夕礼拝

なぜ怖がるのか。

「なぜ怖がるのか。」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第107編23-31節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第4章35-41節
・ 讃美歌 : 458、69

はじめに
本日は青年伝道夕礼拝であります。今日初めて教会に来たという方も、また久しぶりに横浜指路教会へ来られた方もおられるかと思います、本日は先ほど朗読して下さいました、マルコによる福音書第4章35節から41節の小見出しに「突風を静める」とあります、主イエスが嵐を静められた、という聖書の御言葉を共に聞き、御言葉に耳を傾けたいと思います。

向こう岸に渡ろう
本日の箇所の時は夕方であります。主イエスは舟の上から人々に教えを説いておりました。そして夕方になりましたに、主イエスの話しを聞いていた群衆も家路についております。けれども主イエスは岸には戻らず、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。弟子たち以外の群衆は家路についております。けれども、弟子たちは主イエスのその言葉に従い、なおも主と共に出掛けていくのでした。弟子たちは主イエスと共に沖へ漕ぎ出したのです。沖へ出たのは主イエスをお乗せした舟だけではありません。他の舟も一緒でありました。恐らく、漁のために用いる小さな舟に分乗したのでしょう。かつては漁師であったペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネにとっては、扱い慣れた舟であったでしょう。慣れた手つきで舟を漕いだことでありましょう。

嵐の中で
ところがこの時、向こう岸に着く前に思いがけないことが起こりました。突然、激しい風が吹き、また波が大きくなりました。大嵐に見舞われたのであります。
ガリラヤ湖を取り囲む山々から湖面に吹き降ろしてくる強風によって、小さな舟は大波に被われ、舟の中は水浸しになるほどです。ガリラヤ湖の気候や舟の扱いに慣れていたであろう元漁師たちでさえ、身の危険を感じるほどだったのです。想像してみて下さい。殆ど灯りの無い湖で辺り一面は真っ暗闇です。小さな松明のようなものはあったかもしれませんが、殆ど灯りの無い湖上で、激しく上下するその舟の中にいます。今にも湖の中に投げ出されそうな、そういう中で、もし私達がそこにいたらどうするでしょうか?舟に必死にしがみ付いていても、その舟そのものが、もう沈みそうなのであります。弟子達はとても心細かったでしょう。弟子たちは主イエスの「向こう岸に渡ろう」というお言葉に従って沖へ漕ぎ出したのです。主イエスの言葉が弟子たちを促したのであります。それなのに、どうしてこのようなことが起きるのだろう、と弟子たちは思ったでしょう。主イエスの御心に従う道は、順風満帆、平穏無事であるというわけにはいかないのです。いや、むしろ主イエスに従う歩みをしているがゆえに、信仰を持っているがゆえに、この世の嵐が襲い掛かってくることがあるかもしれません。私たちは信仰を持ってこの世で歩んでいるとき、この世の荒波に飲まれそうになることが起こります。私たちはそのような試練にあったとき、自分の知識や力や経験で乗り切ろうとします。けれども、自分の力ではどうにもならない激しい嵐が襲い掛かってくることがあるのです。

わたしたちがおぼれてもかまわないのですか
そのような時に、私たちは何に依り頼むことができるのでしょうか。ここで主イエスは舟の艫の方で枕をして眠っておられた、とあります。元漁師達でさえ手に負えない嵐の小舟の中で主イエスは眠っておられたのです。命の危険を感じた弟子たちたちは慌てて主イエスを起こし、助けを求めました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」こんなに危機的な状況の中で、何で平然と眠っておられるのですか?眠っている主イエスを見て弟子達は、思わずこのような言葉を口にしたのであります。「私たちは溺れそうだ」と助けを求めているだけなく、彼らのこの言葉の中には、主イエスを非難する調子が読み取れるのではないでしょうか。「私たちがこのような大嵐に見舞われているのに、イエス様あなたは私たちが溺れても構わないのですか」更に「イエス様、あなたが『向こう岸に渡ろう』と言われたから漕ぎ出したのに、助けてくれないなんて」というような調子です。この言葉は危機に陥った者達が発する言葉であります。私達全ての者が口にする言葉であります。「私達が溺れても構わないのですか?」このような言葉は、私たちが危機に遭遇した時に口にする言葉でありましょう。

