主日礼拝

神に喜ばれるために

「神に喜ばれるために」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第139編23-24節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第2章1-4節
・ 讃美歌:

無駄ではない
 テサロニケの信徒への手紙一第2章に入ります。2章1-16節においてパウロは、自分たちが初めてテサロニケを訪れ、宣教したときのことを思い起こしつつ記しています。1-16節は二つの部分に分けられ、前半の1-12節では、使徒パウロ自身の伝道の働きと労苦が語られ、後半の13-16節では、使徒の宣べ伝えた福音を受け入れたテサロニケの人たちの応答が語られています。本日は、前半部分の1-4節を読み進めていきます。
 まず1節でパウロは、「わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした」と言っています。「わたしたち」とは、パウロとシルワノとテモテのことです。「無駄」という言葉は、「空っぽ」とか「何もない」という意味を持ちますが、ここでパウロは「実りがない」とか「価値がない」という意味で使っています。パウロは、自分たちがテサロニケを訪れたことは無駄ではなかった、つまり実りがあった、価値があった、と言っているのです。パウロは、ほかの手紙でもこの言葉を使っていて、例えばガラテヤの信徒への手紙2章2節では、エルサレムに上京したパウロが、異邦人伝道についてエルサレム教会の主要メンバーと個人的に話して「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求め」た、と語られています。このことからも分かるように、パウロはこの言葉を彼の伝道の労苦について語るときに用いているのです。ですからパウロはここで、テサロニケにおける自分の伝道の労苦は実り豊かなものとなったと言っていることになります。

感謝と喜びを分かち合う
 そのように言われると、パウロは自分が苦労して伝道したことを誇っているように思えるかもしれません。平たく言えば、自分が頑張ったからテサロニケ伝道は成功した、と誇っているように思えるのです。しかしそうではありません。彼の労苦が実り豊かなものとなったのは神様の恵みによるものだからです。このことをパウロ自身がコリントの信徒への手紙一15章10節で「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と証しています。パウロと共にある神様の恵みが、つまり主イエス・キリストの十字架と復活による救いの恵みが、テサロニケにおける彼の労苦を実り豊かなものとしたのです。またこのことは、パウロが勝手にそう思っていたということではありません。1節冒頭で「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように」と言われているように、テサロニケ教会の人たち自身が知っていたことであり認めていたことなのです。ですからここでパウロは、テサロニケの人たちと共に、神様の恵みによって自分たちの伝道の労苦が実り豊かなものであったことに感謝し、喜んでいるのです。独りよがりに誇っているのではなく、福音を宣べ伝えた者とその福音を受け入れた者が共に感謝と喜びを分かち合うために、パウロはこのように記したのです。

苦しみと辱めを分かち合う
 2節冒頭には「無駄ではなかったどころか」とあります。1節で「無駄ではなかった」と否定の形で語られていたことが、2節では肯定の形で言い換えられ、より積極的に語られているのです。積極的に言い換えられていると言っても、それはテサロニケでの伝道が順調であったということではありません。「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども」とあるように、そもそもテサロニケを訪れる前に、彼らはフィリピでの伝道において苦難を経験していました。使徒言行録によれば、彼らはフィリピで捕らえられ、鞭で打たれ、牢に入れられたのです(16章16節以下)。「苦しめられ」という言葉は、身体的な苦しみを受けたことを意味し、「辱められた」という言葉は、人間としての品位や名誉を傷つけられたことを意味するようです。そのような苦しみと辱めを受けたことも、パウロが一人で感じていることではなく、ここにも「知ってのとおり」とあるように、テサロニケの人たちが知っていたことであり認めていたことでした。パウロとテサロニケの人たちは、感謝と喜びだけでなく、苦しみと辱めも分かち合っていたのです。

わたしたちの神
 そのような苦難があったにもかかわらず、フィリピからテサロニケへ来たときのことについて、パウロは「わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」と語っています。使徒言行録によれば、彼らはテサロニケにおいても迫害を受けました。「激しい苦闘」とは、迫害を受けつつ伝道する中で直面した多くの厳しい労苦を指しているのでしょう。そのような中で彼らがテサロニケの人たちに福音を語ることができたのは、彼らが「わたしたちの神に勇気づけられ」たからです。ここでパウロは、単に「神に勇気づけられ」ではなく、「わたしたちの神に勇気づけられ」と言っています。私たちが、神様を「私たちの神」と呼べるのは、決して当り前のことではありません。主イエス・キリストによって、神様が私たちをご自身のものとしてくださったことによって、神様は「私たちの神」となってくださいました。神様が私たちの主人であり、私たちが神様の僕であるという関係において、私たちは神様を「私たちの神」と呼ぶのです。

