主日礼拝

主のみ心を求める

「主のみ心を求める」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第33編1-22節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章10節b 
・ 讃美歌:51、352、402

真っ先に祈り求めるべきこと
 本日はこの礼拝を開会礼拝として、教会全体修養会が行われます。テーマは、2月に行われた教会総会で決定された本年度のこの教会の年間主題である「主のみ心を求めつつ伝道する教会」です。そしてこの礼拝において読まれる新約聖書の箇所は、この主題に伴う聖句であるマタイによる福音書第6章10節の後半「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。この年間主題と聖句について、この礼拝においてみ言葉に聞き、また修養会において語り合いたいのです。  本日の聖句は言うまでもなく、主イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」の一部です。「主の祈り」の前半は、マタイによる福音書の言葉によれば、「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように」となっています。神様に祈る時に先ず、あなたの御名が崇められますように、あなたの御国が来ますように、あなたの御心が行われますようにと祈り願いなさい、と主イエスはおっしゃったのです。そしてそれに続く後半において、日ごとの糧、罪の赦し、誘惑に遭わせず悪から救い出して下さるようにという、自分たちのための願いを祈りなさいと教えられています。こういう構造を持った祈りを主イエスはお教えになったのです。主の祈りのこの構造は、私たちの信仰の基本的なあり方を示しています。つまり、私たちが先ず真っ先に求めていくべきことは、神様の御名の栄光であり、御国つまり神様のご支配の確立であり、御心、つまり神様のご意志こそが実現することです。その後で、自分たちのことを願い求めていく、それが、主イエス・キリストを信じるキリスト者の信仰の基本的なあり方なのです。

ハマーショルドの祈り
 第二代の国連事務総長を務めた、ダグ・ハマーショルドという人がいました。スウェーデン出身の熱心なクリスチャンで、1953年から国連事務総長を務めていましたが、1961年に、中央アフリカのコンゴ動乱における和平ミッションに出向く途中で、飛行機事故によって殉職しました。この人が、主の祈りの前半をもとにしてこのように祈っていた、ということが伝えられています。「御名が崇められますように、私の名ではなく。御国が来ますように、私の国ではなく。御心が行われますように、私の心ではなく」。主の祈りに彼がつけ加えた、「私の名ではなく、私の国ではなく、私の心ではなく」という言葉は、それぞれの祈りの意味をより明確にしています。「私の名ではなくあなたの御名こそが崇められますように。私の国、私の支配ではなく、あなたの国、あなたのご支配こそが成りますように。私の心、私の意志ではなくあなたの御心、ご意志こそが実現しますように」、それがこの三つの祈りの心です。そしてそれは今申しました、主の祈りの構造ともつながります。先ず、神様の御名、御国、御心を真っ先に求め、それから私たちのことを祈り求めていく、「主の祈り」を祈る者はそういう信仰に生きるのです。

私の思いではなく
 今日私たちが注目するのは第三の祈り「御心が行われますように」ですが、ハマーショルド流に言えばこれは「私の思いではなくあなたの御心こそが行われますように」ということです。この祈りを祈ることによって私たちは、自分の思い、考え、意志に固執し、それを実現しようとする心と戦っていくのです。そして主なる神様の思い、お考え、ご意志をこそ求め、それが実現していくことを願い求める姿勢を養われていくのです。「主のみ心を求めつつ」という私たちの教会の本年度の主題も、そういうことを意味しています。主のみ心を求めることは、自分の心、自分の思い、自分の意志ではなくて、主のみ心をこそ求め、そのみ心に従っていく、という姿勢なしにはあり得ないのです。ですから私たちが本年度、この主題の下で努めていくべきことは、「御心が行われますように」という主の祈りを心を込めて祈りつつ、自分の思い、考え、意志に固執し、その実現を求めている心と戦っていくことなのです。

