主日礼拝

初穂キリスト

「初穂キリスト」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第8編1-10節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第15章20-28節
・ 讃美歌; 326、165、332

 
魂における復活?
 本日はイースター、主イエス・キリストの復活を記念する日です。本日の礼拝のために与えられている新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の15章20節にこうあります。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。主イエス・キリストが死者の中から復活したと、パウロは高らかに宣言しているのです。しかし、この手紙を続けて読んできた私たちは、この15章でパウロが語っているのは、実は主イエスの復活ではなくて、私たち自身の将来の復活のことなのだ、ということを学んできました。前回読んだ12節に「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とあったように、コリント教会の中に、死者の復活などない、と主張する人々が起ってきていたのです。それは、イエス・キリストの復活などなかった、という主張ではありません。キリストの復活は誰もが疑いなく信じていたのです。問題となったのは、キリストを信じて死んでいった人々が、世の終わりにキリストがもう一度来られるいわゆる再臨の時に復活するのかどうかです。当時、生きて主の再臨を迎える者は、そのまま永遠の命を生きる者とされるのに対して、その前に死んでしまった人々は、復活して永遠の命にあずかる、という信仰が確立しつつありました。しかしそれと同時に、死者の復活などない、という考え方も起ってきました。それは、死んでしまえばそれで全てが終わりだ、という虚無主義的な考え方ではありません。彼らも、主イエスの救いによる永遠の命を信じているのです。しかし、肉体の復活によって永遠の命にあずかることを否定しているのです。彼らは、肉体は死んで魂が永遠の命にあずかると考えました。つまり永遠の命は魂における事柄だと考えたのです。この考え方は、当時起こってきていたグノーシス主義と呼ばれる宗教思想の影響を受けています。その思想においては、魂こそがよいもの、救われるべきものであり、肉体は悪いもの、魂を捕えている牢獄だと考えられていました。だから、肉体の牢獄から魂が解放されることが救いだ、ということになるのです。そこから、死んで肉体から解放された魂が永遠の命にあずかる、という思想が生まれます。またそこから、肉体をもって生きている今も、魂は既にキリストの復活の命にあずかって永遠なものとなっている、という考え方も生まれます。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けることによって、魂が既にキリストの復活にあずかり、新しく生かされている。信仰者の魂は既に復活し、永遠の命にあずかっているのだから、肉体の復活など必要ない。私たちはもう魂において復活した者なのだ…。これが、「死者の復活などない」と言っている人たちの考えだったのです。そうしてみると、私たちも案外これと同じような思いを抱いていることがあるのではないでしょうか。「死んだら魂が天国に、神様のところに行ってそこで永遠の命にあずかる」というのはこれと同じ考えです。その考えにおいては、肉体の復活ということはあまり問題になりません。復活して永遠の命にあずかるのではなくて、もう既に魂において永遠の命をいただいている、死んだらそれが完全なものになる、そういう感覚は案外私たちの中にもしみ込んでいるように思うのです。

初穂キリスト
 パウロはこのような、復活を魂における事柄とし、肉体の復活を否定する考え方に対して、前回読んだ13節で「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と語りました。私たちの肉体の復活を否定することは、キリストご自身の復活を否定することと同じだ、と言ったのです。キリストの復活と私たちの復活は、それほど密接に、分ち難く結び付いているのです。
 この、キリストの復活と私たちの復活の関係を言い表しているのが、20節の「初穂」という言葉です。初穂というのは、その年の収穫の最初の実りです。最初の実りは、これから与えられる豊かな収穫を約束し、予告するものです。主イエス・キリストが、眠りについた人たち、即ち死んだ者たちの初穂として復活して下さったことによって、その後に続く私たちにも、復活の恵みが約束され、保証されているのです。またこの初穂は、旧約聖書の律法において、神様に捧げられるべきものとされています。初穂が神様に捧げられ、神様のものとされることによって、その後の収穫の全体が神様の祝福を受け、人々を豊かに養うものとなるのです。キリストの復活はそういう意味でも初穂です。キリストが死者たちの初穂として復活して下さったことによって、後に続く私たちの復活が、神様の祝福を受けるのです。そのように、キリストが私たちの先頭に立って復活して下さり、私たちはこのキリストに続いて復活の恵みにあずかっていくのだ、ということをこの初穂という言葉は語っているのです。

