「忍耐して走り抜こう」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: 箴言 第4章20-25節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第12章1-3節
・ 讃美歌 : 54、458
信仰の競争
本日与えられました聖書は信仰を競争にたとえています。12章1節は次のように語ります。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。信仰生活とはどのようなものですかと問われれば、「競争を走り抜く」歩みであると言うことが出来るでしょう。信仰を与えられた者にとって、この世での信仰の歩みは、陸上競技の競争をするようなものなのです。この世の歩みが競争であると聞く時、そのような主張を、私たちは、抵抗なく受け入れることが出来るかもしれません。なぜなら、私たちが置かれている社会は、確かに生き馬の目を抜くような競争社会だからです。誰もが他人との競争を繰り広げながら生きていると言って良いと思います。しかし、この世における競争社会と、ここでこの手紙の著者が語っている信仰の競争は異なるものです。私たちは、本日の聖書箇所から、信仰の競争とはどのようなものなのかを示されて行きたいと思います。
競争社会
先ず、この世の競争とはどのようなものなのかを確認しておきたいと思います。自由主義経済が発展した現代社会は、特に競争の激しい社会と言えます。子どもたちは、少しでも良い学校に進学するために幼い頃から塾に通い、夜遅くまで勉強し、受験戦争を戦います。又、企業は、より優秀な人材を集めようと努力します。ヘッドハンティングやリストラを行い、何とかして競争に勝ち残ろうとします。そのような中で、貧富の差が拡大し、「勝ち組」「負け組」ということが言われたり、「下流社会」という言葉が流行語となり、少し前まで一億総中流といわれていた平等な社会が、いつのまにか格差社会と言われるようになってきました。最近は、終身雇用という雇用体系が崩れ、いくつもの会社を転々とする人が増えています。少しでも、自分を条件の良い会社に売り込み、ステップアップして行こうとするのです。自分は他人を追い落としてまで先を走りたくない、競争は嫌いだからと言っていては、取り残されてしまいます。この社会を生きている限り、多かれ少なかれ、この競争に巻き込まれない訳にはいかないのです。私たちは、そのような競争社会の中で、翻弄され、あくせくと生きています。この競争社会においては、どれだけ自分に価値があるかということが大切になります。自分の力、自分が持っているスキルがどのようなもので、どのくらいあるのかに関心が集中します。他者との競争ですから、そこで自分が持っているものというのは、他者との比較の中で明らかになります。私はあの人よりもこの点で優れている、周囲の人には出来ない特別なことが出来るという差異性が重要になります。ですから、この社会における競争とは、当然「獲得」していく歩みとなります。私たちは、この競争を少しでも有利に進めたいのであれば、獲得する努力を怠ってはいけません。自分のスキルを磨いたり、キャリアを積んだり、資格を取ったりします。自分自身にそのような付加価値を付けて、社会により高く売り込むのです。善し悪しは別として、そこでは、自ずと、自分自身に対する誇りが生まれます。競争を有利に走るための様々なものを身につけ、そこに誇りを持って行かなくてはなりません。競争に勝ち抜くために様々なものを獲得し、自分を誇り、自分の持っているものに依り頼んで走り抜くのが、この世の競争社会での私たちの姿なのです。
かなぐり捨てて
聖書が信仰を競争にたとえる時、それは、私たちが競争社会という時にイメージするものとは、全く異なります。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」と言われていることに注目したいと思います。この世の競争社会においては、獲得していくことが大切ですが、信仰の競争においては「かなぐり捨てる」ことが大切なのです。ここで捨てるようにと言われている「重荷や絡みつく罪」とはどのようなものなのでしょうか。聖書において「重荷」と言う言葉を聞く時に、私たちが思い浮かべるのは、マタイによる福音書11章28節に記されている次のような御言葉ではないでしょうか。「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」。ここで重荷とは、世を歩む中で私たちが経験する、苦しみや困難から生じるものです。例えば、病や不幸、それによって生じる苦労や悲しみを思い浮かべることが出来るでしょう。それは、私たちにとって、明らかにマイナスとなるものです。しかしながら、本日の箇所でこの手紙の著者が「重荷」という時、マタイによる福音書で言われているような意味での重荷とは異なると言わなければならないでしょう。「重荷」と言われている言葉は、古典ギリシア語においては「威厳」や「誇り」を意味する言葉です。そのようなことを考えると、本日の聖書箇所で「重荷」と言われているのは、不幸や災いと言った、私たちが生きていく中で、妨げになり、出来ることならおろしたいと思うようなことではありません。むしろ、この世の競争を生き抜く中で、私たちが獲得し、頼りとし、保とうとしている、誇りや威厳が重荷として見つめられているのです。この手紙の著者は、信仰の競争においては、「威厳」や「誇り」は重荷だ、かなぐり捨てろと言うのです。つまり、この世の競争において、私たちが走るために不可欠であると思っているものが、信仰の競争の場合には、むしろ、走ることの妨げになるのです。