何故神の御心をこそ求めるのか
 しかしこれは考えてみると不思議なことです。何故、自分の思い、心ではなく、神の思い、御心が成ることを求めるのでしょうか。日本人の一般的な感覚からすれば、宗教、信仰というのは、自分の思いや願いを叶えるためにあるものと考えられています。自分の願いを実現するために力を貸してくれるのが神仏であり、祈ることはその神仏の力が自分の願いの実現のために発揮されることを求めてなされる、というのが普通の感覚だと思うのです。私たちはクリスチャンになっても、そういう感覚で祈っていることが多いのではないでしょうか。自分の思いや願いではなく神の思い、御心を求めるというのは簡単なことではありません。また別の面から言うと、これは危険な考え方だとも言えます。宗教的指導者が「これが神のみ心だから従いなさい」と言ったことに、信者たちが自分の思いや考えを持たずに従っていく、そういう図式の中で宗教団体が大きな罪を犯すということもあるわけです。「自分の思いではなく神の御心に従う」という教えは悪用されればとんでもないことになるのです。  それにも拘らず主イエスは、「私の思いではなくあなたの御心こそが行われますように」と祈りなさいと命じておられます。それは何故なのでしょうか。礼拝前に行われている求道者会において学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」において「主の祈り」の第三の祈りを解説している問124の答えは、この祈りの意味をこのように語っています。「わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください」。この中の、「唯一正しいあなたの御心」という言葉に注目したいと思います。神様の御心こそが、唯一正しい御心なのだ、その他の、私の思いにしても他の人の思いにしても、それらは正しくないのだから、ただ一つ正しい神様の御心をこそ求め、それに聞き従うべきなのだ、というのです。しかしこれにも私たちは疑問も感じます。ある思いが「正しい」かどうかは誰がどういう規準によって決めるのか、またそれが「唯一」正しい、つまりそれのみが正しくて他は間違っていると主張するのは、教会の、キリスト者の傲慢ではないか、などと思うわけです。ところが、「ハイデルベルク信仰問答」の原文を読んでみますと、ここに「正しい」という言葉は使われていません。原文の言葉は「正しい」ではなくて「良い」、英語で言えばgoodなのです。そしてこの「良い」は、「恵み深い」という意味をも持っています。つまりここは内容を正確に訳すと、「ただそれのみが恵み深いあなたの御心」となるのです。私たちが、自分や他の人の思いではなく、神様の御心こそが行われるようにと祈るのは、神様の御心だけが正しくて、自分や他の人の思いは間違っているからではありません。私たちの思いにも、他の人々の思いにも、それなりの正しさはあるでしょう。根拠もあり、理屈も通っているでしょう。しかしその私たちや他の人々の思いは、本当に恵み深い、私たち皆に救いをもたらすものではないのです。私たちは、お互いの思いのそれなりの正しさを主張し、その正しい主張どうしのぶつかり合いの中でお互いに傷つけ合い、裁き合っているのです。しかしそのような人間の思いとは違って、神様の御心は、唯一つ本当に恵み深い御心です。それは罪人である私たちを赦し、新しい命に生かしてくれる御心なのです。そのような恵み深さは、私や他の人々の思いにはありません。それゆえに私たちは、「私の思いではなくあなたの御心こそが行われますように」と祈るのです。

キリストによって示された御心
 ただそれのみが恵み深い神様の御心、ご意志、それを私たちに示し、与えて下さったのが、この祈りを教えて下さった主イエス・キリストです。神様がその独り子であられる主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことに、また神様がその主イエスを復活させて下さったことに、神様の恵み深い御心、ご意志が示されています。神様の御心は、独り子イエス・キリストのご生涯においてこそ示され、行われ、実現したのです。「御心が行われますように」という祈りは、主イエスのご生涯において示され実現したあの恵み深い御心と無関係に祈られるのではあり得ません。神様がその独り子イエス・キリストを遣わし、キリストの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、キリストの復活によって新しい命、永遠の命の約束を与えて下さっている、その恵み深い御心が、この地上においても、私の人生においても、今日一日の歩みの中にも、現され、私たちがその恵みのみ心によって生きていくことができますようにと祈る、それが「御心が行われますように」という祈りなのです。