皆さんは、「足跡」(Footprints)という詩をご存知でしょうか。この詩の中で、ある夜、「私」は夢を見るのです。夢の中で、それまでの自分の人生が映し出されるのを見たのです。どの場面にも、主イエスと並んで歩く、二組の足跡が記されているのが見えました。ところが、最後のところで、いつも二つ並んでいた足跡が一つしかない。しかもそれが、自分の人生で一番辛く悲しい時であったことを知って、深く悩むのです。そして、主イエスに訴える。「あなたは、私があなたに従うならば、いつも私と共に歩んでくださると約束されたではありませんか。それなのに、私の人生の一番辛いときに、一番あなたの助けを必要としていたときに、どうしてあなたは私を見捨てて、一人ぼっちにしてしまったのですか」。その嘆きとも非難ともつかないうめきに対して、主はささやくように答えられます。「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた」。この人は、足跡が一つしかないとき、自分は主に見捨てられて、一人で歩いていたと思いました。しかし実際には、主イエスに背負われていて、残された足跡は主のものだったというのです。
自分自身の体験に重ね合わせながら、この詩に心を寄せ、涙する人もいるでしょう。しかし、そこでなお一つ、問わなければならない問題があると思うのです。この詩をつづる信仰者は、自分の人生の一番辛いとき、苦しいとき、主に背負われていたのに、そのことに気づいていなかったのです。主イエスからそのことを教えられるまで、気づかなかったのです。いや気づかなかったどころか、そこに残された一つだけの足跡は当然、自分のものだと思い込んでいました。自分が、自分の足で歩いていると思っていたのです。そして、自分を見捨てて、離れてしまった主イエスに文句を言う。これが、まさに私たち人間の姿だと思います。主がそこにおられるのに気づかない。いや、主が背負っていてくださるのに気づかない。そういう鈍さです。もちろん、舟の中の弟子たちは、主イエスが一緒に乗っておられることを知っていました。見えていました。しかし、このお方がどなたなのか、何をしておられるのか、ということが分からなかった。ただ自分たちを見捨てて、呑気に寝ているようにしか見えなかったのです。

静まれ
このような危機に陥った人間の必死の願いに対して、主イエスはどう振舞われたのでしょうか?何度読んでもこの話は、驚くべき主イエスの様子を伝えています。弟子たちに起こされた主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に向かって、「黙れ。静まりなさい」と言われました。すると弟子たちの見ている前で風はやみ、湖は静まり、すっかり凪になった、というのであります。主イエスが「黙れ、静まれ」とお命じになると風も湖も従いました。ガリラヤ湖はしばしば海と呼ばれております。海、あるいは湖、大波もそこに棲む怪物も、神に逆らう混沌の力の象徴として語られているということ)。神に逆らう怪物と言うのは神の支配に抵抗する勢力、または神に敵対する悪しき力とも言えるでしょう。神に逆らう罪の姿でもあります。私たちは荒れ狂う夜の海を見たら、誰でもそう思うのではないでしょうか。その海を、主イエスは叱って黙らせたのです。

