主日礼拝

私たちの基

「私たちの基」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書: 詩編 第16編7-11節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第16章13-18節  
・ 讃美歌:521、353、390

ペトロの信仰の歩みは、私たちの信仰の歩み、そのものです。 そして信仰の歩みのはじめから、終わりまで、主イエスキリストが信仰という名の鎖で、わたしたちをしっかりとつなぎ止めていてくださっています。この鎖はわたしたちの自由を奪う鎖ではなく、切れない絆としてわたしたちを繋ぎ、わたしたちを導く鎖です。
 主イエスキリストは、私たちに信仰を与え、私たちの信仰の歩みに絶えず共にいてくださり、主イエスキリストは、私たちを用いて隣人へと信仰を伝え、そして終わりの時が来るまで、私たちをその切れぬ信仰の鎖でつなぎ止めてくださっています。
 その信仰の上に「主イエスキリストの教会」が立っているのです。

私たちの信仰の歩みは、洗礼を受け、信仰を告白して、始まりました。ペトロも今日与えられました御言葉にあるように、主イエス・キリストを目の前にして信仰を言い表しました。

マタイによる福音書16章13節において、最初に主イエスキリストは、弟子たちに向かって「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問われました。弟子たちは答えました。「洗礼者ヨハネだという人います、エリヤだという人もいます。エレミヤだという人も、また預言者のひとりだと言う人もいます」と主イエスキリストに報告しました。 主イエスキリストは再び、弟子たちに問います。「それでは、あなたがたは私を何者だというのか」 そこで、ペトロは答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」

 この13~15節にイエスの二つの質問と二つの異なった告白(一つは人々の告白、もうひとつはペトロの告白)が書かれています。 一つめは「人々の告白」です。この人々とは、巷で生きる普通の人々です。主イエス・キリストは、「人々は人の子のことをなんと言っているか?」と御自身で問われたのですが、「彼らの解説」には、なにも反応をお示しになりませんでした。この人々の人々は、主イエスキリストが奇跡を起こしたり、悪霊を追い出したり、神の国を預言したりしていることを知っていましたから、彼らは、名高い預言者が再来したと思っていました。その中でも預言者エリヤは、旧約聖書に、神様によって天に上げられた預言者と書かれてありまして、伝承によれば終わりが来る前に再び地上に戻ってくるとされていました。ですから、神の御業である奇跡を起こす、このナザレのイエスは、「あのエリヤだろう」と人々は理解したのです。またエレミヤも伝承によれば、この世に再来する預言者とされていました。
ここで気になることが一つあります。主イエスキリストは、弟子たちには「あなたがたは“わたし”を何者だというのか」と尋ねていますが、人々の考えを尋ねるときは、あえて「“人の子のこと”を何者だといっているか」と主イエスキリストはおっしゃいました。主イエスキリスが御自分のことを、「人の子」として客観的に述べる時は、多くはご自分のことを、預言されるときに使われます。ですが、マタイによる福音書では人々が主イエスのことを誤って評価する時にも、主イエスは御自身のことを「人の子」と表現されます。それはマタイによる福音書11章19節を見ますと、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」とある通りです。14節以下でのこの「人の子」も、主イエスが人々が誤っている評価を下す際に用いています。   
 ヨハネ、エリヤ、エレミヤは偉大な預言者でありますが、ヨハネも、エリヤも、エレミヤも「人間の子」であります。彼らは、神の御言葉を取次ぐものたちでありましたが、決して「神の子」ではありません。ですから、人々は、主イエスキリストのことを、「神の子」とは思っていませんでした。この人々の告白は、「神の子」であるという「主イエスキリストの本質」には至っていない告白でした。主イエス・キリストが真に「人の子」であるということは、それは間違いではありません。主イエスキリストは「真に人の子であり、真に神の子」であります。  
 ですが、ここで、主イエスキリストは、人々が、ご自身のことを、「人の子」と思っていることを確認したかったのではなく、弟子たちが、この後、告白する言葉を、「導くため」に、この最初の「人々は何者だと思っているか」という質問をしました。 主イエスキリストは続けて「それでは、あなたがたは私を何者だというのか」と弟子たちにお尋ねになると、「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロは、告白しました。 主イエス・キリストは大変、喜ばれました。   「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロが告白した直後に主イエス・キリストは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われました。なぜペトロが幸いであったかというと、その告白が「人間ではなく、わたし(主イエスキリスト)の天の父から、与えられたものであった」からでした。  
 ペトロはこの告白の言葉を、何か自分のなかで色々考えて生み出したのでしょうか。おそらく違うでしょう。ペトロが自分自身で考え出していたとすると、それは「人間から」与えられたものになります。そうであれば、主イエスキリストはお喜びにならなかったでしょう。 さらに、ペトロはこの時、考える暇もありませんでした。質問に対して即答していました。ペトロは、目の前にいる、主イエスキリストを見て、この告白が溢れ出るように出てきたのでしょう。ですから、ペトロはその告白の意味を十分に自分自身で理解していなかったと思います。
 私たちも洗礼、信仰告白を行った際に、神と教会とを前にして、与えられた信仰告白の言葉に、「制約します」と答え、告白致しました。そこでは、自らが何か言葉を考えて、その自分の考えを宣言したのではありません。ただ、信じ告白しました。
 洗礼式や信仰告白式において、信仰を告白する、けれども信仰告白の言葉の意味を、完全に理解しているという人は少ないのではないでしょうか。 やはり、ここでの、ペトロも主イエスキリストを目の前にして、そしてただ目の前にいる主を見ていて、自然に、いや与えられて「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのだと思います。この言葉がペトロから出てきたのは、ペトロの経験や知識によってではなく、目の前にいる、主イエスキリストを通して、父なる神様がペトロにこの言葉を与えたからです。

