「古くて新しい掟」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書: レビ記 第19章18節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章7-11節
・ 讃美歌:353、504、77
「互いに愛し合いなさい。」それは古くて新しい掟。光の道を歩むためにわたしたちに備えられた古くて新しい掟、それは「互いに愛し合う」ということです。 憎しみをわたしたちの行動基準としてはならない。人間自身が愛ではなく憎しみによって行動をしようと決心するところにおいて、闇は人を打ち負かす。愛が考える力を失わせるのではなくて、憎しみがそうさせる。憎しみをもって他者と関係していくのではなく、彼は愛をもって彼女と、彼女は愛を持って彼を愛しなさい、兄は弟を、弟は兄を愛しさない。姉は妹を、妹は姉を、親は子を、子は親を、愛しなさい。そのように互いに愛し合いなさいと神様はわたしたちに掟を与えてくださいました。 「互いに愛し合う」道は、つまずことのない、迷うことのない、終末に向かっての、完成に向かっての、まっすぐな道です。その道を神様はわたしたちに備えてくださいました。神様はわたしたちがその道を迷わずあるくために「古くて新しい掟」を備えてくださいました。 ヨハネは7節冒頭で「愛する者たち」と呼びかけています。ヨハネは彼の所属していた教会の中で、年長者でありました。ヨハネはわたしたちが想像する長老のような人でありました。その長老ヨハネが、彼の教会の中にいるすべての人たちに「愛する者たち」と呼びかけています。 ヨハネの手紙一が書かれた時代には、ヨハネの教会がありました。「愛する者たち」と呼ばれているヨハネの教会の教会員にとって、「互いに愛し合いなさい」という愛の掟は、洗礼を受ける前の勉強会でだれもが習っていた大事な事柄であった。しかし、ヨハネの教会の中で、誤った考えを持つ人たちは、自分は既に主イエス・キリストによって赦され正しい者とされたから、掟は必要ない、掟は乗り超えられた古いものであるから、掟を守らなくて良いのだと考える人がいた。その人々は、ヨハネの教会から飛び出しました。しかし、ヨハネの教会の中でも、教会を離脱した人たちにそそのかされて、教会の中で、仲間に憎しみをもち、古くから伝わる考え方や掟を批判したり、非難したりする人たちがいました。そのような人々を立ち帰ってもらいたいと思ったヨハネは、「掟」を伝えるという方法を取りました。 7節:愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。 ヨハネは「新しい掟ではなく、あなたがたがはじめから受けていた古い掟」を今手紙にして書いているといっています。ヨハネは、この手紙の読み手に向かって、「わたしは斬新な今まで聞いたこともないような真新しい掟をあなたたちに伝えているのではない、あなたたちが洗礼を受ける前に学んでいた、あの古い掟と同じ事を言っているのだ」と伝えています。この古い掟とされている掟の根拠はヨハネによる福音書13章34節に書かれている主イエス・キリストが伝えてくださった掟です。主イエス・キリストはこうおっしゃっています。 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 この言葉はヨハネの教会の人たちは誰もが知っている掟でした。この掟は旧約聖書のレビ記19章18節に書かれてある、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という掟と隣人を愛することという点で、同じ意味を持っています。この古くからユダヤ教で大事にされていた掟、主イエス・キリストがわたしたちに向けて言われたこの掟は、ヨハネの教会の人にとっては言わば、信仰の歩みの初めから知っている、いわば当たり前の古い掟であったのです。ですからここでこの掟についてヨハネは「あなたがたは既に聞いたことのある言葉」だといったのです。 ですが、ヨハネのこの「わたしの書いたことは、新しい掟でなくて、古い掟であるという」発言は、あの誤った考えを持つ人達や、それにそそのかされて古い掟を批判していた人たちを立ち帰させるための、有効な発言でしょうか。