「どこに愛があるんだ?」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書 第43章1-7節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第4章7-12節
・ 讃美歌:151、504
どこに愛があるんだ?
「どこに愛があるんだ」という問いは、「私たちの内に愛があるのだろうか」、「私は愛することができるだろうか」という私たちの不安の答えとなる、根本的な問いです。 「どこに愛があるのか?」 愛はここにあります。わたしたち信仰者の内に、愛が注がれています。そして、信仰者だけでなく、この礼拝に来ているすべての人にも、その愛は注がれています。わたしたちの間にも、愛が存在してくださって、わたしたちを互いに結びつけてくださっています。 愛の源流は父なる神様です。その愛は、イエス様を通してわたしたちに見えるように、聞こえるように、触ることのできるようになりました。 そのようになるために、神様は愛する独り子イエス様をこの世に送り、十字架にお掛けになりました。 ここに愛があります。私たちは、この愛に愛されるまでは、愛を知らなかった。愛を知るまでは、愛することもできませんでした。 愛することを義務とせずに、愛されることを受け入れて、隣の人にその愛を分け与えること、それが隣の人を愛することです。 どこに愛があるのかということに、今日与えられました箇所で、ヨハネは答えを提示し、そしてわたしたちに対して、その愛ゆえに「互いに愛し合いましょう」と勧めをしてきています。 本日は、なぜ私たちが、愛することができるのかということが、愛の根源はどこなのかが、この説教において明らかになります。
愛す者、愛される者、愛そのもの
7節で「愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」とヨハネは語ります。愛する者はだれでも、神様のことを知っている。続く8節では、「愛することのない者は、神を知りません」と言い切っています。その二つの根拠として、「神は愛だから」であるヨハネは断言をしています。 これを単純に言葉通り、受け取ると、わたしたちは他人を愛するということをした時に、その行いによって、神様を知ることが出来る。愛する行いをしないと、神様を知ることができないと、その人の行いによって、神様を知ることが出来るのかなと思ってしまいそうです。しかし、そうではありません。わたしたちの行いで、神様を知ることが出来るのならば、イエス様がこの世に来る必要はありませんでした。わたしたちの努力で何もかもできてしまうということになります。ヨハネは、そのようには考えていません。神様を知るという、原因が、わたしたちの「愛する」という行いすることではありません。神様を知る根拠というの、「神様が愛であるから」とヨハネは語ります。一体これはどういうことでしょうか。なぜ神様が愛であるから、愛する者はみな、神様を知ることになるのでしょうか。 そこで、まず「愛する者」、「愛される者」、「愛そのもの」ということを考えていたいと思います。わたしたちは、「愛される者」とならないで、人を「愛する者」になれるでしょうか。ヨハネはこの手紙の4章19節で「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」と語っています。暴力を受けて育てられた子どもは、親が子を愛するというのを、暴力をすることだと、学び、自分が親になった時に、自分の子どもに親から受けたように、暴力を振るってしまうという事があるそうです。そのように、わたしたちは、親から受けた愛というのが、わたしたちの人に対して行う「愛」の原型になっていることが多いと思います。ですから、わたしたちは、もし親や他人から、一度も愛されていないということであったとすると、わたしたちは愛という具体的な形も、愛するという事も、わからないままになるということです。 ここで言う、愛する者というのは、神の愛、アガペーと呼ばれる愛によって、愛されたものたちのことです。言葉を簡単にすると、愛する者とは、神様に愛された者たちであるということです。神様という親から、愛されたという経験を持つものは、愛するということ、愛されるということが、なにであるかを知ります。そして、愛の原型を知り、自分たちも、その愛の形にならって、隣人や兄弟姉妹を愛することをはじめるのです。その愛の原型、愛の始原こそが、神様そのものなのです。わたしたちは、イエス様に出会い「愛される者」であることを知り、聖霊によって「愛する者」へと変えられて行きます。神様は、愛する方であり、愛される方でもあられます。わたしたちとの違いは、神様は愛そのものであるということです。愛であられる方から愛が広がっていきます。ですから、神様は愛であり、愛の源流でもあられます。その愛の流れは、どこに到達するのかというと、それは、9節にありますように、「わたしたちの内」です。
わたしたちの内