 ですからペトロは、この告白の持つ深い意味はこの時点ではわかっていませんでした。 この時点での主イエスキリストに対するペトロの理解は、その当時の多くのユダヤ人が信じていた、ユダヤの王としてのメシア、救世主でした。それは、ユダヤ人の理想の世界を作るための世直しする改革者、王様としてのメシアであり、ペトロはこの時、「全人類の罪を贖ってくださるメシア」などという理解はもちろん持っていませんでした。 ペトロが本当に「主イエスキリストが救い主であった」とわかるのは、主の十字架の贖いと、復活を目の当たりにしてからです。 繰り返しますが、ペトロは告白した時点では、この告白の意味は理解していませんでした。 しかし、それでも「あなたは幸いだ」と主イエスキリストは言われます。 私たちにもこの幸いだという言葉が与えられています。その時は何もしらなくても、導かれて、信仰を神様から与えられていたこと、そのことを、主イエスキリストは「幸いだ」とおっしゃってくださっています。

 ペトロはこの告白の本当の意味を分かっていなかったけれども、この信仰を告白した。神様によって主イエスキリストに対する信仰を既に与えられていたものが言葉となった。そこで信仰という「鎖」が見える形となりました。わたしたちも同様に、信仰告白をした時に、主イエスキリストへの信仰が言葉となりました。信仰を告白したその時から、私たちは主イエスキリストの間の切れぬ絆を確認することができるようになりました。