いやそうではないのではないか、彼らは古い掟を認めない人たちだから、むしろこれは逆効果なのではないのかとわたしたちは思います。この手紙を読んだ、彼らは「あぁあのよく聞かされた、古ぼけたあの時代遅れの掟のことか」と思うでしょう。しかし、ヨハネはここであることに成功しています。それは彼らにあの「互いに愛し合いなさい」という言葉を思い起こさせることです。ヨハネはここで、あえて「掟」の文面や内容を書いていません。それは、「古い掟」というキーワードを用いて、彼らに「掟の言葉」そのものを思い出させるためです。彼らは洗礼を受ける前に、その言葉を教えられていましたから、その言葉を知っています。ですから、そこで「あなたがたは既に聞いたことのある言葉」だといって、念を押し、「互いに愛し合いなさい」という言葉を、彼らの中から引き出そうとヨハネは試みているのだと思います。 ここで立ち止まって考えたいことがあります。それは、誤った考えを持つ人たちの意見である「古い掟は必要のないものである」という考えは本当に正しいのだろうかということです。 この手紙の中で古いと言われているのは掟です。彼らは、掟をもはや要らないものとして結論づけています。その結論は、自分たちが神様に赦され正しいものとされたのだから、自分たちの行いや、考えは正しいという極端な考えに依拠しています。聖書が古いという言葉を使うときに、神様にゆるされる前のわたしたちの状態、罪に生きる状態の事を指します。そのように彼らは古いということを、罪の状態のだと考えていましたから、古い掟とは罪に生きる人だけが従う掟だ。神様に赦されて新しい命に生きるわたしたちは、古い掟を捨てて良いのだと考えていました。しかしヨハネがここで使う「古い」ということは、罪の状態のことを指す「古い」という意味ではなくて、「前からある」という時間的な古さを強調しています。「前からある」ということは前から続いて「今もある」ということです。1章8節でヨハネは、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」と言っているように、罪は今もわたしたちにあります。ですので、古くから言われている掟はいまだにわたしたちにとっては有効です。信じて救われたので、わたしたちは罪を完全に犯さなくなったから、もはや必要ないとの考えはできないのです。 御言葉に戻りまして、9節、「しかし、わたしは新しい掟として書いています」。あれほど古い掟を強調していたヨハネが、ここで先程の主張をひっくり返します。既にあなたがたが知っている古い掟を新しい掟として書くといっています。ヨハネは「あの誤った考えを持つひとたちに媚びるためにここで新しいと言い換えているのかな」という疑いがでそうですが、そうではありせん。ヨハネは、「互いに愛し合いなさい」というこの掟を、新しい掟として伝えるのには、意味があります。その意味は、掟に対するわたしたちの理解の違いに表れます。 古い掟は、愛の掟を自分は守ることができないものであると気づかせる、人に罪を自覚させる力がありました。わたしたちも、赦された罪人であり、今なお罪があるので、この罪を自覚させる効果は有効です。 ではヨハネが言う新しい掟としての効果はなんなのかと申し上げますと、それは赦された罪人の歩む道の道標としての掟です。今までの古い掟の効果は罪に生きていた時、それは神様との関係が切れてしまっている時に有効だったのですが、この新しい掟は神様との関係に生きて歩むときに有効な掟です。神様との生きた関係を持つ人にとってその掟は、神様とともに歩む道の道標となります。 罪に生きていた自分がこの掟を見ていた時は、言うならば、この掟を守れるか守れないか、守れなかったら救いはないというような、掟に縛られた生き方でした。しかしその掟を守れないわたしたちの罪のために、主イエス・キリスト十字架に掛かってくださったという、赦しの福音を聞いた時に、わたしたちは掟に従っていく歩みではなく、神様の赦し福音に従ってく歩みが始まります。その神様の言葉に従ってく歩みにおいて、その掟はわたしたちの道標となります。 ヨハネはこの手紙に書くにあたった、「新しい」という言葉を、「その考えは新しい」というよう時に使う「新しさ、ネオス」という言葉を採用せずに、終わりの時の救いの希望、救いの確かさに関係をする「新しさ」「カイオス」という言葉を採用しています。