「神から生まれたこどもたち」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書: 詩編 第92編8-16節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第3章4-10節
・ 讃美歌:220、510
神様はわたしたちが、神様のこどもたち、御自分の子どもとなる事を望んでおられます。今まで、わたしたち、人は時に神様を忘れ、自分勝手に生き、隣人を知らず知らずの内に傷つける、そのような罪人であって、神様の子どもとなるような資格も権利も、自分の中には何一つなく、持ってもおりませんでした。しかし神様がそのようなわたしたちを愛し、御自分の子どもとしようというと決意をしてくださって、自分の愛する独り子イエス様をこの世に送り、わたしたちの罪をすべて御自分お一人で担い、その命と引き換えにして、わたしたちを罪人から神様の子どもたちとなるための道を開いて下さいました。
開かれた道のゴールは、神様の国です。イエス様がそのように十字架に掛かって罪からわたしたちを救ってくださったという事を信じ、洗礼を受ける、それがわたしたちの旅のスタートです。
神様の子どもたちは今も、神様の国へ、神様の家を目指して旅をしています。しかし、その神様の国には、罪を犯す者たちは入れません。ですからわたしたちは旅の途上で、罪を犯さぬものへと変えられねばなりません。わたしたちは来るべき神様の国を目指しながら、その途上で罪を犯さぬものと変えられながら歩んでいます。
「罪を犯さぬものに変えられる」と受動的に言いましたが、なぜ「自分で罪を犯さぬものとなる」とそのように能動的に、あえて言わないのかというと、自分で罪を克服するというように能動的にいうと、なにか自分の力で、罪を犯さないように努力して、ルールに従って、それに違反しないように生きれば罪を犯さなくなれるとわたしたちは勘違いしてしまうからです。
わたしたちは、そもそも、「わたしは罪を犯している。」という自覚はあまりないかもしれません。そう考えるのは、法律違反していなければ、それは罪ではない、罪を犯していないという理解がわたしたちにあるからだと思います。それはたしかにそうです。今日の与えられました、3章4節の御言葉にも、「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」と書いてあります。「罪とは法に背くこと」、裏を返せば、法律を違反しなければそれは罪ではないとそう読めます。
しかしそこには実は言葉の読みの問題が存在します。それはこの「法」という言葉の理解にわたしたちの勘違いがあります。わたしたちが、法という言葉を聞くと、国の憲法や、憲法に則った法律であると、まず最初にそれが連想されるとおもいます。そうするとわたしたちは、憲法違反をしていないし、国の法律をちゃんと守っているので、罪を犯していない、ましてや罪人でないと、そう言い切ることができます。しかしここで言われている「法」、言い換えると「掟」というのは、これは国の憲法ではなくて、神様の定めてくださった掟のことです。このヨハネの手紙の中でも、度々その掟のことについて言及されます。その掟とは「互いに愛し合いなさい」という掟です。言い換えると「隣人を愛せよ」という掟です。この掟を私たちは守ることが出来るか?まずそれを考えなければなりません。この「掟」を言葉通り、「隣の人を愛していますよ」と口にすることはできます。また時に嫌なことをされても、まぁいやだけどゆるすというような我慢をするということもできると思います。そういう行いの上で、それを実行することができるとおもいます。そこにおいては「掟」を表面上は守れていると主張できます。実はイエス様はそのことに関して、衝撃的なことをわたしたちに教えてくださっています。この「互いに愛し合いなさい」という掟は、実は神様が与えてくださった十の戒めである、十戒とも関係しています。その中でイエス様が第七戒の「姦淫してはならない」という戒めについて解説しておられる山上の説教の箇所が聖書の中にありますが、そこでは、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。(これも神様の掟ですね)しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」とあるように、法の及ぶ範囲はわたしたちの行いの面だけでなく、心、心のなかまで、適応されます。わたしたちの国の憲法は、何か犯罪を起こすという行為をしなければ、罪に問われません。しかし神様の法は心の中のことも罪に問われます。わたしたちは、表面的な行いや口から出す言葉では、「隣人を愛する」ということはできても、心でその法を守ることはできるでしょうか。隣人に嫌なことをされたときに、心の底からのゆるしということが起きるでしょうか。隣人が自分よりも優れている時わたしたちは妬むことをしないでしょうか。そのことを心でおもった時点で、私たちはこの神様の法に、背いています。ですから、わたしたち人は、誰ひとり例外なく罪人といえると思います。
