「祈りによる実り」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第121編1-8節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第11章12-25節
・ 讃美歌 ; 16、441
枯れたいちじく
前回の礼拝に続いて、マルコによる福音書第11章の12節以下に記された物語に聞きたいと思います。 ここには、二つの出来事が記されています。主イエスがいちじくの木を呪い、そのいちじくが枯れてしまうと いう出来事と、この出来事に挟まれるようにして記されている、いわゆる宮きよめの出来事です。主イエスは、 ベタニアを出て、エルサレムに向かう途中、空腹を覚えて、いちじくの木の側に近寄られたのです。けれども、 季節ではなかったために、実がなっていなかったで、主イエスは木をおしかりになったのです。その結果、 20節以下にあるように、翌朝、いちじくの木が根本から枯れていたのです。
この出来事は、間に挟まれて記されている宮きよめの出来事と密接に関連しています。主イエスはエルサレムに 着くと、怒りをあらわにして、神殿の境内で、商売していた人々を追い出し、両替人や鳩を売る者の腰掛けをひっ くり返されたのです。神殿の境内にいた商人や両替人は、いけにえとして献げるための鳩を売り、当時流通してい た通貨を、献金を捧げるための貨幣に両替をしていました。これらは、祭儀律法に従って礼拝を捧げるためになくて はならない務めだったのです。そのような中で人々は暴利を貪ることもあったのかもしれません。しかし、主イエス の怒りの中心は、商売がなされていたということにあるのではありません。この境内と言われる場所は「異邦人の庭」 と呼ばれている場所で、神殿の一番外側に位置している庭です。異邦人はこの庭より内側には入ることが赦されてい ませんでした。この境内は、異邦人たちが祈りを捧げるために確保されていた場所だったのです。この時、異邦人が 祈りを捧げるための場所がユダヤ人の巡礼者たちが鳩を売り買いし、両替をする場所になっていたのです。
主イエスは、イザヤ書57章の御言葉を引用しつつ「『わたしの家は、すべての人の祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」とおっしゃいました。すべての人の祈りの家であるはずの 神の家が、一部の人々が我が物顔で支配していたのです。この人々は、強盗のように、神の家に押し入って、自分自身が、 その家の主人であるかのように振る舞っていたのです。そのような中で、神殿は、一部の人々のための場所となり、他の 人の祈りが妨げられていたのです。丁度、実の無いいちじくのように、神殿として建っていながら、すべての人の祈りの 家としての実りがなかったのです。ここで、「実り」というのは、神殿を「すべての人の祈りの家」として建てることに よってもたらされる実りであると言って良いでしょう。つまり、主イエスがお叱りになった実のないいちじくの木は、祈 りによる実りがない神殿を指しているのです。この時、神殿は、祈りの家ではありませんでした。主イエスは、そのこと に対する怒りを宮きよめといちじくの出来事によって示されたのです。そして、神の家の主人として、すべての人の祈り の家を建てようとされているのです。
山を動かす信仰
本日は、宮きよめの記事の後に続いて記されている、枯れたいちじくを見た時の主イエスと弟子のやりとりに目を向け たいと思います。ここで、主イエスは、まさに祈りについてお語りになるのです。
ペトロは枯れたいちじくの木を見て、主イエスに、いちじくの木が、枯れていることを告げます。おそらく、一日前、 主イエスがいちじくの木を呪った時、いぶかしく思いながらも、訳が分からないまま、主イエスの言動に注意を向けるこ となかったのだと思います。しかし、一日たっていちじくが枯れているというのを目にして、昨日の主イエスの行動を思い 起こしたのです。そういえば、このいちじくは、昨日主イエスが実をつけていないことをお叱りになったいちじくだと気 づいたのです。ペトロの問いに対して主イエスはお語りになります。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでも この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、 その通りになる」。ペトロを含め弟子たちは、驚きのあまり、信じられないという表情をしていたのでしょう。叱った いちじくが枯れてしまうという超自然的現象を前に驚いている弟子たちに対して、主イエスは疑わずに信じるならば、 山が海に飛び込むとおっしゃるのです。
主イエスは、人間が決して疑わない強い信念をもって物事に望めばどのようなことも出来るということを言おうとしてい るのではありません。主イエスは最初の箇所で「神を信じなさい」と言われているように神様に対する信仰を問題にして います。主イエスは、宮きよめと、それを象徴的に示すいちじくの出来事によって、神の家を強盗の巣にしてしまう人間 の罪に対して怒りを現されました。それを見て唖然としている弟子たちに対して、主イエスは真に神を信じ、信仰に基づ いて祈るようにと言われるのです。そして、神様を信じて、祈りに生きるとはどのようなものなのかを示そうとしているのです。
山を海に