なぜこの愛が、わたしたちの内にまで、やってきたのかというと、それは愛であるイエス様がこの世に遣わされ、来てくださったからです。そうヨハネが、福音書においても、この手紙の4章9節においても、独り子が遣わされたことによって、わたしたちの内に示された、と書いています。 わたしたちの内に示されるということは、わたしたち一人一人がその愛を、心でも、頭でも、わかるように明らかにされたということです。この愛は、イエス様によって、私たちに、注がれ、実践され、明らかにされて、歴史的に目に見えるものに、そしてわたしたちに体験可能となりました。 しかし、ここで「わたしたちの内に」と書かれている言葉は、実は、わたしたち一人がその愛を内側に受け取るという意味だけでは書かれていません。複数の意味を持って書かれています。ここで私たちの「内」と言われている言葉、「en」という言葉、は私たちの内側ということだけではなく、私たちの「間」という意味もあります。従って、この「愛」は、じつは、私一人だけにではなく、隣人との「間」のために、言い換えるならば隣人とわたしたちの関係のためにも、神様は愛する独り子イエス様をこの世に送ったということがわかります。 この愛する独り子であられるイエス様をわたしたちの罪を赦し、贖うためにこの世に遣わした。ここに愛があります。 私たちは、この愛に愛されるまでは、愛を知らなかった。なぜ愛を知ることができたのか。それは、イエス様が十字架に掛かって犠牲となってくださったことで、体験可能となったからです。私たちはこの愛に愛されるまでは、神様を敵だと思っていました、または、神様に対して、無関心でありたい人でありました。 なぜならば、それまでは、神というのは、自分を怒りで滅ぼしてしまう脅威であり、恐れの対象でしかなかったからです。なぜ滅ぼされ、なぜ人は死ななくてはならないのか。それは、己の罪のためです。罪というのは、自分が神様から離れようとすること。神様に無関心であること。神様を差し置いて、自分を世界の中心にすること。自分が主人で、神様を僕のように扱うこと。そのような「自分の罪のために、自分は神によって裁かれて、滅ぼされるんだ」と、「滅ぼされる存在なんだ」と、聖書がそう告げている。そんな私を恐れさせ、「あなたを裁く」言っているような神は、わたしの敵である、とわたしたちはかつてそう思っていました。 神の愛を知るまではそう思っていました。 「私は小さい時から、教会に来ているから、そんなことは思ったことない」と、感じる人がいるとおもいます。それはそのとおりでしょう。それは小さな時から、神様の愛を受けていたからです。教会において、その愛の実践をする大人たち、教師たちに育てられたからです。もしそのような愛に出会っていなかったのならば、そのような人は、神様は怖い存在である。神は「私を滅ぼす敵である」となっていたと思います。 しかし、その罪のための滅びの裁きを、神様御自身が、愛する独り子イエス様をこの世に送り、その人間が受けるべき死の裁きを、愛する独り子にすべて負わせ、わたしたちの罪を、愛する独り子の犠牲によって、赦してくださったのです。 ここに愛があります。勝手に敵対していた私たちを、神様は愛する子を手放しても、愛したいとお考えになり、実行してくださいました。 「ここに愛がある」とヨハネは、10節で宣言します。その愛を知ったもの、愛を受けたものがするべきことをヨハネは11節で書いています。それは「互いに愛し合う」ということです。しかし、ここで、あれっと思う方がいらっしゃるかもしれません。神様に愛されたんだから、神様に愛し返して、お返しをしなくていいのと思う方がいらっしゃるのではないでしょうか。言葉を短くすると「神様の愛にお応えしなくていいの」ということです。
神様の愛に応えること
神様の愛に応えること、それは、神様に恩返しするために、なにかすることであるとわたしたちは考えてしまいます。神様のために愛された分だけ、私も神様に同等に愛し返したいと、考えます。しかし、少し考えてみると、そのように考えているわたしは、神様の愛をただの恩のように考えているという、誤りを前提としていることに気付かされます。神様はわたしたちに、恩を売りたかったのでしょうか。そうではありません。神様の愛、アガペーと呼ばれるその愛は、無償の愛です。神様はわたしたちに恩を返せと、せがむような方ではありません。わたしたちを愛する時に、御子をこの世に送った時に、そのような恩を着せようなどとは考えておられません。そのように神様の愛は、無償の愛であるということを、言葉でわたしたちは知っているはずなのですが、わたしたちはそのことを忘れ、「あぁ、神様を愛し返すことができなかったなぁ」と己の落ち度ばかりに目を向けてしまい、愛そのものである神様に対して顔を向けなくなってしまいます。愛を見つめず、自分ばかり見つめていると、自分が如何に愛されていかが、わからなくなります。わたしたちは、愛されていることがわからなくなると、次第に愛し方がわからなくなります。そして、隣人を愛することも、神様を愛することもわからなくなります。 わたしたちが、神様の愛に応えることができるとするならば、それは、神様の愛をわたしたちが見つめ、受け止めるということでしょう。そして、感謝することから応えることが始まるのだと思います。なにか、わたしたちは、愛されたから、すぐに同等の愛で愛し返さないといけないという、ビジネス的な感覚で、信仰生活をしてしまうことがあると思います。もし夫婦が、恋人同士が、そのような関係ならば、すぐに疲れ果ててしまうと思います。善意で、思いやりもって、その人は愛してくれたのに受け取る側が、その愛に目を向けなくて、すぐにその愛にお返しをしなくちゃいけないということを考えていたのならば、差し出された愛に対してその人は、ちゃんと目を向けないで、愛を味わうことしていないということになります。そのような感覚の人は、愛を受け取ったという「事実」と、愛を頂いたという「知識」しかわからなくなります。これをたとえるとするならば、お中元をもらい、その御中元の中のゼリーを食べることなく、その御中元のお返しのことばかりを考えて頭がいっぱいになっている状態でしょう。