しかしその罪人のために、イエス様はこの世に来てくださいました。それはなんのためであるかというと5節にあるように「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くため」です。誰の罪を除くために来たのか、それはわたしたちの罪のためです。「イエス様には罪がありません」ので、イエス様は罪を除く必要はありません。その点で罪のない「真」の「神の子」です。その方がわたしたちの罪を肩代わりしてくださって、わたしたちの罪を無くそうとしてくださっています。その事柄を、御自分を通して、わたしたちにわかる仕方でお示しになるために、この世に来て、十字架に掛かってそのことを、御自分の命を使ってまでもわたしたちに示してくださいました。
わたしたちが、本当に罪のない子ども、神様のこどもになるためには、一つしか道はありません。それはイエス様とつながるという道です。5節で「御子には罪がありません」と言われているように、罪のないイエス様とつながり、そのイエス様のつながりに留まることなしにはわたしたちは罪を犯さない、そのような神様のこどもにはなれません。わたしたちがイエス様とつながるというのは、イエス様のその罪のゆるしの働きを信じて洗礼を受けるということです。信じるというのは、イエス様の十字架と復活のお働き、その事実、その意味を、すべて信じることです。告白するというのは、自分の中だけで、プライベートにしておかないということです。洗礼というのは、読んで字のごとく、水によって罪を洗い流すというイメージがあると思いますが、洗礼というのは、洗礼の儀式そのものが象徴的にわたしたちに洗礼の意味を物語っています。古代では川に全身を浸してもぐり、そしてその川の水から上がってくるということをしていました。水にもぐるというのは、一度死ぬということです。そしてその死から引き上げられて、生きるものになる。新たに生まれるということです。わたしたちは、イエス様を信じて、イエス様につながる洗礼を受けるというのは、イエス様につながって自分の罪、自分の存在をイエス様の十字架に一緒にかけて、イエス様とともに死ぬ。そしてイエス様とともに今度は罪を犯さぬものとして、復活する、新たに生まれる、ということです。
9節で、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」と書かれているところの、「神から生まれた人」というのは、この洗礼によって新たに生まれたもののことです。
しかしこの御言葉にわたしたちは必ずつまずきます。特に洗礼をすでに受けている人が、大きくつまずくとおもいます。「わたしは洗礼を受けているけど罪を犯している」「そうならば、わたしは神様のこどもではないのか」と、またわたしたちは罪を犯しているので、8節に書かれている「罪を犯す者は悪魔に属する」とある、そのようなものなのではないかと、そのようにつまずくというか、そのように疑問におもってしまいます。
この疑問の根にある部分は、洗礼の効果に関しての問いだとおもいます。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」といわれると、どうも、洗礼を受けると、そこでただちに、その瞬間に、その効果として、罪がなくなって、罪を犯さなくなるという考え方にわたしたちは誘われそうですが、それは正しくありません。わたしたちは洗礼を受けて、イエス様につながると、その時点から、罪がなくなるのではなく、罪との格闘が始まります。実際に、わたしたちはそのように格闘しながら、ゴールを目指す旅が、洗礼をうけた時点から始まります。その旅のゴールは神様の御国です。わたしたちは、洗礼を受けると、その瞬間に聖人になり、罪を犯さない存在になるというわけではありません。罪を犯します。ではクリスチャンが犯す罪だったり、犯罪だったりは、実は、犯罪でなかったり本当は罪ではなくて、すべてが実は良いことなのかという疑問を持つ人がいるかもしれませんが、それも間違いです。クリスチャンであっても、本当に真実に罪深い行いや、罪を犯すということはあります。ではヨハネがいうこの「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」という言葉は、真実とは違うことを言っているのか、というとそうではありません。これは真実です。
神様のこどもとなるために、新しく生まれた人は、一生をかけて罪と格闘しながら歩み、終わりの日において、本当に罪を犯さなくなる存在になるということです。罪を犯さなくなる存在とは、先週語られた、3章2節に書かれている「御子に似たものとなる」ということです。
