主日礼拝

自分の命さえ与える

「自分の命さえ与える」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章11-12節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第2章5-12節
・ 讃美歌:3、513

豊かな実りを結んだテサロニケ伝道
 テサロニケの信徒への手紙一第2章を読み進めています。パウロは2章1-16節で、自分たちが初めてテサロニケを訪れ、福音を宣べ伝えたときのことを思い起こしつつ記しています。その前半1-12節では、使徒パウロの伝道とその労苦が語られていて、先月は4節まで読みました。1節でパウロは、自分たちがテサロニケを訪れたことは無駄ではなかった、と言っていました。彼らがテサロニケを訪れ、福音を宣べ伝えたことよってテサロニケ教会が誕生し、彼らの伝道は豊かな実りを結んだのです。それから2000年後を歩んでいる私たちも伝道が良い実りをもたらすことを願っていますし、そのために用いられたいと思っています。しかし今、私たちは今までと同じように伝道することが難しい状況に直面しています。そのような状況にあるからこそ私たちは、豊かな実りを結んだテサロニケ伝道がどのようになされたかに目を向けていきたいのです。

へつらうことなく、口実を設けてかすめ取ることなく
 5節で、パウロは「わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした」と語っています。テサロニケ伝道において、パウロたちは相手、つまりテサロニケの人たちにへつらったり、口実を設けて彼らからかすめとったりしなかった、ということです。パウロがこのように言う背景には、当時の国際都市であり、人々の往来が頻繁であったテサロニケには、宗教的、倫理的な教えを説いて回る巡回説教者たちがやって来ていたことがあります。「へつらう」というのは、相手の気に入るようにふるまうことですが、ある英語の訳では「お世辞の言葉で」となっています。相手の気に入るお世辞の言葉を交えつつ教えを説いて、報酬をもらっていた人たちがいたのです。彼らが語っていた教えは本物の教えとは言えません。聖書の告げる教えと異なるからというより、宗教的、倫理的な教えを装いつつ、実は相手の求めている言葉を語って、その見返りとして報酬を得ていたからです。彼らの目的は教えを語ることにあるのではなく、教えを利用して自分の欲を満たすことにあったのです。しかしパウロは、自分たちはそのようなことはしなかった、と言っています。9節では、彼らが報酬を求めて伝道したのではないことが、このように語られています。「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。」パウロたちは相手の気に入る言葉や相手の求めを満たす言葉を語ったのではなく、キリストの十字架の死による救いを語ったのです。見返りを得て、自分の欲を満たすためではなく、ただ神様に喜んでいただくために福音を語ったのです。このことは、パウロが勝手にそう思っていたということではありません。5節冒頭に「あなたがたが知っているとおり」とあり、5節の終わりに「そのことについては、神が証ししてくださいます」とあり、また9節冒頭にも「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう」とあるように、彼らがへつらうことなく、口実を設けてかすめ取ることなく福音を宣べ伝えたことは、テサロニケの人たちが覚え、認めていることであり、なによりも神様が証ししてくださることなのです。

人間の誉れを求めず
 さらにパウロは6節で「また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした」と言っています。「あなたがた」はテサロニケの人たちのことですが、「ほかの人たち」は、おそらくテサロニケの周辺にいたほかのキリスト者のことだと思います。パウロたちはテサロニケ伝道において、テサロニケの人たちからも、周辺にいるほかのキリスト者からも名声や名誉を求めなかったのです。彼らが求めたのは、人間からの誉れではなく神様からの誉れであったに違いありません。「誉れ」と訳されている言葉は、名声や名誉という意味を持つだけでなく栄光という意味も持ちます。彼らは神様の栄光を求め、また神様に栄光を帰することを求めたのです。人間からの名声や名誉を求めるのではなく、神様に栄光を帰する伝道。それが、パウロたちのテサロニケ伝道でした。「ただ神にのみ栄光あれ」。このことに仕えるために彼らは福音を宣べ伝え、その労苦を担ったのです。

