主日礼拝

小舟に乗って

「小舟に乗って」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第130編1―8節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章7―12節
・ 讃美歌:19、132、474、子ども祝福194、509

イエスを殺そうとする人々
 先週の礼拝において、マルコによる福音書第3章1~6節を読みました。そこにはある安息日に主イエスがユダヤ人の会堂で片手の萎えた人を癒されたことが語られていました。この癒しのみ業がなされた結果、ファリサイ派の人々は出て行って、ヘロデ派の人々と、どのようにしてイエスを殺そうかという相談を始めたのです。ヘロデ派というのは、当時ガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスの取り巻きの人々、つまり今この地の政治を牛耳っている人々です。ファリサイ派の方は、律法を守るように人々に教えることによってユダヤ人を神の民として整えようとしていた宗教的指導者たちです。本来この両派は水と油のような関係なのですが、主イエスを殺そうという思いにおいては一致しました。宗教的指導者と政治的指導者の思惑が、主イエスを殺そうということにおいて一致したのです。本日の箇所はその続きです。7節に「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。湖とはガリラヤ湖です。主イエスと弟子たちは会堂を出てガリラヤ湖の方へと立ち去られたのです。ここは以前の口語訳聖書では「退かれた」となっていました。その方が原文のニュアンスを伝えています。つまりただ立ち去ったと言うよりも、退いた、退却したのです。それはファリサイ派やヘロデ派の人々の敵意、殺意が高まっていたからでしょう。ユダヤ人の会堂はファリサイ派のホームグラウンドです。そこから逃れてガリラヤ湖の方に退却したのです。

イエスのもとに集まる人々
 すると、7節後半に「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った」とあります。ガリラヤ湖へと退いていく主イエスに、多くの群衆が従ったのです。その人々だけでなく、ユダヤからも、さらに8節にあるようにエルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が集まって来ました。ここに並べられている地名がどのあたりなのかは、聖書の後ろの付録の中の「新約時代のパレスチナ」という地図を見ていただくと分かります。ガリラヤはガリラヤ湖の西側の地域で、主イエスはそこでお育ちになり、伝道の活動をお始めになりました。ユダヤは南の方、死海の西の地域であり、その中心がエルサレムです。イドマヤはユダヤのさらに南で、イドマヤ人というのは、旧約聖書に出てくるエドム人とユダヤ人との混血民族です。先ほどの領主ヘロデやその父であるヘロデ大王はこのイドマヤ人の出身ですから、生粋のユダヤ人ではありません。また「ヨルダン川の向こう側」というのは、ヨルダン川の東側の地域、この地図ではデカポリス、ペレアといった地域です。ここはユダヤ人の地ではない、異邦人の地域です。「ティルスやシドンの辺り」というのは、今度はこの地図の一番北の、地中海沿岸の地域です。ここも「フェニキア」と呼ばれる異邦人の地です。これらの様々な地域から、ガリラヤ湖畔におられる主イエスのもとにおびただしい群衆が集まって来たのです。今見たように異邦人の地からの人々も含まれています。しかしそれはユダヤ人でない異邦人も大勢集まったというのではなくて、これらの広い地域に移り住んでいたユダヤ人たちが集まったということだろうと思われます。彼らは、「イエスのしておられることを残らず聞いて」集まって来たのです。主イエスの評判がまたたく間に、広い地域に伝わっていったことが伺えます。
 ところで7、8節をこの訳で読みますと、ガリラヤから来た群衆はイエスに「従った」とあり、その他の地域からの人々は「集まって来た」となっています。ガリラヤの人々とその他の地域の人々とでは主イエスに対する姿勢に違いがあったとも取れる書き方になっているのです。しかし7節の「従った」という言葉については、写本の研究においてはこれがもともとはなかったのではないかとも考えられています。この言葉を抜いて読むと、ガリラヤも含めてこれら全ての地域からの人々が主イエスのもとに集まって来たということになります。そのように理解した方が正しいでしょう。マルコは、ガリラヤの人たちと他の地域の人たちを区別してはいないのです。
 このおびただしい群衆は何のために主イエスのもとに集まって来たのでしょうか。そのことは10節から分かります。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」とあります。主イエスは多くの病人を癒しておられました。これまでに読んできた所にもいくつかの癒しの出来事が語られていました。その他にも沢山の癒しの奇跡が行なわれたのでしょう。彼らが「イエスのしておられることを残らず聞いて」とあるのは、それらの癒しの奇跡のことを伝え聞いてということです。それで彼らは主イエスのもとに押し寄せて来たのです。「病気に悩む人たちが皆」というのを、肉体の病に苦しんでいる人のみに限定して考える必要はないでしょう。様々な仕方で、苦しみや悲しみの中にいる人々が、救いを求めて主イエスのもとに集まって来たのです。

