夕礼拝

目に見えない望み

「目に見えない望み」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第37章1-10節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
・ 讃美歌 : 347、129

自然、被造物の力
 本日は5月の最終日であり、明日より私たちは新しい月の歩みを始めようとしております。私たちは心身の疲れを覚えると自分なりの解消法を見つけてバランスを保っているのではないでしょうか。特に自然と触れるということは大事なことではないでしょうか。疲れていたはずの体が、いや心身ともに爽やかな初夏の風の息吹を吸うことによって、不思議にも力がみなぎってくる、このような経験をされた方は多いのではないでしょうか。大自然の中で何か元気を与えられる、人生の慰めを得る、そのような経験というのは多かれ、少なかれ私たちの中にあるのではないでしょうか。けれども、自然が必ずしも私たちにとっていつでも美しいもの、力や慰めを与えてくれるものではないということを、私たちは知っております。私たちの国においても、また世界を見回しても、自然の力を見せつけられるということを経験いたします。温和な気候に恵まれていると日本においても、大雨や暴風雨また、地震の災害などの自然の厳しさとは、時に全てを破壊します。私たちはしばしば自然の恐ろしさを味わされるのであります。私たちが美しいと思い、慰めを得る自然の中に、思わぬ破壊の力を見出します。そのような自然の持つ力の前で、私たち人間は微力な存在であり、弱い存在であることを感じさせられるのです。そのように自然は、時には美しい、疲れを癒してくれる存在であり、また時には私たちを脅かす恐ろしい力ともなるわけですが、聖書はこの自然のことをどのように見つめ、語っているのでしょうか。

救われなければならない被造物
 本日の聖書の箇所で使徒パウロは、「被造物」という言葉を何度も語っています。19~23節にこのように言われています。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」ここに何度も出てくる「被造物」とは、神様によって造られた世界全体のことであり、そこに住む植物や動物、もちろん人間も含めた自然界全体のことです。パウロは、自然のことを「被造物」つまり神様によって造られたもの、と呼んでいるのです。そしてパウロは、この被造物が、「虚無に服して」おり、「滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずか」る希望を持っている、と語っています。これは言い換えれば、被造物、自然も救われなければならないということであり、その救いへの希望が与えられている、ということです。被造物も救われなければならない。聖書が語っている「救い」は、人間の心の幸福や安らぎのみの事柄ではないのです。人間のみの救いではなく、神様の救いの御業は全ての被造物、自然にまで及ぶのです。聖書が一貫して私たちに語りかけていることは、私たち人間を含めた被造物全体の救い、被造物全体が救われることなのです。一人の人間が元気を得る、慰めや安らぎを得るということが聖書が語る救いではありません。神様が造られたこの天地万物すべてのものが「救われる」「造り変えられていく」、それが聖書の語る救いであります。ではなぜ、被造物、自然も救われなければならないのでしょうか。  

人間の罪
 私たちは聖書の始めにあります、神様がこの世界を創造されたという創世記の出来事を通して、なぜ被造物が造り変えられる必要があるのかということを知ることができます。天地創造において、神様は人間をご自分に似た者として創造されました。人間をご自分と似た者として造られたというのは、姿形のことではありません。人間を、被造物、自然の全体を治める者として造られたということです。人間は被造物の長として、被造物の頭として造られているのです。けれどもその人間が神様に背いて罪を犯したことが創世記に記されております。自然界を治める役目を与えられた人間が神様に背く者となったことによって、その支配下にある自然界もまた神様の呪いの下に置かれた、と創世記の3章は告げております。創世記の3章17節にはこのようにあります。お聞き下さい。
 「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。』」(創世記3:17-19)これは、神様に背いて、食べてはならないと命じられていた木の実を食べてしまう罪を犯した人間アダムに対して神様がお語りになったみ言葉です。この罪のゆえにアダムはエデンの園、楽園を追放されていくのですが、神様はここで、人間の罪のゆえに「土は呪われるものとなった」と言っておられます。人間の罪の結果、土、つまり大地、自然が呪われるものとなってしまったのです。そのために、楽園を追放された人間は以後、この呪われた土地で生きなければならない。この呪われた土地の中で労働をして、労苦をして、死んで土に返るときまで顔に汗を流しながらパンを得なければならなくなったのです。創世記第3章はこのように、人間は被造物の頭として、神のみ心に従って被造物を管理すべき者として立てられたこと。けれどもその人間が神に背き、自分が主人となって生きようとした罪によって、被造物を正しく管理することができなくなり、その結果被造物は呪われるものとなってしまったことを語っているのです。それゆえに、神に背く罪を犯した人間が救われなければならない者であると同様に、被造物全体、人間が生きるこの世界と自然も救われなければならないのです。

