2024年7月14日 夕礼拝
説教題「ソロモンの祈り」 牧師 藤掛順一
列王記上 第8章22~66節
マルコによる福音書 第11章15~19節
神殿の建設
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いており、先月から列王記上に入っています。先月は3章を中心に、ソロモンが父ダビデの後を継いでイスラエルの王となったことを読みました。このソロモンの時代に、イスラエル王国は最も繁栄し、勢力を拡大したのです。5章の1節に、ソロモンが支配した地域のことが語られています。「ソロモンは、ユーフラテス川からペリシテ人の地方、更にエジプトとの国境に至るまで、すべての国を支配した。国々はソロモンの在世中、貢ぎ物を納めて彼に服従した」、また5節には、「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした」ともあります。国が安定し、経済的にも繁栄し、民の生活が潤っていた様子が語られています。このソロモンのもとでの王国の繁栄の様子が3章から10章にかけて語られているのですが、その中心は、エルサレム神殿の建設です。6章から8章にその神殿建設のことが語られています。この6~8章を挟んで、その前後に、対になるような仕方で、いくつかの話が語られているのです。少し煩雑になりますが、そのことを指摘しておきます。後でゆっくり確かめて下さい。6章以前を前に戻りながら申しますと、5章 の15~32節に、ティルスの王ヒラムという人が、ソロモンの神殿の建設のためにレバノン杉などの材料を提供してくれたこと、そしてソロモンがイスラエル全国の人々に労役を課して、その材料を運ばせたことが語られています。そのことは9章の10~23節にも語られています。また5章の9~14節には、ソロモンに非常に豊かな知恵が与えられたことが語られていますが、そのことは10章1~13節の、シェバの女王の来訪の話と重なっています。そして先月読んだ3章の4~15節には、ギブオンという所で主なる神がソロモンに現れてお語りになったことが記されていましたが、9章1~9節には、主が、「かつてギブオンで現れたように、再びソロモンに現れ」て語られたとあります。そして3章の始めの1~3節には、ソロモンがエジプトの王ファラオの娘を妻としたことが語られていますが、そのことは9章の24節にも言及されているのです。このように、3~5章と9、10章には、重なり合う記事、対応している記述がいくつもあります。これらの話が言わば額縁のような役割を果たしており、その額の中の絵に当るのが、6~8章の神殿建設の話なのです。このような語り方によって列王記は、ソロモン王の行なった様々な事業、彼のもとでの王国の繁栄の中心に、神殿の建設を位置づけているのです。
神殿の意味
イスラエルの民にとって神殿は、ある意味では自分の住む家よりも大切でした。後にバビロニアによって国を滅ぼされ、ソロモンの建てた神殿も破壊されてバビロンに捕囚として連れて行かれたイスラエルの民が、何十年かの捕囚から、ペルシャ王キュロスによって解放され、故郷に帰ることができた時に、真っ先にしたのはエルサレムの神殿の再建でした。周囲の人々の妨害もある中で、ようやく神殿の再建が成り、そこで過越祭を祝った、その大きな喜びがエズラ記に語られています。神殿の再建こそ、捕囚から帰還した民の最大の願いであり、喜びだったのです。神殿は何故そんなに大事なのでしょうか。それは、神殿は神がそこにおられる所だからです。神殿があるということは、神がいて下さる場所があるということであり、国の中心に神殿があることによって、この国に、この民に、神が共にいて下さることが保証されるのです。その神殿にお参りに行くことによって、神に祈ることができる、いろいろなことをお願いすることができる、そういう場として、神殿は人々の生活の重要な中心なのです。
