夕礼拝

愛に恐れなし

「愛に恐れなし」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章8-16節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第4章13-21節  
・ 讃美歌:7、479

先週、わたしたちに与えられた御言葉で、わたしたち信仰者の内に、愛が注がれていること、そして、信仰者だけでなく、この礼拝に来ているすべての人にも、その愛は注がれていること、愛してくださる方が愛そのものであって、その愛であられる神様が愛の源、源流であることをわたしたちは聴きました。その愛は、イエス様を通してわたしたちに見えるように、聞こえるように、触ることのできるようになった。そのようになるために、神様は愛する独り子イエス様をこの世に送り、十字架にお掛けになりました。そこに愛がありました。私たちは、この愛に愛されるまでは、愛を知らなかった。愛を知るまでは、愛することもできませんでした。愛することを義務とせずに、愛されることを受け入れて、隣の人にその愛を分け与えること、その愛を証しすること、それが隣の人を愛することでであったということでした。 本日与えられました御言葉は、まず、この愛の源泉に出会うための行程が書かれています。聖霊によってイエス様が証しされ、信じる信仰を与えられること、これが私たちが愛との出会いのはじまりです。  今日与えられました御言葉の13節で「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。」とヨハネはわたしたちに告げます。神様が私たちに聖霊を与えてくださったと言っています。 パウロはコリントの信徒への手紙一12章3節で、「聖霊によらなければ,だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と書いているように、私たちが「イエスは救い主である、生ける神の子である」と信仰を告白できるのは、わたしたちの目には見えない聖霊の働きがあったからなのです。信仰告白してキリスト者である人は、神様によって聖霊を注がれています。聖霊以外の働きによって、わたしたちはイエス様が救い主であると知ることも、教会に行くようにことも、洗礼を受ける決意を与えられることも起こらないからです。  聖霊は、私たちの内に注がれて、わたしの内で、イエス様が神様であること、わたしのために十字架にかかってくださったことを証しし、わたしたちにイエス様のことを知らせてくださいます。知るというのは、知識として知るという以上に、その人の存在全てを知る、人格全部を知る、言い換えて言葉を簡単にすると、その人の目に見える姿や目に見える行いだけでなくその人の思いや意志も含めてすべてを知るということです。イエス様の姿も行いも、わたしたちは今目で見ることもできませんし、さらには、イエス様がこの世におられた時、天におられる今も、何をお考えになっているかを知らせてくださるのが聖霊です。イエス様が御自分の生命を捨てて下さって私たちを赦ししてくださるほどの愛を私たちが知ることができるのも、聖霊の働きによってなのです。 その聖霊は、わたしたちがそのイエス様を信じて生きていきたい、これからはイエス様とつながって生きていきたいという思いを起こさせ、信仰を与えてイエス様を信じるものと変えて下さり、洗礼へと導いてくださります。 聖霊は、わたしたちにイエス様を伝え、信仰を与え、イエス様へと結ばせてくださいます。 それは譬えようもないほどにとてつもなく大きなことです。それは、父なる神様と子なるイエス様と聖霊なる神様の三位一体の神様の交わりの内に、私たちも招き入れられたということです。聖霊なる神様が私たちに与えられ注がれ、私たちの内に宿られたのなら、それは私たちが父なる神様と子なるキリストと聖霊なる神様との間にある永遠の愛の交わりの中に招き入れられたということなのです。父なる神様と聖霊なる神様とは永遠の交わりの中にあるのですから、私たちの中に聖霊なる神様が宿られたのならば、私たちもまたその永遠の交わりの中に招き入れられたことになるのです。この聖霊を注がれることによって、私たちは父なる神様に向かって、イエス様と同じように「父よ」と呼ぶことが出来るようになり、そう呼ぶことを許される者とされます。これは父と子との交わり、父なる神様と子なるイエス様との交わりに、わたしたちも招かれたということです。イエス様と同じように「父よ」と呼ぶことができるこの関係が、13節で言われている「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださる」関係で、15節で「神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」関係です。 わたしたちが父なる神様とこのような関係になることを、イエス様はこの世に来てくださった時に、望んでおられ、父なる神様に祈り願いました。そのことがヨハネによる福音書17章21節以下で書かれています。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」 このことが、「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。」