主日礼拝

生き生きとした希望

「生き生きとした希望」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第16編1-11節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第1章3-9節
・ 讃美歌:

十字架による救い?復活による救い?
 先週に続いて本日も、「使徒信条」において私たちが毎週告白している「三日目に死人のうちよりよみがえり」ということついて、聖書のみ言葉に聞きたいと思います。十字架につけられて死んで葬られた主イエスが、三日目に復活なさったことを聖書は語っており、教会は、私たちはそれを信じています。それは、そこにこそ私たちの救いがあるからだ、ということを先週お話ししました。主イエス・キリストの復活によってこそ、私たちは救われたのです。しかしそのように言うと、既に信仰を持っている方々の中には疑問を持つ方がおられるかもしれません。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死によってこそ与えられたのではないのか、という疑問です。神の独り子である主イエス・キリストが、人間となってこの世を生きて下さり、そして私たちの全ての罪をご自分の身に背負って、私たちに代わって十字架にかかって死んで下さった。罪人である私たちが本当なら受けなければならない死刑を主イエスが身代わりになって受けて下さった。それによって私たちは罪を赦された。また主イエスはこの十字架の死によって、私たちがこの世を生きる中で味わう最も深い苦しみの中に身を置いて下さり、そこで共にいて下さることを示して下さった。このキリストの十字架の苦しみと死によってこそ、私たちは救われたのではないのか、と思う人がいるのではないでしょうか。
 確かに聖書は、主イエス・キリストの十字架の死によって救いが与えられたことを語っています。パウロもそのことをこそ宣べ伝えています。コリントの信徒への手紙一の第1章22節以下には、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」とあります。また同じ手紙の第2章2節にも「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」とあります。十字架につけられたキリストにこそ救いがあり、そのキリストをこそ自分は宣べ伝えている、とパウロは言っているのです。ですから、キリストの復活によって、ではなくて、キリストの十字架の死よって救われた、と言うのが正しいのではないか、という疑問が起こるのです。

復活による救いはピンと来ない
 既に信仰をもっておられる方々だけでなく、聖書の教えに関心を持ち、それを学ぼうとしておられる、いわゆる求道中の方々も同じことを感じているのではないかと思います。キリストの十字架の死こそが救いだ、というのは何となく分かるのではないでしょうか。これは要するに、イエス・キリストが私たちの身代わりとなって死んで下さった、ということです。誰かのために身代わりとなって死ぬというのはまことに崇高なことであり、究極の愛の行為です。「塩狩峠」やコルベ神父の話に、また、韓国からの留学生がホームに落ちた人を助けようとして命を落とした話などに私たちは感銘を受けます。どんな言葉にも勝る愛がそこにはあります。イエス・キリストはまさにそのような愛によって、私たちのために十字架にかかって死んで下さった、そこに救いがあるというのは、それを自分のための救いとして受け入れ信じるかどうかは別にして、分かるのです。しかし、キリストの復活にこそ救いがある、と言われてしまうと、途端に分からなくなる。そもそも復活ということが事実だとはなかなか思えないし、それによってどういう救いがもたらされているのかもよく分からない、と感じるのではないでしょうか。キリストの十字架の死による救いは分かりやすいが、キリストの復活による救いはピンと来ない、それが正直なところではないでしょうか。そういう思いは、既に信仰を持っている人もそう変わらないのではないかと思うのです。そこで本日は、「三日目に死人のうちよりよみがえり」についての二回目として、主イエス・キリストの復活によって私たちにもたらされた救いとはどのようなものなのかを、聖書から聞きたいと思います。

復活によってもたらされた救いは希望
 キリストの復活によってもたらされた救いについて語られている箇所はいろいろありますが、本日はペトロの手紙一の第1章3節以下を読みます。その3節の後半にこう語られています。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」。ここには「死者の中からのイエス・キリストの復活」が見つめられており、それによって私たちに、「生き生きとした希望」が与えられた、と語られているのです。キリストの復活によってもたらされた救いとは「希望」であることがここに示されているのです。