アダムとキリスト
 パウロはことを次の21節以下では、神様によって造られた最初の人間アダムとキリストの対比によって語っていきます。21、2節に、「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」とあります。最初の人間アダムの罪によって、人間は死に支配されるようになりました。それは、自然現象としての死のことではありません。見つめられているのは、人間にとって死が、大きな恐れ、不安、苦しみを伴うものとなっているという事実です。死がそのような苦しみとなっているのは、創世記第3章が語っている、アダムの罪のゆえなのです。アダムの罪とは、神様によって命を与えられ、神様の下で、神様に従って生きていた人間が、そのことを束縛と思うようになり、神様から自由になって、自分が主人になって生きようとしたということです。このアダムの罪が、人間の罪の根本であって、私たちは皆それを受け継いでいます。神様を主として従うことを拒んで、自分が主人になって生きようとしているのです。この罪の結果、私たちを造り、命を与えて下さった神様と私たちとの関係は損なわれ、疎遠になり、敵対的になってしまっています。つまり神様と決裂してしまっているのです。しかし普段私たちはそれを気にもせず、問題と感じることもなく、自分の人生の主人は自分だと思って生きています。しかしそんな私たちも、ひとたび死に直面する時には、命を与え、それを取り去ることができる人生の本当の主人である神様と直面せざるを得なくなるのです。そこで問われるのは神様と自分の関係です。神様との関係が疎遠な、敵対関係になっているならば、死は、神様の怒りと裁きの印でしかありません。そこでは恐れと苦しみが私たちを支配するのです。「死が一人の人によって来た、アダムによってすべての人が死ぬことになった」というのはそういうことです。罪の初穂となったアダムは、罪によってもたらされる死の恐れと苦しみの初穂ともなったのです。
 しかしここにはそれと対になるように、「死者の復活も一人の人によって来る、キリストによって全て人が生かされることになる」と語られています。神様が遣わして下さった独り子イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪は赦され、罪によってもたらされる死の恐れと苦しみは取り除かれたのです。もちろん私たちにおいても、肉体の死はなお不安や悲しみや苦しみを伴うものです。しかし、神様との敵対関係は根本的に解消されたのですから、私たちは自分の死を、もはや神様の怒りや裁きとして恐れないでよいのです。そして神様はさらに、主イエスを死の支配から解放して復活させて下さったことによって、私たちにも、神様が与えて下さる新しい命に生きる希望を与えて下さったのです。主イエス・キリストの復活はこのように、私たちが死の恐れと苦しみから解放され、新しい命に生かされていく恵みの初穂となっているのです。

世の終わりへの三段階
 このように、キリストの復活は私たちの復活の初穂であり、それによって私たち自身の復活の道が開かれたのだ、とパウロは教えています。キリストの復活が肉体をもっての復活であったように、私たちにも、体のよみがえり、肉体における復活が約束されているのです。その復活は世の終わりの救いの完成として与えられるものです。復活は、魂において既に起こったことではなくて、この肉体において将来与えられる恵みなのです。それでは私たちはこれからどのようにこの復活の恵みにあずかっていくのでしょうか。それが23節以下に語られていきます。「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます」。ここには、世の終わりに至る三つの段階が語られています。「最初にキリスト」「キリストが来られる時に、キリストに属している人たち」そして「世の終わり」という三段階を経て、私たちは復活の恵みにあずかっていくのです。この三段階はどういうことを言っているのでしょうか。
 まず「最初にキリスト」ですが、これは、キリストが初穂として復活したことです。つまりそれは既に起ったことであり、私たちが復活の恵みにあずかっていくための第一段階は既に終わっているのです。第二の段階が「キリストが来られる時に、キリストに属している人たち」です。これは、キリストがもう一度来られる再臨の時のことです。その時に、再臨以前に死んだ人たちは復活して永遠の命を生きる者とされるのです。また、その時まで生き残っている人たちは、生きたままその体を変えられて、やはり永遠の命を生きる者とされるのです。キリストの復活という第一段階を示されている私たちは、この第二の段階、キリストの再臨によるこの世の終わりに起こる私たちの復活と永遠の命を待ち望みつつ生きているのです。

キリストの支配
 最後の第三段階、世の終わりには何が起こるのでしょうか。それが24~26節に語られています。「そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます」。世の終わりに起こることは、キリストが「すべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡」すことです。つまりキリストのご支配が全てのものに及ぶことによって、この世は終わるのです。今この世界は、また私たちの日々の生活は、この世の様々な力によって支配されています。国家の権力の支配もあります。力を持った人間の支配もあります。お金の力の支配もあります。その時代を覆っている空気や風潮の支配というのも侮ることはできません。また、人間にはどうすることもできない自然の力の支配もあります。そして、病いや老いの力が容赦なく私たちを支配してきます。それらの究極にあるのが死の力の支配です。これを逃れられる者は一人もいません。私たちはこれらの様々な力の支配の下に翻弄されつつ生きているのです。しかし、世の終わりには、主イエス・キリストが、これらの全ての力を滅ぼし、敵対する力を全てご自分の足の下に置かれるのです。そこにおいて、最後の敵として滅ぼされるのは死です。死は、私たちの人生の行き着く所であり、私たちを最終的に支配する力であるように思えます。私たちはどんなに頑張っても、死の力に打ち勝つことはできないのです。しかし神様は、この死の力をも滅ぼされるのです。主イエスの再臨において死んだ者が復活するというのはそういうことです。今はまだあの第一段階であって、主イエスが私たちの初穂として復活した下さったところです。しかしその主イエスがもう一度来られ、全ての力を滅ぼしてご支配を確立する時には、死の力が滅ぼされ、私たちはその牢獄から解放され、復活するのです。先程グノーシス主義について触れた中で、この思想は肉体という牢獄からの魂の解放を救いと考えると申しました。魂を肉体から解放することで、肉体を支配している死の力からの解放を得ようとしたのです。しかしそれは成功していません。人間は、魂と肉体をそう簡単に分けられる存在ではないのです。魂のみにおいて死からの解放を得たと思っても、もう片方の肉体が死の支配下におかれている限り、その解放は幻想に過ぎないのです。私たちが本当に解放されなければならない牢獄とは、肉体ではなくて、罪と死の支配なのです。そしてそこからの解放の初穂が、主イエスの十字架の死と復活なのです。

