主日礼拝

神の言葉を巡る対立

「神の言葉を巡る対立」  伝道師 矢澤励太

・ 旧約聖書; エレミヤ書 2:4-10
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 7:32-52

 
1 一月前より、ヨハネによる福音書の7章を読んでいます。この章全体の舞台となっておりますのは、仮庵祭と呼ばれるお祭りです。ユダヤ教においては三つの大きなお祭り、過越祭・仮庵の祭り・刈り入れの祭りがあります。私たちはユダヤ教のお祭りといいますと、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から救い出され、エジプトを脱出したことを記念する祭り、過越祭のことをもっぱら思い浮かべがちですけれども、今日の舞台である仮庵祭は三つの祭りの中でも最大の祭り、もっとも盛大に祝われた、大きな祭りであったことが伝えられております。
 そこでどういったことが行われていたのか。そこで何よりも覚えられたことは、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、荒れ野の中で40年もの間、苦しみながらさすらいの生活をしたということです。定住の土地がない中で、長い間さすらいの旅を続けなくてはならなかった。飢えに悩まされ、飲み水がなくて喉の渇きに苦しめられました。そこで指導者であったモーセに、民が詰め寄り、彼を責め立てたことも、出エジプト記という書物に伝えられております。今の自分たちがあること、それはあの苦しみと悩みの時代があったからこそなのだ。この祭りが祝われるごとに、人々はこのことに思いを集め、自分たちがこの世にあって、突き詰めたところでは旅人である、仮の宿りとしての歩みをしているのだということに思いをはせたのであります。チスリの月と呼ばれた時期、今の私たちの暦で言うと9月から10月くらいの時期の一週間、あるいは8日間、秋の収穫祭としてオリーブやぶどう、いちじくなどを取り入れました。その間、人々はしっかり建っている自分の家から外に出て、木の枝や葉っぱで作った仮の家に住んだのです。そうやって荒れ野の40年の時代に、いつも仮小屋を作ってそこに宿りつつ、移動する毎日を送っていたのが自分たちイスラエルの民であるということに、思いを新たにしたのです。
 祭りの間の七日間、毎日朝になると、祭りをつかさどる祭司は神殿の丘を降りてシロアムと呼ばれる池に行きます。そういう水が湧き出ている場所があった。そこに湧き出る水、清い聖なる水を黄金の桶でくみ上げます。そこで笛が奏でられて、神殿の音楽が奏される。祭司は「水の門」と呼ばれている門を通って神殿に戻り、犠牲を捧げる祭壇にこの水を注ぐ行為をしたのです。この行為でもって表されているのは、イスラエルの民が荒れ野での旅をしていた時に岩からほとばしり出る水をもって養われたことを記念するということです。喉がカラカラになってひからびて死んでしまうのではないか、神の導きが信頼できなくなり、指導者モーセを呪い、もはや万事休すかと思われたその時、モーセが杖をもって打った岩の間から 水がほとばしり出て、民は渇きを癒されたのです。そのことを思い起こす。その有様をある人がこう描いています。「シロアムの池で、神殿で、この荘厳な儀式が続く間、群衆の間に歓呼の声が絶えなかった。ラビたち、学者たちはこう言った。この水を汲む喜びを見たことのない者は喜びが何であるかを遂に知らないであろう。そのようにして目の当たり<喜び>というものを見ることのない者は、われわれにとって喜びとは、本当は何であるかを遂に知ることがないままであろう」。