十字架と復活は一つの救いのみ業
 その希望の内容を見る前に、この3節に「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」と語られていることに注目したいと思います。私たちは神の憐れみによって新たに生まれさせていただいたのです。それが私たちに与えられている救いです。それは具体的には、洗礼を受けたということです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」は、「わたしたちは洗礼を受けた」ということを言っているのです。洗礼を受けることによって私たちは、神によって新たに生まれさせられ、新しい命を生き始めるのです。そのことをはっきりと語っているのが、ローマの信徒への手紙第6章の4節です。そこにはこう語られています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。ここに示されているのは、洗礼を受けることによって私たちは、キリストの十字架の死にあずかって、それまでの古い自分がキリストと共に死んで葬られ、そしてキリストの復活にあずかって新しい命に生きる者とされる、つまり新たに生まれさせていただくのだ、ということです。キリストの十字架の死と復活にあずかって、生まれつきの古い自分が死んで新しい命を生き始めることが救いであり、その救いのしるしとして洗礼が与えられているのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」というみ言葉は、この洗礼において与えられた救いを語っているのです。洗礼のことを見つめるならば、キリストの十字架の死と復活とは一つの救いのみ業であって切り離すことができないことが分かります。ですから、キリストの十字架の死によって救われるのか、復活によって救われるのか、どちらなのか、という問いは正しくないのです。キリストによる救いは、その十字架の死と復活の両方によって実現し、与えられています。洗礼はその救いのしるしです。洗礼において私たちは、キリストの十字架の死にあずかって、罪を赦され、義とされるのです。そして同じ洗礼において、キリストの復活にあずかって、新しい命を生き始めるのです。キリストの十字架の死によって罪の赦しが与えられ、キリストの復活によって、希望をもって新しく生きる者とされるのです。死者の中からのイエス・キリストの復活によって生き生きとした希望が与えられた、という3節はそのことを語っているのです。

天に蓄えられている財産
 それではキリストの復活によって与えられた希望の内容は何なのでしょうか。私たちはどういう希望をもって生きる者とされているのでしょうか。そのことが4節に語られています。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。私たちは、財産を受け継ぐ者とされたのです。この財産はもちろん、不動産や預金のようなこの世の財産ではありません。この世の財産は失われたり、価値が下がったりしますが、この財産は天に蓄えられているものであって、それゆえに「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」です。「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」を受け継ぐ者とされたということが、私たちに与えられている希望の内容なのです。

終わりの時に現される救い
 その財産とは何であり、私たちはいつそれを受け継ぐことができるのでしょうか。5節には、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とあります。私たちがこの財産を受け継ぐのは「終わりの時」です。それは、神がこの世を終わらせる時であり、今は隠されている神のご支配があらわになり、完成する時、言い換えれば、神による救いが完成する時です。その時私たちは、神が準備して下さっている救いにあずかり、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」を受け継ぐのです。ではその、終わりの時に現されるように準備されている救い、私たちのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産とは何でしょうか。それは、この世の歩みにおいて私たちを捕え、支配している罪と死の力を神が滅ぼして下さって、私たちに、復活と永遠の命を与えて下さることです。神によってこの世が終わり、救いが完成するその時に、私たちも、復活して永遠の命を生きる者とされるのです。主イエス・キリストの復活はこのことの先取りであり、初穂です。初穂というのは、その年の収穫の最初の実りです。初穂が与えられたことによって、それに続く豊かな収穫が約束されたのです。神は主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。この初穂に続いて、私たちをも、世の終わりの救いの完成の時に、復活と永遠の命を生きる者として下さることを約束して下さったのです。この復活と永遠の命こそが、終わりの時に現されるように準備されている救いであり、私たちのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産です。それを受け継ぐ希望が、死者の中からのイエス・キリストの復活によって与えられているのです。

今与えられているのは希望
 この財産、復活と永遠の命を私たちが受け継ぐのは「終わりの時」です。それは今はまだ現実となってはいません。今私たちに与えられているのは「希望」です。希望とは、今はまだ現実となっていないけれども、将来実現することを見つめることです。その希望の根拠が主イエス・キリストの復活です。主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架につけられ、死んで、葬られたけれども、父なる神がその全能の力によって死を打ち破り、主イエスを肉体をもって復活させ、もはや死ぬことのない、永遠の命を生きる者として下さいました。主イエスの復活において、神の愛が、人間の罪と、また人間を支配している死の力に勝利したのです。キリストの復活において実現したこの神の愛の勝利が、世の終わりの救いの完成の時に、私たちにも実現するのです。私たちは誰もがいつか必ず死の力に捕えられ、その支配下に置かれます。死を免れることのできる人はいません。しかし神は終わりの時に、死の力を打ち破って、その支配から私たちを解放し、復活と永遠の命を与えて下さるのです。私たちはそのことを信じて、待ち望むことができる、それが主イエスの復活によってもたらされた希望なのです。