ヨハネの採用した「新しい」という言葉は、新しい創造、新しい契約、新しい人などの時に使用されている言葉です。 ですから、つまり、ここでの「新しい」は今私たちが自分たちの認識の基準をもって測る新しさではなくて、終わりの希望を示す「新しさ」、それがここでいわれている「新しい掟」の新しさです。その終末の希望まで道標として与えられているのがこの「互いに愛し合い」なさいという掟です。この新しい掟は、今日々新たにされていくわたしたちに必要なものとして「互いに愛し合うこと」を求めています。 この掟の文面は昔からずっと神様が語ってこられた掟の文面と同じです。しかしわたしたちが主イエス・キリストの十字架の言葉に出会ってからは、新しい掟となる、ですかた「古くて新しい掟」なのです。 残された御言葉に戻ります。 9節「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 「光の中にいる」というのは、主イエス・キリストの赦しの福音を信じている神様との交わり生きている人のことです。その人達は、「互いに愛し合う」ことを目指して歩いている群れです。しかしヨハネは、互いに愛するのではなくて、その反対のことである憎しみをもって仲間と歩むものは闇の中にいると強烈な批判をここでしています。ヨハネの教会をだていった誤った考えをもった人たちは、教会に残った信徒に対して優れた考えを持てない劣った信徒であると、冷淡に軽蔑をしていました。ヨハネはこの態度に対して、救われていて正しい者となったといいながら、そのようなことをするのは、光の中にいない、それは闇の中に生きているのだといいます。 わたしたちも形は違うが同じようなことをしてしまうことがあると思います。兄弟姉妹であってもあると思います。カインとアベルのものがたりのように、自分でなくて身近な者が褒められるとわたしたちは嫉妬します。またヤコブとエサウの物語のように、自分のものだと思っていたものを、不当に奪われると怒りますし恨みます。それは当たり前なのではないかと思う人もいるでしょう。ですがそこに愛はありません。カインとアベルの物語を考えてみても、兄カインは、弟が捧げた捧げ物が神様に受け入れられ、自分の捧げ物が神様に受け入れられなかったのが、悔しくて弟を殺します。そこに愛はなく憎しみしかありません。憎しみがカインを盲目にさせました。カインは神様を全然見ることができません。神様がアベルの捧げ物を選んだということをばかりに気を取られて、神様が自分を愛しておられるということ、アベルを神様は愛しておられること、そのことを忘れるほど、ただただ弟アベルの捧げ物が選ばれたことが恨めしくてしょうがなくなってしまいました。ヨハネがこう言っています。 11節しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。 兄弟を憎むものは、その憎しみによって目が見えなくなっています。自分がどこへ進んでいいのか、進むべきなのかも、まったくわからなくなる、ただわかることはあいつが憎いということだけになります。ですからわたしたちは、憎しみをわたしたちの行動基準としてはいけません。人間自身が愛ではなく憎しみによって行動をしようと決心するところにおいて、闇は人を打ち負かします。考える力を失わせるのは、憎しみがそうさせるのです。 しかし主イエス・キリストはそのように人を憎んでしまうわたしたちのもとに来てくださいました。「光は暗闇の中で輝いている。」暗闇の中にいるわたしたちのその真中に来てくださいました。そのわたしたちを滅ぼすために来たのではなく、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあるようにわたしたちをその光で照らし、さらにその光の内側に入れてくださったのです。そのために主イエス・キリストは人となってこの世に来てくださり、血を流して十字架にかかり命を失いました。それほどまでに、わたしたちを愛してくださいました。 10節兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 その赦されたわたしたちに、神様は「古くて新しい掟」を備えてくださいました。「互いに愛し合いなさい」という掟をもって光の道を歩むとき、わたしたち、つまずくことはありません。しかし、いまだにわたしたちは、隣と人と互いを理解できずに、いることがよくあります。