と言われていること。すなわち、「このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」と言われていることであり、15節で「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」と言われていることなのです。  この聖霊を注がれたということは、私たちがイエス様に出会い信仰が与えられたということなのです。私たちは、自分の信仰ということを思う時に、このことをしっかり受け止めたいと思います。 愛の源泉が父なる神様であるということを、冒頭で申し上げました。わたしたちが、聖霊を注がれ、イエス様信じ、イエス様とつながり、三位一体の神様の交わり、父と子との愛の交わりに入れられるということは、実はこの愛の源泉にわたしたちがつながったということでもあります。  この聖霊が注がれたという出来事は、このようなイメージで語ることも出来るでしょう。父と子と聖霊なる三位一体の神様は、永遠の愛の交わりにありました。この愛があふれ出し、私たちに向かって注がれた、しかしその愛はイエス様がこの世に来られるまでは、その愛の流れは地下、地面の下を流れるように、わたしたちに見えなかった。しかし、イエス様がこの世に来られたことによって、その愛が見えるようになった。地下に流れていた神様の愛の水脈が、イエス様が低くなられ、犠牲となられ、地の中のパイプとなり、そこを通って愛が地表に現れました。泉のように沸き出しました。イエス様が十字架に犠牲になって下さり愛がこの世にあふれたのです。 この神様の愛の泉の水を飲むことができるようにと、神様は私たちに聖霊を送ってくださいました。わたしたちに、どこに愛の泉があるのかを教え導いてくれる、導き手として聖霊がこの世に来て下さいました。その泉の水はどこから来ているのか、その泉が湧きだすためにどのような、苦労、犠牲があったのかを教えてくださる教師が、聖霊です。また、その泉がだれのためなのか、「あなたのためですよ」と教え諭してくださるのか聖霊です。 その泉まで、辿り着きその泉を飲むときには、わたしたちは、この泉の源泉を信じ、その水に与ります。 これが、父と子と聖霊の愛の交わりの中に私たちを招き入れてくださるまでの道のりです。この愛の泉の水をわたしたちは飲むこと、それが私たちに愛が注がれたということです。そして、その愛を注がれた私たちもまた、その愛の交わりの中に生きる者とされたということなのです。  この神様の愛は、私たちに注がれて終わるのではありません。私たちに注がれた愛は、私たちの中からもあふれ出し、周りの者に向かって注がれていきます。神様から受けた愛が、私たちの中にだけとどまるなどということはあり得ません。わたしたちも小さな泉となるのです。自分の中だけにとどまるとすれば、その水は淀んでしまいます。その愛の水を、淀ませることなく外に向かって注ぎ出す必要があります。このことは、主イエス御自身が、ヨハネによる福音書4章14節でこう言われたことからも分かります。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この主イエスが与える水とは生命、信仰であり、希望であり、愛です。愛は私たちの内から、外に向かってあふれ出していきます。この愛は、いろいろなものに言い換えることは出来ると思います。喜びであったり、平安であったり、祝福であったりです。その中心に父なる神様、イエス様、聖霊が、命がおられます。 わたしたちがその愛を、隣人に注ぐこと、これが、隣人を愛することの始まりです。それは先週も申し上げた通り、その愛を伝えることです。その愛を伝えるためには、その愛を味わう必要があります。その愛を味わうために、ガイドが聖霊なる神様です。聖霊なる神様なしに、その味を知ることはできません。ですから、わたしたちは聖霊なる神様を呼び求めます。そして、聖霊なる神様がわたしたちの間に内に来てくださること、願う必要があります。 わたしたちは、この愛の泉の水と出会うまで、大変な苦労をしてきたと思います。それぞれ、イエス様に出会うまでの人生を歩んできました。そしてわたしたちは、イエス様と出会い信じ、その愛を受けそして隣人に伝えることを始めるに至りました。 ここまで来たのですが、わたしたちの歩みはこの愛の泉で終わりでしょうか。確かに、愛の泉で旅は終わりとも言えるのですが、もう少し厳密に考えていくとわたしたちの旅はまだ終わりでありません。それは、どこか他の泉に行くことがゴールかといえば、そうではありません。愛の泉がゴールです。しかし、愛の泉がこの世に吹き出した所も愛の泉なのですが、わたしたちは愛の泉の源泉に向かう旅を、続けます。愛の源泉である父なる神様に会うということです。父なる神様のところには、復活された後父の家に戻ったイエス様もおられます。わたしたちは、父なる神様、イエス様と顔と顔を直接あわせるために旅に出るのです。その旅のゴールが、神の国です。 その旅の歩みを始めるものが、洗礼を受け、信仰告白しキリスト者となったものです。聖霊の導きにより、イエス様と出会って、父子聖霊なる神様との交わりに入ったもの、隣人を愛するものは、愛の源泉が在る所、神の国に向かって歩いています。 わたしたちは、神の国に旅をしていますが、どこにその国があるのか、いつ到着するのかはわたしたちにはわかりません。