生き生きとした希望に生きることができない私たち
 しかし私たちは、主イエスの復活によってもたらされたこの希望を「生き生きとした希望」として受け止めることがなかなかできません。6節には「それゆえに、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とあります。「今しばらくの間」とは、神によってこの世が終わるまでの間、ということだし、私たちが生きている間、ということでもあります。私たちのこの世の人生には、いろいろな試練があり、辛く苦しいことが沢山あることがここに見つめられています。今は特に「コロナ禍」によってその試練が増幅されていて、この世の歩みは試練ばかりだと私たちは感じています。ここにはそのような試練の中でも、「あなたがたは、心から喜んでいるのです」と語られていますが、私たちは、なかなかそうは言えないと感じています。キリストの復活によって私たちにも、この世の終わりに、復活と永遠の命が与えられることが約束されている、そういうすばらしい財産を受け継ぐ者とされている、そのことを信じたとしても、それによって今この試練の中で、心から喜んで「生き生きとした希望」に生きることができずにいるのです。それは何故なのでしょうか。どこに問題があるのでしょうか。

キリストを愛し、信じている
 この箇所には、「あなたがたは心から喜んでいる」ということがもう一度、8節にも語られています。8節には「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とあります。あなたがたは、心から喜んでおり、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている、生き生きとした希望ををもって歩んでいる、と語られているのです。この喜びはどこから来ているのか、それが8節の前半です。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており」。これこそが、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びの理由です。この目で見たことはないけれども、キリストを愛し、信じている。それは言い換えれば、キリストと共に生きている、キリストが間近にいて下さり、そのキリストを愛し、信じているという交わりがある、ということでしょう。主イエス・キリストが、目には見えないけれども、生きて共にいて下さるのです。そのキリストを愛し、信じて、キリストとの交わりに生きているから、試練の中でも心から喜んで、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて生きることができるのです。

キリストとの交わりの中で
 死者の中からのイエス・キリストの復活によって私たちにもたらされている救いの中心はここにこそあります。主イエス・キリストは、復活して今も生きておられ、目には見えないけれども私たちと共にいて下さるのです。私たちはその主イエスを信じて洗礼を受け、主イエスと結び合わされ、その十字架の死と復活による救いにあずかります。それによって私たちは、復活して生きておられる主イエス・キリストとの交わりを与えられ、目には見えないキリストを愛し、信じて生きる者とされるのです。その交わりの中で、生きて共にいて下さる主イエスが、いろいろな試練に悩む私たちを慰め、支え、導いて下さるのです。7節には「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」とあります。試練によって私たちの信仰が本物と証明されていく、それは私たちの信仰がそれだけ立派なしっかりしたものだからではありません。復活して生きておられる主イエスが共にいて下さり、いろいろな試練で悩み苦しんでいる私たちの信仰を守り、支え、導いて下さって、キリストを愛し、信じる喜びを与えて下さるのです。主イエスと共にそのように歩んでいくことの中で、私たちの信仰は本物になっていくのです。そしてイエス・キリストがもう一度目に見えるお姿で現れて下さる終わりの時には、その信仰が称賛と光栄と誉れとをもたらす、つまり天に蓄えられている朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐという救いの完成がもたらされるのです。ですから大事なことは、今、目には見えないキリストを愛し、信じて、キリストとの交わりに生きることです。生きておられるキリストとのこの交わりによってこそ、生き生きとした希望に生きることができるのです。

キリストの復活によってもたらされたもの
 死者の中からのイエス・キリストの復活は、私たちに生き生きとした希望をもたらします。しかしそれは、およそ二千年前に主イエスの復活という奇跡が起ったことを信じれば直ちにもたらされるのではありません。もちろん主イエスの復活において、神が罪と死の力に勝利して下さり、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さったことを信じることは基本です。しかしこの信仰が「生き生きとした希望」となって私たちの現在の歩みに言葉では言い尽くせないすばらしい喜びをもたらすのは、過去のキリストの復活の事実を見つめることによってでも、将来の復活と永遠の命の約束を見つめることによってでもなくて、今、生きておられるキリストと共に歩み、キリストを愛し、信じる交わりに生きることによってなのです。キリストの復活を信じるとは、キリストが今生きて共にいて下さることを信じて、そのキリストとの交わりに生きることです。「生き生きとした希望」に生きるために必要なのはこのことです。だから私たちはこのことに努めていきたいのです。具体的には、聖書のみ言葉を聞き、祈ることによって、日々主イエス・キリストとの交わりに生きることです。5節に「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とありました。今私たちは、神の力により、信仰によって守られているのです。ここは原文においては、神の力の中で守られており、そのことが信仰を通して実現している、という感じです。キリストの十字架と復活において示された神の救いの力の中に私たちは置かれており、その力によって守られているのです。でもそのことを事実として体験し、それによって「生き生きとした希望」に生きることは、信仰によってこそ起こります。信仰とは、復活して生きておられる主イエス・キリストとの日々の交わりです。そこにこそ、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びがあります。キリストの復活は、この喜びと希望を私たちにもたらしたのです。

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