週日聖餐礼拝

神の恵みを無にしない

「神の恵みを無にしない」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第84編1節-8節
・ 新約聖書: ガラテヤの信徒への手紙 第2章15-21節
・ 讃美歌:1、291、361、204、541(いずれも旧讃美歌)

礼拝の幸い
 普段主の日の礼拝になかなか集うことができない皆さんをお招きして、この日共に礼拝をし、その中で聖餐にあずかることができることはとても喜ばしいことです。この礼拝においてご一緒に読む聖書のみ言葉を、旧約聖書と新約聖書それぞれから選びました。まず旧約聖書の詩編第84編を味わいたいと思います。この詩は、主なる神様のいますところを慕う歌です。2節に「万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されていることでしょう」とあります。その「あなたのいますところ」が3節では「主の庭」、5節では「あなたの家」、11節では「あなたの庭」と言い換えられています。それはどれも神殿を意味する言葉です。主なる神様の神殿を愛し、心から慕い求める思いをこの詩は歌っているのです。神殿とは、神様を礼拝する所です。ですから神殿を慕い求めるとは、礼拝を慕い求めることです。5節に「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら」とあるように、詩人は、主なる神様の家である神殿に住まい、神様を礼拝することができるならそれはいかに幸いなことだろうか、と歌っているのです。  礼拝を慕い求めるこの思いは、特に普段礼拝に集うことがなかなかできずにいる方々においては切実な、身につまされることだと思います。毎週礼拝に集うことができている者たちは、ともすればそれが当たり前のことになり、それがいかに幸いなことであるかを見失い、義務感で礼拝に出かけるようにもなります。せっかくの日曜日、もっと別のことに時間を使いたいのに、などと思ったりもするのです。しかしそんな私たちも、様々な事情によって礼拝に集えなくなってみると、この詩人が歌っている思いがよく分かるようになるのではないでしょうか。神様を礼拝しつつ生きることができることこそ、何ものにも替え難い幸いなのです。
 しかしそれは何故なのでしょうか。あるいは、本当にそうなのでしょうか。神様を礼拝することこそ何ものにも替え難い幸いであるというのは本当なのだろうか、という疑問は、私たちの誰もが抱く疑問だと思います。そんな疑問を抱くことは不信仰だからいけない、などと思う必要はありません。本当はそう思っていないのに、その本心は隠して、教会では、礼拝こそが恵みだ、礼拝はすばらしい、という建前のみを語る、というのは不健康だし、不誠実です。普段なかなか礼拝に集えずにいる方々の中には、勿論礼拝を心から慕い求めていながらどうしても来ることができない、という方々がおられます。しかし普段礼拝にそこそこに集っている者たちの中にも、自分の生活の中での礼拝の優先順位はそう高くない、と感じている人もいるのです。なかなか礼拝に集うことができないことの理由は実はそこにある、という方もいるかもしれません。私たちは、そういう自分の、また人々の現実を、目を開いて見つめなければなりません。そこで目をつぶって、本音と建前を使い分けるような不誠実なことはいけません。私たちは、自分にとって神様を礼拝するとはどのようなことであり、自分がそれをどう感じているかを常に振り返って確認していかなければなりません。そしてその時に大事なのは、自分を基準にして、自分がどう考え、感じるか、ということだけを見つめていてはならないということです。私たちがまず見つめるべきことは、私たちが信じ、礼拝している神様はどのようなお方なのか、ということです。そのことをみ言葉からしっかりと聞くことを第一としなければなりません。礼拝が何ものにも替え難い幸いであるのも、私たちが礼拝している神様がどのような方であるかということから来ているのであって、私たちが礼拝は有意義だと思うとか、好きだとか楽しいと感じるとかいうことが理由ではないのです。自分にとって礼拝とはどのようなことであるかは、そこで礼拝している神様がどのような方であるかにかかっているのです。そのことを考えるために、先程読んだ新約聖書の箇所、ガラテヤの信徒への手紙第2章15節以下を選んだのです。

律法の実行によってではなく
 この箇所の16節に、私たちが主イエス・キリストを信じたのは、何を信じたからなのか、ということが語られています。16節の前半です。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」、パウロはこのことを信じたのです。私たちも、その信仰を受け継いで、イエス・キリストを信じる信仰を告白し、洗礼を受けたのです。私たちが信じ、礼拝している神様は、このイエス・キリストの父である神様であり、律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって私たちを義として下さる、つまり救って下さる神様なのです。
 「律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって」ということの意味を正確にとらえなければなりません。律法の実行とは、神様の掟を守ることです。十戒を中心とする神様の掟、神の民として生きる者の守るべき戒めを守り実行するということです。それはさらに言えば、神様のみ心にかなう良い行いをするということであり、いわゆる敬虔で信心深い生き方をする、神様を信じる者にふさわしい信仰的な生活をするということです。そういうことによってではなくて、イエス・キリストを信じることによって救って下さる、そういう神様を私たちは信じ、礼拝しているのです。