主イエスがここで語られた、山に向かって海に飛び込めと言えば、その通りになるとはどういうことでしょうか。 これは、信仰が本物であれば、文字通り山を動かすことが出来ると言うことでも、信仰を積んで鍛錬して行けば、 超自然的な魔術のようなことが出来ると言うのでもありません。私たちの中に、山に命令して海に飛び込ませること が出来る人はいないでしょう。だからと言って、私は、信仰が足りないのだと思う必要はないのです。今までの教会 の歴史の中で、主イエスに従った人々の中にも山を動かした人はいないのです。信仰に基づいた祈りとは、そのよう な人間の能力を超えた秘術を可能にすることではないことは言うまでもありません。
「山」というのは、当時のイスラエルの人々にとっては、恐れを抱かせるものでした。日本に住む私たちは、山と聞くと、 緑に包まれた美しい自然を想像します。しかし、イスラエルの山は、ごつごつとした岩場です。更に、そこには旅人を襲う獣や 、追いはぎがいるのです。山は人々の歩む道の前に立ちはだかり、その歩みを困難なものにするのです。旅人は、自分の進むべ き道の先に山があると、否応なしに命の危険を感じ恐れを抱かざるを得ないのです。おそらく、旅人たちは自分の目の前に立ち はだかる山々に向かって「海の中に飛び込め」と命じて、その通りになり、平坦な道になったとしたらどんなに良いことかと思 ったことでしょう。
主イエスはここで、山が海に飛び込むと語ることによって、真に神を信じるのであれば、まさに越えることが出来ないような 山々を前にしても、そこで、歩むべき平坦な道が示されると言われたのです。信仰を持って祈ることによって、人々にとって困 難以外の何者でもなく、恐れを抱かせるような現実の中にあって、歩むべき道が示されていくというのです。それは私たち自身 の力によることではありません。この山が切り開かれ道を備えられるのは、父なる神の力によってです。ただ神の力に信頼して 祈り求めことによって、山は海に飛び込むのです。
本日お読みした旧約聖書、詩編121編1-8は巡礼のためにエルサレムに上る人が歌った詩です。「目を上げて、わたしは 山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」。山々と聞いて、日本に 生きる私たちは、死の恐れよりも、緑の豊かさを思い描くと申しました。そのような意味では、この詩は、誤解して受け取られ 易い詩であると言って良いでしょう。この詩編の歌を私たちが聞くと、山々を見上げ、その大自然の美しさに圧倒されて、神を たたえているようにも思えるのです。しかし、そうではありません。到底越えられそうにない、自分の道の先に立ちはだかる死 の力の大きさを思わずにはいられない山々を見上げる中で、尚、この山々を含めた、天地を造られた主の下から、わたしの助け は来ると言うのです。このような神を信じる信仰によって、立ちはだかる山を前にしても、主によって道が備えられるのです。 神の助けによって示される道があるのです。そのことに依り頼むことこそ、神を信じる者の歩みなのです。
既に与えられた救い
24節には次のようにあります。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、 そのとおりになる」。これは、私たちが信仰をもって熱心に祈れば、どんな願望でも叶えられるというのではありません。 祈りの本質は、自分の得たい物事をひたすら祈ることによって神様の思いに働きかけて、それを実現していただこうとする ことにあるのではありません。ここで、「既に得られた」と言われていることが大切です。私たちが願う前から、既に必要 を満たして下さっている父なる神さまに信頼して、救いを祈り求めるのです。
もし、私たちが、神の救いが既に与えられていることを確信出来ないで祈るのであれば、その祈りは、神さまに自分が求める 救いをひたすらに願って、それを実現してもらうための手段になります。しかし、神の救いが既に私たちに及んでいることを 信じつつ祈るのであれば、その祈りは、救われた者としての感謝と共に、御心がなるようにと祈りになります。私たちは日々の祈りにおいて、何を祈っても良いのです。しかし、根本的には、救いの確信に支えられて、父なる神の御心を求めて祈り続けるのです。
主イエス・キリストの救いによって
私たちにとって、神が必要を満たしてくださる方であり、救いを与えてくださっているということは、簡単に受け入れられるこ とではありません。私たちをおそう困難は不動の山のように、立ちはだかり、神の力をも見失わせます。しかし、私たちは、 そのような中でこそ、ここで、御言葉を語られている主イエス・キリストの歩みに目を向けなくてはならないのです。そこに、 神の救いの御業が示されているからです。神は愛する独り子である主イエスを、人間の救いのために世に遣わして下さいました。 主イエスは、人間の罪の贖いとして、十字架によって、ご自身を捧げたのです。このことによって、私たちの前に立ちはだかる、 死の力に勝利して下さったのです。御自身のひとり子を惜しまず捧げることによって、私たちの救いを成し遂げてくださった主な る神は、すべての私たちの必要を満たしてくださるのです。この神様は、私たちを恵で満たし、私たちの歩みを導いてくださっ ているのです。だからこそ救いは「既にあたえられている」ものなのです。主なる神を信じるとは、私たちが歩む道の先にある山、 私たちを恐れさせる様々な困難や、死の力が襲う時、そこにおいてこそ、根本的にはその恐れが既に克服されるということを知らされ て歩むことなのです。実際問題として、私たちの歩みには様々な困難があり、立ちはだかる山々としか言いようのない試練があります。 しかし、そのような山々を前にして、恐れを抱くことがあったとしても、根本的には、その恐れを抱かせる死の力からの解放が与えられ ていることを信じて歩むのです。どのような山を前にしても、私たちは、既に、私たちの救いにとって必要なものが与えられているとい う確信の中で神様に祈り求めるのです。
