主日礼拝

いつまでも主と共に

「いつまでも主と共に」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:ミカ書 第4章1-3節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第4章13-18節
・ 讃美歌:

キリストが再び来られるときに起こること
 テサロニケの信徒への手紙一第4章に入り、本日はその後半を読んでいきます。すでに私たちはこの手紙を読み進めていく中でキリストの再臨が見つめられている箇所をいくつか見てきました。キリストの再臨とは、十字架で死なれ復活して天に昇られた主イエス・キリストが終りの日に再び世に来てくださることです。2章19節でも3章13節でも「わたしたちの主イエスが来られるとき」とあり、キリストの再臨が見つめられていました。本日の箇所では、キリストの再臨についてより具体的に描かれていて、16節以下でこのように言われています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」キリストが再び来られるときに起こることが描かれていますが、その独特な表現は私たちには馴染みのないものです。「大天使の声」はどんな声なのだろうかとか、「神のラッパ」はどんな音色なのだろうかとか、「神のラッパ」はどんなメロディーを鳴り響かせるのだろうかなど、不思議に思うことが色々あるのではないでしょうか。そのようなことをあれこれ想像してみるのも聖書を読む楽しみの一つかもしれません。しかしここでは、終りの日について描くこのような独特な表現がユダヤ教の伝統の中にあり、それをパウロが用いたということを捉えておくので十分だと思います。

知らないでいてほしくない
 むしろ私たちが目を向けなくてはならないのは、なぜパウロがこの箇所でテサロニケの人たちにキリストの再臨について語っているのかということです。本日の箇所の冒頭13節では「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と言われています。「知っておいてほしい」と訳されていますが、原文の通りに訳せば、「知らないでいてほしくない」あるいは「無知でいてほしくない」となります。昔の口語訳聖書では「眠っている人々については、無知でいてもらいたくない」と訳されていました。「知っておいてほしい」と「無知でいてほしくない」とでは与える印象が随分と違います。その違いから、パウロがテサロニケ教会の人たちに語ろうとしていることは、知っておいたほうが良い程度のことではなく、知らなくてはならないことだと分かります。それほどに大切なことをパウロは語ろうとしているのであり、またそれほどに大切なことをテサロニケ教会の人たちは知らなかったのです。彼らはなにを知らなかったのでしょうか。14節でパウロは「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」と言っています。テサロニケ教会の人たちはイエスが十字架で死んで復活されたと信じていました。しかし彼らは、神が「イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出して」くださることを知らなかったのです。「眠りについた人たち」とは死んだ人たちのことです。つまり彼らは、イエスを信じて死んだ人たちの復活を知らなかった、信じていなかったのです。

テサロニケ教会の動揺
 テサロニケ教会において「イエスを信じて眠りについた人たち」はどうなるのか、ということが大きな問題となったのには時代的な背景もあります。パウロを含め初期の時代のキリスト者は、自分が生きている間にキリストが再び来てくださる、と考えていました。15節では「主が来られる日まで生き残るわたしたち」と言われ、17節でも「わたしたち生き残っている者」と言われていることから分かるように、この手紙を書いた時には、パウロは自分自身もテサロニケ教会の大部分の人たちも「主が来られる日まで生き残る」と考えていたのです。彼らはキリストの再臨が差し迫っているという緊迫感と緊張感の中を歩んでいました。ところがテサロニケ教会で予期していなかったことが起こり始めます。キリストの再臨を待たずに死んでしまう人が教会のメンバーの中から出てきたのです。このことはテサロニケ教会に動揺をもたらしたに違いありません。なぜなら教会のメンバーの誰もが生きたままで主の到来を迎えることができるという確信が打ち砕かれたからです。そして教会の中に、キリストの再臨より前に死んだ人たちはどうなるのか、という疑問が生じたのです。疑問が生じたというよりも不安と恐れが生じた、と言ったほうが良いかもしれません。誕生したばかりのテサロニケ教会で、共に「御子が天から来られるのを待ち望」(1:10)み、苦難の中にあっても信仰によって励まし合いながら歩んできた仲間(兄弟姉妹)が、その待ち望んでいたキリストの再臨より前に死んでしまうという現実は、教会の人々の気持ちを激しく揺さぶったに違いないからです。大切なあの人はどうなってしまうのだろうか。救いの完成に与れなくなってしまったのではないか、救いの恵みからこぼれ落ちてしまったのではないか、と不安を抱かずにはいられなかったのです。それだけではありません。先ほど15節で「主が来られる日まで生き残るわたしたち」と言われ、17節で「わたしたち生き残っている者」と言われているのを見たように、キリストの再臨を待たずに死んでしまう人が教会の中から出てきてなお、この時点では多くの人が自分は生きて主の到来を迎えられると思っていました。しかし教会のメンバーの死に直面して、もしかしたら自分たちもキリストの再臨の前に死んでしまうのではないか、そのことによって救いの恵みからこぼれ落ちてしまうのではないか、という恐れが生じたのではないでしょうか。大切なあの人はどうなってしまうのかという不安と、もしかしたら自分たちも同じように死んでしまうかもしれないという恐れが、テサロニケ教会の人たちを激しく襲ったのです。

