。ここには、水がぶどう 酒に変わったという、奇跡が書かれています。そこに一緒におりました弟子たちは、この奇跡を見て、イエス 様を信じた。わたしたちでもその場にいれば、非常に感動して、信じるに至るかもしれません。しかし、この 聖書の箇所を読んで、どうでしょうか。わたしたちは、感動を受けて、そしてイエス様を信じると言えるだろ うかということを、わたしはまず問題に感じました。
実際に目の前で、イエス様のしるし、奇跡を見れば、驚き、感動するでしょう。しかし、こういうことが起 きたのだという、古い昔の記事を読んで、同じような驚きと感動を受けるかというと、なかなかそうはいきま せん。しかし、著者ヨハネは、これを読む人がイエスという人を信じるために書いたのだと言っています。わた したちが信じることができないとすると、ヨハネによる福音書を書いた人は、目的を達することができなかった ということになるのでしょうか。わたしたちはここで、「信じること」「信仰」というものは、いったいどうい うものかということを、共に神様に聞いていきたいと思います。普通、わたしたちが信仰しはじめるという時 には、何か非常に感銘を受けて、よし、これから信じよう、となることを期待すると思います。わたしたちが 、そういう深い感動と感銘をもって信じることができるようになるということは、大変幸いなことであります 。わたしたちは、皆そうありたいと願います。しかし、信仰する、或は信仰によって生きるということが、必ず しもそういう感動を伴っているかというと、実はそうではないのです。今日は青年伝道夕礼拝で青年が多くお りますが、ここには信仰生活を長くしておられる方もおられます。信仰生活が長い短いは関係ないのですが、 信仰をもって生きているわたしたちが、自分の生活を振り返る時に、毎日毎日感動しているかと問われれば、 そうではないと応えるでしょう。そのように問われる時に、「毎日感動しているわけでない、むしろ感動する どころか、神様を信じているということさえ忘れるようなことがある。そんな自分の信仰というものは、本物 なのだろうか。」という、信仰に生きている感じがしないという不安こそ感じるでしょう。わたしも度々そう いう不安を感じました。しかし、その時にもう一度、信じるということはどういうことか、何かに感動するこ となのかということを問い直して見ることが大事なのではないかと思いました。信じて生きるというのは、感 動するというのと、必ずしも同じではありません。では信じて生きるとはどういうことか。結論から申し上げ ますと、わたしたちの生活が、その信じていることを土台にして、つまり語られたメッセージ、神様からのみ 言葉を信じて、そしてなにより語られた神様を信じて、そのみ言葉と神様を土台にさせていただき自分のこれ からの人生を築いていこう。その土台を信頼して、歩んでいくことこそ、信仰に生きるということです。
例えば、旧約聖書の中にアブラハムという人の話が出て来ますが、これは創世記の12章にあります。彼は突 然神様から、おまえは今まで住み慣れたところを離れて、わたしが示す新しい地に行きなさい。わたしはあな たを必ず祝福する。そういう神様のみ言葉、約束を受けるのです。その時にアブラハムがどのように、それに 感動したかということは、何も書かれていません。そこには「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」と 書いてあるだけです。わたしはあなたを必ず祝福するから、今いるところを離れて、わたしが用意してあると ころに行きなさい。すると、はい、行きましょうと言って、旅立つ。そのアブラハムの生活は、神様の約束を 土台にして、今までと全く違う生活を始めた。これが信仰に生きるということでしょう。イエス様を、神の子 である、わたしたちの救い主であると信じるということは、そのイエス様がいつでも一緒にいて、わたしを支 えていて下さるという、そういう土台の上で、自分の生活を始めることです。