神に勇気づけられる
 「わたしたちの神に勇気づけられる」は、「わたしたちの神において勇気づけられる」と訳すこともできます。「わたしたちの神において」とは、神様が私たち一人ひとりに働きかけてくださり、その働きかけに私たちがお応えするという人格的な交わりにおいて、ということであり、私たちが神様から勇気を与えられるのは、そのような交わりの中で起こってくることなのです。困難の中にあっても、私たちは神様との交わりの中で、神様から勇気を与えられるのです。
 私たちは厳しい状況に直面すると、なんとか自分の勇気を振り絞り、その状況を打開しようとします。それは必ずしも悪いことではなく、その状況に責任感を持って真剣に向き合おうとしているともいえます。しかし私たちは、そのようなときに、しばしば神様なしに状況を打開しようとするのです。神様との交わりを持って、厳しい状況に向き合っていくのではなく、神様との交わりを放り出して、自分の力でなんとかしようとします。しかし私たちが自分の力で勇気をいくら振り絞っても、その勇気はあっという間に枯渇してしまいます。それどころか、神様との交わりを持たない頑張りは、御心に従うためのものではなく、自分の思いを実現するためのものとなってしまうのです。ですから私たちは厳しい状況であればあるほど、神様との交わりの中に留まらなくてはなりません。神様の語りかけを聞き、私たちも祈りにおいて神様に語りかけていきます。その交わりにおいてこそ、私たちは勇気を与えられ続けるのです。
 厳しい状況の中にあって、神様との交わりにおいて勇気を与えられたパウロたちは、テサロニケの人たちに「神の福音」を語りました。1章の終わりで語られていたように、その「神の福音」によって、テサロニケの人たちは、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、御子キリストが再び来られるのを待ち望みつつ生きるようになったのです。

私たちが直面している厳しい状況の中で
 パウロたちと同じように、私たちも伝道にとって厳しい状況に直面しています。本来なら6月に行っていた「春の伝道礼拝」と「青年伝道夕礼拝」を二年続けて行うことができなくなりました。コロナ禍にあって、伝道することの難しさ、まだキリストに出会っていない方々を教会に招くことの難しさを痛感しています。また私たちが直面している厳しさは、それだけではありません。コロナ禍にあって不条理な苦しみの現実に直面する中で、神様のご支配に信頼することが難しくなっているのです。それは教会の中、つまり私たちの信仰においても起こりますが、それだけでなく、教会の外でも起こります。そのために、神様がこの世界をご支配くださっていると私たちが告げ知らせても、不条理な現実の中を生きている方々には、なかなか受け入れられないかもしれません。神の福音を届けるのが難しい状況に、私たちは直面しているのです。しかし私たちは、自分の力でこの厳しい状況を打開しようとするのではなく、なによりもまず神様との交わりに留まり続けます。状況を打開する具体的な対策や計画を考えるよりも先に、礼拝において、あるいは音声や説教原稿を通して神様の語りかけを聞き、私たちも祈祷会やそれぞれの祈りにおいて神様に語りかけていきます。そのような神様との人格的な交わりにおいてこそ、この厳しい状況においても「神の福音」を語り続ける勇気が、私たち一人ひとりに、教会に与えられ続けます。そのことによって私たちは、不条理な苦しみの現実に直面している方々に「神の福音」を語り続けられるのです。たとえ福音がなかなか人々に届かなくても、私たちが神様と共に生きることにおいて与えられ続ける勇気によって、確信を持って、あきらめることなく語り続けることができるのです。

神の愛の真理について迷いはない
 3節で「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と言われています。ここで、パウロは自分たちの宣教について三つのことを否定しています。まず彼らの宣教は、「迷いに基づくもの」ではない、と言われています。このことは、彼らは少しも迷うことなく福音を語った、ということではありません。きっと彼らは、どのような言葉を用い、どのように語りかけたら福音がテサロニケの人たちに届くだろうか迷うこともあったと思います。彼らは迫害の中で迷いつつ伝道したに違いありません。しかしここで言われている「迷い」とは、そのような試行錯誤の迷いではなく、「真理に関する迷い」であり、その真理とは、キリストの十字架に示された神の愛の真理です。パウロたちは、彼らの宣教において、神の愛の真理について迷いはなかったのです。どのような状況にあっても、どのような相手に対しても、神様がこの世へと御子を遣わし、その御子を私たちのために十字架に架け、復活させたことに示される神の愛の真理を宣べ伝えたのです。

「よこしまな思い」と「策略」によらず
 また、「不純な動機に基づくもの」ではない、と言われていますが、「不純な動機」とは、「よこしまな思い」と言い換えることができます。最後に言われている「ごまかしによるものでもありません」の「ごまかし」と訳された言葉は、「策略」とも訳せ、聖書協会共同訳では「策略によるものでもありません」と訳されています。ここで「よこしまな思い」が、具体的になにを意味しているかは、はっきりしませんが、相手に気に入られようとする思い、あるいは相手から見返りを得ようとする思いなのかもしれません。また、策略によらないと言われているのは、当時、巧みな言葉を使って、価値のないことを価値があることのように宣伝する策略を用いる詭弁家、偽説教者がいたからです。しかし彼らの伝道はそのような策略によるものではありません。いえ、そのような策略など必要ないのです。神の福音は、価値のないことではなく、価値があるように見せかける必要もまったくありません。神の福音こそが、私たちを救い生かすのです。「よこしまな思い」にしても、「策略」にしても、それは人間の思いです。しかしパウロたちの宣教は、人間の思いによるものではなかったのです。