むしろわたしたちが歩いて生ける所ではなく「神の国が近づく」とイエス様は言われました。わたしたちは、旅をしていますが、神様の国は同時にわたしたちに近づいて来ています。 またこの旅は、この地上を生きている時の時間のことだけを言っていません。死んだ後のことも含まれています。死んだら、終わりの時に一瞬にしてタイムスリップして神の国に入るというわけではありません。 神様が計画されているしかるべき時が来たら、神の国が来ます。しかし、その然るべき時に死んでいるものも、生きているものも、眠りから起こされ、最後の審判を受けます。神様がわたしたちをお裁きになります。全能の父なる神様の御前にわたしたちは立ち、イエス様が審判されます。その日のことを思う時、私たちの中にどのような思いがわいてくるでしょうか。恐れでしょうか。喜びでしょうか。  18節に「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら,恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」とあります。「愛には恐れがない。」というこの言葉を聞くと、わたしたちは「愛があればどんな苦しみも、悩みも乗り越えて突破できる」「だから愛には恐れがない」と考えがちになります しかし、ここで使われている言葉は、そのような意味での「愛には恐れがない」と言っているのではありません。ここでヨハネは「恐れてはならない」とか「恐れるな」と言っているのではなくて、「愛に恐れはない」と言っているのです。そして、この恐れとは、裁きの日、最後の審判における恐れです。つまり、裁きの日に神様の御前に立つ時のことを思っても、神様との愛の交わりにある者は少しも恐れる必要はないと言っているのです。 それはなぜか。それは私たちが、「何一つ悪いことをしていないから」「何一つ悪いことをしなくなったから」というわけではありません。そうではなくて、神様との愛の交わりの中にあることを知る者は、主イエス・キリストを知っているから恐れはないということなのです。イエス様はわたしたちが受けるべき裁きを、十字架の死によって代わりに受けてくださいました。わたしたちはその赦しと救いを知っています。救おうとされ独り子を遣わして、十字架にかけてくださった父なる神様のわたしたちに向けられた愛も知っています。その父なる神様がわたしたちをお裁きになります。神様は神様の愛のものさしをもってわたしたちを裁かれます。その愛は、イエス様にあらわれているように、赦し憐れみをもっています。先にイエス様の犠牲により、先に無罪の判決をだされて、わたしたちは裁かれるのです。 私たちは最早、自分が救われるかどうか分からないなどという所には立っていないのです。裁きの日に、神様は「無罪だ」というだけでなく「あなたに永遠の命を与える」と宣言されます。 それはなぜか、その裁きをくだされる方は、私たちの父であられるからです。私たちを救うために、愛する独り子を私たちに代わって十字架の上で裁かれた方だからです。この方がどうして私たちを救ってくださらないことがあるでしょうか。もしそうなったら、主イエスの十字架を無駄にしてしまうことになる。そんなことを父なる神様はなさりません。父なる神様との愛の交わりの中に生きる者は、この裁きの日の恐れから解放されている者なのです。  「自分は裁きの日に本当に救われるのだろうか。」そういう問いを私たちは持つと思います。それは、自分は神様の救いに与るにふさわしい者ではない、そういう反省がわたしたちにあるからだと思います。自分の罪、自分の不信仰というものをちゃんと見ているが故の問いです。しかし、私たちが救われるかどうかということは、私たちに救われるほどの価値、善良さがあるかどうかで決まることではありません。そのような理解が出てくるのは、「良き人は救われるが、悪しき人は滅びる。だから良き人にならなければならない。」という、私たちの「裁きの基準」「ものさし」「ルール」があるからなのではないでしょうか。しかし、私たちが救われるかどうか、それは神様が私たちを選んで、聖霊を注ぎ、信仰を与え、神様との親しき交わりに生きる者とされたかどうかで決まっているのです。ですから、私たちは自分の姿を顧みて、恐れを抱くことはないのです。ただただ、主イエスの御業に依り頼むのです。そこに、救いがあります。  17節の「イエスのようである」といいうこととは、それは、神様に向かって「父よ」と呼ぶ者とされているということです。神の子とされているということです。これは、私たちが神の子にふさわしい者だから神の子とされたというのではありません。ただ主イエスを信じる。この聖霊なる神様に与えられた信仰によってです。実に、聖霊なる神様が与えてくださった信仰は、私たちに神の子たる身分を与えてくれました。この一点において、私たちは主イエスのような者とされているのです。このことこそ、私たちが決定的に主イエスのように変えられた所なのです。これが福音です。  この福音を携えて、わたしたちは神の国を目指します。聖霊がわたしたちの内に注がれるように祈り、聖霊に導かれて、神の国を目指しましょう。

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