夕礼拝

心を一つにして

「心を一つにして」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第14章1-15節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第18章18-20節
・ 讃美歌:

サムエル記上の続きを読む
 4月より二年ぶりに夕礼拝を再会しました。二年前まで、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書を読み進めていて、最後、2020年3月に読んだのはサムエル記上の第12章でした。再会された夕礼拝においても、その続きを読んでいきたいと思います。サムエル記は、主なる神によってイスラエルの民の指導者となったサムエルの下で、イスラエルに王が立てられ、王国となったことを語っています。二年前に読んだ12章までのところで、最初の王としてサウルが立てられたことが語られていたのです。先ほどは14章の1?15節を朗読しましたが、本日は13章と14章の全体を読みつつお話しをしたいと思います。13章と14章に、サウルが王であった時代のこと、サウルの王としての働きが語られているのです。

サウルの治世
 サウルの王としての業績は、14章47、48節にこのようにまとめられています。「サウルはイスラエルに対する王権を握ると、周りのすべての敵、モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、更にはペリシテ人と戦わねばならなかったが、向かうところどこでも勝利を収めた。彼は力を振るい、アマレク人を討ち、略奪者の手からイスラエルを救い出した」。ここから分かるように、サウルはなかなか有能な王だったようです。イスラエルに王が立てられたのは、人々が、周囲の敵との戦いにおいて先頭に立って民を導いてくれる人が欲しいと願ったことによってでしたが、彼は人々のその願いに十分に応えたと言えるのです。彼が王になって先ずしたことが13章2節にこう語られています。「イスラエルから三千人をえりすぐった。そのうちの二千人をミクマスとベテルの山地で自らのもとに、他の千人をベニヤミンのギブアでヨナタンのもとに置き、残りの民はそれぞれの天幕に帰らせた」。これは、常備軍の設置ということです。それまでは、戦いになると民が集まってきて、普段は農民や職人である人たちがにわかに兵隊となって戦うという形でした。サウルはその人々の中からえりすぐった者を専ら軍務に服する者として手元に置いて、訓練し、少数精鋭の軍隊を造ったのです。先ほどの14章47節に「向かうところどこでも勝利を収めた」と語られていたのは、このような軍隊を築いたことの結果だったのです。また14章52節にはこう語られています。「サウルの一生を通して、ペリシテ人との激戦が続いた。サウルは勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱えた」。ここにもサウルの軍事的指導者としての有能な働きが示されています。

ペリシテとの戦い
 今読んだ箇所にも語られていたように、この頃イスラエルを常に脅かしていたのはペリシテ人であり、サウルの戦いは主にペリシテ人との戦いでした。その戦いがどのように始まったのかが13章3節以下に語られています。戦端を開いたのはサウルの息子ヨナタンでした。サウルは三千の軍勢の内二千を自分のもとに、千をヨナタンのもとに配置していたと先ほどのところにありましたが、ヨナタンがその手勢を率いて、ゲバという所のペリシテの守備隊を打ち破ったのです。それに怒ったペリシテ軍はイスラエルと戦うために集結しました。5節に「その戦車は三万、騎兵は六千、兵士は海辺の砂のように多かった」とあります。サウルも国中に角笛を吹き鳴らして人々を呼び集めましたが、本当に戦力になるのはあの三千人のみです。まさに多勢に無勢でした。それに加えて、当時イスラエルにはまともな武器がなかったことが13章19節以下に語られています。「さて、イスラエルにはどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブライ人に剣(つるぎ)や槍を作らせてはいけないとペリシテ人が考えたからである」と19節にあり、22節には「こういうわけで、戦いの日にも、サウルとヨナタンの指揮下の兵士はだれも剣や槍を手にしていなかった。持っているのはサウルとその子ヨナタンだけであった」とあります。

