夕礼拝

主こそ神

2025年1月12日 夕礼拝
説教題「主こそ神」 牧師 藤掛順一

列王記上 第18章1〜40節 
コリントの信徒への手紙一 第12章1〜3節

王国の分裂
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書列王記上からみ言葉に聞いており、前回、12月には第17章を読みました。そこには、北王国イスラエルのアハブ王の時代に、預言者エリヤが現れたことが語られていました。これまで読んできたところの振り返りとなりますが、ソロモン王の死後、イスラエル王国は南王国ユダと北王国イスラエルとに分裂しました。ソロモンの家臣だったヤロブアムが、イスラエルの北の10部族を率いて、ソロモンの子レハブアムに叛旗を翻して、北王国イスラエルの王となったのです。レハブアムはユダ族とベニヤミン族のみからなる南王国ユダの王となりました。南王国ユダは、ダビデ家の王によって代々治められていきましたが、北王国イスラエルにおいては、王朝が次から次へと入れ替わっていきます。最初の王であるヤロブアムが、もともとは家臣だったのが成り上がって王になったわけで、そういうことが繰り返されていったのです。本日の18章に至るまでにも、既に三回の王朝の転換が起っています。ヤロブアムの王朝はその息子のナダブまでで、バシャという人が謀反を起してナダブを殺し、王になりました。そのバシャの子エラの時代に、戦車隊長の一人だったジムリという人が謀反を起し、エラを殺して王になりました。しかし彼の天下は七日間しか続かず、軍司令官だったオムリという人がジムリを破って王となりました。このように王朝がどんどん替わっていきましたが、どの王朝にも共通していたのは、「主の目に悪とされることを行った」ということです。それは、最初の王ヤロブアムの罪を皆受け継いだということです。ヤロブアムは、金の子牛の像を造ってそれを神として祀る神殿を築き、自分で勝手に祭司を立てて祭儀を司らせたのです。それはエルサレム神殿における南王国の祭儀と対抗するためでした。北王国イスラエルの代々の王朝は皆このヤロブアムの罪を受け継いだのです。

アハブ王
 さて、前回から登場している北王国イスラエルの王はアハブです。彼は先ほどの三回目の王朝交代で王になったオムリの息子です。彼については16章30〜33節にこう語られています。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」。アハブは妻イゼベルの出身地であるシドンの人々が拝んでいたバアルとアシェラという偶像の神々をイスラエルに持ち込み、首都であるサマリアにまでその神殿を建てたのです。ヤロブアムが造った金の子牛の像は、イスラエルの民をエジプトから解放した主なる神を表すものでした。主なる神を目に見える偶像にすること自体が大きな罪だったわけですが、アハブがしたことは、主なる神とは全く別の、異教の神々への信仰を持ち込むという、より大きな罪だったのです。

預言者エリヤ
 このアハブ、イゼベルの時代に、北王国に現れた主なる神の預言者がエリヤでした。17章には、エリヤがアハブに、主なる神のみ心によってイスラエルに雨が降らず、露も降りなくなり、旱魃が起こると告げたことが語られています。その預言通りになり、今イスラエルは旱魃によるひどい飢饉の中にあります。18章の2節の後半以降に語られているのはその状況です。アハブは宮廷長オバドヤを呼び、国中の泉や川を見回り、どこかに水がないかを探そうと言っているのです。このオバドヤについての記述の中に、イゼベルの犯したさらなる罪のことが語られています。4節にあるように、彼女は主の預言者たちの多くを切り殺したのです。バアルを始めとするカナンの神々をイスラエルに導入しようとした彼女にとって、主なる神の預言者たちは邪魔な存在でした。主の預言者たちの多くが、イゼベルによる迫害によって殉教の死を遂げたのです。エリヤも当然迫害の対象であり、アハブはエリヤを見つけ出して捕えようとしています。エリヤは主なる神の導きによっていろいろな所に逃げてそこで養われたことが17章に語られています。しかし18章に入ると、主はエリヤに、「行ってアハブの前に姿を現せ」と言われます。いよいよ、アハブと正面から対決し、主こそまことの神であられることを示すべき時が来た、そしてそのことによって主は旱魃を終わらせ、雨を降らせて下さる、ということが告げられたのです。