イエス・キリストを信じるとは
 それではイエス・キリストを信じるとはどういうことなのか、そのことが19、20節に語られているのです。19節の途中から読みます。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。これが、イエス・キリストを信じることです。このことによって私たちは義とされ、救われるのです。もう一度確認します。キリストと共に十字架につけられて、もはや自分は死んでいる、生きているのはもはや私ではなく、キリストがわたしの内に生きている、それが、イエス・キリストを信じることなのです。つまり、キリストを信じるとは、キリストを信じてそれにふさわしい生き方をするとか、キリスト信仰という立派な教えに基づいて清く正しく信心深く生きることではないのです。そういうのは皆、ここで言うところの「律法の実行」です。つまり私が主体となって、私がどのように生きるか、という図式で表現されるものは全て「律法の実行」であって、イエス・キリストを信じることではないのです。「生きているのは、もはやわたしではありません」というのは、もはや私が主体となって、私がどのように生きるか、ではないということです。そして「キリストがわたしの内に生きておられる」というのは、キリストこそが私の歩みの主体であるということです。私の人生の主語は私ではなくてキリストだということです。
 それは具体的にはどういうことでしょうか。それを語っているのが20節の後半です。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。主イエスが主体、主語であるというのは、「私」がもうなくなってしまうことではありません。現実に生きているのは私なのですから、それはやはり私の人生です。しかしその私の人生が、「わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰」による歩みになる。つまり、主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、それによって私たちは罪を赦され、新しくされ、神様の民とされている、この主イエスにおける神様の恵みによって生かされる人生になるのです。主イエスこそが私の歩みの主体であるとはそういうことです。そしてそれが、イエス・キリストを信じるということなのです。私たちはこのことによって義とされる、つまり神様の救いにあずかるのです。ですから私たちが救われるのは、私たちが神様のみ心にかなう良い行いをすることによってではないし、信仰者らしい信心深い生活をすることによってでもないし、勿論毎週礼拝に出席することによってでもないのです。そういうことが全くなくても、私のために身を献げられた神の子主イエス・キリストによって、この主イエスを救い主と信じることによって、私たちは義とされる、神様のみ前で正しい者とされ、救われるのです。

神の恵みを無にしない
 私たちはこのことを信じて洗礼を受けたのです。そして、律法の実行によってではなく独り子イエス・キリストを信じることによって私たちを救って下さっている神様を礼拝しているのです。パウロはこの手紙で、この信仰による救いからそれていき、律法の実行によって、つまり自分がどれだけ良い人間になり、信心深い信仰者らしい生活ができるか、ということによって救いを確信しようとするガラテヤの人々に向かって、それは神の恵みを無にすることだと語っています。自分の行い、信仰の深さ、信仰者らしい生活を救いの根拠にしようとする者は、神様が独り子イエス・キリストによって与えて下さっている救いの恵みを無にしているのです。

喜びと感謝
 それなら、信仰者としての生活はいらないのか、良い行いに励むことは必要ないのか、礼拝を大切にして、できるだけ毎週出席しようと努力することは無意味なのか、という問いが当然起ってきます。そんなことはありません。それらのことは確かに、私たちが自分で救いを獲得するためには何の意味もありません。そういうことをしたから救われるわけではないのです。律法の実行によってではなく、とはそういうことです。私たちはあくまでも主イエス・キリストを信じる信仰によって、言い換えれば神様の恵みによって救われるのです。この神様の恵みによる救いをいただいた私たちは、その救いを喜び、神様に感謝して、神様と共に生きる者となるのです。そこに、信仰者としての生活が、神様が喜んで下さる良い行いに励むことが生じるのです。神の恵みを無にしない、というのはそういうことでもあります。礼拝も、私たちが神様の恵みを無にすることなく、神様への感謝と喜びに生きるために与えられているものです。主イエスによる救いを告げる恵みのみ言葉を聞き、祈り、賛美を歌うことによって私たちは、自分の良い行いや信仰者らしい生活によってではなくて、ただひとり子イエス・キリストによって成し遂げられた恵みによって私たちを救って下さった神様を礼拝し、その喜びと感謝をかみしめ、神様との親しい交わりに生きていくのです。そういう体験を与えられる場だからこそ、礼拝は、何ものにも替え難い幸いなのです。

聖餐の恵み
 この礼拝において共にあずかる聖餐も、神様が、私たちの良い行いや信仰者らしい生活によってではなく、主イエス・キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって、私たちを赦し、ご自分の民として下さっていることを確信させるために備えて下さったものです。この聖餐にあずかることによって私たちはさらに、聖霊のお働きによって、復活して天に昇られた主イエスと結び合わされ一つにされます。そして主イエスがそこからもう一度来られる世の終わりの日に実現する救いの完成にあずからせて下さる恵みの約束を確信させられていくのです。礼拝はこのように、何ものにも替え難い幸いの時です。その礼拝を本日このように共にすることができた幸いを感謝したいと思います。そして、普段日曜日の礼拝になかなか集うことができない皆さんも、そのことを引け目に思ったり、そのことで神様の恵みが自分には不十分にしか与えられていないなどと思う必要は全くありません。私たちは、律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義として下さる神様の恵みの下にいるのです。その恵みを無にしてはなりません。それを無にしないために、私たちは、たとえ礼拝に毎週集うことができなくても、主イエス・キリストによる救いの恵みが自分に与えられていることを信じて、喜びと感謝のうちに、神様に祈りつつ、神様と共に歩んでいきたいのです。

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