罪との戦い
では、この信仰の競争とは、どのような競争なのでしょうか。社会における競争と決定的に異なることは、この競争について、「自分に定められている競争」と語られている所にあります。この競争は、他人との勝ち負けが問題になっているのではありません。例えば、自分の信仰生活に熱心になって、その姿勢を他者と比べて、自分を誇るようになってしまったとしたら、それは、この信仰の競争を走っていることにはなりません。そうなってしまったら、私たちは、信仰の競争に、この世の競争の価値観を持ち込むことになります。信仰の競争は、信仰者それぞれに与えられたものです。そこでは、他者との勝ち負けは問題にはなりません。むしろ、信仰の競争は、それぞれが、人間を支配する罪と戦って行く、罪との戦いであると言っても良いでしょう。罪をかなぐり捨てながら、それに追いつかれ、支配されてしまうことがないように、走り続けるのです。罪というのは、私たちを神様から引き離し、私たちの信仰を萎えさせる力です。その力に支配される時、私たちは、すぐに信仰生活から離れて行こうとしてしまうのです。罪の力は、例えば、私たちの不幸や災いの中で私たちを支配しようとします。又、教会生活の中で隣人との関係において、様々な躓きを覚える時に、この力に支配されるということもあるでしょう。信仰生活において、私たちは、いつも、そのような力に追いかけられていると言っても良いでしょう。そのような中で、しばしば失望し、走り続ける気力を失ってしまうのです。そのような時、私たちが信仰を持ち続けるために不可欠なことは、忍耐するということです。だからこそ、聖書は、「忍耐強く走り抜こう」と語っているのです。この世において私たちが罪の力から完全に解放されることはありません。その力から逃れられないのであれば、世の歩みの中で、罪の力や、そこから生じる様々な苦しみを「忍耐」しなくてはならないのです。ですから、信仰生活を始めるということは、気楽で順風満帆な歩みを始めるということではありません。信仰を与えられたことによって生じる戦いがあるのです。その戦いは、信仰を失わせようとする罪の力の中で忍耐しつつ歩むということです。
証人の群れに囲まれて
私たちは忍耐するということが苦手です。しかし、忍耐することを支える二つのことを聖書は語っています。先ず、12章の1節の冒頭が、「こういうわけで」と語り初めていることに注目したいと思います。私たちが忍耐して走ることには、わけがあるのです。どういうわけがあるのでしょうか。そのことを知るためには、本日の箇所の直前で、どのようなことが語られていたかを見ておかなくてはなりません。11章には「信仰」という表題が付けられていますが、その1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。信仰とはどのようなものかが語られていたのです。更に、2節には「昔の人たちはこの信仰のゆえに神にみとめられました」とあり、「昔の人たち」のことが語られていきます。旧約聖書の創世記に登場するアベルや、箱舟を造ったノア、又、アブラハム、イサク、ヤコブと言った信仰の父祖たちの歩みが見つめられて来たのです。これらの人々は、信仰によって、希望の内に歩んできたのです。11章の39節には、「この人たちは、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束したものを手にいれませんでした」とあり、彼らが「完全な状態」に達することはなくても希望を持ち続ける信仰に歩んだことが記されていたのです。神様によって与えられる救いを待ち望んで歩んだのです。私たちの競争は、このような信仰を持って生きた人々の群れに囲まれつつ走ることなのです。それは、私たちの信仰が、丁度、リレーのバトンを受け取るように、先達から引き継ぎ、その人々の応援の中を走るようなものなのです。私たちは常に、信仰の先達の忍耐の歩みに支えられている。だからこそ、様々な苦しみの中で希望を持って歩むのです。
主イエスを見つめながら
しかし、私たちは、希望に生きた、信仰の父祖たちの歩みを受け継ぐというだけではありません。もう一つ決定的な支えがあるのです。12章の2節には「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」とあります。主イエスを見つめるとはどういうことでしょうか。この主イエスについて、「信仰の創始者であり、完成者である」と語られています。つまり、主イエスを見つめる時、自分が走っている信仰の競争を、既に最初から最後まで走り終えておられる方がいることを示されるのです。 この主イエス・キリストについて2節の後半は次のように記しています。「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」。主イエス・キリストが、神の子でありながら、十字架で、私たちの罪を背負って死んで下さり、さらに、復活して天に昇られることによって、私たちのために罪との戦いを既に戦い勝利して下さっているのです。そして、それは、私たちの罪を忍耐して下さったと言うことに他なりません。続く3節には、「あなたがたが気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のこと、よく考えなさい」とあります。主イエスは、私たちの罪を忍耐しつつ、罪に勝利して下り、最後まで、走り抜いて下さったのです。私たちは、この方の救いに与りつつ、この方を見つめ、この方に倣うのです。罪との戦いを忍耐して下さった主イエスが既に、その信仰の戦いを終えて、神の下におられる。それ故に、私たちもこの世での様々な罪を忍耐し歩むことが出来るのです。私たち人間が、罪によって、主イエスに対して行った反抗を忍耐し、天に挙げられた主イエスを見つめつつ、終わりの日の救いの約束に望みを置くことが出来るのです。それは、主イエスと同じように、人間を捕らえ支配しようとする罪を忍耐しつつ歩む歩みとなります。
