特別伝道礼拝説教

大胆に恵みの座に近づこう

「大胆に恵みの座に近づこう」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第100編1-5節
・ 新約聖書; ヘブライ人への手紙 第4章14-16節
・ 讃美歌; 148(1~4)、204、280

 
大胆に生きるとは
 今日この礼拝に集われた皆さんに、私はまず最初に一つのことを申し上げたいと思います。それは、教会の礼拝に集い、聖書を通して語られる神様のみ言葉を聞き、信仰をもって生きることは、本当に喜ばしいことだ、ということです。何がそんなに喜ばしいのか。それは、お金持ちになれるからではありません。病気が治るからでもありません。人間関係のもつれが解決されるからでもありません。そういうことではなくて、この信仰を持って歩むときに、私たちは、大胆に、勇気を持って生きることができるからです。聖書の教える信仰は、私たちに勇気を与え、大胆に生きることができるようにするのです。そこに、この信仰に生きる最大の喜びがあるのです。
 大胆に生きるってどういうことなのでしょうか。ある国語辞典で「大胆」という言葉を引いてみたらこのようにありました。1として「普通の人なら、こわがったり、遠慮したりして出来ないような事を、思い切ってやってのける様子」。2として「常識から言って考えられないような、思い切った事をする様子」。ここから、「大胆に生きる」ということのイメージを得ることができます。それは、怖がったり、遠慮しないで、勇気をもって思ったことをすることです。また、常識に捕われないで、自由な発想をすることです。そういう大胆な生き方が、神様を信じることによってできるようになるのです。
 考えてみれば、私たちが今こうして教会の礼拝に集っているというのも、随分大胆なことだと言えると思います。皆さんの中には、今日生まれて初めて教会の礼拝というものに来た、という方がおられるかもしれません。その方は、ここへ来る決心をするまでの間に、「教会ってどんな所なんだろう。ちょっと怖そうだな」という不安を感じておられたかもしれません。あるいは、「自分のような者が行ってもいいのかな」と遠慮しておられた方もいるかもしれません。いずれにしても、この日本の社会で、せっかくの休日である日曜日の午前中のこの貴重な時間に、教会へ行って礼拝をするなんていうのは、かなり勇気のいる、常識外れのことです。ですから皆さんがここにいるということはそれだけで既に相当大胆なことなのであって、こういう大胆なことを毎週しているクリスチャンというのはまことに大胆な人々だということができるでしょう。怖がっていたら、遠慮していたら、常識に捕われていたら、教会に来ることなどできないのです。だからここにいる皆さんはもう十分に大胆に生きている、と言ってもよいのですが、しかしそれだけではちょっと物足りないですから、「大胆に生きる」ということをもう少し考えてみたいと思います。

自由に生きる
 怖がったり、遠慮しないで、勇気をもって思ったことをすることが大胆の意味だと申しました。しかし勘違いしてはいけないのは、「大胆あるいは勇気」と「乱暴」は違うということです。勇気をもって思ったことをすると言っても、それによって自分の利益ばかりを求めて人を顧みなかったり、人を傷つけたりするのでは、それは「大胆」ではなくてただの「乱暴」であり、「自分勝手」の「わがまま」に過ぎません。私たちは時々、ただの乱暴やわがままを大胆や勇気と勘違いしてしまうことがあるので、気をつけなければならないと思います。ですから「大胆に生きる」ということをもう少し丁寧に言うならば、本当に自分がなすべき事、自分の使命だと信じることを、怖がらずに、また周囲の人々の目や評価を気にせずに、また世間の常識に捕われずに勇気をもって思い切ってすることだと言えるでしょう。そのように生きるためには、結果を恐れる思いや人々の目を気にする思いからから解放されていなければなりません。世間の常識からも自由でなければなりません。そう、本当に解放されており、自由でなければ、大胆に生きることはできないのです。大胆に生きるとは、自由に生きることであり、いろいろなものに捕われずに生きることなのです。