イスラエルを煩わす者
 このようにしてエリヤはアハブと対面します。それが16節以下です。アハブはエリヤを見るとこう言います。「お前か、イスラエルを煩わす者よ」。アハブにとってエリヤは、自分の支配に服さず、国の結束を乱す者です。また、今人々が苦しんでいる旱魃を預言した者でもあり、それはアハブに言わせれば、この旱魃はエリヤのせいだ、エリヤがこのような苦しみを国にもたらしたのだ、ということなのです。エリヤが自分とこの国を煩わせている、とアハブは思っているのです。それに対してエリヤは、「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている」と言います。イスラエルの民を本当に煩わし、このような苦しみの原因を作っているのはあなただ、あなたが主なる神を捨て、バアルに従っていることこそ、国の歩みを誤らせ、民を苦しめているのだ、というのです。そしてエリヤは提案します。「あなたとイゼベルのもとにいるバアルとアシェラの預言者たちを皆集めなさい、私は彼らと一人で対決し、どちらがまことの神であるか、イスラエルを煩わしているのは私なのかそれともあなたなのか、それをはっきりさせようではないか」。

どっちつかずの民
 エリヤはまたイスラエルの全ての人々にも呼びかけます。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」。イスラエルの人々は、主なる神を信じたらよいのか、バアルを信じたらよいのか、どっちつかずに迷っている、はっきりせよ、とエリヤは言います。これは私たちに対する言葉でもあると言えるでしょう。私たちは、二人の神の間で、どちらを信じようかと迷ってはいないかもしれません。私たちの置かれた状況はこの時のイスラエルの民とは違います。しかしエリヤが問うているのは、実は、どちらの神を信じるのか、ということではありません。どちらの神に「従うのか」と彼は問うているのです。あなたがたは誰に従うのか、ということです。神を信じるとは、その神に従うことです。従うのでなければ、信じているとは言えません。イスラエルの人々にこの時欠けていたのは、この「従うこと」なのです。彼らの中にも、心の中では「自分は主なる神を信じている、バアルやその他の偶像の神々はイゼベルが外国から持ち込んだもので、そんな神々は信じない」と思っていた人は沢山いたのだと思います。けれども心の中ではそう思っているとしても、それを公に言い表し、主こそ神だ、バアルなどの異教の神々は人間が作り出したものに過ぎないのだからそんなものを拝むべきではない、と声をあげることはしていないのです。イゼベルの迫害を恐れて口をつぐんでいるのです。エリヤはそのような人々に向かって、それは、主を神としていないのと同じだ、主が神であると信じるなら、主に従うことを言葉と行動によって示さなければ嘘だ、と言っているのです。それは私たちにもそのまま当てはまることです。神を信じる信仰においては、傍観者に留まっていることはできないのです。「従う」という決断が求められるのです。

