週日聖餐礼拝

御計画に従って召された者

「御計画に従って召された者」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第139編1~24節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第8章28~30節

万事が益となる
 ローマの信徒への手紙第8章28節に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」というみ言葉があります。この箇所を愛誦聖句としておられる方も多いのではないでしょうか。万事が、全てのことが、ということは喜びや幸福のみでなく、苦しみ悲しみ、不幸も含めて全てが、益となるように共に働く、そのように神様が導いて下さるのだ、ということをこのみ言葉は私たちに告げています。私たちに慰めと励ましを与えてくれる、また前途への不安を解消してくれる、すばらしいみ言葉です。このみ言葉のゆえに私たちは、たとえ目の前の事柄が思い通りにいかず、失敗してしまうことがあっても、願いが叶わなくても、そのこともまた神様の導きのみ手の中にあるのであって、神様は最終的にそれが益となるようにして下さるのだ、と信じることができるのです。苦しみ悲しみのただ中にある時には、これがいったいどんな益となるのか、見当もつきません。しかし後から振り返って見て、あの時あのような苦しみや悲しみに遭ったのは、神様が自分をこのように導いて下さるためだった、このような益が、あの苦しみや悲しみによって与えられたのだ、と思うことはしばしばあります。長く信仰の生活を続けて来られた方々ほど、そのことを深く体験しておられるのではないでしょうか。

神を愛する者たち
 しかしこの28節のみ言葉には気になることもあります。前半です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには」と言われています。万事が益となるように共に働くのは、全ての人においてではないのです。神を愛する者、すなわちご計画に従って召された者においてのみ、万事は益となっていくのです。そうすると問題は、私たちは果して、この「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」であると言えるのかどうか、ということになります。
 私たちは、「神を愛する者」なのでしょうか。自分の心の中に、神様を愛する気持ちがどれだけあるか、を胸に手を当てて考えてみる時、私たちは複雑な思いを抱くのではないでしょうか。確かに自分の中には神様を愛する気持ちがある。だからこそ教会に連なる信仰者として生きているのだし、日曜日の礼拝を守っている。この週日聖餐礼拝はその日曜日の礼拝に普段出席できない方々のために行われています。お体の都合とか、いろいろな理由があって礼拝に出席できない方々です。それは神様への愛が薄い、ということではありません。むしろこの週日聖餐礼拝に集っておられる方々は、毎週の日曜日の礼拝に出席できている者たちより以上に、礼拝に参加することを望み、求めておられると言えるでしょう。神様を愛する思い、神様のみ前に集いたい、という願いがより深くあるのです。まあ、どちらがより深く神様を愛しているか、を比べても意味はありません。いずれにしても私たちの中には確かに、神様を愛し、慕い求める思いがあるのです。
 けれども同時に、その神様を愛する思いが私たちの心にいつも生き生きと息づいており、思いの中心となっているか、他の何よりも神様をこそ愛していると言えるか、というと、そうはなっていない、と感じずにはおれないのではないでしょうか。確かに神様を愛している、でも何よりも一番に神様を愛しているか、と問われると、口ごもらずにはおれないのです。しかしそういうことでは、自分は神を愛する者だなどとは言えないのではないでしょうか。「いろいろなものを愛している、その中の一つに神様もいる」ぐらいでは、神を愛している、とは言えないのではないでしょうか。

御計画に従って召された者たち
 この28節のみ言葉は、「神を愛する者たち」と並んで、「つまり、御計画に従って召された者たち」と言っています。神を愛する者とは、御計画に従って召された者たちなのだ、と言っているのです。このことがとても大事です。先ほど考えたのは、私たちの心の中に神様を愛する気持ちがどれだけあるか、ということでした。しかしこのみ言葉は、そのことを見つめようとする私たちの目を、むしろ神様の御計画、み業へと向け変えさせようとしているのです。そのことは、その後の29、30節を読むことによってはっきりします。そこに語られているのは、この神様の御計画と、それに基づくみ業です。神様の御計画とみ業とはどのようなものなのでしょうか。