絶望を乗り越えて
 私たちは、いろいろなものに捕われ、束縛されて生きています。だからなかなか自由になれない、大胆になれないのです。会社勤めをしていれば、その会社の組織やそこでの人間関係に束縛されています。家庭、家族も、ある意味で私たちにとって束縛です。あるいはこの社会の様々なしきたりや常識というものに束縛されています。それらはどれも、私たちが生きていく上での支えとなる枠組みでもあります。そういう枠組みがあるおかげで、自分の居場所を見いだすことができ、安心して生きていける、ということもあるのです。しかしそれらは同時に束縛でもあり、それらのおかげで自由になれない、大胆に生きることができない、ということを感じさせられるのも確かです。私たちは誰でも、このように何かに束縛されつつ、しかし同時にその束縛によって支えられつつ生きている、それが社会生活というものでしょう。そこで大事なのは、束縛と支えのバランスです。一時代前までは、束縛と支えとの間にあるバランスがありました。束縛の中に身を置くことによって、ある不自由さと引き換えに、生活が支えられ、将来への展望や希望を持つことができたのです。束縛の中でも、たとえスケールは小さくても、明るい未来を見つめてそのために積極的に努力していくことができたのです。しかし今日、そのバランスは大きく崩れてきていると言わなければならないでしょう。自由や大胆さを犠牲にして組織の束縛の中で努力していっても、それによって必ずしも将来が保障されるわけではない、希望が見えるわけではない、そういう閉塞感が今私たちの社会を覆っています。要するに明るい未来を思い描くことが難しくなっているのです。そのように希望が見えない閉塞感の中で、束縛ばかりが大きく感じられるようになっています。だから我慢して束縛の中にいても仕方がないと思う若者たちも増えています。しかし組織の束縛から抜け出したとしても、それだけで自由に大胆に生きることができるわけではありません。組織の束縛の中にいる者も、そこから外へ飛び出した者も、時代全体を覆っている閉塞感と将来への不安の中で、自由にも大胆にもなることもできずに生きているのです。私たちの心を今、将来への希望の光が見えない暗いトンネルの中にいるような閉塞感が覆っているのではないでしょうか。その中で私たちは表面的には明るく振舞いながらも、心の中では底知れぬニヒリズム、絶望感に苛まれているのではないでしょうか。自由に、大胆に生きることを最も妨げているのは、この閉塞感であり、ニヒリズム、絶望感です。大胆に生きるためには、この時代を覆っている閉塞感、ニヒリズム、絶望感を乗り越えなければならないのです。それはどうしたらできるのでしょうか。

大胆に生きることができる
 今日のお話の題は、「大胆に恵みの座に近づこう」です。これは先ほど朗読された聖書の箇所の最後のところ、ヘブライ人への手紙第4章16節の言葉です。この言葉は私たちに、大胆に生きることを勧め促しています。「恵みの座に近づく」ということの意味については後で申したいと思いますが、いずれにしても、大胆に歩め、と勧め促していることは確かです。しかしそれは、「大胆に生きるために頑張って努力しよう」と言っているのではありません。「あなたがたは大胆に生きることができるのだ、その条件は既に整っているのだ、だからそうしよう」と言っているのです。「あなたがたは大胆に生きることができる」、聖書は私たちにそのように語りかけているのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。その理由が、14節以下に語られているのです。14節に、「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」とあります。神の子イエスが、偉大な大祭司として私たちに与えられている、そのことをこの箇所は、またこの手紙の全体は語っています。このことが、私たちが大胆に生きることができる根拠、理由なのです。