主人は誰か
 この人々の姿は、主イエスを殺すための相談を始めたファリサイ派とヘロデ派の人々とは対照的です。宗教的、政治的指導者たちは主イエスを殺そうとしているのに対して、一般の民衆たちは、このように続々と主イエスのもとに集まって来たのです。そのことは何を意味しているのでしょうか。ファリサイ派やヘロデ派の人々が主イエスを殺そうとしているのは、主イエスが自分たちの立場や地位を脅かしていると感じているからです。主イエスの前では、自分たちが主人であることができなくなることを彼らは感じたのです。主イエスは、1章22節に語られていたように、「権威ある者」としてお語りになりました。つまりご自分が主としての権威を持っている方として語り、そのみ言葉に聞き従うことをお求めになったのです。1章15節の、主イエスが最初に語られた言葉「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」がまさに権威ある者としての言葉です。その主イエスの前では、人間は自分が主人であることをやめ、主イエスのみ言葉に聞き従うことを求められます。そこであくまでも自分が主人であろうとする者は、主イエスを殺そうとするしかないのです。ファリサイ派やヘロデ派の人々が主イエスを殺そうとしたのは、自分が主人であり続けようとしたということです。それに対して、自分の力でそれをどうすることもできない苦しみ悲しみの中にいる民衆は、権威ある者としてお語りになる主イエスのお言葉とその癒しのみ業に、救いを感じ取り、そこへと引き寄せられて来たのです。ファリサイ派やヘロデ派の人々と民衆との対照的な姿の原因はそこにあるのです。

苦しみ悲しみの大津波
 さて群衆が主イエスのもとに押し寄せて来た有り様を9節はこのように語っています。「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」。主イエスは群衆に押しつぶされそうになったというのです。これはすさまじい光景です。主イエスのもとに多くの人々が集まって来て、その足もとに座ってみ言葉に耳を傾けた、なとどいうのとは全く違うことです。人々が何とかして少しでも主イエスに触れようと押し迫ってきたので、主イエスが押しつぶされそうになったのです。満員の劇場やスタジアムで我れ先にと殺到した人々が将棋倒しになって踏みつぶされた人が死んだ、という事故が時々ありますが、まさにそのように、主イエスの身が危険になるような状態だったのです。そのように押し迫ってきた人々は皆、苦しみや悲しみをかかえた人々です。この世の苦しみ悲しみの大津波が主イエスに押し迫り、飲み込もうとしていると言ってもよいでしょう。そしてそれは、決してこの時、この時代だけの話ではありません。今日の私たちの社会にも、同じような、いやある意味ではこの時よりももっと深刻な苦しみや悲しみの現実があります。人々の呻きや声にならない叫びがあります。この聖書の時代に主イエスのみ業が及ぼしたのと同じようなインパクトある業が今もしなされたら、そこへと押し寄せてくる人々の波は、この時とは比べ物にならないくらい大きなものとなるのではないでしょうか。私たちはよく、教会はもっと社会の人々の苦しみを受け止め、それに応えていかなければならない、などと考えます。しかしもしも本当にその苦しみ悲しみをかかえた人々が教会に押し寄せて来たとしたら、私たちはそれに応えるどころか、その苦しみ悲しみの大津波にひとたまりもなく飲み込まれてしまうしかないでしょう。今お話ししていることは、自分自身を主イエスの弟子たちの立場に置いてのことです。主イエスを信じ従っていく信仰者は、主イエスの弟子となっている者です。この時の弟子たちも、自分たちのもとに押し迫ってくる群衆を見て、おそらく恐怖を覚えたことでしょう。「沢山の人たちが集まって来てくれて嬉しい」などという暢気なことではなかったと思うのです。  しかし同時に私たちは、主イエスのもとに押し寄せてきた群衆の一人でもあります。自分ではどうにもならない苦しみや悲しみをかかえて、何とかして主イエスに少しでも触れて、救っていただきたい、慰めや励ましや支えを与えられたい、そう願って、周りの人々のことを顧みる暇もなくひたすら主イエスにすがりつこうとしている、私たちはそういう思いで礼拝に集うこともあるのです。