本当の喜び
 ここまで読み進めてきて、当時のテサロニケには巡回説教者という酷い人たちがいたのだな、それに対してパウロたちは、そのような人たちとは一線を画していたのだな、よし、私たちもパウロの伝道に見習おう、と受けとめて終わりにすることはできないと思います。私たちは、しばしば巡回説教者たちと同じことをしてしまうからです。なによりも私自身を含め伝道者は、巡回説教者を批判するよりも、彼らの姿を自分自身に対する戒めとしなくてはなりません。なぜなら伝道者にとって、相手の気に入る言葉や相手の求めを満足させる言葉を語ることは大きな誘惑だからです。誰でも相手に喜んでもらえれば嬉しいに違いありません。同じように伝道者も、自分の語る説教が聞き手に喜ばれれば嬉しいのです。けれどもそこで、伝道者に突きつけられることがあります。それは、その喜びは何によるのか、ということです。その喜びが、伝道者が聞き手の望んでいる言葉や聞き手の求めを満足させる言葉を語ったことによるのだとしたら、その伝道者は神様に栄光を帰しているのではなく人からの誉れを求めて語っているのです。
 語る者も聞く者もよく心に留めておかなくてはならないのは、人を喜ばせるために語られた言葉によって与えられるのは、本当の喜びではないということです。本当の喜びは、み言葉によって私たちが打ち砕かれ、悔い改めへと導かれ、キリストの十字架による救いが告げられることを通して与えられます。キリストによる救いを告げる恵みのみ言葉によって私たちが新しく造り変えられることにこそ、本当の喜びがあるのです。この手紙の5章16節には「いつも喜んでいなさい」とあります。私たちがいつも喜ぶことができるのは、自分の欲求が満たされることによってではありません。私たちの欲求は、たとえ一時、満たされたとしても、すぐにその満足は失われ、決して本当に満たされることはないのです。けれども聖書が読まれ、その説き明かしが語られることを通して、この私の罪のためにキリストが十字架で死んでくださり、この私を罪から救ってくださったと告げられるとき、そしてその救いに示された神様の愛が告げられるとき、私たちは本当の喜びに満たされるのであり、いつも喜んでいる者へと変えられていくのです。

今こそ、伝道
 伝道は、もちろん伝道者だけがするのではありません。伝道は教会の使命であり、教会に連なる一人ひとりが伝道の業に仕えます。今、一人が一人を礼拝へお招きするのが難しくなり、今までと同じように伝道ができない中で、私たちはどのように伝道したらよいか模索しなければなりません。パウロのテサロニケ伝道が私たちに示しているのは、伝道を模索することにおいて、私たちが求めていかなくてはならないのは、人間からの誉れではなく神の栄光である、ということです。伝道において、私たちはしばしば人ばかりを見て、人の評判を気にして、人に喜ばれることを求めてしまいます。しかし伝道においてこそ、キリストによる救いを証しし、それを人々に届けることによって、私たちは神の栄光を求め、神に栄光を帰していくのです。今こそ、伝道が必要とされている、一人ひとりが福音を伝える器として用いられることが必要とされている、と私は思います。今、苦しみや悲しみ、悩みや嘆きを抱えている方々に、孤立して孤独の中にある方々に、将来に希望を持てない方々に、キリストによる救いを届けたいのです。どんなときでも、どんなことがあっても、キリストによる救いこそが人を生かすからです。テサロニケ教会から神の言葉が響き渡ったように、私たちの教会からも喜びの知らせを響き渡らせます。テサロニケの人たちの信仰が至るところに伝わったように、私たちは日々の歩みの中でキリストによる救いを証ししていくのです。