2 けれどもこの歓呼の声があがる中で、あちらこちらから叫び声があがる騒々しい中で、全く別のことを語る声が響いたのです。主イエスの大声です。28節以下にこうあります。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」。ご自身とは区別されるけれども、しかし深い結びつきを持ったお方、真実なお方のもとから、自分は遣わされて来たというのです。主イエスはご自身の気まぐれでこの世にやって来られたのではない。その背後にははっきりとした意志を持つ方がおられ、このお方の御心、ご計画に基づいて、自分はこの世に遣わされてきたのだ、そうおっしゃった。これは、自分は神のもとから遣わされて来た。神と一体だ。ワンセットなのだ。神のご意志が即自分の意志となっている。突き詰めて言えば、自分は神と等しい者なのだ。そう言っていることになります。そして実際、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言って大勢の人たちが、このお方に心を惹かれたというのです。
 そういうささやきの声が、祭司長やファリサイ派の人々の耳にも聞こえてきた。そこで彼らのとった対応は何だったでしょうか。彼らは主「イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」(32節)、というのです。彼らは父なる神の御許から遣わされて来たお方をお迎えするのではなく、逆に迎え撃つための手下を遣わした、というのです。神の許から来られた方を拒み、この人を捕らえて、その自由を封じ込めようとした。なぜでしょうか。祭司長は主イエスの時代に、大変な宗教的権威を担っていた指導者です。ファリサイ派というのは、ヨハネの教会の時代、ユダヤ教を指導した聖書の専門家です。どちらも宗教的な指導者であり、同時に最高議会のメンバーとして、政治上も大きな権力を握っていたのです。ユダヤの支配階級を構成していたのです。彼らが下役たちを主イエスに差し向けた、ということは、このお方の存在が、自分たちの支配にとっては邪魔なものであったからです。その自由を奪って牢屋に閉じ込めたい、いやその存在そのものを消し去りたい、葬り去りたい、殺してしまいたいと思うほどの憎しみを引き起こすような存在であったからです。そもそも主イエスがベトザタの池で、安息日なのに、長い間病気を患っていた人を癒された時から、ユダヤ人たちは主イエスを殺そうと相談をし始めていました。今また大事なユダヤ教のお祭りの最中に、大声で妙なことを言って群衆を扇動している。祭りの邪魔をしている。実にけしからない。絶対にこのまま放っておくわけにはいかない。そう思ったのであります。「シロアムの池で、神殿で、この荘厳な儀式が続く間、群衆の間に歓呼の声が絶えなかった。ラビたち、学者たちはこう言った。この水を汲む喜びを見たことのない者は喜びが何であるかを遂に知らないであろう。そのようにして目の当たり<喜び>というものを見ることのない者は、われわれにとって喜びとは、本当は何であるかを遂に知ることがないままであろう」。
 彼らがどうしてこれほどの憎しみを主イエスに対して抱いたのか。それは主イエスのお語りになる権威あるお言葉が、その存在自体が、彼らの支配を揺さぶったからです。彼らの権威が挑戦を受けたからです。自分たちが今までのように民衆の指導者であり、主人であり続けることができなくなるのではないか、という不安を掻き立てられたからです。

3 主イエスと出会うということは、私たちがこのような挑戦を受けるということです。チャレンジを受けるということです。今までのままではいられない、そう強く思わされることです。この町に教会が建っている。そのこと自体も実は人々に対する挑戦です。チャレンジであります。教会堂という建物がここに建っている。毎週、次の日曜日の説教の題が貼り出されている。会堂が開放されている。ホームページが公開されている。さまざまな形で、教会がこの世に向かって情報を発信しています。神の情報を発信しています。いや神ご自身が 、一人一人と出会ってくださることを信じ、礼拝への招きを発信しています。発信の仕方については、いつも工夫を重ね、よりよい方法を尋ね求める努力を続けていくことが大切でしょう。しかし教会が建っているということそのものが、既に世の人々に対する挑戦なのです。「どうかここに来てほしい。とにかく入ってみてほしい。ぜひとも紹介したいお方がある。なんとかしてあなたに引き合わせたいお方がいる。あなたの救い主、あなたの神が、あなたに会いたがっておられるのだ」!世の人々がどう思おうと、とにかく教会はここに生きる。そこに徹する。その時、教会の存在は世の人々にとって挑戦となるのです。「あなたは今のままでいいのですか」、そういう問いかけになるのです。
 さてこの問いかけの前に、一人一人がどのような態度を取るか、どのような判断をするか、どのようにこの挑戦を受け止めるか、それが大変な重みを持ってまいります。気にも留めない。無視してかまわない。神などいなくても自分は自分の人生を歩んでいける。明日も今日と変わらない毎日の生活があるだけだ。そういう判断をすることもあるでしょう。しかしそういう結論を出すことも、それでひとつの決断をしていることになる。神の許に来ない、来ようとしない姿勢を、神の前で示していることになるのです。主イエスの呼びかけ、主イエスの招きを拒む。それが主イエスを死にまで追い込んでいったのです。私たちが主の招きを受け入れず、この父なる神の許から遣わされたお方の権威を認めない。むしろ自分が自分の主人でいたい。自分の権威を輝かせていたい。その邪魔をする者は許せない。私たちの中にもあるこの頑なな心が、下役たちを遣わし、主イエスを捕らえ、殺そうとしたのです。