私たちの社会においては、かつては神社がそういう役割を果していました。正月に多くの人が神社に初詣に行くのは、そこには神様がいて願いを聞いてくれると思うからです。ただ、日本の神社とエルサレムの神殿とは違いもあります。神社には何らかの「ご神体」が祀られていますが、エルサレムの神殿には「ご神体」はありません。ソロモンが建てた神殿の中心である至聖所に置かれていたのは、「ご神体」ではなくて、「主の契約の箱」でした。8章の始めのところに、完成した神殿に主の契約の箱が運び入れられたことが語られています。その箱の中に何が入っていたかが8章9節に語られています。「箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである」。箱の中にあったのは「ご神体」ではなく、石の板二枚だけでした。その板は、主なる神がホレブ、つまりシナイ山でモーセに与えて下さったもので、十戒が刻まれていたのです。それを「契約の板」と呼び、それを納めた箱を「契約の箱」と呼んでいるのです。ソロモンの神殿の中心にあったのはこの契約の箱だったのです。
主の契約の箱
この契約の箱が、あるいはその中の二枚の石の板が「ご神体」なのではないか、と思うかもしれませんが、それは違います。何故なら、先ほど申しました、捕囚からの帰還後に再建された神殿、それを「第二神殿」と呼びますが、その神殿の至聖所には、もはや契約の箱も石の板もなかったからです。契約の箱と十戒の石の板は、ソロモンの建てたこの神殿がバビロニアによって破壊された時に失われてしまったのです。もしもこれがご神体ならば、それが失われてしまったらもう神殿の意味がありません。新たに建てられた神殿には何か新しいご神体を納めなければならないはずです。しかし、第二神殿の至聖所には、契約の箱に代るものは何も置かれませんでした。そこは空っぽの、何もない空間だったのです。後にこの地を征服したローマの将軍ポンペイウスという人が、ユダヤ人たちが大切に守っている神殿にはどんな神が祭られているのかと思って神殿に入ってみて、「なんだ、何もないじゃないか」と言ったという話が伝わっています。契約の箱が失われて以来、エルサレム神殿の中心は何もない空間なのです。それは、契約の箱やあの石の板が「ご神体」ではなかったことを意味しています。契約の箱や十戒の石の板は、「契約の箱」という呼び方が示しているように、主なる神がイスラエルの民と契約を結んで下さったことの印です。神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、そういう特別の関係を、神がイスラエルの民との間に結んで下さったのです。この契約の恵みのゆえに、イスラエルの民は主なる神を礼拝し、犠牲をささげ、祈ることができるのです。そのことが行われる場が神殿です。ですから、神殿に神がいて下さる、神殿に行けば神を礼拝し、祈ることができる、というのも、この契約に基づくことです。神殿に、神が、ご神体という形で物理的に住んでいるわけではありません。神殿は、神がイスラエルの民と結んで下さった契約の恵みを覚えつつ、礼拝をささげ、祈る場所です。だから、契約の箱そのものはなくても、神殿を再建することができるし、そこでの礼拝もちゃんと成り立つのです。
祈りを聞きたもう主
先ほど朗読した8章22節以下は、神殿が完成し、契約の箱が運び入れられてから、ソロモンが祈った祈りの言葉です。神殿を神にお献げする奉献の祈りであり、また神の祝福を求める祈りでもあります。この祈りにおいてソロモンは、まさに今申しましたこの神殿の基本的な性格を語っています。特に27節以下です。27節にこうあります。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」。主なる神は、地上のどこかの場所に住むような方ではない、どんなに立派な、壮麗な神殿を建てたとしても、そこを神の住まいと定めることなどできはしないのです。神はこの世界の全てをお造りになった方です。その神を人間が作ったものの中に閉じ込めてしまうようなことはできないのです。それなら、神殿は何のためにあるのか。そのことが29、30節に語られています。「そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください」。神殿は、神が「ここに住む」と言われた所ではなくて、「わたしの名をとどめる」と言われた所です。「名をとどめる」というのは、具体的には、神が、その住まいである天から、この神殿に常に目を注ぎ、耳を傾けておられる、ということです。つまり主の名によって建てられているこの神殿においてなされる祈りを、神がいつもしっかりと聞いていて下さる、祈る者に目を注いでいて下さるのです。それこそがあの「契約の恵み」です。神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる、それは、イスラエルの民に神がいつも目を注いでおられ、その祈りにいつも耳を傾けておられるということであり、そういう特別な関係をイスラエルの民との間に結んで下さったということなのです。