ただいま、このヨハネによる福音書が書かれた目的について、共に考えました。今日はさらに、2章1~11節 に書かれております出来事の記録、それを通して、信仰に生きる時、実際どのように生きて行ったらよいかと いうことを、ご一緒に聞いていきたいと思います。ヨハネによる福音書2章1節、2節「三日目に、ガリラヤのカ ナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」ここまでは普通 のことです。ところがトラブルが起こりました。結婚の祝いの席で飲まれるぶどう酒がなくなってしまいまし た。初めて聖書を読まれる方は、どういうことだろうか。ちゃんと用意してなかったのだろうかと、不思議に 思われると思います。実は、ユダヤの結婚式の宴会というのは、一週間も続きます。ですから結婚式があるとい うと、まずその一週間分のぶどう酒や食べ物などを用意しなくてはなりません。ところがその用意よりも、実 際の消費する量が多くなってしまった。それが何日目か分りませんけれども、とにかく途中でぶどう酒がなく なってしまった。そういうことが起こりました。ぶどう酒がなくなったので、イエスの母マリアはぶどう酒が なくなってしまいました」とイエス様に告げました。これはイエス様の家の結婚式ではない、よその家の結婚 式です。それなのにマリアが、ぶどう酒がなくなったと言って心配する。ちょっと不思議です。これは想像で すけれども、おそらく、親戚の家で、マリアさんが賄いの方の手伝いを任せられていたのではないかなと思い ます。それでぶどう酒がなくなった。これはもう大変なことです。宴会がめちゃめちゃになってしまう。マリ アが心配したのは当然です。そこでイエス様にぶどう酒がなくなってしまいましたと、言ったわけです。その 時マリアは、何を期待していたかを考えて見ますと、この時代は、もちろん今のように酒屋やコンビニがあり 、いつでも酒を買うことができるわけではないですから、大変困ったことになります。なくなったといって近 所に買いに行くことができません。何かこの近くでぶどう酒を作っている大きな畑にいけば、たくさんのぶど う酒を用意している人がいるかもしれない。そういう人の所に行けばぶどう酒を分けてもらえるかもしれない と考えたかもしれません。とにかく困って、マリアはイエス様に相談をしました。
普通だったら、「それは困りましたね、何とかしてみましょう」と言うところですが、イエス様がマリアに言 われた言葉は、非常に不思議なことを言っておられます。4節「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです 。わたしの時はまだ来ていません。」 ス様は、最初に、「婦人よ」と言われます。この「婦人よ」という言葉は、よその婦人に声をかける時に使う 言葉です。これは自分の母親に使う言葉ではありません。非常に他人行儀というか、なにか改まった言い方をし ています。そして「わたしとどんながあるのです」と言っています。この新共同訳の聖書とは違う口語訳の聖書 では、はっきりと「あなたは、わたしとなんの係りがありますか」と言っています。実際は親子です。イエス様 はマリアの胎内から生まれたのです。かかわりがありますかどころではない。大いにあるわけです。それなの にどうしてイエス様はここで「あなたはわたしとどんなかかわりがあるのですか。」と言われたのでしょうか。 そしてそのあとでイエス様は「わたしの時は、まだきていません」とおっしゃるのです。この言葉ががその秘 密を解く鍵です。「わたしの時は、まだきていません」というのは、やがて時がくるということをイエス様は 見ておられます。しかし、まだその時が来ていない。先程申しましたように、マリアの考えていることは、何 とか解決の手段を考えて難関を切り抜けたいということです。しかし、彼女の考えていることは、全部、自分 の常識の中で、ああしようか、こうしようかと考えているのです。これに対して、イエス様がこれからしよう としておられることは、全く別の事であります。それは神様に出て頂く。わたしたちがあれこれとしてまわる のではなくて、天地の造り主である全能の神様に出て頂くのだ、そういうことをイエス様は考えておられるの です。ですから、このマリアの考えとイエス様の考えとは全く違います。全く別の事です。イエス様がこれか らなさろうとしておられることは、マリアの思いもかけないことを考えておられるわけです。しかし、その時 はまだ来ていません。イエス様は他の場面でも、わたしの時はまだきていない、と言われます。この箇所だけ ではなく、ほかの所でも言われます。イエス様は、自分が願いを祈ることで、父なる神様が動かれるとは考え ておられません。イエス様は、父なる神様が考えられて定められた時に、必ず神様はその業を現して下さる。 それはいつかということは、神様が決めておられる。だからわたしのすることは、その神様の時が来ることを 待つことだ。これがイエス様の言っておられるメッセージです。普通だったら、あなたとわたしと何の関係が ありますかと言われたら、もう頭に来て、かっかするでしょうけれども、さすがにマリアさんはそうではあり ませんでした。はっと気がついたのです。