罪の力を退けて
ここで使われている、湖に向かって叱るという、この「叱る」という言葉は、旧約聖書に使われております、それに相応する言葉、それと照らし合わせて考えてみますと、創造主なる神が、「混沌と闇の力とを退ける時に使われる言葉」だと言われます。神は混沌と闇を叱り、そこに秩序を齎されるのであります。そういう言葉に相当するものがここで用いられているのであります。神の子イエス・キリストは、その言葉をもって、激しい突風を静められるのです。神の子であられるイエス・キリストは全てのものを御心に従って造られた神の権威において、神に逆らう力を退けられているのであります。悪しき罪の力が主イエスの言葉によって退けられるということが、弟子達の前で出来事となって現れているということであります。主は、驚いている弟子達に向かって言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(4:40)主イエスは、神に逆らう罪の力に対して、権威あるみ言葉によって打ち勝たれたのです。その主イエス・キリストを信じる事が出来ない時に、人間は不安に陥り、どうしてよいか分からず、慌てふためくのです。神様を信じる事がないと、人間はこのようであります。主イエスに従う弟子として招かれたけれども、嵐ばかり見て、怖じ、恐れ、慌てふためき、右往左往し、嵐の中において共にいて下さる方を見ることが出来ないのであります。「黙れ、静まれ」という言葉は、荒れている風や湖に言われている言葉ですが同時に、嵐に直面して、心が荒れ狂い、風が吹き荒ぶ弟子達にも言われているのであります。私たちはしばしば、主イエスに対して、なぜ眠っておられるのですか。目覚めてください、と叫びます。しかしむしろ眠っているのは、私達の信仰の方であります。目覚めなければならないのは、私達の信仰であります。危機に際して私達が持つべきものは「神様への信頼」です。信仰とは、神様への信頼であります。いつも神の御手に我が身をすっぽりと委ねる。そして神の御手から全てを受け止める、受け取るのであります。嵐の中で主は眠っておられる、けれども主は立ち上がって下さる。私たちのために立ち上がって下さる主イエスに信頼することができるのです。舟を漕ぎ出すにも漕ぐのを止めるにも、凪においても嵐の中でも、主が舟の艫にいて下さるのであります。襲い掛かる嵐というのは私たちの外側から来るとは限りません。しばしば私達の内側にも嵐が起ります。怖れや疑いという嵐が、私どもを襲います。そして何もかも破壊してしまうのです。弟子達もまた主に対して、「主よ、あなたは何をしておられるのか?私達が溺れても構わないのですか?」と問うのです。しばしば私どもは、思い通りにならないことで、神に向かって非難めいた言葉を発するのではないでしょうか?主イエスはその弟子達に対して「なぜ信じないのか」と、強く言われました。主イエスは私達の内なる嵐に対しても「静まりなさい」と言って下さいます。

向こう岸を見つめる歩み 
主イエスは最初の「向こう岸へ渡ろう」と言いました。主イエスは弟子たちと共に神様のご支配の実現に向けて歩まれる方です。その歩みは決して平坦ではなく、苦難への道でありました。十字架へと赴かれたのです。主イエスが眠っておられた場所は、私たちのために死んで、死の中から起き上がられます。死の力が支配する夜、波にのみ込まれそうになる嵐の中、死の恐れに取り憑かれて取り乱す私たちのために、主は起き上がってくださいます。主イエスこそは、ひとたび死んで、滅びの力にのみ込まれた姿をとりながら、けれども死に打ち勝ち、死の中から起き上がってくださった方なのです。向こう岸を目指す短い舟の旅の間にも、大きな嵐が起こり、信仰が沈みそうになります。しかし、この舟には主イエスが一緒に乗っておられます。私たちは、主イエスの舟に乗せていただいているのです。ここにこそ、生きているときも死ぬときも、死の中においても決して空しくなることのない唯一の慰めがあります。私たちの体も魂も、主イエス・キリストのものとされ、主イエスに結ばれた者として舟の旅を続けるのです。嵐によっても破られず、死の中でも揺るがない、主ご自身の平安の中に包み込まれて、復活の命が輝く向こう岸を目指すのです。
この聖書の箇所における、舟は教会であると読まれてきました。私たちは教会に連なりつつ、世へと出て行きます。それは、人間の罪の世にある嵐に見舞われることがある歩みです。自分自身の罪によって、主を見失うという嵐も経験するでしょう。しかし、私たちの根本的な苦難は主イエスが既に取り除いてくださっているのです。ですから私たちは、安心して、漕ぎ出すことが出来るのです。私たちこの礼拝の場から世へと出て行きます。それは、主と共に、「向こう岸」に向かって行く歩みです。 主イエスが乗り込んでいてくださる舟である教会において、私たちは主の弟子として、主と共に向こう岸まで漕ぎ続けるのです。

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