人間の栄光と尊厳
 世の終わりにはこのように、主イエス・キリストのご支配が全てのものの上に確立するのです。そして24節の後半には、全てのものへの支配を確立された主イエスが、「父である神に国を引き渡されます」とあります。全ての敵対する力を打ち破り、足の下に置いた主イエスが、そのご自分の支配、国を父なる神様に引き渡すのです。そのことは28節にはこう言い表されています。「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」。主イエスがご自分の下に従えたその国、支配を父なる神様に引き渡して、ご自身も父に服従なさる。それによって父なる神様のご支配が確立するのです。何故こういうことが言われるのでしょうか。勿論、独り子主イエスをこの世に遣わされたのは父なる神ですから、最終的に全てはその父なる神のもとに帰するのが当然であるとも言えます。しかしここにはもっと大切なことが語られているように思います。27節に「『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです」とありました。ここには、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第8編の7節からの引用があります。その6、7節を読んでみます。「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」。この詩編第8編は、神様が人間を、神に僅かに劣る者として造り、全被造物を治めるようにされた、そのみ心を歌っています。「神はすべてをその足の下に服従させた」というのは、もともとは、全被造物が神様によって人間の足もとに置かれたという、人間の尊厳と栄光を語っている言葉なのです。パウロはその言葉を、主イエス・キリストについて用いています。つまりここでパウロは、主イエス・キリストにおいてこそ、人間の本来の尊厳と栄光が確立している、と語っているのです。その尊厳と栄光とは、神に僅かに劣る者として、神に服従し、それによって全被造物を治める使命を神から与えられているということです。それが、本来私たち人間に与えられていた尊厳と栄光だったのです。ところが人間は、アダムの罪以来、その尊厳と栄光を失ってしまいました。アダムが、そして私たちが常に犯し続けている罪とは、つきつめて言えば、神よりも僅かに劣った者として神に服従することに飽き足らず、自分が神のようになろうとし、自分が主人になろうとすることです。その罪によって人間は、神の下においてこそ与えられている本来の尊厳と栄光を失ったのです。主イエス・キリストは、私たちにその本来の尊厳と栄光を回復するための初穂としてこの世に来られました。そして、人間の本来あるべき姿、父なる神以外のすべてを足の下に服従させ、同時に父なる神に服従する、そういう者になって下さったのです。この主イエスの前では、死も、何の力もなく、その足の下に置かれています。つまり人間が、神様に造られたままの、本来の尊厳を保っていたならば、死も、またその他のいかなるこの世の力も、恐れる必要はなかったのです。しかし私たちは罪によってその本来の尊厳を失い、その結果この世のもろもろの力に支配され、罪と死の牢獄の虜になっています。主イエス・キリストはそこから私たちを救い出して、本来の尊厳と栄光とを取り戻させるために、人となってこの世に来られ、私たちの罪を全て背負って十字架の死を引き受けて下さったのです。そのようにして主イエスは、死に支配されている私たちと同じ所にまで降ってきて下さり、そして罪と死の虜となっている私たちの初穂として復活して下さいました。それは私たちにも、死に勝利する復活の命と新しい体を与えて、人間が本来神様の下で与えられていた尊厳と栄光を回復させるためです。そのことは最終的には、世の終わりの、キリストの再臨の時に完成するものです。それまでは私たちは、この世の様々な力にふりまわされ、中でも死の力に翻弄されつつ人生を歩みます。しかし、キリストが私たちの初穂として復活して下さった、このイースターの恵みを信じることによって、私たちは、今私たちを支配しているこの世の様々な力も、最終的には必ず主イエスのご支配の下に置かれるのだし、私たちを恐れさせ脅かす死の力すらも、最後の敵として必ず滅ぼされることを知っている者として、忍耐しつつ、希望をもって、人間としての尊厳をもって 生きることができるのです。

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