夕礼拝

すばらしい喜び

「すばらしい喜び」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第17章5-8節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章8-9節
・ 讃美歌 : 427、554

7節を振り返り
本日の箇所の直前の7節にこのようにあります。「イエス・キリストの現われるとき、さんびと栄光とほまれとに変わるであろう。」そのように変わるものとは、七節の始めには「あなたがたの信仰は」とありますので、「私たちの信仰」であります。私たちの信仰が鍛えられて、やがてイエス・キリストが現われるときに、誉れとなり、栄光となるのです。信仰の生活が神の試練によって鍛えられる。やがてイエス・キリストの現われる時に、誉れとなり、栄光となるというのです。ですから、信仰と言うのは、また信仰の生活を送るというのはただ私たちが自分の生活において都合が良い。だから信仰を持つ、信仰生活を送るなどということはありません。自分の都合がどうであろうが、神様を信じる生活を送ることが信仰生活であります。神様から与えられる試練によって、信仰が鍛えられるのです。そして、やがてイエス・キリストが現われるときを私たちは待っているのであります。つまり、まだ私たちの前には現れていないということであります。

見たことがないのに
そして8節へと続きます。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し」と、あります。このペトロの手紙の宛て先人は、主イエス・キリストを見ていない人たちであるということです。「見ていないけれども愛している」ということは、見なくても愛することが出来るということでありましょう。イエス・キリストを見ていなくても、愛することが出来る。なぜ、そのように出来るのか、そもそも「イエス・キリストを見る」とはどういうことなのでしょうか。この問いかけは、この手紙の著者であるペトロにとっても重要な問題でありました。ペトロは主イエスによって声をかけられ、弟子として招かれ主イエス・キリストと共に、神様の国の福音を宣べ伝えるために歩んだ人です。けれどもペトロにとっては、主イエス・キリストの中には分からないことがたくさんありました。弟子として、毎日のように主イエスと共に生活をしていた。けれども、それだからと言って主イエス・キリストのこと本当に見えていなかった、知らなかった、理解していなかったと言えるのではないでしょうか。毎日一緒にいる人であっても、必ずしもその人のことを理解しているとは言えないと言うことがあります。ペトロの大きな悩みはそのようなことであったのではないでしょうか。自分が主イエス・キリストの御心にかなうと思ってしたことが、必ずしもそうではないこと、度々あった。そのようなことを思い起こすと、自分は本当に主イエスを・キリストを見ていたか、愛していたのだろうか、と問わずにはおれなかったのではないでしょうか。ペトロのその生涯を振り返るときに、主イエスと共にいたけれども、主イエスを本当に愛していたのかと、愛することが出来たのかと、私たちは問うことが出来ます。

ペトロの歩み
マルコによる福音書第8章においてペトロが主イエス・キリストに向かって「あなたは、メシアです。」あなたが真に救い主です、と信仰を告白した場面があります。けれども、その後ペトロは自分がこの方こそ救い主である、信じるべき方であると告白しましたが、その主イエスの行動が理解出来なかったということがあります。主イエスはご自分のことを予告しました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と主イエスは弟子たちに教えられました。けれども、その予告を聞いたペトロはイエスをわきへお連れし、いさめ始めたのであります。けれども主イエスはペトロを叱って言われました。「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロは「主イエスこそまことの救い主である」と、言いながら、自分が考えていた救い主とは違う主イエスを認めなかったのです。主イエスが示される姿と、自分の思い描く救い主はまるで違っている、と思ったのであります。ペトロはその失敗を悲しんだだけでなく、更に自分がどんなに主イエスを分かっていなかった、本当に見ていなかったかと言うことを、思い知らされたのであります。
 ペトロは主イエスに声を掛けられ弟子とされ、共に歩んでおりました。十字架の出来事を目の前にして、主イエスがゲッセマネの園で祈りをしている間、主イエスが血のしたたるような苦しみの中で祈りを捧げている間、ペトロはその近くまで連れて行ってもらったのに眠ってしまったのであります。ペトロは自分がどんなに主イエスを理解していなかったかということを、思い知ったのであります。

ペトロを通して
 そのようなペトロの姿を通して、それでは私たちは一体どうであろうかと問いかけます。私たちは本当に主イエスが望んでいるように、主イエスを愛しているかどうか、ということです。自分の都合の良い場合は主イエスを愛する、都合の悪いときは、愛さないということではないでしょうか。ペトロは主イエスを愛し得なかったのは、どんな理由があったのでしょうか。そして、本当に主イエスを愛する人と言うのは、どのような人であるのでしょうか。
 本日の聖書の箇所には、「あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており」とあります。ここでの「あなた方」とは主イエス・キリストを見たことがなくても愛し、今見なくても信じている人たちのことが出てきます。この手紙の宛て先の人たちと言うのは、キリストを見なくても愛している、つまり心からキリストを愛している。更に今見なくても信じている、見ることはしないが愛し、信じている、この人たちはキリストによって生きようとした、と言えるのではないでしょうか。キリストを見たことがなかった人たちが、キリストを愛し、信じている。ペトロにとっては大変な、驚くべきことではなかったでしょうか。主イエスと共に生活をしていた、そのような自分が本当には、主イエスを愛し、信じること出来なかった。それなのに、主イエス・キリストを見たこともないような者たちが主イエス・キリストを愛し、信じている。どうして、そのようなことが可能なのでしょうか。主イエス・キリストを見ながらも、愛し、信じることが出来ない。ところが、ここに記されている人たちは、また私たちも含めて一度も主イエス・キリストを見たことがないのであります。それなのに、主イエス・キリストを信じている、主イエス・キリストを愛しているのであります。

