夕礼拝

何が偽り、何が真実

「何が偽り、何が真実」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第23章16-29節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第4章1-6節  
・ 讃美歌:475、461

 私たちが信じるのは、人間の霊や偽りの霊ではなく、神の霊です。神の霊は、神様と御子イエス・キリストより与えられ、病み、傷つき、疲れた者を立ち上がらせます。偽りの霊は、人から出た霊は、耳心地の良い言葉を使い、一時の安心や、一時の平和を与えますが、時が経つと、人を疲れさせ、滅びに導きます。神の霊は、神様に人を導きます。神の霊は神様に栄光が帰せられるように人を働かします。偽りの霊は、わたしたちを滅びへと導きます。しかし真理の霊は、わたしたちを罪と死の淵より救い出し、キリストに結ばれた新しい命の中を歩ませて下さいます。

 本日読んだヨハネの手紙一4章1~6節は、人間の霊と神の霊・キリストの霊を識別することが語られている聖書の個所です。まず1節に「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです」と語られています。
 まず霊ということを考えたいと思います。わたしたちは霊ということを想像するとき、まず幽霊を想像すると思います。しかし、聖書で語られている霊は、人の怨念や、死んだ後の人の魂のことを言っているわけではありません。ですが、幽霊と同じ点を挙げるとすれば、それは聖書で語られる霊も、幽霊と同じように、目に見えないものであるということです。幽霊は、カメラに写って、心霊写真が撮れたなど時々話題になりますが、聖書が語る霊は写真には映りません。しかし、聖書の言う霊が「働く時」、その「働かれた状況」によって「見える」といえることがあります。それは、旧約聖書、新約聖書にも、出てくるのですが、悪霊にとりつかれて動かされるという経験、や霊による恍惚状態の体験、預言状態になって語っている状況などが聖書には出てきます。霊によって与えられた賜物、預言する賜物などは、語っている姿、その人がわたしたちにも、目に見える、そこに目に見える事実があるので、それらが、霊によって語っているのだ、霊が働いていると判断することができます。また、わたしたちは、預言という特殊なことだけではなく、日常生活の中での働きの中でも、霊の働きがあります。しかし、日常の事柄で、どの私たちの働きが霊によってなされていることなのか、どれが霊とは関係なく自分の力で行なっているかを判断することは困難です。ここでヨハネは、あらゆる働きが、霊によってなされていることを前提としています。さらにその霊の中でも区別があって、一つは神の霊、もう一つは人を惑わす霊、偽りの霊と考えています。偽りの霊というのは神様からではなく人から出た霊ということです。
 しかし、わたしたちは、霊の働きだけを見て、それが神から出た霊か、それか偽りの霊であるかを、判断することは困難です。今日与えられた御言葉の中でヨハネは、「すべての神の霊の働きだと信じるのではなくて、それが神の霊であるかを確かめなさいと」1節で、わたしたちに促しています。
 なぜヨハネがこのように、すぐに「すべてを神の霊の働きであると判断してはならない」と言ったのかと言うと、ヨハネの時代には、偽預言者、偽りの預言を語るもの、神様の言葉を利用して偽りを語る人たちが、大勢世に出て来ていたからです。そのものたちは、独自の宗教経験を強調して、自分たちこそ、神の霊の経験をしているのだと宣伝していたました。彼らは、霊の体験通して、神を崇め、讃美するのではなくて、人を崇めること、または自分を崇めること行っていました。ヨハネの手紙は、神から出た霊でないものは、「反キリストの霊」「人を惑わす霊」とはっきりと述べています。