幼子のように
 7節でパウロは「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました」と言っています。パウロは、キリストの使徒として権威を主張することによって、テサロニケの人たちが自分を重んじるように求めることができました。「キリストの使徒」は、福音を宣べ伝えるためにキリストによって遣わされた者を意味します。ですから使徒の権威はパウロ自身によるのではなく、彼を使徒として遣わしたキリストによるのです。パウロ自身の資質や経験による権威ならば軽んじられることがあるかもしれませんが、キリストによる権威であるならば、それは重んじられて然るべきなのです。しかしパウロは、キリストの使徒の権威を捨てて、テサロニケの人たちの間で幼子のようになりました。つまり使徒の権威によって重んじられる者としてではなく、ただ神様の憐れみと恵みによってのみ救いに与ることができる弱く小さな者として、福音を証しし宣べ伝えたのです。

自分の命さえ与える
 「幼子のようになりました」と語ったパウロは、7節後半で「母親がその子供を大事に育てるように」と語り、11節では「父親がその子供に対するように」と語っています。幼子のようになるのと、母親や父親のようになるのは矛盾すると思うかもしれません。あるいは7節後半から8節で語られる母親と子供の関係の比喩と、11節から12節で語られる父親と子供の関係の比喩は比べられているように思えるかもしれません。けれどもパウロは、テサロニケの人たちの間で幼子のようになり、彼らの母親のようになり、父親のようになったと語ることにおいて、ばらばらのことを言っているのでも比べているのでもなく、自分がテサロニケでどのように伝道したかを三つの比喩を用いて語っているのです。
 7節後半から8節では、パウロは、自分とテサロニケの人たちの関係を母親と子供の関係にたとえて、このように語っています。「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」パウロは、テサロニケの人たちに、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願った、と言います。このことは、神の福音を伝えるのでは十分ではなかったので、自分の命さえ与えることにした、ということではありません。そうではなく、神の福音を伝えることを通して、テサロニケの人たちがパウロにとって愛する者となったから、パウロは自分の命さえ喜んで与えたいと願ったのです。そこには伝道を通して与えられた、パウロとテサロニケの人たちとの人格的な関係があります。1章4節でパウロはテサロニケの人たちを「神に愛されている兄弟たち」と呼んでいました。そして5節以下では、彼らが神様によって選ばれ愛されていることは、パウロが告げ知らせた福音を彼らが信じ受け入れたことによって分かることが語られていました。まず神様がテサロニケの人たちを愛してくださったのです。そしてテサロニケの人たちも福音を信じ受け入れ、救いに与り、神様の愛にお応えし神様を愛する者とされたのです。このようにして神様とテサロニケの人たちとの人格的な関係が起こされていきました。神様に愛された者として、神様を愛するという関係です。しかしそれだけではありません。福音を宣べ伝えたパウロとテサロニケの人たちとの人格的な関係も起こされていったのです。「あなたがたはわたしたちにとって愛する者となった」というパウロの言葉は、このことを示しています。人格的な関係というのは、「我と汝」、「わたしとあなた」の関係であり、その関係においてパウロはテサロニケの人たちを愛し、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったのです。伝道を通して交わりが生まれていきます。私たちがキリストを証しするところで、その証しを受け取った方との間に「わたしとあなた」の人格的な関係が生まれるのです。その関係は、必ずしもうまくいくとは限らないでしょう。私たちの証しは拒まれるかもしれませんし届かないかもしれません。そのような経験をするたびに、私たちはとてもがっかりしてしまいます。しかしテサロニケの人たちに「あなたがたはわたしにとって愛する者となった」と語っているパウロ自身が、使徒言行録や彼のほかの手紙から知ることができるように、福音を語っても拒まれることがあり、誤って理解されることがあったこのです。それでもパウロは福音を語り続けました。それは、彼が特別な力を持っていたからではなく、キリストが福音を語るために彼を遣わしたからです。私たち一人ひとりもキリストによってこの世へと遣わされています。ですから私たちは、私たちの伝道や証しが実を結ぶかどうかは神様にお委ねして、聖霊の働きを信じ、救いを伝える器として用いられていくのです。