主イエスの忍耐
私たちは、今一度、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」と言われていることに注目したいと思います。重荷とは、私たちの誇り、威厳であることを見て来ましたが、それらと罪が結びつけられているのです。私たちが、自らを誇り、威厳を保つということと私たちの罪とは深く結びついています。人間が自分を誇ることにおいて罪に支配されると言っても良いでしょう。自分を誇りたいと思う時に、神様よりも自分自身の栄光を求めるのです。そして、自分の周囲の人々と自分自身の歩みを比較し、隣人を裁くようになるのです。つまり、信仰における自分自身についての誇りや威厳は、信仰者の歩みを妨げるものにしかならないのです。
私たちが、この自分の誇りを捨て去ることというのは「忍耐」を強いられることです。本来、自分が持っているものを誇りつつ世を生きようとする者が、敢えてそうしないというのは簡単なことではありません。私たちは、自分を誇り自分の威厳を保ちたい思いに縛られるからです。そして、お互いに自分の威厳を保とうとする時に、しばしば、争いが起こる。人間が反抗し合うのではないでしょうか。しかし、そういう中で、主イエス・キリストを見つめなくてはならないのです。この方こそ、誇りや威厳を保って歩もうとする私たち罪ある人間たちの反抗を忍耐して下さった。ご自身神と等しい方でありながら、その威厳を振りかざすのではなく、神様のもとからこの地に降ってこられ、十字架で死んで下さった。この神の子の謙りの中に、キリストが私たちをどれだけ忍耐して下さったかが記されています。私たちは、この方を見つめ、その謙りに倣うものとされる時に、重荷や罪を捨て去りつつ、自分に与えられた罪との競争を忍耐して走り抜いて行く者とされるのです。この方を見つめることなしに、信仰の競争を走ることは出来ません。罪の力は私たちの気力を失わせます。私たち自身を根強く支配し、それによって様々な困難や躓きが繰り返し興される現実を示される時、気力を失い、もう走ることを止めようと思ってしまうのです。しかし、主イエスの十字架を見る時に、既に、この競争を走って下さった方がいること、勝利を約束して下さっている方がいることを知らされて、力を得るのです。
他人の道を整えつつ
では、主を見つめつつ、忍耐して走ることによって、私たちの歩みはどのようなものとなるのでしょうか。そのことが、12章12~13節に記されています。12章の1節~12節は、一つのまとまりであると言うことが出来ます。1~3節で、信仰生活を競争にたとえました。その後、4節~11節までには、この信仰の競争において戦わなくてはならないことが、主なる神様が、私たちを鍛えるための鍛錬であることが記されています、その上で、締めくくりの12~13節の所で、再び、競争の比喩が語られているのです。信仰の競争について考える時に、12節に目を留めておくことは不可欠なのです。そこには次のようにあります。「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」。ここで「まっすぐな道を歩きなさい」と訳されている箇所は、「まっすぐな道を造りなさい」と訳すことが出来ます。「足の不自由な人」とは信仰生活において競争から脱落してしまいそうになるような人、信仰の弱さに苦しんでいる人のことが見つめられていると言って良いでしょう。そのような人が癒される、つまり、信仰の道を歩み続けることが出来るように、まっすぐな道を造り出す者になりなさいということが言われているのです。信仰の競争を走る時、この世の競争のように、他人を追い落として行くようなことよりも、他人の競争のために道を整えるような歩みが生まれていくのです。そして、そのような競争を走る中で、この世にあって神様の救いの御支配を映し出しつつ、終わりの日の救いの完成を希望を持って待ち望むのです。
おわりに
私たちは重荷を負い、罪に支配されながら歩んでいます。そのようなものは、私たちが信仰の競争を走ることにおいて、手や膝を萎えさせてしまうものです。ただ、自分自身を萎えさせるだけではありません。自らを誇り、威厳を保って歩むことで、自分以外の人、中でも「足の不自由な人」信仰の弱い人が、足を踏み外す原因となるのです。そのような中で、私たちは希望を失います。しかし、それらを捨て去りつつ忍耐に生きる時、自分の信仰が強められると共に、他者のために道を整えていくことになるのです。それは、丁度、主イエスの忍耐が、「わたしたちが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」なるためであったように、主イエスに倣う私たちの忍耐も、「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように」道を整えるものとなるのです。これは、キリストの忍耐に倣う私たちの歩みを通して、真にキリストが証されるということに他なりません。そして、そのような競争を走って行くことこそ、主イエスが示している、真の救いへと通じて行くのです。この世を忍耐して歩んだ信仰の先達に囲まれつつ、私たちの罪を忍耐して下さった主イエスを見つめながら、それぞれが与えられている信仰の競争を走り出したいと思います。