  肉に従わず
 私たちは聖書を読んでおりますと、聖書ははっきりとは主イエス・キリストを見せてくれてはいないということが分かります。普通に私たちが人間を見るような意味においては、私たちに主イエス・キリストを見せるような書き方はしてはおりません。使徒パウロはコリントの信徒への手紙2の5章16節にこのように記しております「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」パウロはもう、そのように、肉に従って知ることしない、と言うのです。それでは、何によって知るのでしょうか。また、主イエス・キリストを見ていないのに愛している、信じている。どうしてこのように愛し、信じることが出来るのでしょうか。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、」とあります。見ていないけれども、信じているのであります。見ていないけれども信じる。信仰生活を始めるに当たって戸惑いの一つとして、信じたいけれども、見えない。見えないから、信じられないということがあります。見えないものを信じないのは当たり前ではないか、と人間は言うのであります。もちろんここでは、肉体の目で見えるかどうかということに加えて、手で触ることができる、耳で聞くことが出来るということも含まれております。つまり、人間が分かること、自分の五感を通して分かること、自分の知識で分かること、自分のそれまでの経験の法則に基づいて理解できること、それなら信じることができるということであります。そのようなことは当たり前であります。どういうものであるにせよ、見えないもの、その見えないものをどうして信じることが出来るのでしょうか。どうしても見たい、見なければ信じられないというのは、自分の満足のいく証拠を示してほしいということです。自分が納得のいく、自分が安心して信じることの出来る証拠が欲しいけれども、その頼れるような証拠が欲しいというのであります。人間は罪人であります。間違いを犯さない人はおりません。そのように人間を頼りにするときに、私たちが本当に頼っているのは何でしょうか。自分の目に見えて、これなら信じられる、信じることが出来る、そのように自分を頼みにしていることになるのであります。自分自身を頼みにしているということであります。
主イエス・キリストがこの世に来られた、神がこの地上に来られ、十字架にかかり復活なさったということはとても信じられないかもしれません。あらゆる人間の知識を使って説明しようとする人もおりますが限界があります。ただ黙って信じなさい、と言うことではないでしょう。自分の考えを信じるのか、自分自身を頼りにするのか、それとも神様がお与え下った救いの御業を信じるのか、ということであります。私たちはどちらでしょうか。この人たちでも、理屈を言えば見たこともない主イエスをどうして信じることが出来るのか、と問うたことでしょう。もしかしたら、人々の中には、信じることが出来ない者もいたかもしれません。けれども人々は主イエス・キリストを見たことがないのに愛し、見なくても信じて、喜びに満ちあふれておりました。それは彼らが、キリストによる救いを証しする使徒たちの言葉を聞いたことによって信じているからであります。神様の約束と救いの御業がどのようなものであるか、使徒たちを通して、そのことを示され、信じるように神様から導かれた時に、本当の信仰が与えられたということができるのです。私たちがこの地上を歩む中で思いがけないことが起ります。思いがけない病を得る、思いがけない仕事や家庭のトラブルが起る、愛する者との突然の別れを強いられる、そのような時に、神により頼む生き方ということに対しては大きな不安を感じるのではないでしょうか。私たちは自分が頼りにしているもの、見えるものを全て捨てて、神様により頼む、これは大きな冒険であるだろう思います。

主に信頼する人
先ほどエレミヤ書の17章の5-8節をお読みしました。「主に信頼する人」と小見出しが記されております。7節は「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなる」とあります。主イエス・キリストを見てはいないけれども、愛し、今見なくても信じている人たちがおります。そして、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている。それは、信仰の実りとして魂の救いを得ているからです、とあります。救いを得ているというのは、本当に自分のものにしているということであります。言葉に言い尽くせないというのは語り出すことのできない、ということです。どのように言っても自分の言葉でもって説明はできないということであります。言葉に言い尽くすことの出来ない素晴しい喜び、以前の訳で言えば、輝きに満ちた喜び、と書いてあります。神様が与えて下さっている喜びであります。
 その喜びを受けつつも、人間は容易に神に背く者となります。私たちは人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、心が主なる神様から離れ去っていく者となります。また、先ほどのエレミヤ書では、そのような人々は「呪われよ」と大変厳しく書かれております。神に背く歩みをする罪人である人間は「呪われるべき」存在であるのです。けれども、その「呪い」を一身に受けて下さった方がおられます。その方によって罪を赦されたのです。主イエス・キリストの十字架の出来事です。主イエス・キリストの救いとはそのように、私たちが負うべき、いや負うことのできない罪を代わりに背負って下さったということです。そして罪を赦されることです。罪を赦され、私たちが魂の救いを受ける、私たちの生活、私たちの存在のすべてが救われるということです。私たちも、御言葉を聞いて主イエスを信じ、主イエスとの交わりに生かされている。それによって試練においても忍耐し、終わりの時に現される救いを待ち望みつつ、すばらしい喜びに満たされて生きることができるのです。何よりもペトロ自身もその喜びと希望に生きていおりました。私たちは、見なくても、御言葉によって信じて、主イエスを愛し、喜びの内にこの1週間を歩んで参りましょう。

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