小舟に乗って
 この押し迫る群衆を見て、主イエスは弟子たちに小舟を用意させ、それに乗り込まれました。小舟に乗り込んだということは、それに乗って岸を離れたということです。群衆が押し寄せている岸から少し距離を取ることによって、押しつぶされないようにしたのです。言い換えれば、押し寄せてくる人々がご自分に触れることができないようになさったのです。ここに、苦しみ悲しみを背負って押し寄せてきた人々に対する主イエスの姿勢が示されています。「群衆に押しつぶされないため」とありますけれども、主イエスは、触れればたちどころに病気を癒す力を持っておられる方です。片っ端からどんどん癒しを行うこともおできになったはずです。あるいは岸に留まったまま、自分が押しつぶされることがないように群衆を制御することだっておできになったと思います。しかしそのようにするのでなく、小舟に乗って群衆との間に物理的な距離を置かれたのです。それは何を意味しているのでしょうか。群衆が集まって来たのを見て舟に乗り込まれる、ということは主イエスの歩みにおいてしばしばなされています。この後の4章の1節以下にもそういう場面があります。1節にこうあります。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」。まさに本日の箇所と同じような情景です。ここで、舟に乗った主イエスは、そこから湖畔にいる群衆に教えを語っていかれたのです。同じようなことはルカによる福音書の第5章にもあります。神の言葉を聞こうとして群衆が集まって来たのを見て、主イエスはちょうどそこで漁を終えて網を洗っていたシモン、後のペトロに声をかけ、その舟に乗り込み、少し漕ぎ出させてそこから人々に教えを語ったのです。群衆を前にして舟に乗り込むというのはこのように、舟の上から岸にいる人々にみ言葉を語るためです。漕ぎ出して少し距離を置くことによって、より多くの人々に語りかけることができるようにしているのです。ここには、主イエスが舟の上から人々に教えを語ったとは書かれていませんが、4章の記述からして、当然ここでもそのために舟に乗り込まれたのです。このように、苦しみ悲しみを背負って押し寄せてきた人々に対して主イエスは、片っ端から病を癒し、苦しみ悲しみを取り除くことをなさったのではなくて、彼らにみ言葉をお語りになったのです。

主イエスを十字架につけたのは
 主イエスに触れて、癒していただこうとして押し寄せて来た人々にとって、このことは期待外れだったでしょう。主イエスの教えを聞いても、それで病気が治るわけではありません。苦しみや悲しみが解消されるわけではないのです。こんなことのためにわざわざ遠くから来たのではない、と多くの人は思ったのではないでしょうか。そういう思いは、苦しみや悲しみをかかえて主イエスのもとに集まって来る私たちの中にも起ります。救いを求めて教会に来て礼拝に出席しても、与えられるのは聖書の説き明かしの言葉だけだ、目に見える形での救い、苦しみ悲しみからの解放は得られない、期待外れだ、こんなことのために来たのではない、そういう失望の思いは私たちにも起るし、当時の群衆たちにもあったのです。それゆえに、この時こんなに沢山、まことに広い地域から集まって来た群衆が、最後には一人もいなくなってしまったのです。いなくなるどころか、あのファリサイ派やヘロデ派の人々の「イエスを殺そう」という思いに同調して、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶようになっていったのです。主イエスの十字架の死は、ファリサイ派やヘロデ派がそれを願っているだけの間は実現しませんでした。群衆が一緒になって「十字架につけろ」と叫んでいった時に、総督ピラトも十字架の死刑の判決を下したのです。つまり、主イエスを十字架につけて殺したのは、他ならぬ、苦しみ悲しみをかかえて主イエスの救いを求めて押し寄せて来たこの群衆たちなのです。先ほどは、自分が主人であり続けようとしている者は主イエスを殺そうとし、自分ではどうしようもない苦しみ悲しみを抱えている民衆は、主イエスのみ業に救いを感じ取り、そこへと引き寄せられるのだと申しました。それは事柄の一面ですが、しかし現実はもっと複雑です。私たちは、苦しみ悲しみをかかえて主イエスの救いを求める、その時にこそかえって、自分が主人となろうとする者なのです。自分の求める救い、自分の期待する救いこそが救いだと思い、それを与えることが神の義務であるかのように思い、神がその救いを与えてくれないとそっぽを向くということが起るのです。それが群衆の姿でした。この群衆の中に私たちがいます。私たちの中にもあるそういう思いが、主イエスを十字架へと追いやっていったのです。

