「命はキリストと共に」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 詩編 第98編1―9節
・ 新約聖書; コロサイの信徒への手紙 第3章1-11節
・ 讃美歌 ; 322、326、18
復活させられた主イエス
本日はイースター、主イエス・キリストの復活を記念し、喜び祝う日です。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストは、三日目の、週の初めの日、日曜日の朝、復活されました。そのことを喜び祝うために、教会は日曜日を主の日と呼び、その日に礼拝をささげてきたのです。毎週の日曜日は小さなイースターであり、本日はその大元となるイースターです。
聖書は、主イエスの復活を、主イエスが自分の力で死に打ち勝って復活した、とは述べていません。主イエスは、父なる神様の力によって、復活させられたのです。週報の第一面に「今月の聖句」が書かれていますが、そこにも「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」とあります。「復活した方」ではなくて、「復活させられた方」であるイエス・キリストを私たちは信じているのです。
この違いはどうでもよいことではありません。もしも主イエスが自分の力で復活したのなら、その復活は、大きな奇跡ではあるけれども、私たちとは関係のない別の世界のことになります。私たちは、どう頑張っても、死んでしまったらもう復活などできません。死に打ち勝つ力など私たちにはないのです。復活は、神様の独り子であるイエス様だから出来たことで、とうてい私たちの事柄にはなり得ないのです。しかし、主イエスは父なる神様によって復活させられたのです。父なる神様が、死の力を打ち破って主イエスに新しい命と体を与えて下さったのです。そうであるならば、復活は私たちの事柄ともなり得るのです。私たちも、神様の恵みによって、新しい命を生きる新しい体を与えられて、死者の中から復活することができる、その希望が与えられるのです。キリストは父なる神様によって復活させられた、と聖書が語っていることによって、私たちにも、復活の希望が与えられているのです。
キリストと共に復活させられた
そしてそれは単なる可能性ではありません。神様は実際そのことを実現して下さったのです。そのことを、本日ご一緒に読むコロサイの信徒への手紙の第3章1節が語っているのです。1節に、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」とあります。ここにもキリストは「復活させられた」と受け身で語られています。そしてそのキリストと共に、あなたがた、つまり教会に連なる信仰者たちも復活させられたのだと語られているのです。私たちも、キリストと共に復活させられた者だ、とこの手紙は語っているのです。
洗礼
それはどういうことでしょうか。復活させられたというのは、その前提に、一旦死んだということがあります。復活とは死んだ者が生き返ることです。だから、あなたがたは復活させられたというのは、あなたがたは一旦死んだのだということでもあるのです。実際、3節には「あなたがたは死んだのであって」とあります。この手紙は教会の信仰者たちに、あなたがたは死んで、そして復活させられた者だ、と語っているのです。それが何を指しているのかは、2章の12節に語られています。そこにこうあります。「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」。つまり、一旦死んで復活させられたというのは、洗礼を受けたということなのです。洗礼を受けるというのは、この12節が語っているように、キリストと共に死んで葬られ、そして、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられる、ということなのです。本日この礼拝において、三名の方々が洗礼を受けます。その洗礼式においていつも読まれる聖書の言葉は、ローマの信徒への手紙の第6章ですが、そこにも、洗礼の意味が語られています。その4節にはこうあります。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。洗礼とは、キリストの死にあずかる者となって一旦死に、そしてキリストの復活にあずかって新しい命に生かされることなのです。ですから、洗礼を受けてキリスト信者、教会員となった者は、キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた者です。本日洗礼を受ける方々も、生まれつきの古い自分がそこで死んで、新しく生まれ変わるのです。既に洗礼を受けて教会員、クリスチャンとなっている者たちも、自分がキリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた者であり、キリストと共に復活させられた新しい命を生きているのだということを、この時改めて確認したいのです。
新しい命はどこに?
