「福音の前進のために」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第6章1―13節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第1章12―30節
・ 讃美歌:52、401、518
教会全体修養会開会礼拝を兼ねて
本日はこの主日礼拝の後、今年度の教会全体修養会が行われます。この主日礼拝はその開会礼拝をも兼ねています。この後の修養会には参加できない方も、この礼拝を共に守ることによってその一部に参加することができるのです。本日の修養会の主題は「キリストの福音を伝道する教会」です。それは今年度の私たちの教会の年間主題でもあります。今年度はこの主題を意識しつつ、毎月の「今月の聖句」を選んでいます。その言葉は受付ロビーに石川慧子さんの素晴らしい書によって掲示されていますし、週報の第一頁にも記されています。そしてその「今月の聖句」について、第一水曜日の午後に行われている「昼の聖書研究祈祷会」においてお話をしています。そのプリントは受付のラックに置かれていますので、参加できなかった方もお読みいただくことができます。そのように毎月の聖句を通して、年間主題である「キリストの福音を伝道する教会」について学び、考えつつ歩んでいるわけですが、本日の修養会においても、そのことを学び、語り合おうとしているのです。この修養会のご案内のプリントの中に私は、本日は二つのことをお話ししようと思いますと書きました。第一は「パウロの伝道への姿勢」、第二は「指路教会はこれまでどのように伝道してきたか。そしてこれからは…」ということです。しかしこの二つの大きなテーマを、午後の1時間の講演の中で語ることは不可能です。そこで第一のこと、「パウロの伝道への姿勢」については、この主日礼拝の説教において、み言葉に聞きつつお話ししようと思います。午後の講演では第二のことに絞ってお話しするつもりです。そういうわけで、本日の礼拝説教の聖書箇所は、いつものマルコによる福音書を離れて、フィリピの信徒への手紙を選ばせていただきました。その第1章12節以下から、「パウロの伝道への姿勢」を聞き取っていきたいのです。
伝道礼拝に備えて
この箇所を選んだのにはもう一つの理由があります。来週の主日礼拝は「伝道礼拝」です。そこで読まれる聖書箇所は、このフィリピの信徒への手紙の第2章1節以下、つまり本日の箇所の続きの所です。本日この箇所を読むことによって、来週の伝道礼拝への備えともなればと願っているのです。勿論来週の礼拝においては、本日の説教を前提とした話はしません。初めて来られる方が、予備知識なしにも分かるように語りたいと思います。しかし続けて礼拝に出席しておられる方には、本日の説教と共に聞くことによってより深くパウロの信仰の世界に分け入ることができる、そういうことを願っているわけです。ちなみに10月の聖句は、この伝道礼拝の説教題の出所である2章4節の「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」です。月末に行われる伝道礼拝に備え、そこへと祈りを集中するためにこの聖句を選びました。その聖句が、「キリストの福音を伝道する教会」という年間主題とどう結びつくのか、ということについて、10月の昼の祈祷会でお話しをしました。
パウロの身に起ったこと
そのように結構いろいろなことを考えながら本日の聖書箇所、フィリピの信徒への手紙第1章12節以下を選んだのですが、ここは「パウロの伝道への姿勢」、つまりパウロがどのような思いでキリストの福音を伝道していたのかを知るためにとても大切な箇所です。12節で彼はこう言っています。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。「わたしの身に起こったこと」とは何でしょうか。それは次の13節から分かります。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」とあります。パウロは今、捕えられ、監禁されているのです。それが「わたしの身に起こったこと」です。「兵営」とあるのはローマの軍隊の兵営です。パウロはローマの軍隊によって捕えられ、監禁されているのです。それは勿論何か犯罪を犯したからではなくて、キリストの福音を伝道したことによってです。この頃はまだ、伝道すること自体が禁止されていたわけではありません。しかし、もともとユダヤ教ファリサイ派のエリートだったパウロが、主イエスを救い主キリストと信じる信仰へと回心し、イエスこそキリストであると伝道したことによって、ユダヤ人たちとの間にあちこちで騒動が起こりました。ローマの軍隊がパウロを逮捕したのは、そういう騒動の原因、治安を乱す者としてだったのです。そういう者としてパウロは、ひょっとしたら死刑に処せられてしまうかもしれない、という状況にいました。20節に「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」と言っていますし、第2章17節に「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」とあることからもそれが伺えます。キリストの福音を伝道したために捕えられ、監禁され、処刑されてしまうかもしれない、そういう生きるか死ぬかの状況に彼はいるのです。その中で、「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った」と語り、そのことを喜ぶ、と言っているのです。