神に認められ、福音をゆだねられる
 4節で、彼らは、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくため」に神の福音を語ったと述べています。そしてこのことは、彼らが「神に認められ、福音をゆだねられている」ことによる、と言われています。「認められる」とは、元々「試みられる」とか「調べられる」という意味ですが、そこから、テストに合格するという意味を持つようになりました。では、「神に認められる」とは、試練の中で神様のテストに合格することによって、神様に認められるということなのでしょうか。しかしそのように言われても、私たちは、自分が神様のテストに合格するとは到底思えません。確かに私たちは試練の中で、信仰を問われ、試されます。今、私たちが直面している厳しい状況においても、私たちの信仰が問われています。しかしそのような試練を乗り越えるのは、私たちの力によるのではありません。2節でパウロは、試練の中で、神様から勇気を与えられて福音を語った、と述べていました。パウロたちが神様に認められ、福音を委ねられたのは、彼らが頑張って神様のテストに合格したからではなく、むしろ自分の力に頼らず、神様にこそ頼り、神様から勇気を与えられ続けたからではないでしょうか。私たちが社会において絶えず受けさせられているテストは、自分の努力や頑張りにかかっていて、合格できなければ、自分を責めて落ち込むしかありません。しかし神様のテストは、自分の力を手放すことによって合格するのです。自分の力を手放し神さまに頼ることで救われるのです。困難な状況にあっても、神様のご支配を信じ、神様に頼り、委ねることによって、私たちは神様から認められ、そのように生きる一人ひとりに福音が委ねられます。主イエス・キリストの十字架による救いに与り、神様のものとされ、その神様に信頼し、自分のすべてを神様に明け渡して生きていくことにおいて、私たち一人ひとりは主イエスによる救い、神の福音を証ししていくのです。

人に喜ばれたいと願う
 「神に認められ、福音をゆだねられている」パウロたちは、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくために」、テサロニケの人たちに福音を告げ知らせました。私たちはしばしば神様に喜んでいただくよりも、人に喜ばれたいと願います。人に喜ばれることは悪いことではありませんが、しかし神様を忘れ、人に喜ばれることばかりに心を奪われるとき、私たちは、人を喜ばせることによって実は自分が満足したいという「よこしまな思い」に囚われているのではないでしょうか。そのようなとき私たちは、どうしたら相手が喜んでくれるかばかり考えるようになります。相手が喜びそうなことを言ったり、相手に合わせて、相手が喜んでくれるように振る舞ったりします。意識していたとしても無意識であったとしても、そこには相手を喜ばすための「策略」が潜んでいるのではないでしょうか。たとえそれで相手が喜んでくれたとしても、「よこしまな思い」や「策略」によって相手を喜ばそうとすることによって、キリストによる救いを証しすることはできません。神様を無視して人を喜ばせようとしても、そこに神の愛の真理はないからです。

わたしたちの心を吟味される神
 私たちは、人を偽りによって喜ばせることはできるかもしれません。しかし、偽りによって神様を喜ばせることは決してできません。神様は、「わたしたちの心を吟味される」からです。神様は、私たちの心を見ておられ、知っておられます。それは、恐ろしいことのように思えるかもしれません。顔に出したり、口に出したりしないようにどんなに上手に繕ったとしても、人は欺けても神様を欺くことはできないからです。けれども神様は、私たちの心を吟味することによって、私たちを暴き裁こうとされるのではありません。神さまは、私たちの罪、弱さ、欠けを知っておられ、それにもかかわらず私たちを愛し、導いてくださるのです。共にお読みした旧約聖書詩編139編23-24節にはこのようにありました。「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。」神様は、私たちが自分自身では気づくことができない心の奥底に隠された悩みや、言葉にならない呻きをも知っていてくださり、支え導いてくださるのです。

神に喜ばれるために
「わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくため」に、パウロたちは神の福音をテサロニケの人たちに宣べ伝えました。それは、テサロニケの人たちに喜ばれなくてよい、ということではありません。神様に喜んでいただくために、福音を告げ知らせるとき、その福音を受け入れた人たちに本当の喜びが与えられるのです。人に喜ばれなくてもよいというのではなく、本当の喜び、キリストによる救いの喜びは、神様だけが与えることができるという確信をパウロたちは持っていたのです。私たちもこの確信に生きています。私たちは神様に喜んでいただくことによって、神様に仕えていくことによって、その救いの喜びをほかの方たちにも証ししていくことになるのです。伝道するのが厳しい状況かもしれません。私たちの証しは、拒まれることもあるかもしれません。けれども私たちは、神様との交わりに生きる中で、神様から勇気を与えられ続け、厳しい状況の中にあっても、キリストの十字架と復活による救いを証ししていくのです。その救いの恵みによって、本当の喜びが与えられていくのです。

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