特別伝道礼拝説教

主にあっては、労苦は無駄にならない

「主にあっては、労苦は無駄にならない」 牧師 宇野信二郎

・ 旧約聖書; 詩編 第128編1-2節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第15章58節
・ 讃美歌 ; 508、471

 
私たちにとって幸せとは何でしょうか。
今日の詩編の冒頭で歌われていること。すなわち、私たちが苦労して得たものはすべて、自分の食べ物になる、ということは、誰しも願うことでしょう。食べ物をはじめ必要なものが満たされること、また続いて歌われているように、生涯の伴侶が与えられること、家族がいること、共に囲む食卓があること、それは誰にとっても幸せな情景です。また、私たちの町の人々が皆穏やかに過ごし、隣り人が皆元気に暮らすことを、幸いと呼ばないでいられましょうか。

けれども、この詩編ではまず、主を畏れる人は幸いである、主の道に歩む人は幸いである、と歌われます。私たちがどういう毎日を過ごすか、ということ以前に、主なる神に対して、私たちがどういうあり方をするか、ということが問われています。このことを抜きにして、百二十八編のみならず詩編において、ひいては聖書において語られる幸いを味わうことはできません。

今日与えられた詩編は、都もうでの歌の一つです。イスラエルの民は、この歌を、エルサレムの神殿に向かう道すがら、皆で歌い交わしました。遠い異国の地にあっても、同胞たちと共に神の御前に集う喜びを思い浮かべつつ、讃美として献げたことでしょう。イスラエルは歴史の中で、繰り返し戦いを経験し、祖国を失い、離散を繰り返した民です。彼らは家族が共に座すことを当たり前のこととしてではなく、主なる神の祝福として受け取らずにはいられなかったのです。

主の道を歩む、ということと対象的なのが、自分の道を歩む、という表現でしょう。俺流の生き方、私は私らしくやること、それこそが、人間らしい生き方だともてはやされもします。けれども、もしも世の人たちが、自分らしい生き方を語りつつ、神なしに生きようとしているならば、それは与えられた命を十分に生かし切っているとは言えません。自分の道を、と言いながら、その人らしい、主の祝福に満ちた道を、残念ながらまだ歩いていないのです。

二節ではこのように歌われます。

・「あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。」

この御言を聞いた時に私は、汗を流して働くこと、そしてそれによって得たもので生きていく、ということが、実は主なる神から与えられた御恵みなのだ、ということを改めて示されました。この本来感謝すべき私たちの仕事が、今はそうでなくなってしまっている部分があります。木の実を勝手に食べてしまったアダム以来、人は労働を、まるで重たい荷物のようにして背負わなければならなくなってしまいました。主なる神は、楽園からアダムを追放なさる時に言われました。「お前は、生涯食べ物を得ようとして苦しむ」(創世記三・一七)。その御言のとおりに、今は、人がこの世の仕事の奴隷にさせられていると思うような、辛い話を身近な所で見聞きすることがあります。

先日、あるキリスト者の女性が八八歳で天に召されました。その方が召される直前に、私はお会いする機会を与えられました。お家の玄関を入ってすぐの所にあるお部屋の壁に、フランスの画家、ジャン・フランソワ・ミレーの『晩鐘』という絵のポスターが掛けてありました。夕暮れ時、土にまみれた若い夫婦が、鍬を傍らに置き、立っています。手を握って俯いて、祈りを捧げています。私は、その絵を見て、そこには多くの人が忘れてしまった大切なものが込められていると感じました。主なる神の御前に、こうべを垂れる姿勢です。私は、毎日をどういう姿勢で終えているだろうか、と振り返りました。ああ、今日のあの仕事は厄介だった、どうしてあの人はああいうことを言うのだろう、そんな不平不満で終わっていないだろうか、と反省させられました。ミレーが描こうとした農夫の姿、夕暮れに主なる神を想い、今日一日守られたことを感謝し、夜の平安を祈る、もしそのようなひと時が少しでも持たれるならば、私たちの毎日は変わります。
その絵を壁に貼っていた女性は、長男を出産後ほどなく、夫を天に召され、助産師をしながら懸命に子育てをした人でした。夫に死別した悲しみに暮れる間もなく、その日その日を生きなければならなかった彼女にとって、疲れが重くのしかかる毎日を支えたのは、主イエスの御名によって献げる折々の祈りでした。