福音の前進の第一歩
彼の逮捕と監禁がどのように「福音の前進」に役立ったのか。一つには彼を監禁しているローマの兵隊たちに、「この男はキリストを宣べ伝えたためにこうして捕えられているのだ」ということが知れ渡ったことです。主イエス・キリストのみ名とそれを信じる信仰者の存在がそのように知られていくこと、それが福音の前進になる、とパウロは言っているのです。これは私たちにおいても言えることです。クリスチャンが圧倒的に少ないこの国においては、自分がキリストを信じる者であることを表明することだけでも福音の前進につながります。「あの人も、この人もクリスチャンなんだ」ということが世の人々に知られていき、キリストを信じて生きている人々の存在が示されていくことが大切なのです。キリストの福音の前進のために、私たちはいろいろな機会に、自分が教会に通いキリストを信じている者だ、ということを明らかにしていきたいのです。それが、福音の前進のために私たちができる第一歩なのです。
迫害によってかえって
しかしパウロがここで見つめているのはそのことだけではありません。14節にこう語られています。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。パウロの逮捕と監禁が、同じ信仰に生きる兄弟たちの多くの者に確信を与え、彼らは恐れることなくますます勇敢に福音を宣べ伝えるようになったのです。これを不思議なことと思うことはありません。信仰の確信に立ち、命を惜しまずに福音を宣べ伝えている伝道者の姿は、信仰者たちに勇気と力を与えるのです。キリスト教の歴史は、迫害によって信仰を失わせたり、撲滅することはできないことを証明しています。250年にわたるローマ帝国による迫害の中で、キリスト教は衰えるどころかむしろ盛んになっていき、ついには公認を勝ち取り、ローマの国教にまでなっていったのです。殉教者の血は新たな信仰者を生む種となる、と言われていました。本当の信仰とはそういうものだということでしょう。逆に言えば、迫害によって衰えるようなら、それは本物の信仰ではない、ということです。パウロの受けた迫害も、信仰者たちをかえって勇気づけたのです。そのことをフィリピの教会の人々にも知って欲しいと言っているのです。
動機はともあれ
パウロの逮捕、監禁を知ってますます伝道に励んでいる人々の中には、「自分の利益を求めて」「不純な動機から」そうしている者たちもいた、ということが17節に語られています。それが具体的にどういうことだったのかよく分かりませんが、要するに伝道においても勢力争いのようなことが起っていたということでしょう。15節に「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば」とあることからそれが分かります。パウロのことをねたみ、対抗心を燃やして伝道していた人々がいたのです。その人たちは、パウロが捕えられたことを聞いて、「よし、自分たちの勢力を拡大するには今がチャンスだ」と思ったのかもしれません。人間のねたみ、対抗心、そこから生まれる党派心、勢力争いは、信仰の世界にも入り込むのです。それは嘆かわしいことですが、しかしパウロは18節でこう言っています。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」。パウロは、そういうねたみや党派心の存在を気にしていません。それらを乗り越えているのです。彼が見つめているのは、動機はどうであれ、「キリストが告げ知らされている」ことです。主イエスこそキリスト、つまり神様が遣わして下さった救い主である、ということが宣べ伝えられ、キリストの福音が前進していくなら、それを宣べ伝えたのが誰であろうと、それが自分の仲間たちの働きでなくても、パウロは心から喜び受け入れることができるのです。パウロは一方で、敵対する者たちと激しく戦っています。この手紙の中でも、3章2節では「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい」と語っています。それは、主イエス・キリストによる罪の赦しを否定して、律法の行い、つまり人間の善い業によって救いが得られると主張する人々のことです。パウロはそういう間違った教えは厳しく退け、それと戦っていますが、まことの神であられる主イエスが人間となってこの世に来て下さり、十字架の死によって罪の赦しの恵みを与えて下さった、というキリストの福音を告げ知らせている人々ならば、様々な違いがあっても、自分に対して敵対心を持っている者たちであっても、その働きを喜んでいるのです。
生きるとはキリスト