キリスト者にとっての死
 このことから分かるように、当時、テサロニケ教会の人たちが抱いた疑問、あるいは彼らを襲った不安や恐れを、私たちは完全に共有し、共感できるわけではありません。私たちは、パウロやテサロニケ教会の人たちと同じ緊迫感と緊張感を持って、自分が生きている間にキリストの再臨が起こるとは考えていないからです。もちろんいつ終りの日が来るかは私たちには分かりませんから、明日、終りの日が来たとしても不思議ではありませんし、私たちはいつ来るかは分からないけれど必ず来る主の再臨を待ち望んでいます。しかし何世代にも亘るキリスト者が、キリストの再臨を待たずに死んでいったことを思うとき、私たちはパウロやテサロニケ教会の人たちのように、「既に眠りについた人たち」と「主が来られる日まで生き残るわたしたち」という捉え方で、信仰の先達と自分たちを区別して考えることはないと思うのです。そうであるならば、本日の箇所で語られていることはキリスト教の初期の時代特有の出来事であり、私たちには関わりのないことなのでしょうか。そうではありません。なぜならこの箇所で根本的に見つめられているのは、「キリスト者にとっての死」だからです。

自分たちの復活を信じていない
 もう一度13、14節に目を向けましょう。このように言われていました。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」テサロニケ教会の人たちは主イエスの十字架の死とその死からの復活を信じていました。しかし教会の群れの中からキリストの再臨の前に死んでいく人たちが出てきたことは、彼らに深い嘆きと悲しみを引き起こしました。そのような彼らに、パウロは「キリストを復活させた神が、イエスを信じて死んだ人たちをも復活させてくださるのだから、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しんではならない」と言うのです。ここで「希望を持たないほかの人々」とは、イエスを信じていない人であり、洗礼によってキリストに結ばれていない人であり、要するに教会に属していない人のことです。つまり教会に属していない人は希望を持っていないと言っていることになり、とても乱暴な上から目線の言い方のようにも思えます。けれどもパウロは上から目線でこのようなことを言っているのではありません。そうではなく彼は本当の希望を見つめ、また伝えようとしているのです。このことについては、後で振り返ることにしますが、要するにここでパウロは、教会に属していない人たちのように嘆き悲しんではならない、と言っているのです。裏返して言うならば、テサロニケ教会の人たちがそのように嘆き悲しんでいるのは、イエスの復活を信じても、自分たちの復活を信じていないからだ、ということです。イエスの復活が自分たちの死となにも関わりのないこととして受けとめられていたのです。
 同じようなことが私たちにも起こっていないか問うてみる必要があります。主イエスの復活は分かるし、それを信じてもいる。しかし自分の復活が分からないし、それを信じることができない。あるいは、主イエスの十字架と復活による救いは、生きている自分には関わりがあるけれど、死んだ自分には関わりがないように思える。そういうことがあるのではないでしょうか。しかしそうであるならば、私たちは主イエスの復活を本当に信じていることにはなりません。主イエスを信じて死んだ人たちの復活を信じていないならば、私たちは主イエスの復活を本当に信じているとは言えないのです。