大祭司
 「大祭司」については、少し説明を聞いていただかなければなりません。大祭司は祭司の親玉だと思っていただけばよいのですが、祭司というのは何をする人かというと、人間が神様を礼拝しようとする時に、神様と人間との間に立って仲を取り持ち、礼拝を成り立たせる役目をするのです。ですから祭司は、人間に対しては神様の代わりになって、お告げを語ったり、祝福を与えたりしますし、神様に対しては人間の代表として、祈ったり、捧げものを捧げたりします。そのように神様と人間との双方に対して、もう片方を代表する働きをするのです。この祭司の働きによって、神様と人間の間にコミュニケーションが成り立つのです。逆に言えば、この祭司の働きなしには、神様と人間が直接にコミュニケーションを取ることはできないのです。人間は、祭司の仲立ちなしに神様の前に出ることができません。それは何故かというと、人間は神様に対して罪を犯しているからです。神様によって命を与えられ、生きるための全てのものを与えられ、導かれているのに、その神様のことを思わず、感謝せず、従おうとしない、むしろ自分が主人になって、自分の思い通りに生きようとしている、それが人間の罪です。私たちの誰もが、その罪に陥っており、神様に敵対してしまっているのです。神様は人間のその罪に対してお怒りになります。だから私たちは、そのままで神様の前に出ることができません。そのままでは、神様の怒りによって滅ぼされなければならない者なのです。だから私たちは神様と直接にコミュニケーションを取り、礼拝をすることができないのです。そのような罪ある人間と神様の間に立って、仲を取り持つために立てられているのが祭司です。祭司は、人間の罪の償いのために動物のいけにえを献げ、それによって神様の怒りを宥めて、人間に対する神様の恵み、祝福を得るのです。そういう祭司の働きによってこそ、人間は神様を礼拝することができるのです。祭司というのは、洋の東西を問わず、そのような働きをするものです。
 この祭司の働きは、悪用されると金儲けの手段となってしまいます。宗教団体が莫大な金を集めるというのはたいていこの祭司の働きの悪用によってです。神様との間を取り持ってやるから、代償としてお金を払いなさい、というわけです。旧約聖書の時代のユダヤ人たちも、またキリスト教会も、そのような過ちに陥ったことがあります。しかし聖書の教えは、正しく読むならば、決してそのような人間の金儲けに利用されるはずのないものなのです。なぜなら、新約聖書は、この祭司としての働きを、神様の独り子であるイエス・キリストが既に成し遂げて下さっている、と語っているからです。本日の箇所もそのことを語っています。「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」というのは、神の子イエスが、既に私たちに大祭司として与えられ、その務めを成し遂げて下さっているのだから、ということです。神様と人間の仲立ちをする祭司の働きは、既にイエス・キリストが十分に、完全に果して下さっている、そのことを、この箇所も、そして新約聖書全体も語っているのです。ですから、今や私たちにはもう人間の祭司はいらないのです。地上で何かの犠牲をささげて神様の怒りを宥め、それによって神様と私たちの間を取り持つような、そしてそのことと引き換えにお金を要求するような祭司はもはや必要がない、というのが聖書の教えなのです。そしてまさにこのことが、私たちが大胆に生きることができる根拠なのです。偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている、イエス・キリストが祭司としての働きを既に成し遂げて下さっている、だから私たちは、大胆に、恵みの座に近づくことができるのだ、とこの箇所は語っているのです。

恵みの座
 「恵みの座」とは何でしょうか。それは神様が王として、支配者として座っておられる玉座です。私たちは元々は、この神様の玉座に近づくことができない者でした。神様に敵対している罪人である人間は、神様のみ前に出ることはできないのです。神様の玉座は、私たちにとって元々は決して「恵みの座」ではありませんでした。むしろ恐ろしい「怒りの座」だったのです。だから祭司が必要だったのです。神様の怒りの座の前に進み出ることのできない罪ある人間のために、仲立ちをして、神様の怒りを宥めてくれる祭司が必要だったのです。しかし今やもうそれは過去の話となりました。神様の玉座は今はもう「怒りの座」ではなくて「恵みの座」となったのです。それは、神の子イエス・キリストが、私たちのための大祭司となって、祭司の働きを十分に、完全に果してくれたおかげです。主イエスのおかげで、神様の玉座は、私たちにとって「恵みの座」となり、私たちはそこに、大胆に近づくことができるようになったのです。これが、聖書が語り伝えている、イエス・キリストによる救いなのです。  繰り返し申しますが、この大祭司イエス・キリストは、祭司としての働きの報酬を私たちに求めることを一切なさいません。この救いにあずかるために、私たちは一銭もお金を払う必要はありません。また、この神の子イエス・キリストによる救いを受けるために、誰か人間の祭司に、あるいは教会という組織に、お金を払わなければならないということも一切ありません。本物のキリスト教会は、「救われたいならお金を払いなさい」とは決して言いません。もしそういうことを言っている所があるなら、それは聖書の教えから逸脱した、間違った教会です。
 偉大な大祭司イエス・キリストは、報酬を求めません。その代わりに、主イエスが私たちに求めておられること、いやむしろ期待しておられることがあるのです。それは、私たちが、本当に自由な者となって、大胆に生きることです。主イエスが私たちのために大祭司としての働きを成し遂げて下さったのは、私たちが、神様に背いている罪を赦されて、神様の恵みと祝福を与えられて、それによって本当に自由になり、勇気をもって、生き生きと、大胆に生きることができるようになるためだったのです。