本当の出会いと交わり
 主イエスは、そのような私たちに、あくまでもみ言葉を語りかけることによって関わろうとしておられます。その結果人々に捨てられて十字架につけられていくことになっても、主はその歩みを変えようとはなさらないのです。何故それほどまでにみ言葉を語ることにこだわっていかれたのでしょうか。それは、私たち一人一人と、本当に出会い、本当の意味で触れ合い、関係を持とうとしておられるからです。主イエスに触れたら病気が治るというのは、その時だけの、全く表面的な触れ合いでしかありません。そこには、本当の出会いと交わりはないのです。私たちの側からすればそれは、自分の苦しみ悲しみの解消のために主イエスの力を利用する、というだけのことです。利用できるならば、相手は主イエスでなくても、誰でもよいのです。そのような表面的な触れ合いによっては、主イエスが告げ知らせている主なる神様の恵みのご支配、神の国の福音は伝わらないのです。それが伝わるためには、主イエスと私たちの間に本当の出会いと交わりが起らなければなりません。主イエスがみ言葉を語りかけることにこだわられるのは、その出会いと交わりを私たちとの間に引き起こすためなのです。ですから主イエスは、ただ言葉だけを私たちに与えようとしておられるのではありません。あくまでもみ言葉によって私たちに語りかけ、出会い、交わりを築こうとしておられる主イエスは、その結果として起ってくる十字架の死を引き受け、ご自分の命をも私たちに与えて下さるのです。主イエスのみ言葉は、十字架の死に裏付けられたみ言葉、主イエスの命と結びついた、命がけのみ言葉です。み言葉をもって私たちと出会い、触れ合い、交わりを持って下さる主イエスは、ご自分の命をもって、全存在をかけて、私たちと関わり、触れ合い、救いを与えて下さるのです。

汚れた霊との戦い
 主イエスがそのようにみ言葉を人々に語っておられる中で、11、12節に語られていることが起りました。「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」。群衆の中には、汚れた霊に取り付かれた人々もいました。汚れた霊に取り付かれると、自分の言葉ではなくその霊の言葉を語り、自分の思いではなくその霊の思いによって行動するようになってしまいます。ですからここで、汚れた霊どもがひれ伏したとか叫んだというのは、具体的にはその霊に取り付かれた人がひれ伏し、叫んだのです。しかしそれは汚れた霊の行動であり叫びなのです。その汚れた霊が主イエスの前にひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫んだというのは、彼らが主イエスの正体を、つまり神の子であられ、人々の救いのためにこの世に来られた方であられることを、見抜いているからです。主イエスに触れようとして押し寄せて来た群衆たちは誰一人として、そのことに気付いていません。主イエスの前にひれ伏して、「あなたこそ神の子です」と言ったのは汚れた霊に取り付かれた人だけだったのです。そして彼らがひれ伏してそう叫んだのは、主イエスを礼拝したのでも、信仰を告白したのでもなくて、主イエスが自分たちをその人から追い出すことを防ぐため、つまり自分を守るためです。つまりここで、主イエスと汚れた霊との間に熾烈な戦いが始まっているのです。主イエスは汚れた霊を追い出して、それが取り付いている人を解放し、その人が自分自身の言葉を語り、自分の思いによって行動できるように癒そうとしておられるのです。つまりその人に救いを与えるために戦っておられるのです。そして主イエスはその戦いに勝利なさいます。汚れた霊は既に敗色濃厚であり、自分を守ることに必死なのです。そのように主イエスが汚れた霊を圧倒しておられるのは、主イエスの語っている言葉が、十字架の死に裏付けられた、命がけの、全存在をかけた言葉だからです。十字架の死に至るご生涯の全体によって、主イエスは私たちを、罪の支配から、汚れた霊の支配から、解放して下さるのです。

使徒たちの任命への備え
 汚れた霊に取り付かれた人の癒しは、既に1章の23節以下でもなされました。主イエスは汚れた霊を追い出して人を癒したのです。本日の箇所では、その霊が追い出されたことは語られていません。その代わりに、「自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」ことが語られています。このことの意味は、この後の13節以下とのつながりにおいて見えてくると思います。13節以下には、主イエスが12人の弟子を使徒と名付けたことが語られています。その使徒たちは、神の国の福音を宣べ伝える務めに任命され、また「悪霊を追い出す権能」を授けられるのです。本日の箇所に語られていることはこの使徒たちの任命への備えであるとも言えます。つまり、主イエスが神の子であられ、救い主であられることは、汚れた霊によってではなくて、主イエスによって派遣された使徒たちによって、つまり教会の伝道によってこそ告げ知らされていくのです。そして汚れた霊に対する勝利、その力からの解放も、主イエスからその権能を授けられた使徒たちによって、つまり教会の働きによってこそなされていくのです。そのことについては、13節以下を読む時に改めて考えたいと思います。本日の箇所においては、主イエスがみ言葉を語りかけることによってこそ私たちと本当に出会い、触れ合って下さること、そしてその中でこそ、主イエスの十字架の死に裏付けられた救いの出来事が私たちに起っていくのだということをしっかり見つめておきたいのです。

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