年配の人は若者が何を考えているかわからない、若者は年配の人の気持ちを理解できないようも、男と女もそうであり。上司と部下であってもそうです。しかし、年を重ねた人にも若者にも、男にも女にも、夫にも妻にも、上の者にも下の者にも、兄にも弟にも、姉にも妹にも、親にも子にも神様は語りかけてくださっています。わたしたちはそのような、全く性質が違ったり、立場の違ったりするものとの関係を深めることこそ、つまずきの原因があると考えてしまいますが。まったく別の性質を持つものだから、そもそも理解し合うことなんかできないし、争いしか生まないのではと考えてしまう。だから区別なんか無くしてしまったほうが良いと考える人がいる。また互いに関係を持たないで、静かに過ごしていたほうが良い考える人がいる。そうではない。そのように神様はおっしゃってない。「互いに愛し合いなさい」「互いに知り合いなさい」とそう言われております。それを掟とさされています。むしろ「互いに愛し合う」道にこそつまずきはないと神様は今日のヨハネの手紙を通して語りかけてくださっているのです。 互いに性質の違うものがこの光の中を歩んでいます。ですが、神様が掟をもって互いを向きあわせてくださり、神様がわたしたちの間にたってくださるとき、わたしたちはその異なった性格を持つ人たちも、わたしと同じであり、罪人であり神様に赦され愛されているということを知るとき、他者に本当に近づくことができ知ることできるようになります。しかし一方が拒否をしていれば片方が近づこうとしても、そこには忍耐がうまれます。わたしたちは人と歩むときに必ず忍耐をすることになります。しかしそれは苦しみの忍耐でなくて、神様が愛してくださっているこの人を、必ず神様は、共に神様を向くようになり、私の方に近づいてきてくれるようになるという、希望の忍耐に代わります。そのようにわたしたちは忍耐をもって「互いに愛し合う」のです。その忍耐は停滞でもなくつまずきでもなく、まっすぐな歩みです。 「互いに愛し合う」道は、つまずことのない、迷うことのない、終末に向かっての、完成に向かっての、まっすぐな道です。その道を神様はわたしたちに備えてくださいました。神様はわたしたちがその道を迷わずあるくために「古くて新しい掟」を備えてくださいました。弛みなく進みましょう。 祈ります。 「古くて新しい掟」 「互いに愛し合いなさい。」それは古くて新しい掟。光の道を歩むためにわたしたちに備えられた古くて新しい掟、それは「互いに愛し合う」ということです。 憎しみをわたしたちの行動基準としてはならない。人間自身が愛ではなく憎しみによって行動をしようと決心するところにおいて、闇は人を打ち負かす。愛が考える力を失わせるのではなくて、憎しみがそうさせる。憎しみをもって他者と関係していくのではなく、彼は愛をもって彼女と、彼女は愛を持って彼を愛しなさい、兄は弟を、弟は兄を愛しさない。姉は妹を、妹は姉を、親は子を、子は親を、愛しなさい。そのように互いに愛し合いなさいと神様はわたしたちに掟を与えてくださいました。 「互いに愛し合う」道は、つまずことのない、迷うことのない、終末に向かっての、完成に向かっての、まっすぐな道です。その道を神様はわたしたちに備えてくださいました。神様はわたしたちがその道を迷わずあるくために「古くて新しい掟」を備えてくださいました。 ヨハネは7節冒頭で「愛する者たち」と呼びかけています。ヨハネは彼の所属していた教会の中で、年長者でありました。ヨハネはわたしたちが想像する長老のような人でありました。その長老ヨハネが、彼の教会の中にいるすべての人たちに「愛する者たち」と呼びかけています。 ヨハネの手紙一が書かれた時代には、ヨハネの教会がありました。「愛する者たち」と呼ばれているヨハネの教会の教会員にとって、「互いに愛し合いなさい」という愛の掟は、洗礼を受ける前の勉強会でだれもが習っていた大事な事柄であった。しかし、ヨハネの教会の中で、誤った考えを持つ人たちは、自分は既に主イエス・キリストによって赦され正しい者とされたから、掟は必要ない、掟は乗り超えられた古いものであるから、掟を守らなくて良いのだと考える人がいた。その人々は、ヨハネの教会から飛び出しました。しかし、ヨハネの教会の中でも、教会を離脱した人たちにそそのかされて、教会の中で、仲間に憎しみをもち、古くから伝わる考え方や掟を批判したり、非難したりする人たちがいました。