ここにパウロの伝道への基本的な姿勢が見て取れます。その大事なポイントは、伝道は自分たちの勢力拡大のための業ではない、ということです。伝道に人間のねたみや党派心が入り込んで来るのは、それを自分たちの勢力を拡大することと勘違いしてしまうことによってです。そうなると、伝道のことも、自分たちの群れの利益になるかならないか、ということを基準として判断されるようになります。そしてそこには逆にある後ろめたさも生じます。伝道よりも、もっと人々のためになすべき大事なことがあるのではないか、などと思うようにもなるのです。つまり、自分たちの勢力の拡大ばかりを考えていてはいけないのではないか、という思いです。しかしパウロの伝道への姿勢からはそのような思いは生まれて来ません。パウロにとっては、伝道より大事なことなどないのです。伝道は自分の命よりも大切なことなのです。それは、主イエス・キリストが自分の命より大切だからです。そのことが20節に語られています。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」。生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられるようにと願っている、それは、自分が生きるか死ぬかよりも、つまり自分の命よりも、キリストがあがめられることが大切だということです。その根底にある思いが21節に語られています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。「わたしにとって、生きるとはキリストである」。ここにパウロの信仰の神髄があります。「生きるとはキリストである」とうのは文章が変です。意味が通じません。「生きるとはキリストと共に生きることである」とか、「キリストによって生かされることである」と言うなら分かります。この言葉にはそういう意味も含まれています。しかしそのように論理的に通じる文章にしてしまうと、パウロの本当の思いが通じなくなるのです。「キリストと共に」とか「キリストによって」ではなくて、「生きるとはキリストである」と言うしかないほどに、自分の命とキリストとが一体となっているところに、パウロの信仰の神髄があるのです。そのキリストを宣べ伝え、キリストがあがめられるようにと願うことは、自分の勢力の拡大などとは全く無縁なことです。伝道することによって自分が利益を得ようなどとは全く思っていないのです。それゆえに、伝道よりもっと大事なことがある、などという思いも、パウロとは無縁なのです。
生きることと死ぬことの板挟み
「生きるとはキリストである」というキリストとの一体性は、肉体の死によっても失われてしまうことはありません。むしろ、死によってその一体性は深まるのです。23節の後半に「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と語られていることがそれを示しています。死んでこの世を去れば、肉体をもって地上を生きている今以上に、キリストと共にいることができるのです。その方がはるかに望ましい。だから「わたしにとって死ぬことは利益」なのです。しかしパウロはだから早く死にたいと言っているのではありません。生きることもキリストなのですから、この地上を肉体をもってなお生きていくこともまた良いことなのです。それを語っているのが22節です。「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」。その実り多い働きこそ、キリストの福音を宣べ伝える働き、伝道です。そこに与えられる実りとは「わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」なることです。パウロは、自分がその働きのために選ばれ、主イエスに召されている、という召命(神の召し)を自覚しています。主から与えられたその使命に生きることもまた素晴らしい恵みなのです。だからパウロはここで、「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です」と言っています。生きることも死ぬことも、どちらも「キリスト」であり、素晴らしい恵みなので、どちらを選んだらよいのか分からない、そういう贅沢な板挟みの中に自分はいる、と言っているのです。
生きることも死ぬことも恵み
しかし実際には彼は、どちらかを選ぶような立場にはいません。監禁されている彼が殺されるのか、それとも釈放されてなお伝道を続けることができるのか、それはローマの当局の判決を待つしかないのです。つまり彼は今、「贅沢な板挟み」どころか、生き延びることができるか殺されてしまうかの瀬戸際にいるのです。しかしパウロは、どちらになるにしても神様の素晴らしい恵みが備えられていることを信じています。それを信じて主なる神様に、生きることをも死ぬことをも委ねているのです。「生きるとはキリストであり、死ぬことも恵みである」という信仰によって彼はこのように、「生きるか死ぬか」という人生最大の問題から解放されているのです。その解放は、自分の命より主イエス・キリストが大切であるという信仰によってこそ与えられています。