4 彼らが下役たちを遣わしたのは、主イエスからの挑戦を押し返そうとした、そんな挑戦は拒否すると言って激しい力で押し戻そうとした、ということです。初めからそういう態度で、主イエスに向かっていった。けれどもそういう心で主イエスに向き合っても、このお方の本当のお姿は見えてこないのです。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(33-34節)。こんなことを言われて、下役たちも含めてユダヤの人たちは、何のことやらさっぱり分からない。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人たちのところへ行って、ギリシア人に教えるということなのかと思う。自分たちの与り知らない異邦人の世界、外国人の国にでも出かけていくつもりかと思っている。自分たちとはぜんぜん関係のないことをするつもりかと思っている。神のおられるところを「天」と呼び、人間の生きる世界を「地」と呼ぶならば、天と地の間には橋渡しのできないような深い裂け目が走っているということになります。乗り越えられない分厚い壁が横たわっているということになるでしょう。神の御心が、人間には全く見えなくなっているからです。
 主イエスがご自分をお遣わしになった方のもとへ帰るということは、御子であるご自分をお遣わしになった父なる神の許へお帰りになるということです。そのために主イエスが通っていかねばならなかったのが受難の道です。十字架の苦しみです。そして死の力に対する勝利である復活なのです。そこで主イエスは天に挙げられるのです。神の許へ帰り、その右の座に着かれるのです。これらすべては何のためでしょうか。ユダヤ人たちが互いに言ったように、自分たちとはぜんぜん関係のない外国にでも行ってしまうためなのでしょうか。 そうではないのです。主イエスはおっしゃったのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37-38節)。そしてそれにすぐ引き続いてヨハネはこう語るのです。「イエスは、御自分が信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」(39-40節)。人々との関係を断ち切ってどこかに行ってしまうというのではありません。むしろその逆です。主イエスが十字架と復活の後に、父の御許へお帰りになり、そこから私たちのところへ聖霊を送ってくださる。私たちの上に霊を降らせる、そのことのために主イエスはお帰りになるのです。そのようにして聖霊によって私たちを、天におられるご自分とひとつに結び付けてくださる。天と地の間にあった橋渡しの仕様のなかった裂け目を克服してくださる。乗り越えようのなかった分厚い壁に風穴を開けてくださる。そうして、私たちをも、主イエスと同じ天に属する者として下さる。その道を切り開くための主の十字架の苦しみであり、死の中からの復活であったのです。私たちと関係を結ぶために父の許へ帰られた。聖霊を送り、天の主イエスと地上の私たちをひとつにするために帰られたのです。私たちが聖霊によって開かれた心の目を持って神の御心を知り、そこに生きるようになるためであります。

5 この主イエスの招きの言葉を巡って「対立」が生じたのです。主イエスがこの世に来られたならば、それですべて解決。問題はなにもかもなくなり、ただ平和が、平安が、地のすべてにもたらされる。聖書は決してそんなふうには語っていないのです。むしろ主が来られたことによって、主の語られた言葉によって、そこに対立が生まれる。分裂が生まれるのです。この言葉をどう聴くか、このお方にどのように向き合うか、どういう態度をとるのか。この問いを巡って意見が分かれるということが起こるのです。この御言葉の中に自分の身をおくのか、それともこの御言葉を拒み、距離を置き、自分とは関係のないものとし、自分は自分の人生を歩んでいくのか、どちらにつくかが鋭く問われるのです。
 この時の群衆の間にも、そういう対立が生じた。「この人はあのエジプト脱出を導いたモーセの再来だ。新しい預言者だ」、そういう人もいれば、「この人は救い主、メシアだ」、そういう人もいる。そうかと思うと「メシアはダビデのいた村ベツレヘムから出ると聖書に書いてあるではないか」、と噛み付いてくる人がある。仮庵の祭りの中で、皆の心がひとつであったはずなのに、そこに分裂が生じる。亀裂が走る。祭りが台無しになってしまうのです。下役たちは結局主イエスを捉えることができませんでした。主の言葉の力に打たれたからです。以前主イエスを訪ねたことのあるファリサイ派のニコデモは、律法に従った、あるべき手続きをきちんと踏まなくてはならないと、主張しました。「まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめる」ことが必要だろうと、同じ仲間であるファリサイ派の人々を糺したのです。けれども祭司長たちもファリサイ派も、こうしたさまざまな声に耳を傾けようとしません。「お前たちまでも惑わされたのか」。そう言って、自分たちの中にはあの男に騙された者などいない、とふんぞり返って言い放つ。そして律法を知らないこの群衆は呪われている、とまで断じるのです。まるで自分たちが神であり、人を呪うのか、それともその罪を赦すのか、その権限を握っているかのような振る舞いです。そこにあるのはエリート意識であり、プライドです。簡単に言ってしまえば、自分が一番だ、と思っている心です。「神のことは自分こそが一番良く分かっているんだ。お前なんかにつべこべ言われる筋合いなんかない。黙っていろ」!そういう思いです。だから「お前たちは律法を知らないだろう」とか、「聖書をよく調べてみるがいい」とか、そういう言い方が出てくるのです。「自分たちこそ神様のことが一番良く分かっている。聖書だってよく分かっている。お前たちは何も知らないではないか」。祭司長やファリサイ派の中にあるこの思いは、結局自分が主人であり、王様であり続けたいという思いです。
 ということは主イエスの問いかけはなにも教会の外の人たちにだけ向けられているわけではない。いやむしろ根本的には私たち教会に生きている者こそが問題になるのです。私たちは神様についてもうすべて分かったようなつもりになっているところがあるのかもしれません。もし本当に主イエスのご支配を心の中に受け入れているのならば、どうしてなお人を裁いてしまうのか。自分でも分からなくなります。どうして人のあら捜しばかりするのか。どうして人につらく当たってしまうのか。どうして教会のことは自分が何でも分かっているかのように振舞ってしまうのか。私たちの心が再び頑なになってしまうからです。砕かれたはずの自分中心の思いがまたムクムクと起き上がってくるからです。そこでまた人を傷つけ、自分も傷を負ってしまう。心が干からび荒れ野となってしまう。いったいどうすればいいのか。