そのような人々を立ち帰ってもらいたいと思ったヨハネは、「掟」を伝えるという方法を取りました。 7節:愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。 ヨハネは「新しい掟ではなく、あなたがたがはじめから受けていた古い掟」を今手紙にして書いているといっています。ヨハネは、この手紙の読み手に向かって、「わたしは斬新な今まで聞いたこともないような真新しい掟をあなたたちに伝えているのではない、あなたたちが洗礼を受ける前に学んでいた、あの古い掟と同じ事を言っているのだ」と伝えています。この古い掟とされている掟の根拠はヨハネによる福音書13章34節に書かれている主イエス・キリストが伝えてくださった掟です。主イエス・キリストはこうおっしゃっています。 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 この言葉はヨハネの教会の人たちは誰もが知っている掟でした。この掟は旧約聖書のレビ記19章18節に書かれてある、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という掟と隣人を愛することという点で、同じ意味を持っています。この古くからユダヤ教で大事にされていた掟、主イエス・キリストがわたしたちに向けて言われたこの掟は、ヨハネの教会の人にとっては言わば、信仰の歩みの初めから知っている、いわば当たり前の古い掟であったのです。ですからここでこの掟についてヨハネは「あなたがたは既に聞いたことのある言葉」だといったのです。 ですが、ヨハネのこの「わたしの書いたことは、新しい掟でなくて、古い掟であるという」発言は、あの誤った考えを持つ人達や、それにそそのかされて古い掟を批判していた人たちを立ち帰させるための、有効な発言でしょうか。いやそうではないのではないか、彼らは古い掟を認めない人たちだから、むしろこれは逆効果なのではないのかとわたしたちは思います。この手紙を読んだ、彼らは「あぁあのよく聞かされた、古ぼけたあの時代遅れの掟のことか」と思うでしょう。しかし、ヨハネはここであることに成功しています。それは彼らにあの「互いに愛し合いなさい」という言葉を思い起こさせることです。ヨハネはここで、あえて「掟」の文面や内容を書いていません。それは、「古い掟」というキーワードを用いて、彼らに「掟の言葉」そのものを思い出させるためです。彼らは洗礼を受ける前に、その言葉を教えられていましたから、その言葉を知っています。ですから、そこで「あなたがたは既に聞いたことのある言葉」だといって、念を押し、「互いに愛し合いなさい」という言葉を、彼らの中から引き出そうとヨハネは試みているのだと思います。 ここで立ち止まって考えたいことがあります。それは、誤った考えを持つ人たちの意見である「古い掟は必要のないものである」という考えは本当に正しいのだろうかということです。 この手紙の中で古いと言われているのは掟です。彼らは、掟をもはや要らないものとして結論づけています。その結論は、自分たちが神様に赦され正しいものとされたのだから、自分たちの行いや、考えは正しいという極端な考えに依拠しています。聖書が古いという言葉を使うときに、神様にゆるされる前のわたしたちの状態、罪に生きる状態の事を指します。そのように彼らは古いということを、罪の状態のだと考えていましたから、古い掟とは罪に生きる人だけが従う掟だ。神様に赦されて新しい命に生きるわたしたちは、古い掟を捨てて良いのだと考えていました。しかしヨハネがここで使う「古い」ということは、罪の状態のことを指す「古い」という意味ではなくて、「前からある」という時間的な古さを強調しています。「前からある」ということは前から続いて「今もある」ということです。1章8節でヨハネは、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」と言っているように、罪は今もわたしたちにあります。ですので、古くから言われている掟はいまだにわたしたちにとっては有効です。信じて救われたので、わたしたちは罪を完全に犯さなくなったから、もはや必要ないとの考えはできないのです。 御言葉に戻りまして、9節、「しかし、わたしは新しい掟として書いています」。