キリストに結ばれて死んだ人たちの復活
 15節でパウロはこのように言っています。「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」さらに続けて、先ほど見たように独特の表現で終りの日を描きつつ、キリストが再び天から降ってくると「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」と言っています。ここで見つめられているのは、キリストの再臨の前にキリストに結ばれて死んだ人たちも、それまで生き残る人たちも、キリストが再び来られるときに救いの完成に与ることができる、ということにほかなりません。すでに死んだ人たちも終りの日に復活させられ再臨のキリストと出会うのです。そしてそのことを信じるならば、私たちは死に直面して、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しむことはないのです。

死の嘆きと悲しみの中にある希望
 しかしこのことは、キリストの復活を信じ、またキリストに結ばれて死んだ人たちの復活を信じているならば、私たちにとって死は嘆き悲しむべきことではない、ということでは決してありません。家族の死、大切な人の死、共に信仰生活を歩んできた仲間の死が、私たちに深い嘆きと耐え難い悲しみ、喪失感を与えないはずがありません。家族や大切な人や信仰の仲間の死に直面して、私たちは途方に暮れ、絶望し、自分の心の中に大きな空洞が出来てしまったかのように感じるのです。死の力は決して小さなものではなく、私たちはその力によって打ちひしがれ、もう立ち上がることはできない、もう再び歩き出すことはできないとすら思います。そのような私たちに、パウロは嘆くな、悲しむなと言っているのではありません。そうではなく、「希望を持たないほかの人々のように」嘆き悲しんではならない、と言っているのです。嘆いても良い。悲しんで良いのです。けれどもその深い嘆きと耐え難い悲しみ、喪失感の中にあっても、キリストの復活を信じ、そのキリストに結ばれて死んだ人たちの復活を信じているならば、私たちにはなお希望があるのです。途方に暮れ、絶望し、自分の心の中にできた空洞に飲み込まれそうになっても、決して失われない希望が私たちに与えられているのです。希望が失われないのは、私たちが自分を鼓舞して確固たる信念を持っているからではありません。家族や大切な人や信仰の仲間の死に直面して打ちひしがれ、もう立ち上がり歩き出すことすらできないと思う私たちに、キリストの十字架と復活によって打ち立てられた希望が、キリストに結ばれて死んだ人たちの復活という揺らぐことのない希望が与えられているからです。その希望によって私たちは慰められ、深い喪失感が、心の中の空洞が恵みによって満たされていくのです。

死は終りでない
 テサロニケ教会の人たちは、キリストの再臨の前に教会のメンバーが迎えた死を嘆き悲しんだだけでなく、自分たちも再臨の前に死んでしまうかもしれないという恐れと不安を抱きました。私たちは、彼らのようにキリストの再臨まで生き残るとは考えていないとしても、家族や大切な人や信仰の仲間の死だけでなく、自分自身の死への恐れや不安を抱いています。それは、死によってすべてが失われてしまう、終わってしまうことへの恐れや不安であり、死によって救いの恵みからこぼれ落ちてしまうことへの恐れや不安です。けれども洗礼によって復活のキリストと結ばれ、キリストと一つとされた私たちにとって、死は決してすべてが失われることでも、すべてが終わってしまうことでもありません。私たちは生きているときにだけ救いの恵みの中にあるのではなく、死を迎えるときも、死んでからもその恵みの中にあるのです。そしてキリストが再び来られるときに、信仰の仲間も、私たち自身も復活させられ救いの完成に与ります。確かに死への恐れや不安は私たちを激しく揺さぶります。けれども私たちにとって死は終りではありません。死を越えた復活と永遠の命の希望が私たちに約束されているからです。生きているときも、死を迎えるときも、死んでからも私たちは救いの恵みの内にあり、支えられ守られ、慰めと平安を与えられているのです。