洗礼を受けることによって、キリストと共に復活させられた新しい命を生きていく、それはいったいどのような命なのでしょうか。既に洗礼を受けている人は皆感じていることでしょうが、洗礼を受けたからといって、そこで特別自分が新しくなったという実感が得られるわけではありません。本日洗礼を受ける方も、受けたとたんに何か自分が全く新しくなってしまう、それまでとは違う者に突然変わってしまう、ということを期待していたら、それは失望に終わるのです。洗礼を受ける前と後とで、自分という人間が何か目に見えて変わるわけではありません。勿論、洗礼を受けることによって、私たちの中に、自分はキリストの救いにあずかり、教会の一員になったのだ、クリスチャンになったのだ、という自覚は生まれます。そういう意味で、私たちは洗礼において新しい気持ちで歩み始めるのだし、またそうでなければ嘘でしょう。しかし、キリストと共に復活させられた新しい命を生きるというのは、私たちがそのような新しい心構え、新鮮な気持ちを持つこととは違うのです。キリストの復活にあずかる新しい命を、自分の新鮮な気持ちと混同してしまってはなりません。新鮮な気持ちというのは、時が経てば失われていくものだし、それが自然です。それが失われたからといって、信仰が弱まってしまったということではありません。それはむしろよい意味で教会生活、信仰生活に慣れてきたということです。無理をしていつまでも新鮮な気持ちを持ち続けようとするのはかえって不自然なことです。キリストと共に復活させられた私たちの命の新しさは、そんなところにあるのではないのです。では、洗礼において与えられた新しい命を私たちはどこに見出したらよいのか。3節にそれが語られています。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」。キリストと共に復活させられた私たちの新しい命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
隠されている命
ここでまず注目したいのは、「隠されている」という言葉です。洗礼によって私たちが生きる新しい命は、隠されている命です。隠されているということは、表に現れていない、表面だけを見ていたらどこにあるのか分からない、あるのかないのかも分からないということです。それが、洗礼によって与えられる新しい命なのです。だから、洗礼を受けたからといって特別何かが新しくなったという感覚がないのはむしろ当然なのです。そこで与えられる新しい命は、私たちの感覚で捉えられるような、あらわなものではなくて、隠されたものなのです。どこに隠されているのでしょうか。それは、「キリストと共に神の内に」です。キリストと共に神の内に隠されている新しい命を見出そうとして私たちは歩むのです。そのために1節には、「上にあるものを求めなさい」と言われているのです。この「上」という言葉で見つめられているのは、復活させられた主イエスが天に昇り、今は父なる神様の右の座に着いておられる、ということです。キリストと共に神の内にというのは、復活して天に昇ったキリストと共に、そのキリストが右の座に着いておられる父なる神様の内に、ということなのです。私たちの新しい命はそこに隠されているのです。
上にあるものを求める
このことを受けて2節には、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」とあります。あなたがたの新しい命は地上にあるのではなく、上に、つまり天にあるのだから、地上のものに心を引かれるのでなく、上にあるものをこそ心に留め、求めていきなさいということです。地上のものに心を引かれず、天にあるものをこそ求めていくことが、洗礼を受けた信仰者の生き方なのです。私たちはともすればこの教えを読む時に、信仰とは、地上の事柄に関わることをやめて、天のこと、つまり神様のことに目を向け、それのみを求めていくことだ、と考えてしまいがちです。あるいは、この教えを精神的に理解して、この世の現実ばかりを見つめていないで、もっと高い理想を見つめ、それを追い求めていくことが大事だ、という教えとして読むかもしれません。しかしそれはいずれも、ここに語られていることを正しく理解していない、間違った読み方です。上にあるものに心を留め、それをこそ求めなさいというこの教えは、地上のことか天のことか、この世の事柄か神様の事柄か、現実か理想か、そのどちらを選ぶか、という選択を求めているのではないのです。それではこの教えはどのように読めばよいのか。それを理解するための鍵が、4節にあるのです。
キリストが現れるとき
4節に「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と語られています。ここで見つめられているのは、「キリストが現れるとき」です。それは、復活して天に昇り、今は父なる神の右の座に着いておられる主イエスが、そこからもう一度この世に来られ、現れられるその時、つまりキリストの再臨による世の終わりの時です。その時には、今は隠されている神様のご支配、主イエス・キリストによって確立されている救いの恵みが、あらわになるのです。救い主イエス・キリストのお姿が誰の目にもはっきりと分かるように現れるのです。その時に、「あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」とあります。これはつまり、今はキリストと共に神の内に隠されているあなたがたの新しい命が、あらわになる、誰の目にもはっきり見え、分かるものとして完成する、ということです。私たちの新しい命は、世の終わりの、キリストの再臨の時にこそ、はっきりと見えるものとして現れるのです。私たちは、このことを待ち望みつつ生きるのです。