振り返って、この詩編をささげたイスラエルの民は、皆が裕福だったわけではありません。畑を借りて仕事に勤しむ人々も多くいました。野菜や小麦の収穫に一日汗を流しても、その大半は土地の持ち主のものになり、あるいは市場に出回ります。自分の口に入るものはほんの一部です。それでもなお詩編が、「あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる」と歌い切っているのはなぜでしょうか。
詩編はここで言う食べ物について、お腹を満たすパンだけではなく、霊的な食べ物としても考えています。労して得るものは、必ずしもその時、私たちの心を喜ばすものばかりではありません。働いた結果、体が疲れ、病むこともあります。お客や上司から嫌なことを言われ、それでも忍耐して働き続けなければならないこともあります。せっかく整え、準備した企画が、会議であっけなく反故にされることもあるでしょう。けれども、そうした一つ一つの苦く、辛い体験も、「主を畏れ、主の道に歩む人」にとっては、私たちの食べ物となり、私たちを生かす糧となります。古の賢者も語っています。旧約の『コヘレトの言葉』の十一章一節の御言です。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」。まさしく、主にあって、私たちはいかに幸いなことでしょうか、いかに恵まれていることでしょうか!

今日、詩編と合わせて、新約から『コリントの信徒への手紙一』一五章五八節の御言をお読み頂きました。この御言も、詩編と同じく、主の慰めに満ちています。

・「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

手紙の冒頭に、著者としてその名を記されたパウロを初め、使徒たちの悩みと祈りの課題は、コリント教会の人々の中に信仰生活が揺らぎ始めた人々がいたことでした。
コリントは現在のギリシャの一都市で、地中海に面しており、古くから地中海の西と東の交通を結ぶ町として大変栄えていました。パウロは紀元一世紀にこの町におよそ二年間滞在して、神の国の福音を宣べ伝えました。その結果、有力な教会が誕生します(使徒言行録一八・一~一一)。ところが、コリント教会は、東の国西の国のさまざまな宗教や文化が入り混じったところに生まれた教会でしたから、次第に聖書とは関係のないものが教会に持ち込まれるようになりました。パウロが土地を離れた後には、教会内部で意見の相違が起こります。パウロの言うだけを信じる人、あるいは同じ主イエスのお弟子でもペテロの言うことをとりわけ重んじる人たちなどに分かれてしまい、同じ教会でありながら分派ができてしまいました。あるいは、信仰をもって救われたのだから、もう何をしても良いだろう、どんな滅茶苦茶をしても神様は赦して下さるだろう、と、とんでもない勘違いをする人々が出て来ました。また、来るべき神の国において与るはずの、すべての希望を、空しいものである、と考え始めた人もいました。パウロの手紙から推察するに、コリント教会の人々はこんなことを言っていたようです。死んだ人に洗礼を授けて、どうしていけないのか(二九節)、お金に任せて飲み食いすることが、どうしてそんなにいけないことなのか(三二節)、四六時中危険をおかしてまで信仰を守ることにどんな意味があるのか(三〇節)・・・・・・などなど。そういうコリント教会の事情を踏まえつつ、パウロは、キリスト者としての本当に喜ばしい、祝福された歩みをしていくために、主なる神の示しを受けて語ります。福音に立ち返ろう、かつて共に聞き、信じた、あの福音を、わたしと一緒にもう一度思い起こして欲しいと訴えます。それがすなわち、福音の中心である主イエスの十字架と復活でした。土台なくして家を建て上げることはできません。人の罪を赦し給うキリストなくして、新しい生命はありません。福音に立ち帰ろう、そして、主の御心に適う日々の生活に勤しもう、との呼びかけがなされています。
この世にあっては、「若いうちの苦労は買ってでもせよ」と言われます。聞くべき部分もある格言ですが、私たちは無責任に他人に苦労をさせたり、いたずらに人を試したりしてはならないでしょう。私たちの苦労が決して無駄にならない、と信じることができるのは、ただ「主に結ばれている」ことによってです。

この世に生まれた私たちは、誰も等しく、神なしに生きようとする者でした。それは神の御前にあっては、私たちが一生かかってもとうてい償いきれない重荷となって、私たちを押しつぶそうとしていました。けれども、そのような私たちの負い目を、神はひとり子、主イエスを十字架におかけになることによって、帳消しにして下さいました。罪がキリストの死によって滅ぼされたように、キリストの復活によって、死は打ち破られたのです。

ここに集う主にある兄弟、また姉妹とされたみなさん。いかなる力も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません。私たちも主イエスにあって、日々の業に常に励みましょう。人を生かす福音を携えて、日々主から託されたささやかな業を、祈りをもって担っていこうではありませんか。

祈り

主なる神さま。御子の尊き命をもって、私たちの前に救いの道を開いて下さったことを感謝いたします。イエス・キリストにあって、伝道の労苦も、日々の糧を得るための労苦も、何ひとつ無駄にならないことを信じ、歩む者とさせてください。この幸いに、願わくば私たちの隣り人が一人でも共に与かることができますように、あなたご自身が働き給い、時に適って私たちをお用いください。御前に集う私たちの上に、また、同じ主に結ばれた信仰の友一人ひとりの上に、あなたの御恵みが豊かに注がれますように。イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン

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