赦しに生きる
更に続けて、25節以下には、祈る時の姿勢について、語られています。「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことが あれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。ここで、「立って祈るとき」と あります。これは、礼拝において人々の前で祈る時のことが語られています。ここで「祈り」というのは、礼拝をも含めた、広い意味での 祈りについて語られているのです。神様に向かって祈る時、神様に礼拝を捧げる時、隣人のことを赦さずに、恨みを抱いたままであっては ならないというのです。人々が隣人を赦すことと、神様への真の祈り、真の礼拝が捧げられることは密接に結びついているのです。私たち が真の祈りを捧げている時には、私たちは隣人を赦していなければならないし、私たちが隣人を恨みつつ、祈りが捧げられることはあり得な いというのです。更に、ここでは、私たちが隣人を赦すことと、父なる神様が私たちを赦すことが、交換条件であるかのように書かれています 。自分が赦すことによって、自分も神様から赦していただけるのだと言うのです。
このようなことを聞くと、私たちは自らを省みて不安になります。私たちは人を赦すことがなかなか出来ません。そのような私たちにとって、 これは、この御言葉はとても難しい要求のように思えます。これでは、私たちはいつまで立っても、祈ったり、礼拝したり出来ないと思うか もしれません。又、私たちは、とうてい自分の罪は赦していただけないとの思いになります。しかし、ここでは、私たちが祈る時の掟や、 赦されるための条件が書かれているのではありません。私たちが隣人を赦せば、その代わりに、神様も私たちを赦してくださるというの ではないのです。人を赦すというのは、私たちには難しいことです。それは、丁度、私たちの信仰生活の前に立ちはだかる山々であると 言っても良いかもしれません。しかし、ここでも、既に、私たちの救いが与えられていることに注目しなくてはなりません。私たちは、 主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちに罪の赦しが与えられているのです。天の父の救いの御業によって、赦されて いるのです。そして、この恵を受けて、その救いに与って生きる歩みは、当然、罪赦された者として、人々を赦す歩みとなります。自分 が、主イエスの救いに与って生かされていることを知らされる中で、自分の隣人の罪を赦す歩みへと変えられるのです。
私たちは、自らの罪が赦され、生かされている恵を感謝して歩みます。そこでは、主の救いの御業に依り頼む一方で、主イエスに 倣って歩むために、自ら隣人の罪を赦すように励むということがなくてはなりません。主イエスの御業によって、私たちの赦せない思 いが取り除かれるというのではないのです。ただ、赦すことが出来ないという困難な現実がある中で、主イエスが既に、自分の命を捧 げて私たちの罪を赦すことによって、その困難を取り除いてくださっていることに信頼しつつ、私たちも罪を赦すように務めるのです。 そして、事実、人を赦して行く中で、主イエスの私たちのための苦しみの一端を知らされると共に、主イエスの恵の豊かさも知らされて いくのです。だからこそ、主の祈りにおいて、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈られるの です。この祈りを祈りつつ主を礼拝するのです。
主の家を建てる
私たちが祈る時に大切なことは、まさに、祈りにおいて、この真の赦しに生かされて行く者とされるということです。すべての人の祈りの家が、 真に実りをもたらすためには、この主イエスによって示された赦しに生かされるということがなくてはなりません。又、人々がこの真の赦しに生 きられないのであれば、そこに、「すべての人の祈りの家」は建てられることはないでしょう。私たちが、既に救いが与えられているのにもかか わらず、自分を主人として、自分の思いの実現を求め続ける時、祈りの家は強盗の巣になります。その家は、さまざまな区別が設けられ、人々は、 自分が主人になろうとして、赦し合うよりも、恨み合うようになります。そのような中で建てられる神殿は、いずれ滅び、枯れていってしまうで しょう。
しかし、主イエスの御業に導かれて、既に赦されていることに感謝しつつ赦し合いつつ歩むのであれば、そこで真の礼拝、真の祈りが捧げられ て行きます。主イエスの赦しに与って、共に神様を礼拝する群れとなるからです。この主イエスの救いの前では、区別は生まれません。人々が家 の主人となるのではなく、主イエスを主人として歩むからです。共に罪赦された者として、互いに赦し合いつつ歩むのです。そのような時、真の 神の家、祈りの家である教会が建てられて行くのです。私たちの必要を満たし、赦しを与えて下さった、主イエス・キリストが主人となって下さ っている家こそ、私たちの祈りの家である教会です。そこでは、自分が主人となり、人を赦すことよりも恨むことをしてしまう人間の罪は乗り越 えられています。互いに赦し合う中で、真の祈り、真の礼拝が捧げられるのです。そこに、すべての人の祈りの家が建てられ、祈りによる実りが もたらされるのです。 本日共に聖餐に与ります。この聖餐において、私たちは、主イエスが私たちの罪の赦しのために実を捧げてくださったことを覚えます。私たちは、 繰り返し、既に与えられている救いを知らされて、罪赦された者としてお互いに赦し合う群れが形成されるのです。