あれほど古い掟を強調していたヨハネが、ここで先程の主張をひっくり返します。既にあなたがたが知っている古い掟を新しい掟として書くといっています。ヨハネは「あの誤った考えを持つひとたちに媚びるためにここで新しいと言い換えているのかな」という疑いがでそうですが、そうではありせん。ヨハネは、「互いに愛し合いなさい」というこの掟を、新しい掟として伝えるのには、意味があります。その意味は、掟に対するわたしたちの理解の違いに表れます。 古い掟は、愛の掟を自分は守ることができないものであると気づかせる、人に罪を自覚させる力がありました。わたしたちも、赦された罪人であり、今なお罪があるので、この罪を自覚させる効果は有効です。 ではヨハネが言う新しい掟としての効果はなんなのかと申し上げますと、それは赦された罪人の歩む道の道標としての掟です。今までの古い掟の効果は罪に生きていた時、それは神様との関係が切れてしまっている時に有効だったのですが、この新しい掟は神様との関係に生きて歩むときに有効な掟です。神様との生きた関係を持つ人にとってその掟は、神様とともに歩む道の道標となります。 罪に生きていた自分がこの掟を見ていた時は、言うならば、この掟を守れるか守れないか、守れなかったら救いはないというような、掟に縛られた生き方でした。しかしその掟を守れないわたしたちの罪のために、主イエス・キリスト十字架に掛かってくださったという、赦しの福音を聞いた時に、わたしたちは掟に従っていく歩みではなく、神様の赦し福音に従ってく歩みが始まります。その神様の言葉に従ってく歩みにおいて、その掟はわたしたちの道標となります。 ヨハネはこの手紙に書くにあたった、「新しい」という言葉を、「その考えは新しい」というよう時に使う「新しさ、ネオス」という言葉を採用せずに、終わりの時の救いの希望、救いの確かさに関係をする「新しさ」「カイオス」という言葉を採用しています。ヨハネの採用した「新しい」という言葉は、新しい創造、新しい契約、新しい人などの時に使用されている言葉です。 ですから、つまり、ここでの「新しい」は今私たちが自分たちの認識の基準をもって測る新しさではなくて、終わりの希望を示す「新しさ」、それがここでいわれている「新しい掟」の新しさです。その終末の希望まで道標として与えられているのがこの「互いに愛し合い」なさいという掟です。この新しい掟は、今日々新たにされていくわたしたちに必要なものとして「互いに愛し合うこと」を求めています。 この掟の文面は昔からずっと神様が語ってこられた掟の文面と同じです。しかしわたしたちが主イエス・キリストの十字架の言葉に出会ってからは、新しい掟となる、ですかた「古くて新しい掟」なのです。 残された御言葉に戻ります。 9節「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 「光の中にいる」というのは、主イエス・キリストの赦しの福音を信じている神様との交わり生きている人のことです。その人達は、「互いに愛し合う」ことを目指して歩いている群れです。しかしヨハネは、互いに愛するのではなくて、その反対のことである憎しみをもって仲間と歩むものは闇の中にいると強烈な批判をここでしています。ヨハネの教会をだていった誤った考えをもった人たちは、教会に残った信徒に対して優れた考えを持てない劣った信徒であると、冷淡に軽蔑をしていました。ヨハネはこの態度に対して、救われていて正しい者となったといいながら、そのようなことをするのは、光の中にいない、それは闇の中に生きているのだといいます。 わたしたちも形は違うが同じようなことをしてしまうことがあると思います。兄弟姉妹であってもあると思います。カインとアベルのものがたりのように、自分でなくて身近な者が褒められるとわたしたちは嫉妬します。またヤコブとエサウの物語のように、自分のものだと思っていたものを、不当に奪われると怒りますし恨みます。それは当たり前なのではないかと思う人もいるでしょう。ですがそこに愛はありません。カインとアベルの物語を考えてみても、兄カインは、弟が捧げた捧げ物が神様に受け入れられ、自分の捧げ物が神様に受け入れられなかったのが、悔しくて弟を殺します。そこに愛はなく憎しみしかありません。憎しみがカインを盲目にさせました。