被造物の希望
 人間が救われなければならない状態にある様子をこのように語ります。18節には「現在の苦しみ」20節には「被造物は虚無に服している」とあり、更に21節で「滅びへの隷属」と人間の悲惨さと人間を含めた被造物全体の悲惨さが語られております。私たち一人ひとりが日々の歩み中で抱えている試練や苦しみはもちろん、悲惨さであります。その頂点は私たちが死を迎えなければならないというころです。この悲惨さは私たち人間、被造物全体が抱えることです。ローマの信徒への手紙は、大変大きな事柄を語っております。造られたもの、被造物という言葉が出てきます。この全被造物が抱えている問題、それは滅びへと向かって悲惨な歩みの中に置かれているということです。
 20節「被造物が虚無に服している」生まれたものは死ぬという定めにあり、生起したものは消滅していき、栄えたもののやがて必ず滅ぶということです。この「虚無」というのは、「虚しいもの」「何の意味もないもの」「存在している全てを無に帰してしまう」そのようなものを指しております。そのような虚無的な力に捕らえられ、屈服しているということです。聖書がそのようにして、今私たちが置かれている現実を見ております。私たちは私たちの罪のゆえに私たちを造られた神様を神様としない世界、隣人を隣人としない世界におります。私たちはどんどん神様から離れていき、神様との関係が正常ではなくなってしまった、虚無に服してしまうということです。けれども聖書は希望を語るのです。21節「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(8:21-22)「産みの苦しみ」とは、被造物の産みの苦しみであり、希望のある苦しみです。なぜ苦しみに希望が伴うと言えるのでしょうか。なぜなら、何よりも霊の初穂である「神の子の出現」によって希望が与えられるのです。神の子とは主イエス・キリストであり、罪に陥った人間が主イエス・キリストによって救いにあずかって神の子とされ、神様との関係を正しいものとされることによって、被造物も苦しみや虚無、滅びへの隷属から解放されるという希望です。被造物の希望は私たち人間にかかっている。私たちがキリストの救いにあずかって神の子とされることが、被造物全体の希望なのである。

霊の初穂
 霊の初穂とは私たちを奴隷として再び恐れに陥れる霊ではないのです。「初穂」は「その年の収穫の最初のもの」という意味です。その後の豊かな実りを約束している。「霊という初穂」「聖霊という初穂」を信仰者は与えられています。私たちを神の子どもとする霊である。それによって、私たちは「アッバ、父よ」と天におられる、造り主である神様を呼ぶことが出来るのです。「アッバ、父よ」と言うのは小さな子どもが信頼を込めて「お父さん」と呼びかける言葉であります。奴隷というのは、親しげに「父よ」と呼ぶことは出来ません。けれども、「本当の子ども」であれば、親しく「アッバ、父よ」と呼ぶことができます。私たちは神様の元を離れてしまった人間であり、「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来なくなっています。けれども、独り子である主イエス・キリストのゆえに、私たちはもう一度天におられる造り主なる神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。そのように呼びかけることのできる霊を受けているのです。8章14節にこのようにあります「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」主イエス・キリストにあって神様を父とする神の子どもたちが誕生している。聖霊によって新しい人間たち、新しい神の子ども達が生み出されたのです。私たち人間は死と滅びへと向かって行くものであり、その歴史を歩んでおります。けれども、主イエスはその中で復活なさり、新しい命を示してくださいました。この主イエス・キリストによる救いの業によって、私たちが神の子とされた。このことこそが、滅びへの隷属の中にいる被造物の希望です。私たちが神の子とされることは、私たち自身も「うめきつつ待ち望む」こと、であります。つまり将来の救いの完成であり、だから「このような希望によって救われている」のであり、

目に見えない望み
 私たちは「目に見えないもの」を「忍耐して待ち望む」のであります。現在の私たちの置かれている苦しみの中で、希望を持ちつつ忍耐して生きることが信仰であります。それは被造物全体のうめき、産みの苦しみと呼応することである。私たちがうめきつつ、しかし希望をもって忍耐し、待ち望む信仰に生きることにこそ、被造物全体の希望があるのです。罪の中を歩んでいた私たちが、神様の聖霊によって、神様の子どもとして歩むことができるようになったのであります。私たちは、私たちの主、全世界がこのお方をまことの救い主として礼拝しております。父なる神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことのできる、神様の子ども達の群れを聖霊が生み出したのであります。その群れこそ、聖霊なる神様の働きが現れた場所であるこの教会であります。今なお生きて働かれる聖霊の御業を覚えて今週も歩んで参りましょう。

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