ヨナタンの勝利
 そのような状況の中で、しかしイスラエルは勝利を得ます。それをもたらしたのはやはりヨナタンでした。そのことが、先ほど読んだ14章1節以下に語られていたのです。ヨナタンは、武器を持つ従卒と二人で、そっと陣営を抜け出し、川を渡ってペリシテの先陣に向かって行きました。川のこちら側も向こう側も切り立った崖になっていました。ヨナタンは敵の先陣を見上げて従卒にこう言いました。6節です。「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」。従卒は「あなたの思いどおりになさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です」と答えました。そして彼らは、主が勝利を与えて下さることのしるしを得ようとします。彼らが敵陣の前に姿を現した時、敵が「俺たちがそこへ行ってやっつけてやる」と言うか、それとも「来れるものならここまで登って来い」と言うか、後の方なら、それは主がこの敵を渡して下さり、勝利を与えて下さることのしるしだ、というのです。高い所にある陣地にいる兵は、わざわざ降りて来て戦うよりも、敵に登って来させて迎え撃つ方が利口な戦い方です。ヨナタンたちは、相手がそのようなセオリー通りの戦い方をするなら、それこそ主が勝利を与えて下さるしるしだと信じたのです。そしてその通りになりました。ペリシテ人たちが「登って来い。思い知らせてやろう」と言ったので、ヨナタンは従卒に「わたしに続いて登って来い。主が彼らをイスラエルの手に渡してくださるのだ」と言うと、13節「ヨナタンは両手両足でよじ登り、従卒も後に続いた。ペリシテ人たちはヨナタンの前に倒れた。彼に続く従卒がとどめを刺した」。両手両足でよじ登らなければならない状態でどうして勝利できたのか全く分かりません。しかし彼らは陣地にいた20人のペリシテ人を討ち取ったのです。それはまさに主が与えて下さった勝利でした。このヨナタンの勝利によって、ペリシテの陣営に恐怖と動揺が広がり、彼らは浮き足立ったのです。それを見てサウルの軍勢は一気に攻め込みました。こうしてイスラエルは、圧倒的に劣勢の中で、主なる神によって勝利を得ることができたのです。その糸口となったのが、ヨナタンとその従卒による、常識的には無謀と言うべき攻撃だったのです。

主なる神への信頼
 彼らがこの攻撃に向かった時の、6節の言葉をもう一度振り返りたいと思います。ヨナタンは「主が我々二人のために計らってくださるにちがいない」と言いました。ここは以前の口語訳聖書では「主が我々のために何か行われるであろう」となっていました。単純に訳せば「主が我々のために行動されるだろう」ということです。主なる神が自分たちのために行動して下さることに寄り頼んで彼らは出発したのです。その信頼は「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」という言葉にも現れています。ここは、最近出た聖書協会共同訳では、「主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない」となっています。原文の言葉はこのように、「勝利を得る」ではなくて「救う」です。主なる神が自分たちのために行動して下さるとは、救って下さるということです。そのみ業において、兵の数が多いか少ないかは全く問題ではない。主が救って下さるなら、味方がどんなに少なくて敵がどんなに多くても、それは必ず実現する、とヨナタンは言ったのです。彼が主なる神による救いを確信していることは、「さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう」という言葉にも現れています。ペリシテ人は無割礼の者たちであるのに対して、イスラエルは割礼を受けている神の民です。割礼は、主なる神が恵みによってイスラエルを選び、ご自分の民として下さったことの印です。主はご自分の民として下さった我々を必ず救って下さる、そういう信頼によって彼らは出陣したのです。主なる神はこの信頼に応えて彼らに勝利を与え、イスラエルを救って下さったのです。