 偽りの霊とはどういうものかを考える前に、先に「神から出た霊」とは何か考えて行きましょう。「神から出た霊」とは2節にあるように、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊」であると、ヨハネによって定義されています。 
 神様の霊、神様から出た霊は、主イエス・キリストが人と同じ肉体をとってこの世に来られたということをはっきりと告白し、そのようなキリストを証しする、そのようなキリストを指し示す霊です。偽りの霊は、実はこの逆です。偽りの霊の場合、もし、霊の特別な働きがあって、預言の言葉を語ったとしても、主イエス・キリストが指し示されることありません。イエス様が指し示されない、霊の働きは、神から出ていない霊であり、反キリストの霊である。よって、それは、この世の霊、人を惑わす霊と判断されます。
 わたしたちの経験に則して、具体的な例をあげるとするとこうなります。わたしたちが、教会において、また社会の中で、熱心に奉仕を行うことがあります。まさに霊に促されて奉仕をします。教会において言えば、会堂の整備、バザーの準備、諸行事を行うこと、社会において言えば、仕事、ボランティア活動などです。ところが、そこで、もし、それらのわざが、結局は自分を輝かせ、自分が尊敬されるためのものであるとするならば、最終的には、奉仕をしている人が讃えられ、立派であると賞賛されることを求めることになります。そこにおいては、イエス様への奉仕は忘れられ、イエス様がわたしたちのために肉をとり、苦難を経験してくださったことは、どうでもよいことになります。イエス様の名を用いて、自分を輝かせ、自分の熱心さや誠実さ、自分の立派さを人の前にひけらかすことになります。そこでは、イエス様が肉体を取って、私たちを救うために、この世に来られたこと、私たちはを救うために苦難と死を経験してくださった、イエス様のお姿は、どんどん背後に退いてしまいます。そういう結果、をもたらす霊は、人間の霊のなせる業です。
 ヨハネの手紙は、人間の霊と神の霊を識別しなさいと勧めます。もう一つ例を挙げましょう。横浜指路教会の青年会のメンバーは、6月30日に、青年伝道夕礼拝において、青年伝道のために奉仕をしました。あるものは、司式をし、あるものは、礼拝後のお茶会の準備をし、あるものは、宣伝のためのチラシの絵を書き、あるものは、チラシの発送しと、まだまだありますが、伝道のためにたくさんの奉仕をしました。それらの奉仕は、礼拝のため、なされていました。イエス様のためになされていました。そのイエス様を世の青年に知ってもらうために、奉仕をしました。ですが、もし、このような奉仕もまた、参加した人々、青年たちの栄光、熱心さを讃えるもので終わるなら、それは人間の霊が行ったわざとなります。
 しかし、青年たちの奉仕は、キリストを指し示していました。その奉仕が本当にキリストを指し示す奉仕であるならば、主イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表すところに向かいます。もしこの奉仕も自己実現や自分の満足のための活動であるならば、主イエス・キリストはますます遠ざかっていきます。この青年たちの奉仕が、神から出た霊に促されたものであるなら、この伝道の業は、主イエス・キリストをはっきりと指し示すものとなります。
 ヨハネは手紙の3節で「かねてあなたがたは、その霊(つまり、人間の霊、この世の霊、反キリストの霊)がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています」と語ります。偽預言者たちが、反キリストの霊によって、人々を惑わしていると言うのです。
 教会内や社会の中にある、熱心な働きや奉仕の中にも、実は人間の霊に由来するものが存在しているとヨハネは言います。人間の霊、偽りの霊に由来するものは、自分の意に沿わなくなり、自己実現の道が阻まれると突然終わりを迎えます。人間の霊に由来するものは、気まぐれで、忍耐強い継続がなされず、熱心であると思われても、すぐにその熱心さを失って、教会やその団体を去って行きます。
 教会、またキリスト者は、偽預言者に打ち勝つことが求められます。4節でヨハネは「あなたがたは既に偽預言者たちに打ち勝ちました」といっています。
 では何によって打ち勝つか。それは、偽預言者以上の熱心さや人間的な力、情熱ではなくて、4節にあるように、「あなたがたの内におられる方」つまり復活の主イエス・キリスト御自身であり、この方の現臨する霊、そのものによって勝利します。
 しかし、打ち勝つためには、わたしたちは、まず誰が偽預言者であるかを、判断し、預言者はどのような者か知りたくなると思います。では、偽預言者が聖書ではどのように語られているかを、見て行きましょう。