神様から生まれた子たちが「罪を犯さない」という、その根拠はというと、9節の中で「神の種が、この人のうちにいつもあるから」というように、根拠が挙げられています。神の種とは何でしょうか。この文章を元の言葉を直訳すると、「神の種が、この人の内にとどまり続けているから」となります。とどまり続けるということから、同じようにそのとどまり続けるという動詞と結びつく他の単語があります。それは、聖霊です。この神の種は、聖霊と同じ使われ方をしています。イエス様は使徒言行録で、弟子たちに「あなたがたは聖霊による洗礼を授けられる」と言われているように、今わたしたちが教会で行う洗礼は、水と霊によってです。そのようにわたしたちは洗礼を授けられます。そして洗礼を受けたものの中に聖霊が送り込まれます。その後も、彼のうちに神の霊、聖霊がとどまり続ける。そしてその聖霊がわたしたちを、罪犯さない新しい存在に再創造してくださいます。この新しいものとなるための根拠である聖霊が、わたしたちの内にいつでも共にいてくださる。共にあって、罪を犯さないものへと造り変え続けてくださる。そのような新たな命の芽をだすための種として聖霊がわたしたちのうち、とどまり続けてくださるのです。ですので、今も起こっていますが、将来的に、わたしたちは罪を犯さないものに、言い換えると、掟を破らないものに、さらに言い換えると「隣人を愛する」という掟を守ることの出来る人に、さらにさらに言い換えると心のそこから隣人を愛することのできる人になるということです。
ヨハネが今日の御言葉において、何度も何度も「神から生まれた子どもたちは罪を犯さない、犯すことができない」といっているのは、あなたたちは罪を犯してはならないという、教訓という面もあると思いますが、しかしそれ以上に、「あなたがたは、聖霊を受けている、だから、今は隣人をゆるしたり、愛したりはできないかもしれないが、必ず、これから心の底から隣人を愛せるようになる」という励ましの意味がここに込められているとおもいます。
父なる神様は、わたしたちを神様のこどもとしてくださるために、イエス様をこの世に使わしてくださいました。イエス様は、わたしたちが神様のこどもとなるために、どうにかしなければいけない罪のために、苦しみ、涙と血を流して、命を捨て、道を開いてくださりました。その道の上を歩むと決めた時、その道をイエス様と共に歩むと決めた時、イエス様を信じ罪を捨て新たに生まれたいと思った時、その時々が神様の招きの時です。言い換えるならば、それが洗礼の時です。洗礼を受けたものは、歩みを始めます。その歩みの中で、イエス様の十字架と共に捨てたと思っていた罪にわたしたちは悩まされる。神様から遠ざかって、悪の道を歩んでいるのでないか、不安になる。その歩みのなかで、隣人を心のそこから愛することができないという、事実にぶつかります。掟が自分の罪の姿を次々に暴く。そうなって、そこで自己嫌悪したりします。その事実は、わたしたちを苦しめます。しかしそれは、私たちが新たなものに変えられるための産みの苦しみです。お母さんが、子を生むときに、死んでしまうのではないかという激痛に襲われるのと一緒です。
洗礼の時に聖霊を受けている、ですから変えられ始めています。聖霊を受けているということは、先ほどの産みの苦しみの例えでたとえるならば、神様によって、子は必ず生まれると約束されているということです。さらに、子を産むためにそばにいて、何があっても支えてくださる助産師さんのように聖霊がいつもそばにいて下さいます。ちゃんと新たに生まれるように、命がけで、私たちをサポートしてくださいます。
そのように私たちが救われる、新たにされるための道をイエス様はわたしたちに敷いてくださった。そして、何もないわたしたちの内側に、神様の種まで植えて下さいました。でもそんなこと言われても洗礼を受けてからなにも変わっていないと思っておられる方がいらっしゃるかもしれません。
しかし、目に見えませんが、その種は、神様の種はわたしたちの内側で根を張っています。神様はちゃんと、その種を最後まで育てて下さいます。わたしたちが成長するために、聖霊をこの世に送り、手助けもしてくださる。ですからわたしたちは神様により頼みながら、信仰の成長を信じます。成長のその先を見ます。種は根を張り、芽をだし、やがて花を咲かせ、実をつけます。まだまだわたしたちは成長期です。種がまかれたばかり、やっと自分の内側に根が伸びてきてばかりかもしれません。ですから、わたしたちは、自分の現状だけでなく、神様のお働きを信じ、先にある信仰の希望を見つめましょう。神様の御国が来る終の日に、わたしたちは神の種から育った実りとなります。その実をイエス様がその手で掴んで刈り取り、父の家に持って帰ってくださります。しっかりと神様に結ばれて信じて育ちましょう。