サウルの失敗
 ヨナタンと従卒がこのように主なる神に信頼して行動し、神がそれに応えて下さったということが14章の主題です。この14章を読むことによって、13章に語られている、それとは反対の姿が浮き彫りになって来ます。それは13章8節以下のサウルの姿です。先ほど申しましたように彼は、圧倒的に優勢なペリシテ軍の前に陣をしき、戦いに備えていました。13章6、7節にはこう語られています。「イスラエルの人々は、自分たちが苦境に陥り、一人一人に危険が迫っているのを見て、洞窟、岩の裂け目、岩陰、穴蔵、井戸などに身を隠した。ヨルダン川を渡り、ガドやギレアドの地に逃げ延びたヘブライ人もあった。しかし、サウルはギルガルに踏みとどまり、従う兵は皆、サウルの後ろでおののいていた」。この戦いにはとうてい勝ち目はない、という恐れがイスラエルの人々の間に広がっていたのです。このような状況で軍勢の統率を維持するためには、自分たちには主なる神の祝福があるのだ、ということを目に見える仕方で兵士たちに示す必要があります。そのためにサウルは、兵士たちの前で主なる神に「焼き尽くす献げ物」をささげようとしました。しかしその儀式をすることができるのは、主なる神によって、神とイスラエルの民の間の執りなしをする者として立てられているサムエルだけでした。サウルが王になったのも、サムエルを通して示された神のみ心によってでした。サムエルが彼の頭に油を注いだことによって彼は王として立てられたのです。なので、イスラエルのために主なる神に焼き尽くす献げ物をささげてもらうためにサウルはサムエルを陣営に招きました。サムエルは、自分が到着するまで七日間待つようにと伝えて来ました。しかしその七日が経ってもサムエルは到着しませんでした。サムエルを待っている間に、兵士たちの動揺、恐れはさらに広がっていきました。そして8節の終わりにあるように「兵はサウルのもとから散り始めた」のです。恐れて逃げ出す者たちが出始めたのです。このままでは、イスラエル軍は戦う前に崩壊してしまいます。焦ったサウルは、自分で、焼き尽くす献げ物をささげました。我々は主なる神の軍勢なのだ、主が我々を祝福し、守って下さるのだ、ということを兵士たちに示して、士気を高めようとしたのです。彼がそのように焼き尽くす献げ物をささげ終わったところにサムエルが到着しました。サムエルはサウルに「あなたは何をしたのか」と問いました。サウルは答えました。「兵士がわたしから離れて散って行くのが目に見えているのに、あなたは約束の日に来てくださらない。しかも、ペリシテ軍はミクマスに集結しているのです。ペリシテ軍がギルガルのわたしに向かって攻め下ろうとしている。それなのに、わたしはまだ主に嘆願していないと思ったので、わたしはあえて焼き尽くす献げ物をささげました」。するとサムエルはサウルを厳しく咎め、こう言ったのです。13章の13、14節です。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとして下さっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ」。つまり、サウルは主なる神に見捨てられ、彼の王権は別の人に与えられてしまう、ということです。サウルがサムエルの指示に従わず、本来自分がするべきではないこと、焼き尽くす献げ物をささげることを勝手にしてしまったからです。

主に信頼することができなかったサウル
 これを読むと私たちはサウルに同情を覚えます。サウルは指示通り七日間待ったのです。遅れたサムエルが悪いのではないか。兵士たちは動揺し、恐れ、脱落し始めている。それを何とか食い止めなければ戦いにならない。そのために皆を勇気づけ、励まそうとしてサウルはやむなく、焼き尽くす献げ物を自分でささげたのです。それを咎めるのは余りに酷ではないか、それが私たちの普通の感覚でしょう。けれどもここで、先ほどの14章のヨナタンの姿との対比がものを言ってくるのです。「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」、「主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない」、この主なる神への信頼がサウルには決定的に欠けています。彼は、兵の数が少なくなってしまったらおしまいだ、と思い、それを確保するために自分で何とかしようとしたのです。「主が我々のために行動して下さる」ことを見つめるのではなくて、自分で行動したのです。彼は、自分たちが割礼を受けて神の民とされている、主なる神が自分たちをご自分の民として導いて下さっている、ということを見つめるのではなくて、自分が王として、自分の力でこの民を導き、守り、救わなければならない、と思ったのです。それは普通であれば、王としての責任感がある、ということです。しかし主なる神こそがまことの王である神の民イスラエルの王としては、サウルは一番大事なことを見失ってしまったのです。先ほど見たようにサウルは王として決して無能ではありませんでした。軍事的指導者としての力量は高かったのです。にもかかわらず彼は結局悲劇的な最後を迎えることになります。それは、彼が自分の軍事的能力に依り頼み、自分が人心を掌握することによって事を成そうとして、主なる神が行動して下さることに信頼することができなかったからです。13章と14章を共に読むことによってそのことが見えてくるのです。