本当に自由になる
 私たちが本当に自由になる、とはどういうことでしょうか。生まれつきの私たちは、罪の力に捕えられ、束縛されています。私たちが、どんなに努力してもやはりどうしても自分中心に、自分を第一に考えて歩むことしかできないのは、神様に背き逆らい、自分が主人になって生きようとする罪に束縛されているからです。自分が主人になって生きようとする時、自分の人生は自分で何とかしなければならなくなります。そこでは自分の力が全てとなります。自分が何を持っているか、何をすることができるかが勝負となります。そのような生き方の中では、どうしたって自分中心に、自分第一に頑張るしかないのです。そしてそこでは、私たちは本当に自由に、大胆に、なすべきことを勇気をもってすることはできません。自分を生かすことが第一の目的になっているのですから、たとえなすべきことがあっても、それによって自分が傷付いたり、持っているものを失ったりしたら元も子もない、と思ってしまうからです。しかし聖書は、そのように、自分が主人になって、自分の力、自分の持っているものに依り頼んで生きることこそが罪だと教えています。この罪に支配されてしまっているから、私たちは自分中心のエゴイズム、今の若者の言葉で言えば「自己中」に陥るのです。私たちが本当に解放されて自由になり、なすべきことを勇気をもって大胆に行うことを妨げているのは、この、自分が主人になり、自分の力や持っているものに依り頼んで生きようとする罪です。大胆に生きるために本当に必要なのは、この、自分が主人であろうとする罪から解放されることなのです。この罪から解放され、自分ではなく神様こそが主人であることを受け入れ、自分の力や持っているものによって生きるのではなく、神様の恵みによって生かされる者となることによってこそ、私たちは本当に自由になれるのです。そしてその自由によってこそ、本当に大胆に生きることができるようになるのです。大胆になれないのは、自分で自分を生かさなければならないという思いに捕われているからです。だから、結果を気にして、失敗したらどうしようという怖れに満たされてしまうし、周囲の人々や世間の自分に対する目や評価が気になってしまうのです。しかし神様の恵みによって生かされていることを本当に知ることができるならば、私たちはもはや自分で自分を生かさなくてもよくなるのです。それは神様がして下さっているのだから、その恵みに身を委ねて、安心して、勇気をもって、大胆に生きることができるようになるのです。私たちが本当に大胆になることができるのは、神様の恵みによって生かされていることを知ることによってなのです。

十字架の死によって
 私たちは神様の恵みによって生かされている、そのことを実現して下さったのが、偉大な大祭司、神の子イエス・キリストです。主イエスがどのような大祭司であられるのかを、15節はこのように語っています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。主イエスは私たちの弱さに同情できない方ではない、この「同情する」という言葉は、ただかわいそうに思うということではなくて、「共に苦しむ」という意味です。主イエス・キリストは、私たちと共に苦しんで下さる方なのです。主イエスのご生涯がここで、「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」、と言い表されています。この世を生きている私たちは、様々な試練に遭います。苦しみや悲しみを味わいます。自分の弱さを思い知らされて絶望することもあります。神様を信じて、信仰をもって生きていく中でもそれは同じです。私たちの信仰はいろいろな出来事の中で絶えず揺さぶられ、あるのかないのか分からないような状態になってしまうこともしばしばです。しかし私たちが受けるそのような試練を、神の子である主イエスも、私たちと同じ肉体をもって歩まれたこの地上の人生において味わい、体験して下さったのです。その歩みの行き着く先が十字架の死でした。主イエス・キリストは、私たちに同情し、共に苦しんで下さるだけでなく、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。大祭司は動物のいけにえを捧げることによって神と人間との間を取り持ちますが、主イエスはご自身の命を犠牲にすることによって、罪人である私たちと神様との間の仲立ちをする大祭司となって下さったのです。この大祭司主イエスのおかげで私たちは、罪を赦され、神様の恵みによって生かされる者とされているのです。それゆえに私たちはもはや、神様のみ前で、自分が罪人であることを恐れる必要はなくなりました。なお罪人であり、弱さをかかえ、清くも正しくもない私たちが、主イエスによる救いに依り頼んで、大胆に恵みの座に近づくことができるようになったのです。