6 そこで今一度37節にある御言葉に聴きたいのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。主の大声が轟くのです。そこにはどうして分かってくれないのだ、そういう怒りや苛立ちもあるかもしれない。けれども何よりもこれは主の招きの声です。どうして分かってくれない、いやどうか分かってほしい。胸を焦がすほどの切ない思いで、主は私たちに呼びかけられる。仮庵の祭り、そこではシロアムの池から汲んできたきれいな水が、祭壇に注がれた。その行為でもって岩の間からも水をほとばしらせ、渇きを潤してくださる神の恵みが思い起こされたのです。この祭りには、雨乞いの意味合いも含まれていた、という説明があります。乾燥した、水が乏しいこの地方では、渇きに対する不安があったのです。滅びに対する恐れがあったのです。
 その深いところにある不安と恐れを抱えたままで行われているこの祭りを見つめながら、今主は大声で言われる。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。飲むという行為は、水分を自分の中に取り入れる、受け入れることです。神の招きを拒むのではなく、そのようにして受け入れるのです。与えられるものを詮索せずに、安心して飲むのです。主イエスは私たちをまことに生かす水、命の水をくださろうとしているのですから。主はおっしゃるのです、「あなたたちは祭りを祝っている。しかし本当の平安、本当の救いがそこにあるのか。あなたたちの渇きはそんなことで解決するのか。わたしはあなたたちの中にある深い渇きを知っている。自分でも分かっていないほどの深みにある渇きを知っている。その渇きを癒す、生ける水を、あなた方の内に注ぎ込むためにわたしは来たのだ」。主イエスは仮庵の祭りが願い求めているものを本当の意味で実現するために来てくださったのです。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。先ほど読まれた旧約聖書のイザヤ書は、ここで言われている聖書の預言のひとつとして数えられている箇所です。その11節にこうあります。「主は常にあなたを導き・焼けつく地であなたの渇きをいやし・骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」。生ける水の源は主イエス・キリストご自身です。私たちはこのお方からの水、つまり聖霊を豊かに受けます。それは私たちの中に入り、私たちを神のものとして、内側から新しく造りかえてくださるのです。そればかりではない。その私たちの中からも、生きた水が川となって流れ出るようになる。御霊を飲んだ私たちは、世にあって「潤された園」、「水の涸れない泉」として、この世の荒れ野の中に、御言葉の流れをあふれ出させるのです。私たちの存在そのものが、聖霊によって天のキリストと結ばれている、命の水の泉として世を潤し始めるのです。
 そこに、仮庵祭りが目指していた本当の潤い、魂の渇きの癒しがもたらされるのです。そこに仮庵の祭りが目指した本当の喜びが満ち溢れるのです。イザヤの預言したような、安息日を喜びの日と呼び、主を喜びとする歩みが与えられていくのです。私たちはこの喜びへの招きに、いつも新たに与るのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、祭りの中でも、礼拝の中でも、心が頑なになり、あたかももうあなたのことがすべて分かってしまったかのように思い込む私共の罪を思います。その頑なさがプライドとなり、エリート意識となり、人を見下したり、自分に都合の良い聖書の解釈を作り出したりしてしまいます。自分に都合のよい、結局は自分を支配者としているような心をどうか打ち砕いてください。主イエスはただ「わたしのもとに来て、飲みなさい」とおっしゃってくださいました。この御言葉に信頼し、いつもあなたから生きた水を飲ませてください。そこでいつも新しくあなたをまことの主として受け入れる喜びに与らせてください。その喜びの中で、わたしたち一人一人を、この教会を、この荒れ野の世にあって「潤された園」、「水の涸れない泉」として生かしてくださいますように。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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