 ペトロがこの告白をした時、完璧にその告白の意味を理解した、完璧な信仰者では決してありませんでした。 ですから、ペトロはこの告白をした、その後の歩みの中でも、何度も何度も信仰がゆるぎます。「わたしたちも」、歩みの中で、何度も信仰が揺らぐことがあります。 この告白の直後に、主イエス・キリストが弟子たちの前で、死と復活を予告します。そのとき、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことが、あってはなりません」と神の計画を無視する人間的な思いで、主イエス・キリストをいさめようすると、ペトロは主イエス・キリストから「サタン、引き下がれ」と、いわれます。 また、主イエス・キリストが裁判にかけられている時、ペトロは町の人に見つかり、イエスを三度知らないといってしまいます。 わたしたちも、信仰の歩みの中で、ペトロと同様に、自分の立場を守るために主イエスキリストを知らないふりをして、生きていこうとすることがあると思います。そして、「なんで信仰を告白したのに、私は罪ばかり犯してしまうのだろうか」、とそのように思い、またそのたびに私たちは、信仰者としてだめだと思い、どんどん自信をなくして、大きく信仰が揺らいでしまいます。

 しかし、主イエス・キリストはこのようにペトロの信仰がゆらぐこと、そして私たちの信仰がゆらぐことを、信仰を告白した時点でご存知であられました。ですから、主イエス・キリストはペトロの信仰が揺らぎ、主から離れてしまっても、何度も見捨てず助けてくださっていることが聖書に書かれています。 「サタン、引き下がれ」となぜ主イエスキリストが言われたかのかというと、罪や過ちに浸け込もうとするサタンを退けてくださるために言われたのであって、決してわたしたちは「あなたは、サタンである」といわれたのではないのです。主イエスキリストは私たちを咎めたのではなく、あらゆる誘惑から救ってくださっています。そして、主イエス・キリストは「鶏がなくまでに、三度わたしを知らないと言う」とペトロに予告をする、直前に、ペトロに向かって「サタンはあなたがたを、小麦のふるいにかけることを神に願って、聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」といわれました。   
 ペトロの信仰も私たちの信仰も、信仰の道を歩むとき、このサタンのふるいにかけられるかのように、なんども主から離れ、主を知らないといい、揺らいでしまいますが、主イエス・キリストがわたしたちのために「信仰がなくならないように」祈ってくださいました。ですから、信仰は決してなくなりません。滅びないのです。自分の力でも、ほろぼすことはできません。私たちにつながれた信仰の鎖は決して切れることがありません、そして自らそれをきることはできないのです。

 信仰がなくならないようにと祈ってくださった後、主イエス・キリストは続けて、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。   

 ペトロはこの主イエス・キリストの指示どおりに、主が十字架にお掛かかりになり、復活し、天に昇られた後に、ユダヤ人の同胞の前で、自分の信仰を語り、三千人を洗礼へと導きました。   

 なぜ、ペトロは、立ち直ることができたのでしょうか。それは、ペトロは主イエスキリストの十字架と復活を、目の当たりにしたからです。ペトロは、主の死の知らせを聞き、自分自身が主イエスキリストを捨て、十字架にかけてしまったと激しく後悔したでしょう。しかし主の御復活によって、ペトロは自分の犯した罪がそのままではなく、その十字架の死によって犯した罪と、本来持っている罪もすべて贖われ、赦されたことを知ったのです。 そこで、ペトロは「自分は今救われたのだ」とわかったのです。そして、復活し生きて働いておられる主イエスキリストを見て、そこで、やっと、「あなたはメシア、生ける神の子です」の意味がわかったのです。それでペトロは立ち直ったのです。