エリヤとバアルの預言者の対決
 さてこのようにして、バアルの預言者450人と、エリヤ一人の対決が、カルメル山上で行われました。二頭の牛が用意され、いけにえとして裂かれ、薪の上に乗せられます。人間が火をつけるのでなく、預言者の呼びかけに答えて天から火を送ってそのいけにえを焼き付くし、自ら献げ物を受け取る神こそがまことの神だ、という対決です。まずバアルの預言者たちが自分たちの祭壇を用意し、バアルに呼びかけます。26節にこうあります。「彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えてください』と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った」。バアルの預言者たち450人が大声で呼ばわっても、何の答えもありません。彼らは「祭壇の周りを跳び回った」とありますが、これは宗教的な踊りでしょう。日本でもそうですが、祭りには踊りがつきものです。踊りを神に奉納して呼びかけるのです。450人の祭司たちが大声で呼ばわりならが踊り回るのですから、大変に熱狂的な有り様です。しかし天からは何の答えもない。27節にはこうあります。「真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。『大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう』」。おまえたちの神はどこかへ出かけていて留守なのか、それとも居眠りをしているのか。それで彼らはますます大声で呼ばわります。28節以下「彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった」。バアルの祭司たちは、剣や槍で自分の体を傷つけ、血を流しながら呼ばわるのです。宗教的興奮状態の中で、おどろおどろしい、気味の悪い儀式が行われていくのです。しかしそれでも何の答えもありませんでした。そこで次にエリヤが登場します。彼は「壊された主の祭壇を修復した」とあります。つまり、アハブの迫害によって破壊された主の祭壇がこのカルメル山上にあったのでしょう。エリヤはそれを十二の石によって築き直したのです。それはイスラエルの十二の部族を現しています。つまり、今は北と南に分裂しているイスラエル全体が主なる神の前で一つの民であることが現されているのです。そしてエリヤは祭壇の周囲に溝を堀り、薪と雄牛を整えると、その上に瓶の水を注ぐように命じます。四つの瓶に満たされた水が三度にわたって薪といけにえの牛の上に注がれ、その水が周囲に掘られた溝に満ちたのです。それは一つには、薪も雄牛も水びたしにして、人間の力では絶対に火がつかないような状況を作り出したということです。もう一つは、四つの瓶で三度、つまり合計十二杯の水が注がれたというところに、やはりイスラエルの十二部族が意識されています。十二杯の水は、イスラエルの十二部族の、神に犠牲をささげる礼拝の火をかき消そうとする不信仰を象徴していると言えるでしょう。そのような状態にしておいて、エリヤは祈りました。36、37節です。「献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。『アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう』」。すると、「主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした」のです。人間の不信仰によるあらゆる妨害にも打ち勝って、主なる神がご自身を示して下さったのです。これを見た人々は、「主こそ神です。主こそ神です」と言いました。どっちつかずに迷っていた、はっきりと主に従うことが出来ないでいた民が、その信仰を公に言い表し、主に従う者として歩み出したのです。このようにしてエリヤは、ただ一人で、450人のバアルの預言者と対決し、勝利したのです。

私たちにおいては
 このエリヤの勝利はある意味でまことに痛快な話です。主なる神こそがまことの神であり、バアルを始めとする偶像の神々は、人間が造った偽りの神であり、呼んでも答えることができない、虚しい存在であることが明らかにされたのです。しかし私たちは、この話をただ痛快に思うだけではすみません。アハブの時代の、預言者エリヤのもとではこのようなことが起ったわけですが、私たちにおいてはどうなのでしょうか。私たちにおいても、このようなすばらしい出来事が起こるのでしょうか。そして誰もが「主こそ神です」と叫ばずにはおれなくなる、そういうことはあるのでしょうか。それがないならば、この話は昔の物語に過ぎないのであって、私たちの信仰者としての歩みに何の力も与えてはくれないのです。