伝道の不思議
 神の福音を伝えることを通して、テサロニケの人たちはパウロにとって愛する者となりました。しかし考えてみると不思議に思うことがあります。パウロは、テサロニケの人たちの気に入ること、彼らの求めを満たすことを語ったのではありませんでした。彼は人間からの名声や名誉を求めなかったし、人に喜ばれるためではなく神に喜んでいただくために福音を語ったのです。普通に考えると、「私はあなたに喜んでもらいたいわけではないし、あなたの求めに応えることもしません。ただ神様に喜んでいただきたいから語ります」と言われたら、その人との間に、人格的で良い関係ができるとは思えません。しかし伝道においては、普通には考えられないことが起こるのです。人間からの名声や名誉を求めるのではなく、神様に栄光を帰する伝道において、自分の命を喜んで与えてよいほどの愛の関係が起こされていくのです。

励まし、慰め、勧め
 11節から12節でパウロは、自分とテサロニケの人たちの関係を父親と子供の関係にたとえてこのように語っています。「わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人ひとりに呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」自分の命さえ喜んで与えたいと願うほどにテサロニケの人たちを愛したパウロは、彼ら一人ひとりに呼びかけ、励まし、慰め、勧めたのです。それは、御自身の国と栄光に与らせようと彼らを招いておられる神の御心に従って、彼らが歩むためでした。

主が命を与えてくださった
 幼子のように、母親のように、父親のように、と三つの比喩を用いて語られているパウロのテサロニケ伝道において、最も私たちに衝撃を与えるのは、パウロが「自分の命さえ喜んで与えたいと願った」と言っていることではないでしょうか。衝撃を受けるだけでなく、「自分の命さえ与える」というのはすごいことかもしれないけど、自分のこととして受けとめることはできないと思います。それどころか「自分の命さえ与える」なんて嘘くさいとすら感じるのです。誰かに「自分の命を与えます」と言われても信じられないし、あるいは誰かにそのように言っても信じてもらえないでしょう。私たちは、自分の命を与えるほどに人を愛することはできないと思うのです。パウロがそのように言うことができたのは、伝道を通してテサロニケの人たちとの間にそのような愛の関係が起こされたのは、パウロが私たちとは違う特別な人だったからなのでしょうか。そうではありません。「自分の命さえ喜んで与えたいと願った」と言うパウロが、そのような愛の関係がテサロニケの人たちとの間に起こされたと言うパウロが、何を見つめていたのかにこそ、私たちは目を向けたいのです。パウロが見つめていたのは、主イエス・キリストに違いありません。主イエス・キリストこそが、私たちを愛し、私たちのために自分の命さえ喜んで与えてくださいました。共に読まれたイザヤ書53章12節には「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」とあります。私たちの罪の赦しのために、キリストは自分の命をなげうち、与えてくださったのです。
 私たちの間で幼子のように弱く小さい者となってくださったのも主イエス・キリストです。キリストは神の独り子であり、ご自身が神であるにもかかわらず、その権威を捨てて、私たちと同じ人間になってくださいました。また、私たち一人ひとりに呼びかけて、神の御心に従って歩むように励まし、慰め、勧めてくださっているのも、私たちと共にいてくださるキリストです。父なる神が、御自身の国と栄光にあずからせようと私たちを招いておられると、キリストは語りかけてくださっているのです。この後、讃美歌513番「主は命を」の歌詞を朗読いたしますが、その1節にこのようにあります。「主は命を 惜しまず捨て その身を裂き 血を流した。この犠牲こそが 人を生かす。その主に私は どう応えよう。」私たちは、私たちを愛し命を捨ててくださったキリストを見つめ、そのキリストの愛にお応えしていきます。そのことによってこそ、そのことによってのみ「自分の命さえ与えたい」と願うほどの愛が起こされていくのです。

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