本当の希望を伝える
 パウロはこの箇所で、「イエスを信じて眠りについた人たち」、「キリストに結ばれて死んだ人たち」は、終りの日に復活させられると語ります。「イエスを信じて」、「キリストに結ばれて」ということが、希望を持たないほかの人々との決定的な違いです。先ほど申したように、主イエスを信じていない人たちは、つまり教会に属していない人たちは希望を持っていない、というのは乱暴な上から目線の言い方のようにも思えます。主イエスを信じていなくても、教会のメンバーでなくても希望を持っている方はたくさんいるからです。この社会は様々な方法で様々な希望を提供し続けてもいます。けれどもそれらの希望は、この世を生きている間だけの希望ではないでしょうか。それらの希望は、「死んだら終り」という壁を決して打ち壊すことができないのではないでしょうか。しかしパウロは死を越えた復活と永遠の命の希望を伝えています。そこにあるのは上から目線などではなく、この本当の希望を「知らないでいてほしくない」、という強い思いです。私たちもパウロの強い思いを受けとめ、死の壁を打ち壊す本当の希望を伝えていきたいのです。私たちの家族や大切な人の中には救いに与っていない方がたくさんいます。その方々に、生きることにおいても死ぬことにおいても決して失われることのない本当の希望を証ししていきたいのです。この箇所においてパウロは、救いに与ることなく亡くなった方がキリストの再臨のときにどうなるかについてはなにも語っていません。それでも私たちは、その方々が主の御手の内にあることを信じて良いし、そのことを信じ、その方々を主に委ねます。そして、誰一人として本当の希望を「知らないままでいてほしくない」という思いをますます強められて、私たちは本当の希望を伝えるために用いられていきたいのです。

いつまでも主と共に
 17節の終りでパウロはこのように言います。「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」キリストの再臨のときに、キリストに結ばれて死んだ人たちは復活させられ、そのときまで生きていた人たちと共に再臨のキリストと出会い、永遠の命を与えられて、いつまでもキリストと共にいることになるのです。私たちの失われることのない本当の希望はここにあります。私たちは、恵みの内に生かされ、そして死を迎え、しかし終りの日に復活させられ永遠の命に与り、いつまでもキリストと共にいることになるのです。このことをヨハネの黙示録21章3節以下はこのように語っています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」復活と永遠の命に与り私たちがいつまでもキリストと共にいるとは、私たちには「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ということにほかなりません。パウロは、「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しんではならない」と言いました。そのように言うのは、キリストとキリストに結ばれて死んだ人たちの復活を信じていれば、私たちは大切な人や自分自身の死を嘆き悲しむことも恐れることもないからではありません。そうではなく、死に直面して深い嘆きと悲しみ、恐れと不安に激しく襲われるとしても、その死を越えた、悲しみも嘆きも労苦もない救いの完成を、いつまでもキリストと共にいることになる希望を見つめているからなのです。
 前回見たように、この手紙は4章からキリスト者としての生活の勧めが語られています。1-12節では、秩序ある性生活、互いに愛し合う生活、落ち着いた生活について語られていました。それに対して本日の箇所は、そのようなキリスト者としての生活の勧めから離れて、キリストの再臨についての教えを語っているように思えます。しかしそうではありません。キリストが再び来られるときに私たちが復活させられ永遠の命に与り、いつまでもキリストと共にいることになる。そのことに希望をおいて生きることこそ、私たちの信仰生活にほかならないからです。だから18節でパウロは「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」と言います。生きているときも、死を迎えるときも、死んでからも神さまの恵みの内に置かれ、キリストの再臨のときに、いつまでもキリストと共にいるようになる、という希望によって、私たちは励まし合い慰め合いながら歩んでいくのです。私たちの本当の希望は、死を越えて、「いつまでも主と共にいる」ことにこそあるのです。

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