マリアさんは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、その とおりにしてください」と言いました。そうか、イエス様は、わたしの思いも及ばないことをしようとしてお られる。或は、召し使いたちになにか用事をいいつけられるかもしれない。その命令を何も知らない人が聞い たら、とんでもない突飛なことと受け取られるかもしれない。しかし、イエス様は神様のみ業を行おうとして おられるのだから、どうかみんなが従ってもらいたい。そう思って彼女は召し使いたちに、そのようにあらか じめ頼みました。やがて時がきました。イエス様は召し使いたちに、こういうことを言われたのです。『イエ スが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われ』ました。水がめというのは庭に並んでいる、大きな壷の ことです。ここには二ないし三メトレテス入ると書いてあります。これを昨晩計算しましたら、二メトレテス いうのは78リットル、三メトレテスというのは117リットルです。それが六つ並んでいるのですから、少なくて も468リットル、多くて702リットルくらいのものが入ることになります。何のためにこんなに水が置いてある かと言いますと、ユダヤでは大変厳しい律法がありまして、食事の前には必ず清めの儀式をする。その時に手 を洗います。そのために水が必要です。今回は宴会であり、たくさんの人が来ていますから、このようないた くさんの水を用意していたのです。このたくさんの水が入る六つの水がめ、この水がめにイエス様は水をいっ ぱい入れなさいと召し使いたちに言われました。その召し使いたちは、イエス様はいったい何を意図されてい るか分りません。けれどもマリアさんから、言われるとおりして下さいと言いつけられておりましたので、何 も躊躇しないで、口のところまでいっぱい水を入れました。そうするとイエス様が、「その水を汲んで、そし て宴会の世話役のところへ持って行きなさい。」と言われました。その時召し使いたちは、「いったい水を汲 んで持っていって何になるのか!?」と文句も言わないで、黙ってその通りしました。宴会の世話役、口語訳の 聖書は料理頭となっています、つまり料理長ということです。もしその世話役が、料理長を兼務していたとしま すと、その料理長はお客さんに出す前のもの、料理の素材から、なにからすべての味見をしていると思います。 そのようにして、召使が厨房にもってきましたから、なにかの調味料とでもおもったのでしょうか。壷から組 んだ水を、ちょっと飲んで見ると、それは上等なぶどう酒だったのです。今まで出していたぶどう酒よりはる かにいいぶとう酒になっていました。それで、彼は花婿を呼びました。「たいていの家では、みんながシラフの 時には自分の家で一番いいぶとう酒を出して、だんだん酔いが回って来たら味が分らなくなるから、もっと味 の落ちる安いぶとう酒を出す。(そうすれば来た人は、あそこのぶとう酒はおいしかったという印象が残るわ けです)ところがあなたはこんなに上等のぶとう酒を今まで残して置かれました。どうしてですか、こんない いぶとう酒があるのなら早く出したらいいのに。そういうことを言ったのです。
先程「信じる」ということは、信じることの上に自分の生活を築くことだと申しましたけれども、ここでは 、その通りのことが行われています。水を水がめにいっぱい入れなさいというと、その通り入れました。言わ れたとおり入れたのです。これを汲んで世話役のところ持って行きなさいと言われる、その通りしました。す るとそこに、わたしたちが予想しなかった神様のみわざが現れたわけであります。わたしたちの信仰生活とい うものは、そういうものであります。あんまりわたしたちが理屈を考えて、どういうわけでそうなるのだろう と考えるのは、これは信仰ではない。わたしたちは人間と同じようなレベルの神様を相手にして信仰している のでなくて、無から一切をお造りになった神様、そしてその神様が、わたしたちを救うために、ご自分のひと り子を人として、本来は神であるその独り子をわたしたちと同じ人間として、この世にお遣わし下さった。そし てわたしたちの一切の罪を、その血によってあがなって、解決して下さったのです。そういうことをなさる全 能の神様を相手にして、わたしたちの信仰生活は営まれるのです。ですからわたしたちが、み言葉を聞いて、 神様のお言葉を聞いて納得のいく時もあるでしょうが、納得のいかないという時もあるでしょう。しかし、大 事なことは、わたしたちをそこまでして愛し救ってくださる神様の言葉だから、神様のお言葉にしたがって行 けば、きっと解決が与えられる。