大胆に生きる
 主イエス・キリストによって、大胆に恵みの座に近づくことができるようになった私たちは、今や大胆に生きることができます。私たちはもはや、自分の力で自分の人生をなんとかしなければならないという束縛から解放されたのです。私たちの主人はもはや自分ではなくて主イエス・キリストなのです。主人である主イエスが、ご自身の命すらも惜しまず与えて下さる恵みによって、私たちを守り、導き、必要なものを与え、養って下さるのだから、その恵みに身を委ねて生きることができるのです。それゆえに私たちは、もはや失敗を恐れなくてもよいのです。失敗したら人生おしまいだ、なんて思わなくてよいのです。いろいろと失敗を重ねる私たちを、まことの主人である神様が、恵みによって導いて下さっているのです。また私たちは周囲の人々の目や評価を恐れることもないのです。私たちを最終的に評価するのは神様であって人間ではありません。そして神様は、独り子イエス・キリストを与えて下さったほどに私たちを愛して下さっているのです。その神様の愛のまなざしの中で私たちは生きているのだから、人の目を気にせずに、のびのびと、自分に与えられている務めに励めばよいのです。また、世間の常識と呼ばれるものに束縛されることもないのです。勿論、何でも非常識なことをすればよいというのではありません。常識を守ることは隣人を思いやることである場合も多いのです。しかし人生には、常識に逆らっても、なすべきことをしなければならない、新しい道を進まなければならないという場面があります。これこそ神様から自分に与えられた道だ、使命だと信じる時、私たちは、神様に従うことによって常識を乗り越える勇気を与えられるのです。その勇気と大胆さを支えるのは、この世界と私たちの人生を本当に支配し導いておられるのは、主イエス・キリストを遣わし、その十字架の死と復活によって救いを与えて下さった父なる神様なのだ、という信仰です。この信仰によって私たちは、この社会を覆う閉塞感、ニヒリズム、絶望を乗り越えることができるのです。
 大祭司イエス・キリストによって、大胆に恵みの座に近づくことができるようになった私たちは、このようにいろいろなものから解放され、自由に、大胆に生きることができます。私たちが信仰によって解放されるものは他にもあります。一つは、自分のプライドです。神様の恵みによって生かされている私たちは、もはや自分のプライドを守ろうとすることから解放されるのです。プライドは、大胆に生きることを邪魔します。特に、大胆に人と共に生きることを邪魔します。大胆に人を愛することを邪魔します。プライドを守ろうとすることによって私たちは、自分の殻に閉じこもるようになり、人を寄せつけなくなり、人を愛することができなくなるのです。プライドと似たものに「名誉欲」があります。人に褒められたい、人よりも上に立って支配したい、という思いです。それは屈折して現れると、自分の謙遜を誇る思いとなります。教会ではどちらかというとこういう形で現れることの方が多いように思います。これもまた、私たちが本当に人と共に、人を愛し受け入れて生きることを邪魔します。これらのプライド、名誉欲、謙遜を誇る思いなどが、私たちを捕え、支配しています。しかし私たちは信仰によってそれらを乗り越えて、大胆に、恵みの座に近づいていくことができるのです。それはこの礼拝に集うということです。私たちは、毎週の礼拝において、神様の恵みの座に近づくことができるのです。私たちと共に苦しんで下さり、十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエス・キリストにお目にかかっているのです。だから、プライドを傷つけられたっていいではないですか。人より上に立たなくてもいいではないですか。あの人は謙遜な人だと褒められなくてもいいではないですか。教会の礼拝に集い、聖書を通して語られる神様のみ言葉を聞き、信仰を持って生きる者は、そういうことを乗り越えて、喜んで、自由に、大胆に、神様と隣人を愛し、神様と隣人に仕えて生きることができるのです。

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