主イエスの十字架
 このことを考えていくために、一つのことに注目したいと思います。それは26節に、バアルの預言者たちが、いけにえの雄牛を準備し、「朝から真昼まで」バアルの名を呼んだとあることです。さらに29節には、「真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった」とあります。この「献げ物をささげる時刻」というのは午後の3時ごろのことだと思われます。バアルの預言者は、朝から午後の3時に至るまで、いけにえの雄牛の周りで呼ばわり続けたのです。そしてエリヤは、36節にあるように、「献げ物をささげる時刻に」、つまり午後の3時ごろに、祭壇を整え、祈りました。すると天からの火が下ったのです。このような時間の経過に注目する時に、思い起こさせられることがあります。それは、主イエス・キリストの十字架の日のことです。マルコによる福音書の第15章によれば、主イエスが十字架につけられたのは午前9時でした。そして昼の12時に全地が暗くなり、午後3時に至り、午後3時に主イエスは息を引き取られたのです。ちょうどこのカルメル山上でのエリヤとバアルの預言者の対決と重なり合うような仕方で、主イエスは十字架にかけられ、死なれました。そしてその主イエスの十字架の死は、私たちの罪の赦しのためのいけにえとしての死でした。神の独り子であられる主イエスが、ご自身の命を犠牲として神に献げて下さり、その犠牲を父なる神が受けて下さったことによって、私たちの救い、罪の赦しの恵みが実現したのです。それはちょうどエリヤの備えた犠牲を、主なる神が天からの火によって受け入れて下さり、それによって主こそまことの神であられることを示して下さったことと重なります。つまりアハブの時代にエリヤと人々に与えられた、主こそまことの神であられることを示すしるしは、今、私たちには、主イエス・キリストの十字架の死という仕方で与えられているのです。私たちは、神の独り子イエス・キリストの十字架の死を見つめることによって、「主こそ神です」という信仰を与えられるのです。十二杯の瓶の水によって水びたしになった祭壇を主の火が焼き尽くした、それは、イスラエルの十二部族の不信仰に主が打ち勝って、ご自身が神であることを示して下さったことを象徴していると申しました。主イエスの十字架の死は、私たちの不信仰、神に背き逆らう罪の全てに神が打ち勝って下さり、赦しと救いを成し遂げて下さる、そのことをまさに具体的に実現しているのです。

聖霊の働きによって
 しかし主イエスの十字架が、私たちに与えられているしるしであるとしても、それでは私たちが、主イエスの十字架のことを聖書において読み、あるいはみ言葉を聞いたら、それで直ちに「主こそ神です」という信仰の告白に至るのかというとそうではありません。それは私たちが主イエスの十字架を直接この目で見ていないからではありません。主イエスの十字架の死を直接目撃した人々も、皆が信仰者になったわけではなくて、全く心を動かされなかった人も大勢いたのです。神がご自身を示して下さるときに、それによって心動かされ、信仰を与えられる人と、そうでない人とがいるのです。それは、いわゆる信心深い人とそうでない人がいる、ということではありません。エリヤは37節でこう祈っています。「わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」。彼らの心が元に返る、つまり、主なる神に立ち返り、主こそ神です、と信じ、主に従うようになるのは、あなた、つまり主なる神ご自身のみ業である、とエリヤは言っているのです。カルメル山上でイスラエルの人々の心をそのように導いて下さったのも主なる神ご自身でした。私たちが、主イエス・キリストの十字架の死を見つめる時にも、この神ご自身のお働きがなければ、信仰に至ることはできないのです。そのことを語っているのが、先ほど共に読んだ新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の12章1節以下です。そこには、聖霊によらなければだれも「イエスは主である」とは言えない、と語られています。つまり私たちが、主イエスこそ救い主であり神であられる、という信仰の告白を与えられるのは、聖霊の働きによるのです。私たちは皆、ものの言えない偶像のもとに置かれています。それはいわゆる偶像の神を拝んでいる、ということではなくても、人間の造り出したもので、大きな力があり、私たちの生活を豊かにし、喜びや慰めや平安を与えてくれそうに思えるものによって支配されている、ということです。私たちはそれら現代の様々な偶像の前で呼ばわり、夢中で踊り回っています。しかしそれらのものは、「ものの言えない」偶像です。いくら呼んでも、本当の応答は返って来ない。呼びかける私たちの叫びのみが虚しく、騒々しく響き渡るのみなのです。しかし、生けるまことの神は、独り子イエス・キリストの十字架の死を通して、恵み深いご自身のお姿を私たちに現して下さっています。聖霊なる神が私たちにそのお姿を示して下さるなら、私たちはこの礼拝において、あのカルメル山上の人々と同じ体験をするのです。そして、「私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスこそまことの神です」という信仰の告白を与えられるのです。聖霊によってそのような礼拝の体験を与えられて、現代の偶像から解放され、生けるまことの神と共にこの年を歩んでいきたいのです。

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