天におけるように地の上にも
 その祈りに「天におけるように地の上にも」という言葉がつけ加えられていることの意味もそこから見えてきます。これは、神様のおられる所である天では御心が行われているが、地上ではいろいろな妨げがあってそれが十分に実現していないので、地上でも天と同じように御心が行われますように、ということではありません。天において行われている御心と地上で行われる御心は別のものではないのです。天においては、復活して天に昇られた主イエスが父なる神の右に座しておられます。つまり独り子主イエスの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さる神様の恵みの御心は天においては既に確立しているのです。しかしこの地上では、その恵みの御心はまだ目に見えるものとはなっていません。主イエスによる救いは今のこの世では、証拠を挙げて証明できるような事柄ではなくて、信じるしかないものです。その地上においても、天においてと同じように、主イエスによる救いを与えて下さる神様の恵みの御心がはっきりと示され、実現しますように、というのが、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」という祈りの意味なのです。つまり私たちがこの祈りを祈ることによって、地上において実現することを願っている神様の御心とは、何よりも先ず、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって罪人である私たちを赦し、永遠の命を与えて下さる御心なのです。それが、「唯一恵み深いあなたの御心」です。私や他の人の思いではなく、この神様の御心が成ることによってこそ、全ての人に救いがもたらされるのです。この恵い深い御心の実現をこそ先ず真っ先に求めて私たちは祈るのです。

主のみ心を求めつつ伝道する教会
 これが、主の祈りの第三の願い「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」の意味です。私たちは本年度、この祈りに導かれて、「主のみ心を求めつつ伝道する教会」として歩んでいこうとしているのです。私たちが今年、この教会において、主のみ心を求めつつ伝道していく、それは、私たちが、この教会が、具体的にどのように歩み、主イエス・キリストによる救いをどのように宣べ伝えていくか、そのために何をすることが主の御心であるのかを祈り求めていくことです。そのように御心を求めていくべき具体的な課題の一つとして、今検討を始めている開拓伝道に関することがあります。この教会が母体となって新しい教会を生み出していくということは、もし実現すればこの教会が新しい歴史を刻んでいくことになります。このことについて、教会の主であられるイエス・キリストがどのようなみ心を今抱いておられ、私たちに何を求めておられるのか、そのみ心を私たちは真剣に祈り求めていきたいのです。しかしこのような具体的な事柄について御心を祈り求めていく時にも私たちは、その具体的な課題にだけ目を奪われてしまってはなりません。主の御心を求めていく目は、広い視野を持たなければならないのです。それは、例えば開拓伝道の他にも教会にはいろいろな課題がある、この教会堂をどのように維持管理していくかという課題もあるし、この地での伝道をどう進めていくか、今いる教会員への信仰的指導、牧会をどうしていくかということも課題だ、高齢の教会員の割合がますます大きくなっていく、そのことにどう対処するかも課題だ、そういういろいろな課題を満遍なく見つめていかなければならない、という話ではありません。それらの、個々具体的な課題についての御心を求めていく時に、その個別的な課題についての御心だけを求めるのではなくて、もっと根本的な主の御心、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」という祈りにおいて代々の教会が祈り求めてきた、主イエス・キリストによって示された御心、主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって永遠の命を与えて下さろうとしている神様の恵み深いみ心をこそしっかりと見つめ、そのみ心がこの身に、この教会に、そしてこの地上に実現することを祈り求めていくことこそが大切なのです。その御心が地の上に行われていくことの中で、教会が今与えられている様々な課題を果していくことも実現していくのです。主イエスの十字架の死と復活と昇天とによって、天においては、つまり神様のもとでは、この世の全ての者を救って下さろうとしておられる神様の恵みの御心が既に実現しています。その御心が、私たちの、この教会の、地上の歩みにおいても表され、実現し、その救いに新たにあずかる人々が興されていくことを、私たちは祈り求めていくのです。主なる神様のこの恵み深い御心が天において既に実現していることを信じて、その御心が地上においても実現することを願う祈りの中で、私たちの、この教会の、様々な個々具体的な課題における御心を求める祈りもなされていくべきなのです。主の御心を求める私たちの祈りがそのように整えられていくことによってこそ私たちは、個々の課題の困難さや、人間の力ではどうしたらよいか分からない状況の中で、なお希望を失うことなく、主の恵みのみ心の実現を祈り求め、そのために身を献げていくことができるのです。  地上における私たちの具体的な歩みには、様々な課題、問題があります。そして私たちそれぞれに、自分の思いにおいて、「これが最も切実な最重要課題だ」と思っていることがあります。その思いによって私たちはそれぞれが、このことこそが今自分たちが真っ先に取り組むべき事柄だ、という主張を持ちます。その主張は、それぞれある正しさを持っています。根拠もあり、理屈も通っているでしょう。私たちがそれぞれの正しい主張、思いに固執して、それを主張し続けるなら、そこには人間どうしの対立が生じていくだけです。そのような中で私たちがしなければならないのは、自分の正しい思い、主張に固執するのでなく、「私の思いではなく、ただそれのみが恵み深いあなたの御心こそが行われますように」と祈っていくことでしょう。そのように祈っている者こそが、主の恵み深いみ心の実現のために用いられていくのです。「ハイデルベルク信仰問答」における「主の祈り」の第三の祈りについての説明の後半はこうなっています。「そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです」。主イエス・キリストによって私たちに救いを与えて下さった神様は、私たち一人一人に、また教会に、主の恵み深い御心の実現のための務めと召命を与えて下さっています。要するに私たちには、教会には、神様の召しによって使命が与えられているのです。その使命を自覚し、それを喜んで忠実に果していくことができるのは、「私の思いではなく、ただそれのみが恵み深いあなたの御心こそが行われますように」と祈っている者なのです。