七つの祈り
契約の恵みによって神の民とされた者たちが、この神殿において祈ることは様々です。その祈りが七つにわたってここに並べられています。第一は31~32節です。隣人が自分に罪を犯したり、自分が隣人に罪を犯すことによって、隣人との関係がうまくいかなくなる時に、この神殿において神に祈るのです。神は、人間の目には見えない真実を知っておらます。その神が正しい裁きを行って下さることを信じて、自分の苦しみや怒りや憎しみを神の裁きに委ねる祈りがここでなされるのです。
第二は33~34節です。神に対して罪を犯したために、敵に打ち負かされてしまった時の悔い改めの祈りです。これについては、最後の第七の祈りと内容的に重なっていますのでそちらに回しましょう。第三は、やはり罪のゆえに神が天を閉ざし、雨が降らなくなった時の雨乞いの祈りです。第四も、飢饉や疫病、作物の不作、敵による包囲などの時の祈りです。これらの苦しみは、神への罪に対する罰として下されるものと考えられていました。それゆえにそこでなされる祈りは、罪を悔いて神に立ち返り、憐れみを乞う祈りです。そういう民の悔い改めの祈りがなされる時、神がそれを受け止め、災いを止め、幸いを返して下さるようにと願っているのです。
第五は41~43節です。これは、イスラエルの民に属さない異国人の祈りです。神の契約の恵みにあずかっておらず、神の民とされていない異国人であっても、主なる神のみ名を慕ってこの神殿に来て祈る者の祈りを、聞き届けて下さるようにとソロモンは祈っています。主なる神は、決してイスラエルの民だけの神ではありません。全世界の、また全ての人々の造り主であられるのです。イスラエルの民が特別に選ばれ、契約の恵みを与えられたのは、この民を通して神の祝福、救いの恵みが、全ての人々へと伝えられ、広められていくためです。神はご自分を慕い求める全ての民を恵みの下に置き、養い導いて下さるのです。だからエルサレムの神殿も、イスラエルの民だけのためのものではなく、全ての国の人の祈りの家であるべきなのです。本日の新約聖書の箇所、マルコ福音書第11章17節で主イエスがおっしゃったのはそのことなのです。
44、45節にある第六の祈りは、イスラエルの民が敵と戦うために戦場へ向う、その途上で、エルサレムの神殿の方を向いて祈る、その祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてくださいというものです。ここで大切なことは、神殿の境内における祈りだけではなく、そこから遠く離れた場での祈りが、神殿における祈りと同じに扱われていることです。遠くの場所で、神殿の方を向いて祈る、それは体の向きではなくて、心の向きでしょう。心が神殿に向いている、つまり、神の契約の恵みを覚えて、主なる神に向かって祈られている祈りは、どこで祈られても、神はそれに耳を傾け、目を注いで下さるのです。そしてそのことが最後の第七の祈りへとつながっていきます。これが最も長い祈りになっています。それは、イスラエルの民が神に対して罪を犯し、その結果として、神の怒りによって敵の手に渡され、捕虜となって敵地に引いて行かれてしまう、さらには国そのものが滅亡して他国に捕え移されてしまうという苦しみの中での祈りです。ここには明らかに、バビロン捕囚の出来事が意識されています。実はこの列王記などが書かれたのは、バビロン捕囚の後の時代なのです。捕囚の体験が既にこのソロモンの神殿奉献の祈りに反映されているのです。遠い捕囚の地バビロンで、イスラエルの民が、神への罪を悔い、「わたしたちは罪を犯しました。不正を行い、悪に染まりました」と告白し、神の憐れみを求めて、既に破壊されてしまっている神殿の方に向って、主なる神に祈る、その祈りと願いに耳を傾け、民の罪を赦し、憐れみを与えて下さいとソロモンは祈っているのです。罪の結果、国が滅亡し、遠い他国で捕われの身となっている、そういう絶望的な苦しみ、どこにも救いの光が見えない暗闇の中で、悔い改めて神に立ち返り、罪を告白して神の赦しを求める祈りが、神殿を思い起こすことによって与えられる、このように神殿は、罪による苦しみと絶望の中にある民に、悔い改めの祈りへの道を開くものなのです。