カインは神様を全然見ることができません。神様がアベルの捧げ物を選んだということをばかりに気を取られて、神様が自分を愛しておられるということ、アベルを神様は愛しておられること、そのことを忘れるほど、ただただ弟アベルの捧げ物が選ばれたことが恨めしくてしょうがなくなってしまいました。ヨハネがこう言っています。 11節しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。 兄弟を憎むものは、その憎しみによって目が見えなくなっています。自分がどこへ進んでいいのか、進むべきなのかも、まったくわからなくなる、ただわかることはあいつが憎いということだけになります。ですからわたしたちは、憎しみをわたしたちの行動基準としてはいけません。人間自身が愛ではなく憎しみによって行動をしようと決心するところにおいて、闇は人を打ち負かします。考える力を失わせるのは、憎しみがそうさせるのです。 しかし主イエス・キリストはそのように人を憎んでしまうわたしたちのもとに来てくださいました。「光は暗闇の中で輝いている。」暗闇の中にいるわたしたちのその真中に来てくださいました。そのわたしたちを滅ぼすために来たのではなく、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあるようにわたしたちをその光で照らし、さらにその光の内側に入れてくださったのです。そのために主イエス・キリストは人となってこの世に来てくださり、血を流して十字架にかかり命を失いました。それほどまでに、わたしたちを愛してくださいました。 10節兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 その赦されたわたしたちに、神様は「古くて新しい掟」を備えてくださいました。「互いに愛し合いなさい」という掟をもって光の道を歩むとき、わたしたち、つまずくことはありません。しかし、いまだにわたしたちは、隣と人と互いを理解できずに、いることがよくあります。年配の人は若者が何を考えているかわからない、若者は年配の人の気持ちを理解できないようも、男と女もそうであり。上司と部下であってもそうです。しかし、年を重ねた人にも若者にも、男にも女にも、夫にも妻にも、上の者にも下の者にも、兄にも弟にも、姉にも妹にも、親にも子にも神様は語りかけてくださっています。わたしたちはそのような、全く性質が違ったり、立場の違ったりするものとの関係を深めることこそ、つまずきの原因があると考えてしまいますが。まったく別の性質を持つものだから、そもそも理解し合うことなんかできないし、争いしか生まないのではと考えてしまう。だから区別なんか無くしてしまったほうが良いと考える人がいる。また互いに関係を持たないで、静かに過ごしていたほうが良い考える人がいる。そうではない。そのように神様はおっしゃってない。「互いに愛し合いなさい」「互いに知り合いなさい」とそう言われております。それを掟とさされています。むしろ「互いに愛し合う」道にこそつまずきはないと神様は今日のヨハネの手紙を通して語りかけてくださっているのです。 互いに性質の違うものがこの光の中を歩んでいます。ですが、神様が掟をもって互いを向きあわせてくださり、神様がわたしたちの間にたってくださるとき、わたしたちはその異なった性格を持つ人たちも、わたしと同じであり、罪人であり神様に赦され愛されているということを知るとき、他者に本当に近づくことができ知ることできるようになります。しかし一方が拒否をしていれば片方が近づこうとしても、そこには忍耐がうまれます。わたしたちは人と歩むときに必ず忍耐をすることになります。しかしそれは苦しみの忍耐でなくて、神様が愛してくださっているこの人を、必ず神様は、共に神様を向くようになり、私の方に近づいてきてくれるようになるという、希望の忍耐に代わります。そのようにわたしたちは忍耐をもって「互いに愛し合う」のです。その忍耐は停滞でもなくつまずきでもなく、まっすぐな歩みです。 「互いに愛し合う」道は、つまずことのない、迷うことのない、終末に向かっての、完成に向かっての、まっすぐな道です。その道を神様はわたしたちに備えてくださいました。神様はわたしたちがその道を迷わずあるくために「古くて新しい掟」を備えてくださいました。弛みなく進みましょう。 祈ります。