人間の思いの厳しい対立の中で
 改めて、国連事務総長ハマーショルドのあの祈りをかみしめたいと思います。国と国、民族と民族、宗教と宗教が対立し紛争状態にある中で、それを調停し、和平を実現していくことは非常に困難なことです。ハマーショルドの国連事務総長在任中に、エジプトのナセル大統領によるスエズ運河国有化宣言に端を発する第二次中東戦争、いわゆるスエズ危機が起りました。その停戦監視のための国連緊急軍を最初に派遣したのが彼です。このような対立の中では、完全に中立な立場などということはあり得ないのであって、彼のこの決断も当時のソ連などからは激しく非難されました。コンゴ動乱の調停に赴く中で事故死した時にも、彼の立場に反対する勢力による暗殺説も流れました。現在は国際社会における国連の存在感は大分薄くなってしまったように感じますが、当時の国連事務総長の役割は今よりもずっと重いものだったでしょう。多くの人の命が懸かっているシビアな対立の中で、実現可能な選択肢の中から、最善とは言えなくてもなるべく善い決断を下さなければならない立場に置かれていた彼が負っていた重圧はどれほどのものだったでしょうか。だからこそ彼はあのように祈ったのです。「御名が崇められますように、私の名ではなく。御国が来ますように、私の国ではなく。御心が行われますように、私の心ではなく」。人間の名誉、人間の支配、人間の思いが渦巻き、厳しく対立する中で、私たちもこの地上を生きる人間として、人間の持っている限界の中で、いろいろなことを決断し、決定していかなければなりません。その私たちに本当に必要なことは、「私の思いではなく、あなたの恵み深い御心こそが実現しますように」と真剣に祈りつつ、主の御心を求めていき、そしてその御心に忠実に従っていくことなのです。

関連記事

TOP