祈りと悔い改めの家
神殿とは、神がそこにいて下さる場所だと最初に申しました。けれどもそれは、今見てきたように、神がどこかの場所に住んでおられるとか、そこへ行けばいつでも神の助けを受けることが出来る便利な場所、というものではありません。ソロモンが建てた神殿は、今見てきたように、契約の恵みによって神の民とされたイスラエルの人々が、神に心を向け、祈り、神と共に生きるための場です。あるいはまた、すぐに神に背き、自分を主人として歩んでしまう罪深い人間が、神のもとに立ち返るために、つまり悔い改めのために与えられている場でもあります。イスラエルにおいて神殿とは本来そういうものでした。捕囚からの帰還後に建てられた第二神殿も、ヘロデ大王がそれを大改修してまことに壮麗な建物に仕上げた、主イエスの時代の神殿も、本来はそういうものだったのです。しかしマルコ福音書11章において主イエスがご覧になった神殿は、本来の精神を全く失ったものとなっていました。犠牲は捧げられていましたが、本当の意味で神のみ前にひれ伏す礼拝はなされず、むしろ人間の欲望に利用される「強盗の巣」となっていたのです。また異邦人たちの祈りも、商売人たちの喧騒によって妨げられており、「すべての国の人の祈りの家」というソロモンの神殿建設の精神は失われていました。主イエスはそのことへの怒りを露わにされたのです。そしてこの神殿は結局、紀元70年に、ローマの軍隊によって完全に破壊されてしまうのです。以後、エルサレムの神殿は二度と再建されることはありませんでした。
まことの神殿主イエス
けれども、ソロモンの奉献の祈りに語られている本来の意味での神殿は、人間が造る建物とは全く違う仕方で、神によって築かれ、私たちに与えられています。それが、神の独り子イエス・キリストです。主イエス・キリストは、「インマヌエル」、つまり「神は我々と共におられる」ということを実現して下さった方です。私たちの内に神がいて下さり、私たちが神に祈り、礼拝をささげ、神と共に生きることを可能にして下さった方です。また主イエスは、私たち罪人が悔い改めて神のみもとに立ち返る道を開き、神による罪の赦しをご自分の十字架の苦しみと死とによって実現して下さった方です。主イエスによって神は私たちと新しい契約を結び、主イエスの父なる神が私たちの天の父となって下さり、独り子主イエスを信じる私たちを神の子として、主イエス・キリストを長子とする神の家族である新しいイスラエル、教会へと招き入れて下さったのです。この新しい契約を実現して下さった主イエスこそ、私たちのまことの神殿です。私たちは、建物としての神殿ではなくて、聖霊によって常に共にいて下さる主イエス・キリストという神殿を与えられているのです。教会の建物は神殿ではありません。それは、まことの神殿である主イエス・キリストのもとに神の民が集まって礼拝をささげるための場所です。主イエス・キリストが私たちのまことの神殿であられるから、私たちは主イエスのみ名のもとに集まり、こうして礼拝をすることができるのです。この建物があるから礼拝ができるのではありません。礼拝の真中にいて下さる主イエス・キリストが、礼拝を礼拝として下さっているのです。そしてだからこそまた、病気や老いや、様々な事情でどうしてもこの場に集って礼拝を守ることができない人も、まことの神殿である主イエス・キリストに心を向け、またこの場所で行われている礼拝を覚えて共に祈りを合わせていく時に、神はその祈りを、この場に集っている私たちの祈りと同じようにしっかりと聞き取って下さるのです。そのように私たちは、この場に共にいることができない人々とも心を一つにして、神を礼拝することができます。主イエスというまことの神殿を与えられている私たちの幸いがそこにあるのです。