神の愛の御計画
 29節には、「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」とあります。前もって知っておられた者たちを、あらかじめ定められた。神様は私たちのことを、前もって知っておられたのです。前もって、というのは、私たちがこの世に生まれ、何かをする前から、ということです。先ほど共に朗読した詩編139編がそのことを歌っています。その16節に「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから」とあります。私たちを造り、命を与えて下さった神様は、私たちの人生の全てを前もって知っておられるのです。その神様は、私たちを前もって知っておられるだけでなく、あらかじめ定められたのです。あらかじめ定める、それは神様が私たちを選んで下さり、あることへと予定して下さる、ということです。何へと予定されたのか、それは「御子の姿に似たものにしようと」です。神様は、前もって知っておられた私たちを、御子イエス・キリストのお姿と似たものとするために選び、あらかじめ定めて下さった、予定して下さったのです。「御子の姿に似たものにする」とはどういうことか。それは「御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」という言葉から分かります。御子イエス・キリストが私たちの長子、つまり一番上の兄となって下さり、私たちはその弟、妹となるのです。それは私たちも主イエスと同じく神様の子どもとされる、ということです。御子の姿に似たものとされるとは、もともと神様にそっぽを向いて生きていた私たちが、神様の子とされ、主イエスと兄弟の関係に入れられることです。つまり神様が罪人である私たちを赦し、神の子、主イエスの兄弟として下さるのです。それが神様の御計画です。神様は私たちを愛して下さり、この救いの御計画を立てて下さったのです。このみ言葉は、私たちの目を、この神様の救いの御計画にこそ向けさせようとしているのです。自分がどれだけ神様を愛しているかよりも、神様がどれだけ自分を愛して下さっているか、そのためにどのような御計画を立てて下さっているかをこそ見つめなさい、と言っているのです。

御計画の実行
 30節は、神様がその御計画をどのように実行して下さっているかを語っています。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」。神様は、御子の姿に似たものとしようとあらかじめ選び、定めて下さった者たちを、それぞれに相応しい時に召し出して下さいます。神様に召し出された者は神様のみもとに集い、礼拝に参加し、教会に連なる者となるのです。私たちが教会に来るようになり、礼拝を守る者となったのは、この神様の召し出しによることです。私たちが信仰者になるには、それぞれ様々なきっかけがありました。様々な出会いがありました。自分で決心して教会に行くようになったとしても、その決心に至るまでには神様の不思議な導きがあったことを誰もが感じているでしょう。それは、神様が召し出して下さったということなのです。そのように召し出した者たちを、神様は義として下さいました。それは主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを与え、救いにあずからせて下さったということです。私たちの救いは、神様が選び、召し出し、そして義として下さったことによって与えられているのです。その私たちに栄光をお与えになった、とも言われています。主イエス・キリストの姿に似た者とされている私たちは、その栄光をも与えられているのです。しかしその栄光は今はまだ目には見えません。その栄光は世の終わりの救いの完成の時にあらわになり、実現するのです。神様の救いの御計画は、世の終わりの救いの完成までを見越したものです。神様はその御計画に従って私たちを選び、予定し、召し出し、義として下さっているのです。今この週日聖餐礼拝に集っている私たちは、「御計画に従って召された者たち」です。神様が選び、召して下さっていなければ、私たちがここにいることはありません。私たちは、自分が神様の御計画に従って召し出されてここにいることを信じてよいのです。私たちがどれだけ神様を愛しているかにかかわらず、神様はこのように私たちを愛していて下さり、私たちのための救いの御計画を実行して下さっているのです。これからあずかる聖餐はその神様の愛の御計画の目に見えるしるしです。聖餐のパンと杯をいただくことによって、私たちは独り子主イエスの十字架の死によって私たちを救って下さった神様の愛の御計画を味わい、またそのご計画がキリストの復活の栄光にあずかる完成にまで至る約束をかみしめるのです。神様の愛の御計画によって自分が召され、救われていることを信じ、その御計画を味わいつつ生きることが、信仰者として生きることなのです。

神を愛する私たち
 そしてだからこそ、私たち信仰者は、神様を愛するのです。私たちが神様を愛するのは、そうしなければ救いが得られないからではありません。神様が私たちを愛して下さり、救いの御計画によって選び、召して下さっていることを信じるがゆえに、私たちも神様を愛するのです。そしてその神様の愛の御計画によって選ばれ、召され、導かれている私たちには、万事が益となるように共に働きます。私たちの人生に起る全てのことを神様は知っておられ、その全てを用いて、救いの御計画をおし進めて下さるからです。

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