◆ 「キリストによって」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第2編1-12節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章20-21節
・ 讃美歌 : 289、497
キリストが知られていた
私たちが今手にしている聖書とはギリシャ語のビブリア、書物という意味の言葉に由来しています。聖書は歴史の書物として、また文学書として読まれることもありますが、キリスト者は聖書を信仰の書物として、神様のお言葉のとして権威あるものとして読んでおり、位置づけています。主イエスはこのように言われました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)主イエスが「聖書は私について証しをするものだ。」と言っておられます。聖書は、主イエス・キリストを証しするものであるということです。聖書は一貫して、主イエス・キリストを証ししている書物であります。新約聖書にはイエス・キリストについて書かれているのは分かりますが、旧約聖書についてはどうでしょうか。旧約聖書においてはイエス・キリストのお名前は出ておりません。けれども、旧約聖書もまた主イエス・キリストを証ししているのです。旧約聖書において、救い主イエス・キリストの到来は待ち望まれています。人々は様々な状況の中で救い主を待ち望んでおりました。イエス・キリストが現れるのを待ち望んでいるのです。神様の言葉を預かる預言者たちによってイエス・キリストのことが預言されているのです。旧約聖書において、イエス・キリストはそのように証しされています。新約聖書においては、その預言の成就、救い主イエス・キリストがこの世に来られた、旧約聖書において預言されていたことが成就されたことが語られています。新約聖書の最初にありますマタイによる福音書の2章にはイエス・キリストの誕生とそれに続くことの次第が書かれておりますが、「このことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と何度もあります。旧約聖書においても、新約聖書においても聖書全体を通しては主イエス・キリストについて証しがされています。けれども、主イエスが人間のためにされた御業の大きさについては語り尽くせない、証し尽くせないのです。
天地創造の前から
本日の箇所にも主イエス・キリストについての証しがなされています。本日の20、21節は教会の始めのころの讃美歌、または信仰告白として用いられていたであろうと言われている箇所です。このペトロの手紙は迫害を受けている教会に宛てられた手紙でありますので、この讃美歌、信仰告白を励み、慰めとして受け取っていたでしょう。この箇所でイエス・キリストはどのように語られているのか、主イエス・キリストはこのような方であると証しをされています。「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」イエス・キリストは天地創造の前から、天地が造られる前からあらかじめ知られていたお方である、というのです。この世が造られる前からイエス・キリストはあらかじめ神様に知られていた。天地創造の前ですから、イエス・キリストを知っていたのは創造主なる神様だけであります。神様以外の者がキリストを知るわけではないでしょう。神様は天地創造の前から、世の初めからイエス・キリストを知っておられたのです。神様が天地創造の以前から、イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わされるという御計画をされていたのです。イエス・キリストはこの世に救いをもたらす存在として、天地創造の前から、神様の御計画によってあらかじめ定められていたのです。その御計画が実行されたのです。「この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」とあります。主イエス・キリストは「この時代の終わりに、あなたがたのために現れてくださいました」とあります。救いをもたらす方としてキリストがこの世に現れた、この世に来られたのです。救い主キリストはベツレヘムで生まれナザレで育った主イエスとしてこの世に来られました。そして、人間の罪のため十字架におかかりになり、三日目に復活なさり、天に昇られました。世の救い主としてこの世に来られたのです。神様はこの主イエス・キリストをあらかじめ知っておられました。神様はすべてをご存知であり、御自分の御計画のうちに置かれていました。神様の救いの御業というのは、それほど確かな、確実な恵みであるということです。神様の確実な救いの御業、確実な恵みが、主イエス・キリストにおいて起きました。エフェソの信徒への手紙第1章4、5節にはこのようにあります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」主イエス・キリストの到来を神様の御計画のよってあらかじめ知られており、主イエス・キリストがこの世に救い主として来られました。それは何よりも、私たちを愛するがゆえに、神様はそうされました。神様の愛が確実な根拠として、主イエスが来られたのです。私たちの現実のただ中に来られたのです。
神の計画
主イエス・キリストがこの世に来られた、主イエス・キリストが「あなたがたのために現れてくださいました」とあります。神様の御計画が現れたのです。それも天地創造の前からの御計画が、この終わりの時代にイエス・キリストとして現されたのです。誰のために現されたのか、「あなたがたのために現れてくださいました」とあります。迫害を受けていた教会の人々のため、またすべての人ためのために現れて下さいました。ここでの「あなたがた」は、この箇所の直前の18節にありますように「先祖伝来のむなしい生活」をしていた者を直接には指しております。神に造られ、神に背き罪を犯した人間であり、その人間のために神様が御計画されたのです。その御計画について、21節で述べられております。「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった」。神様はキリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神様であります。神はキリストを死者の中から復活させ、栄光をお与えになり、神様の御計画が何であるかをお示しになったのです。主イエス・キリストが死者の中から復活させられたのは、人間の罪のために十字架にかかられたからであります。主イエスが十字架において命を捧げ、3日目に復活させられることによって、死に打ち勝ち、罪に勝利をされたのです。主イエスが死から復活されたというのは、その死に勝利をされた、乗り越えられたということです。神様はそのようなご計画を遂行されたのです。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事はすべて神の計画であり、天地創造の前からあらかじめ計画されているのです。そして、神様はかつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで人々に語られました。旧約聖書における預言者、すべての出来事が主イエス・キリストを証しするものであるということです。そしてこの終わりの時代において、神様は御計画に基づいて、御子イエス・キリストにおいて、私たちに語られました。私たちはそのイエス・キリストによって神様の御業を信じることができるのです。その神様はイエス・キリストを復活させた神様である、と言います。この世に生きるキリスト者が、迫害を受け、辱められ、たとえ殺されるようなことが起こるかもしれない、けれどもそれですべてが終わりになるのではない。キリストを信じる者は主イエス・キリストが再び来られるときに 必ず復活を備え、栄光をお与えになることを約束しているのです。主イエス・キリストによって神様を信じる、また神様御自身はキリストにあってのみご自分を知られることを欲しているのです。御子イエス・キリストは見えない神の姿であり、天地創造の前から、世の始まる、すべての者が造られる前から知られていた方です。突発的なことではなく、神のご計画のうちにあったという根拠がしっかりとあります。確実な根拠がある。そのような御子イエス・キリストを信じるのは、神様の御計画の内に、神様の永遠のご計画のうちにつながる確実なものであります。主なる神様の御計画であった。それは当然、人間の考える計画ではないのです。私たちが地上を歩むとき、自分の思った通りに事が進まない。自分の考えた計画が、自分が良いと思って計画したことが意外な方向で進んでいくことがあるということがあります。神様が立てる計画は、人間の思いをはるかに超えた計画が立てられているのです。私たちの創造者であり、贖い主である神様が私たちのために愛をもって立ててくださる計画、そこに私たちは信頼して良いのです。私たちのために立てて下さる御計画の頂点は、主イエス・キリストの十字架の出来事です。イエス・キリストが人間の罪のために十字架にかかり、罪を赦して下った。そこに私たちが希望を見出すことができるのです。
希望
キリスト者が信じるイエス・キリストと、イエス・キリストにある希望とは神様の永遠の計画につながる確実な希望なのです。主イエス・キリストを信じるということは、同時に神様を信じるということです。神は人間のための御業を遂行される、揺ぎ無い希望をお与え下さるのです。私たちはそこに身を委ねて、今週も歩んで参りましょう。