待ち望む信仰
この「待ち望む」ということが、私たちの信仰において根本的に大切です。洗礼において与えられる私たちの新しい命は、今は、この地上の人生においては、隠されており、はっきりとは見ることも感じることもできません。洗礼によってキリストの復活にあずかって新しく生まれ変わったと言われるけれども、その新しい自分などいったいどこにあるのだろうか、そんなもの本当にあるのだろうか、と疑わしく思ってしまうことがあります。既に洗礼を受けた人々は皆そういうことを感じているし、今日洗礼を受ける方々もこれからそのように感じていくことが必ずあるのです。しかし、私たちの新しい命は、復活して天に昇り、父なる神の右の座に着かれたキリストと共に、神様の内に隠されているのです。今私たちはそのキリストのお姿を肉の目で見ることができず、キリストが成し遂げて下さった救いを信仰によって受け止めるしかないのと同じように、私たちの新しい命も、はっきりと実感できるものではなくて、それが与えられていることを信じるしかありません。しかし、いつまでもそのままなのではありません。主イエス・キリストが、この世の終わりに父のもとからもう一度来て下さり、そのご支配があらわになり、完成するその時に、そのキリストと共に、私たちの新しい命も、栄光に包まれたものとして現れ、完成するのです。そういう、将来への、終末への希望がここに語られているのです。「上にあるものを求めなさい」という教えは、この将来への希望を見つめ、終わりの日に現れる新しい命の完成を待ち望みつつ歩みなさい、ということです。つまり見つめるべき方向は、上ではなくてむしろ将来なのです。ですからこれは、地上のことか天のことか、この世の事柄か神様の事柄か、現実か理想か、という選択の問題ではないのです。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」という教えも、地上の事柄を無視して神様のこと、信仰のことのみを見つめよというのではなくて、地上の生活の中で、その現実と関わりつつ、それに心を奪われ、そのことしか考えられなくなってしまうのではなくて、今は隠されているが主イエスの再臨によってあらわになる新しい命を心に留め、それを求めつつ歩みなさいということなのです。
新しい人を身に着ける
5節以下にはそのような歩みのための具体的な教えが語られていきます。その個々のことについてここで触れることは本日はしません。中心となるのは、9節の後半から10節にかけてのことです。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けていく、そのことを追い求めていくのが、洗礼を受け、キリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた信仰者、クリスチャンの歩みです。生まれつきの古い私たちは、地上的な思い、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲のもとにあります。まことの神様でないものを拝み頼る偶像礼拝に陥っています。また私たちの語る言葉は、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉に満ちています。洗礼において、そのような古い自分がキリストと共に十字架につけられて死に、そしてキリストの復活にあずかって、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けるのです。それは私たちの力でできることではありません。自分の力で死者の中から復活することができないのと同じように、キリストの復活にあずかって新しい人を着ることも、自分の力でできることではなくて、神様が恵みによって与えて下さることです。私たちはその神様の恵みによって洗礼を受け、神様が恵みによって着せて下さる新しい人を身に着けて、新しい命を生きていくのです。この世の歩みにおいてその新しい命が完成することはありません。完成は世の終わりの主イエスの再臨の時に与えられるのです。それまでは、私たちの歩みは、どこまで行ってもなお罪に満ちた、地上的なものにまみれたものです。しかし私たちは、今は隠されているけれども、終わりの日に、再臨のキリストと共に栄光に包まれて現れる新しい命を希望をもって待ち望むことができます。この希望を与えられているゆえに、この世の歩みにおいても、それまでとは違う新しい人となって、み言葉によって日々新たにされつつ生きることができるのです。
本日洗礼を受ける方々が、また既に洗礼の恵みにあずかっている全ての者たちも共に、主イエス・キリストと共に復活させられた者として、今は隠されている新しい命を信じて、それが現れ完成する、主イエスが再び来たりたもう日を待ち望みつつ、信仰の生涯を送っていくことができるように、祈り求めたいと思います。また、神様はこの洗礼の恵みへと、全ての人々を招いていて下さいます。キリストと共に古い自分が死んで、キリストと共に新しい命へと復活させられる洗礼の恵みに、本日この礼拝に集われた全ての方々が導かれますように。