主イエス・キリストによって、命の大切さ、生きていることの素晴らしさも与えられているし、またその命を終えて死ぬことも、より大きな恵みへと迎えられることとされているのです。これが「キリストの福音」、キリストによって与えられる救いの知らせです。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、この救いの恵みが私たちにも与えられているのです。この福音によって私たちは、救いの喜びにキリストと共に生きることができるし、永遠の命の希望の内に死ぬことができます。生きることと死ぬことの全てを、神様に委ねて歩むことができるのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられたこの福音を、言葉と生活とをもって証しし、宣べ伝えていくことが伝道です。私たちも、先輩の信仰者たちの伝道によってキリストを信じる者となり、キリストをあがめ礼拝する者となりました。今度は私たちが、キリストと共に生き、キリストによる永遠の命の希望の内に死ぬこととを通して、キリストをあがめ礼拝する信仰者が新たに興されていくのです。
立派になることによってではなく
そこで勘違いしてはならないことがあります。私たちの生きることと死ぬことを通してキリストがあがめられるようになることは、私たちが立派な人間として生き、立派に死ぬことによって起るのではないのです。私たちが立派に生き、立派に死ぬことによって人々があがめるのは私たちであってキリストではありません。キリストがあがめられるのは、立派でも何でもない、むしろ様々な罪や弱さや欠けによって苦しみ悩んでいる破れかぶれの私たちが、しかし主イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦され、慰めと力づけを与えられつつこの世を生き、そして主イエスの復活によって与えられた永遠の命の約束を信じて、希望の内に死ぬことによってです。つまり大事なことは、罪と弱さの中で苦しみや悲しみを背負っている私たちが、主イエス・キリストによる救いにこそ依り頼んで歩むことなのです。そういう信仰のある所には、自分の勢力の拡大とか、自分の得になることを求めることとは無縁の、真実の伝道がなされていくのです。
福音にふさわしい生活
迫害によって伝道はかえって盛んになっていく、そういう信仰こそが本物だ、と先ほど申しました。果して自分の信仰は本物になっているだろうか、迫害に負けない強い信仰を持つことができるだろうか、と私たちは不安を覚えます。しかしそこにおいても、今申しましたように勘違いしてはならないのです。私たちが強い信仰を持つことによって迫害に負けない本物の信仰者となるのではありません。私たちが信じているのは、強い信仰によって苦しみ悲しみに打ち勝つことができない弱さの中にいる私たちのために、主イエス・キリストが十字架と復活による救いを与えて下さったという福音です。神様の独り子であられる主イエスが、弱い罪人である私たちの所にまで降ってきて下さり、罪を全て背負って十字架の死刑を受けて下さったのです。その救いにあずかるために、私たちは強くなることも、立派になることも必要がないのです。大切なことは、このキリストの福音を本当に信じることです。そして、27節でパウロが語っているように、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送」ることです。それは強く立派に生きることではなくて、弱い罪人である自分が、それにもかかわらずキリストの恵みによって救われていることを信じて、その喜びと感謝に生きることです。私たちの強さや立派さによってではなくて、この喜びと感謝の中でこそ、28節にある「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」という歩みが可能になるのです。
福音の前進のために戦おう
29節には、「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあります。キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている。それは苦しみをも恵みと思って頑張れ、というような信仰のヒロイズムを語っているのではなくて、キリストを信じる恵みを与えられた者にはそれが自然なことなのです。30節には「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」とあります。キリストの福音にふさわしい生活を送ることには戦いがあります。伝道することも戦いです。伝道する相手と戦うのではなくて、伝道を妨げようとする自分自身の思いと戦うのです。そして戦いには当然苦しみも伴います。しかしその戦いも苦しみも、十字架と復活における主イエスの戦いと勝利とによって支えられており、「生きることはキリストであり、死ぬこともまた益である」という恵みの中での戦いであり苦しみなのです。福音の前進のための戦いを、「生きるとはキリストである」という喜びの中で私たちも戦っていきたいのです。