 5節のヨハネの言葉によると、偽預言者は、世に属し、世のことを話すと語られています。また世や、世の人々は、その偽預言者の言葉に耳を傾ける。なぜならば、偽預言者は、耳に心地よい言葉を多く語るからだとヨハネは語ります。そして、偽預言者は、その言葉をもって、世の人々を捕えます。本日お読みしました、旧約聖書のエレミヤ書にも偽預言者は登場します。23章16節では、偽預言者はこのようなことを語ると書いています。「彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る」。偽預言者は、神様の言葉ではなく、自分自身の心の幻を語って、私たちに望みを抱かせます。その望みは空しい望みです。エレミヤの生きていた時代は、いつイスラエルの国が、隣の大国であるバビロニアに攻め滅ぼされるかヒヤヒヤしていた時代です。その時本当の預言者であるエレミヤ、イスラエルの人たちが聞きたくはない、バビロニアよって国が滅ぼされる、大事にしていた神殿が滅ぼされることを預言します。しかし、エレミヤと同じ時代を生きた偽預言者は、イスラエルの国は滅ぶことない、「平和があなたがたに臨む」「災いがあなたたちに来ることはない」と主は言っていると、イスラエルの人たちの、耳に聞こえの良い言葉を並べて、惑わします。彼らの偽の預言は、自分の心の願望を語ります。このように、偽預言者は、世に不安や恐れがあるときに、耳心地のよい言葉を語り、そして世の人は、その偽預言者の言葉を信じます。
 色々な偽預言者の特徴を見てみましたが、実は、私たちでは、この人が偽預言者であると判断できる決定打となる、偽預言者の特徴は見出すことはできません。それはわたしたちの耳に心地の良い物が、すべて偽の預言とまでは、言い切れないからです。言い切れないと言うよりも、わたしたちでは、それが真実なのか、偽りなのかを判断することはできません。エレミヤ書では、「神様御自身が、この偽預言者に立ち向かい、罰を与える」と書いています。だれが、偽の預言者であるかは、わたしたちがわからなくても、神様がご存知で、神様が裁きをくだされると聖書は語ります。ですから、わたしたちが、誰が預言者であるかを気にすることはありません。わたしたちが、偽預言者を倒す必要はないからです。わたしたちが気にしなければいけいことは、神様の御言葉についてです。わたしたちは神様に属していて、も、その者たちは神様の御言葉に耳を傾けるといっています。わたしたちが、偽預言者に惑わされないためには、神様御自身が語られる、言葉を聞くことが必要です。御言葉を語るものが、人の霊によって、自分を語っているのであれば、それは御言葉ではありません。主なる神を指し示す言葉、主なる神のことが語られる言葉、つまりそれは、言葉である主イエス・キリストのことです。その主イエス・キリストが御自身が語られる、礼拝の説教、この神様の御言葉にわたしたちは耳を傾ける必要があります。
 わたしたちは神の属する者は御言葉を聞いた後に、今度は預言をします。それは、ヨエル書3章1~5節(1425頁)にあるように、神の霊の注ぎによって、預言が行われ、老人は夢を見、若者は幻を見る経験を可能にします。希望と幻をもたらすのが、霊の働きです。わたしたちは、神様の霊を注がれる時、自分を誇ることを止め、神様を誇ろうとします。
わたしたちは神様の霊の注ぎを受けて、証しや奉仕をするときに、自分の栄光はすべて取り去られ、主なる神様にある希望と幻だけが、明らかになります。
 教会を躓かせるものは、人間の霊です。教会は、ペンテコステの日に神の霊の注ぎによって生まれました。教会では、神の霊の働きによって説教がなされます。聖餐のパンとブドウ酒は、聖霊の働きによって、天の復活の主イエス・キリストと一つに結ばれて、永遠の命に与ります。聖霊の働きによって、わたしたちキリスト者の生もまた、人間中心のものとなるのではなく、神様中心になるように整えられます。聖霊の働きによって、教会のすべての営みが完成へと向かいます。
 教会は、人間の集いですから、完全なものでも、罪の無い共同体でもありません。いや反対に教会は、どこまで行っても、罪人の群れにすぎません。しかし、教会に価値があるとするなら、それは、人を救うために肉体を取ってこの世に来られ、十字架上で苦難と死を経験され、よみがえられた神の御子イエス・キリストを告白し、証言し続けるところにあります。この告白し証言し続けることもまた、人間の霊によるのではなく、神の霊の注ぎと導きによるのです。つまり、教会は、徹底して、神の霊の注ぎと働きによって成り立っているのです。
 今は不安の時代です。この世界には、それをあおり立てる霊が存在します。神の創造された世界を善きものと理解できずに、この世の霊に支配されていく現実があります。自分は愛されていない、自分は誰からも認められていない。自分はダメだ。まったく反対に、自分こそが世界の中心だ、主役だ。いずれも人間の霊に促される在り方です。  

 そのような霊に支配された者だけが集まると、教会は教会でなくなります。だからこそ、ヨハネの手紙は、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることの大切さを語るのです。
わたしたちは、神の霊の注ぎによって、教会生活のすべてを行います。人間の霊、諸霊が行きかう共同体ではなくて、神の御前に歩む教会です。 神の霊の注ぎを受けて、教会のすべての営みは、行われます。たとえ、この世界が病み、傷つき、疲弊していたとしても、霊の力は変わることなく働き続けます。 ですからわたしたちも、教会とつながり、神の霊によって主イエスを告白し、証し歩んでまいりたいと思います。       

関連記事

TOP