そのように信じて、そのとおりすることであります。それはわたしたちがお 祈りをして、神様の応えを頂きたいと思いますけれども、わたしたちは時に、自分の基準でこれだけお祈りを したのだから聞いて下さるだろうと思ってしまう時あります。しかしイエス様の言われるように「わたしの時 はまだ来ていない」と神様はおっしゃる。そうすると神様の時が来るまで、わたしたちは忍耐して待たなけれ ばいけません。待つということは、何もしませんから、簡単なことのようですけれど、実は大変難しいことで す。わたしたちが待つことができるかどうか、ということは、わたしたちが信じているかどうかということを 測る、一つの目安であります。
先ほど、アブラハムのことを共に聞きましたが、彼は熱心に神様に従いましたが、彼の一生の間では、神様 が言われたことは、実現しませんでした。神様はアブラハムに「エジプトの川から、大河ユーフラテスに至る まで」の数多くの地を全部あなたとあなたの子孫とに与えると言われました。しかし、彼が生きている間は、ち ょっとの土地も自分の物にすることはできませんでした。アブラハムは奥さんが亡くなった時、埋葬する土地も ありませんでした。そこで、その土地の人にお金を出して、その墓を作る土地を買って埋葬しました。これは みんなあなたのものですよ、あなたに上げますよと神様はおっしゃるのに、現実にはお墓を作る土地もありま せんでした。そういう生活であります。しかし、彼は信じて待ちました。神様の約束が成就する時が必ず来る と、信じていたのです。その後実際に、アブラハムの子孫はそれらの約束の土地を手に入れます。わたしたちの 信仰生活は、最初に申しましたように、自分が感動しているかどうかという自分の心の状態を点検するのでは なくて、自分が神様の言葉を信じて、神様が成し遂げて下さることにすがって生きていく。その神様の言葉が 成就するまで、待ち望み、忍耐して生きていく。そういうことを繰り返してみることが、わたしたちの信仰生 活です。イエス様を信じる者は、ただ忍耐しているのでありません。希望をもって忍耐します。その希望は、 神様の言葉の完全なる成就です。それは、イエス様が示してくださった、死を超えての復活です。さらに復活 してまた死ぬのではなく、永遠の命を与えられて、完全に死に勝利することがわたしたちの希望です。その復 活と永遠の命に与るものは、イエス様を救い主と信じるものだけです。
この福音書を書いたヨハネは、イエス様は神のみ子、あなたの救い主であることを、すべての人に知らせて いきたいと願いながら、これを書きました。つまり、すべての人が、イエス様を救い主と信じ、復活と永遠の命 に与って欲しいと願っているということです。これは、ヨハネだけの願いではありません、この聖書を書かせ て神様の思いでもあります。今、わたしたちは、その聖書と出会っています。この御言葉との出会い、この礼 拝に出席したこと、この教会に足を運んだこと、それらは、今わたしたち一人一人がイエス様との出会いが与 えたられたという証拠です。さらには神様によって、神様と共に生きる道に招かれているという証拠でもありま す。ヨハネによる福音書を通して、そこに書かれているイエス様を通して、またこの礼拝を通して、神様は、 わたしたちを信仰に生きる道に招いてくださっているのです。その道を歩むものは、神様が成し遂げて下さる 希望に与って歩むこと出来ます。その歩みは、わたしたちのことを見捨てることなく、本当に愛して下さる父 なる神様が、必ず絶望から希望へと導いて下さることを信じて生きることのできる、確固たる歩みです。
信仰に生きるとは、小さな意味では、日々の生活の中でも、必ず主は自分を見捨てることなく、神さまの望 まれる正しい方向に導いて下さることを、喜びと平安もって、信じて生きることができるということです。大き な意味では、わたしたちの人生が死で終わらず、復活し、永遠の命を与えられ、神さま共に生きることのでき る約束という終末の希望を信じて、希望に満ち溢れて忍耐強く生きることができるということです。信仰に生 きているものは、もはや絶望も死を恐れずに生きることができる。それが信じる者に与えられる大きな恵みで あります。ここに来たすべてのものがその信仰に生きる道に招かれています。なぜなら、今日のこの場にきて 、聖書と説教を通して、神様からの招きを聞いたからであります。主なる神様は、その道をわたしたちと共に 歩きはじめる日を待ち続けておられます。

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