心を一つにする信仰の仲間
 13章のサウルと14章のヨナタンとを見比べることによってもう一つ示されることがあります。ヨナタンがあのように主なる神に信頼して撃って出ることができたことの背後には、あの従卒の存在があった、ということです。14章6節のヨナタンの言葉に対して従卒が「あなたの思いどおりになさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です」と答えています。ヨナタンは、主なる神への信頼、つまり信仰に一人で生きているのではありません。「主が我々二人のために計らってくださるにちがいない」という言葉もそれを示しています。あの従卒は彼にとって単なる家来ではありません。主なる神への信頼、信仰に共に生きる仲間、同志、兄弟なのです。彼の神への信頼、信仰は、一心同体である仲間との交わりによって支えられているのです。このように心を一つにする信仰の仲間と共にあるからこそ、彼は大胆に、信仰の冒険に打って出ることができたのです。

孤独の中で数に頼る
 サウルはどうだったでしょうか。サウルには、ヨナタンにとってこの従卒に当るような人がいません。彼はいつも一人です。ペリシテの大軍と対峙した時も、サムエルの到着を今か今かとしびれを切らして待っている時も、彼は一人なのです。もちろん彼は王ですから、周りには家来たちがいます。家来たちは、14章36節と40節に語られているように「あなたの目に良いと映ることは何でもなさってください」と言うのです。この言葉は、ヨナタンの従卒が「あなたの思いどおりになさってください」と言ったのと、意味としては同じです。しかしサウルの家来たちは、ヨナタンの従卒のように「行きましょう。わたしはあなたと一心同体です」とは言わないのです。家来たちはサウルの命令には従うけれども、心を一つにする同志、仲間ではないのです。彼は多くの家来たちの中で、孤独です。その孤独のゆえに彼は、主なる神に信頼してその救いのみ業を待ち望むのではなくて、自分の力で何とかしなければ、という思いへと駆り立てられていったのです。これはとても皮肉な現実です。孤独な者、主への信頼において心を一つにする信仰の仲間を持たない人ほど、仲間の数が少ないことを恐れ、数に頼ろうとするのです。心を一つにする信仰の仲間と共に生きている人は、「主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない」という信頼に生きることができる、つまり数が少ないことを恐れずにいられるのです。

教会に連なる幸い
 私たちが、教会において、信仰の仲間たち、共に主の民とされている兄弟姉妹との交わりを与えられていることの大>きな恵みがここに示されています。私たちは、一人で孤独に信仰者として生きるのではありません。主なる神がその独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えて下さった救いを信じた者は、洗礼を受け、キリストの体である教会の部分とされるのです。洗礼は、私たちが神の民とされていることの印です。そういう意味でそれは旧約聖書における割礼を受け継いでいるものです。その洗礼を受けて、新しいイスラエル、新しい神の民である教会の一員とされた私たちは、「主が我々のために計らって下さる」ということを心を一つにして共に信じる兄弟姉妹を与えられているのです。先ほど共に朗読した新約聖書の箇所、マタイによる福音書第18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」という主イエスのお言葉がありました。私たちは、教会において、主イエスの名によって集まる兄弟姉妹の交わりを与えられているのです。そこには、主イエス・キリストご自身が共にいて下さるのです。私たちは、一人で信仰の英雄となることを目指すのではありません。兄弟姉妹と心を一つにして、神を礼拝し、み言葉による恵みをいただき、主がみ業を行って下さることを信じて待ち望みつつ歩むのです。教会に連なって生きるその信仰によってこそ、「主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない」という信頼に生きることができるのです。

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