 主が昇天された後にペトロがユダヤ人の同胞の前で語ったことは「主は十字架にかかったメシアであり、復活された」ということと、その十字架にかけたのは私たちであるから、悔い改めて、洗礼をうけなさいと言うことでした。これは、ペトロが自分の信仰の歩みの中で「見て」、「経験」したことを、ありのまま同胞に伝えているだけなのです。 これが、ペトロの行った、主イエスキリストが命じた「兄弟たちを力づけること」だったのです。 主イエスキリストが、私たちを用いて、兄弟姉妹を励まして、また、その兄弟姉妹たちに信仰を与えてくださるのです。 わたしたちも、主から離れていたときに、主イエスキリストに救われました。信仰生活のなかでも、主イエスキリストによって、何度も主のもとに立ち帰らせて頂きました。その救いの経験を証しすることで、兄弟姉妹は力づけられる。「証しする」というのは、ペトロのように説教したり、語ったりすることだけではありません。わたしたちが躓きながらも信仰の道を歩む、その姿も証しとなります。自分の家族、親戚、友人、わたしたちの周りにいる隣人は、わたしたちが毎週の礼拝で、御言葉を受けて生かされている姿、また苦悩の中でも、主イエスキリストを信じている姿、なんども立ち帰って、新たにされる姿を見ています。そこで隣人は、私たちの内に生きる主イエスキリストの光を見る。信仰の道でブレながら歩むわたしたちを今、主イエスキリストは伝道のために用いてくださっています。

 残された今日与えられました御言葉に戻ります。 17節で、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。」と言われ、18節で主イエス・キリストはペトロに続けてこう言われました。「わたしもいっておく。あなたはペトロ。」 マタイによる福音書のなかで、ペトロのことを、「ペトロ」と主イエス・キリスト自身が呼ぶのは、あとにも先にも、この一回きりです。そして、実は、ペトロの本名をフルネームで、シモン・バルヨナと呼ぶのも、17節の一回きりです。この「あなたはペトロ」という言葉を、元の言語からしらべてみると、宣言の言葉だということがわかります。ペトロが、16節で主イエスキリストの存在を、「あなたはメシア、生ける神の子です」と宣言しました。主イエス・キリストはペトロの宣言を受けて、今度はペトロの存在を「あなたはペトロである」と宣言されました。 ここで気になる点は、主イエスキリストが「シモン・バルヨナ」という名前と、「ペトロ」という二つの名前で呼びかけていたことです。「シモン・バルヨナ」とは、主イエスキリストに出会う前のペトロの存在、そのものを表す名前でした。シモンは親から与えられた名で、バルヨナとは「ヨナの子」という意味です。 ペトロが信仰を告白した後に、主イエス・キリストはペトロの存在を、古いそれまでの存在を表していたシモン・バルヨナという名ではなく、「ペトロ」という、血筋や家系、また民族のしがらみを超えた、「新しい存在」として「あなたはペトロ」と宣言されたのです。新たな存在、新しい人、それは、古い人が持つ罪を脱ぎ捨てた存在、永遠の命が与えられる存在です。 ですから、ペトロと同じく、私たちも、信仰を告白した時に、主イエス・キリストによって、私たちは古い人ではなく、新たな永遠の命に与る存在となることを主イエスキリストによって、宣言されています。全能であられる主イエス・キリストが宣言されたことはゆるぎません、それは真実です。ですから、わたしたちは新たなるものに生まれ変われるかどうかを、心配する必要はないのです。 私たちが新たなるものに完成するその時までも、その信仰の鎖によってしっかりと主に結ばれています。その後も私たちは主へと結ばれ、結び続けられるのです。 今日与えられました御言葉の最後の節で(18節の後半です)主イエス・キリストは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われました。

 「この岩」とは、これまで語ってきました与えられた「信仰」のことです。わたしたちの信仰です。その私たちの信仰が教会の基となっているのです。決して、人間の、または個人の人格が、教会の礎となっているのではありません。主イエスキリストはわたしたちの信仰を教会の基盤となる礎石、基として、御自分の教会を建てると宣言されました。私たちの信仰とは、私たちの信仰の歩み、そのものですから、ときにつまずき、ときにブレたりもします。基がブレれば、教会もぶれてしまいます。しかし、今日、与えられた御言葉から、私たちは主イエスキリストがわたしたちを信仰の鎖でしっかりとつなぎとめ、ブレるときにもしっかりと支えてくださることを知りました。そして信仰がなくならないようにと祈ってくださったことも知りました。もし私たちがブレたとして、教会が傾きそうになっても、主は私たちを何度も立ち直らせて、教会をも同時に支えてくださっているのです。それは、なぜなら、基そのものが、「あなたはメシア、生ける神の子!」と、呼ばれ宣言される「主イエス・キリスト」その方であるからなのです。 さらに主イエスキリストは「わたしの教会を」建てると言われました。わたしたち人間が、教会を所有するのではありません。主イエスキリストが教会を所有しているのです。復活をし、死に打ち勝ってくださった「主イエスキリストの所有物である」教会ですから、わたしたちの罪の結果、絶望である、「死の力」にも負けません。