このような状態であれば、お中元をお返しすることが、だんだんと、めんどくさくなっていくと思います。なぜならば、贈り物を味わうことをしないで、返さなくてはならないという義務感だけに縛られるところには、喜びがないからです。 このような状態になってしまうのは、頂いたものをちゃんと味わうということをしていないからです。味わうことがなければ、贈り物をした人に感謝する気持ちも起こりません。神様がわたしたちに送ってくださった贈り物は、この世の中で考える事できる最高の贈り物以上の、贈り物です。そこらのお中元とは格が違います。ですから、そもそも神様の贈り物と同等の価値のあるものをわたしたちが送り返そうとすること事態、無理のあることなのです。そうであるのに、わたしたちは、神様の愛に応えなくてはならないという義務感により、必死になっています。神様が、最高の食事を用意してくれたのに、「この高価なものを頂いて、その分ちゃんとお返しできるかな」等と考えていれば、その最高の食事を味わうことができません。 そこで、神様がわたしたちに、聖書を通して言っているのは、「この愛にただ与りなさい」ということです。言葉を換えるならば、「この愛をちゃんと味わいなさい」ということです。わたしたちは、愛を味わい、感謝することでできるようになったのならば、「義務感で愛に応えなければ」ということを考えていたわたしたちが、次第に変えられていき、喜びの内に「愛に応えたい」という気持ちに変えられていきます。 今日与えられました御言葉の10節でヨハネは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」くださったと語っています。わたしたちが、神様に愛すことができるのは、神様が愛してくださったからです。その愛を味わうことなしには、なにも始まりません。 神様は「わたしに愛を返しなさい」とは言われておりません。なんておっしゃっているかというと、「その愛を隣の人に与えなさい」と言われています。なぜ「隣の人を愛しなさない」と聖書が語っているのに、あえて「愛を隣の人に与えなさい」とここで申しているかと言えば、それはなぜならば、わたしたちの内から、愛は生まれないからです。
愛は神からでるもの
7節に「愛は神から出るもので」とあるように、愛はわたしたちのうちからではなく、神様から出てきます。愛の源流は、神様です。イエス様がこの世に来られるまでは、その愛の流れは地下、地面の下を流れるように、わたしたちに見えませんでした。しかし、イエス様がこの世に来られたことによって、その愛が見えるようになりました。地下に流れていた神様の愛の水脈が、イエス様が低くなられ、犠牲となられ、地の中の管、パイプとなり、そこを通って愛が地表に現れました。地下に水が流れていても、それが目に見えなければ、わたしたちはそこに水があることを知ることができません。それと同じように、愛もこの地上に現れなければ、わたしたちは愛を知ることはできません。私たちは、イエス様が十字架に犠牲になって下さり愛を知ることができるようになったのです。イエス様が十字架にかかり、十字架上で亡くなられた時に、ある兵士がイエス様の脇腹を槍で刺しました。そうするとイエス様の脇腹から「血と水が流れた」とヨハネは証言しています。この「血と水」こそ、愛の現れです。「血」はわたしたちの罪を贖う犠牲の「血」として、この「水」は、罪に疲れ渇ききった私たちを潤すための恵みの「水」、死んで人生が終わるのではなくなるための、永遠の生命の「水」です。イエス様の死によって、見えなかった神様の「愛」がこの世に見える形となって流れでたのです。イエス様が父なる神様によってこの世に送られて来られたので、これが成し遂げられたのです。「ここに愛がある」とこの手紙でヨハネは断言しています。その通りです。 そのイエス様が来られたことによって、愛がわたしたちに見えるようになりました。その愛の泉の源流、源が神様です。わたしたちは愛の源ではありません。わたしたちは、湧きだした愛をいただくものたちです。 隣人を愛するという時に、私たちは自分の愛の力を発揮しようとすると思います。そのために、どのように愛すればいいのか、イエス様のように犠牲になって苦しめばいいのか?そんなこと自分にできるだろうかと悩むと思います。そのように悩んでしまう原因は、自分の力、自分の愛する力に頼ろうとしているからです。 わたしたちの内側と、わたしたちの間には、神様から頂いた愛があります。その愛を隣の人に伝えるということが、わたしたちが隣人を「愛す」ことの第一歩だと思います。なぜならば、イエス様がこの世に来られたのは「神様の愛を伝えるため」です。神様がこの世を、人を愛していますということ「伝える」ためにこられたのです。「神様の愛を伝える」ために、イエス様は十字架にかかり、犠牲となられました。人をお赦しになられるという父なる神様の愛を、その身で、そのすべてで示してくださったのです。 わたしたちの内にある愛を伝えるということは、言葉を変えると、分け与えることです。 わたしたちの内に、間に与えられた愛は、無尽蔵で、尽きることのない、限りのない、愛です。分け与えても、少なくなることも、欠けることもありません。ですから、この愛を惜しみなく、隣人に伝えまししょう。そこからわたしたちの愛の関係が始まります。 この神の愛は、この礼拝に集う全てのものに、伝えられ分け与えられています。まず、感謝して、この言葉に与り、味わいましょう。そして、神様に感謝し、その愛を隣の人に分け与えましょう。これが互いに愛し合うことの始まりです。