 二年前に、大きな災害により、宮城の地、また東北の地が、また東日本全土が苦しみ、そして本当にいろいろなものを失いました。友人を失ったものも、家族を失ったものも、愛する人を失ったものも、家を失ったものも、故郷を失ったのもいます。わたしも宮城の地が、失われていくさまを見て、また聞いて、なにかほんとうに、悲しさも感じましたが、それをも通り越し、虚しさにかられ、落胆しておりました。 そのような時に、災害の地にあるひとつの教会の話を聞かされました。その教会というのは、石巻山城町教会の話です。 この話を聞き、ハッと気付かされました。石巻は、宮城の北の方でありまして、そして海沿いにある町です。石巻もまた津波の被害にあい、沿岸部は壊滅状態になってしまいました。そして、石巻山城町教会も沿岸部にあるのですが、教会のほんの数キロ先まで、津波は迫ってきたらしいのですが、教会は無事でありました。小高い所に建っておりまして、その津波を避けられたそうです。そして、震災直後には、教会は開放され、避難所となったそうです。またその後、数ヶ月の間、教会にアメリカから宣教師の方が十数名来られて、教会とともに救援物資を近隣の方々に配っていたそうです。 この話は聞いて本当に象徴的だと思いました。それは旧約聖書の詩編46編の中に「神は私の避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と書かれていますように、主の体である教会は、苦しみや死、混沌をもたらした津波に負けずにそこに立ち、また人々の避けどころ(避難所)となっているのです。さらに、日々の糧も、教会が、人々に与えている。 ある人は、そこで、苦しむ、災害の地にも主イエス・キリストが立っておられることに気付いたと言っていました。今日の御言葉が語るように、荒れ狂う混沌、死の波が襲おうとも、主イエス・キリストは、そこに礎となって、教会をも、人々をも支えていてくださっておられるのです。   
 被災地には建物が無くなった教会もあります。信仰者の方で亡くなった方もおられると思います。ですが、教会に、そして私たちに与えられている、「信仰」は無くなりません、は無くなりません。それらは「主イエス・キリスト」その方だからです。主イエス・キリストご自身が、復活なさったことで、死にもはや勝利したこと、亡くなった体は再び甦るということを示してくださっています。ですから、眼に見える教会が崩れ去り、無くなっても、わたしたちに与えられた信仰によって、教会は立っています。マタイによる福音書18章に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。わたしたち信仰持って集っている場所には、主がその中にいてくださいます。さらに、主のご復活が指し示すように、主の身体も一度土の中に埋められましたが、再び生きる体もって甦られました。教会もわたしたちの目には崩れてなくなったかのように見えますが、主の身体である教会は、再び建てられるのだ。そのような希望が与えられています。亡くなった方も、主によって、完成の時に再び体が与えられて、甦ることが約束されております。

 わたしたちは主から与えられた信仰によって、主と切れない信仰の鎖でつながれています。ですから主とともに、主に従って、完成の時に向かって歩んでいることを、喜びましょう。 信仰の歩みのはじめから、終わりまで、主イエスキリストが信仰という名の鎖によってわたしたちをしっかりとつなぎ止めていてくださっています。喜びましょう。 わたしたちが崩れようとも、教会が崩れようとも、主は私たちの基となって私たちを支え、何度も立ち上がらせてくださいます。希望を持って喜びましょう。

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