主日礼拝

信仰が来た

「信仰が来た」 伝道師  川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章5-9節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第3章23-29節
・ 讃美歌:18、356

信仰が来た
 ガラテヤの信徒への手紙第3章を読み進めてきました。本日の箇所である23節から29節はその終わりの部分です。23節の冒頭でパウロは、「信仰が現れる前には」と言っています。「信仰が現れる」とは直訳すれば「信仰が来る」となります。それは、具体的には「キリストが来る」ことを意味します。また25節の冒頭には「しかし、信仰が現れたので」とあります。ですから本日の箇所は、信仰が来る前と来た後、つまりキリストが来る前と来た後について語っているのです。キリストはこの世へと、私たちのところへと来てくださり、十字架で死なれ復活することによって、私たちの救いを実現してくださいました。律法の支配は終わり、キリストの支配が始まったのです。「キリストが来た」ことによって、世界は決定的に変わりました。このことをパウロはここで、「信仰が来た」と語っているのです。なぜパウロはそのように語っているのでしょうか。私たちはしばしば信仰を個人的なこと、内面的なことだと考えてしまいます。キリストが来てくださったことは、私の人生には決定的であるけれど、それはあくまで個人的な出来事だと考えるのです。あるいは信仰は私たちの内側から湧き上がってくる内面的なものであり、その信仰を私たちは「持っている」のだと思うのです。「あの人は強い信仰を持っている」とか、「あの人は信仰を持っていない」とか言うことがあります。時には、「信仰を捨てた」と言われることすらあります。しかしパウロはここで「信仰が来た」と語っています。私たちが信仰を「持っている」のではなく、キリストがこの世へ来たのと同じように、信仰も私たちの「外から」来たのです。ですからパウロにとって信仰の到来は、個人的な出来事などではありません。世界の歴史を二分する決定的な出来事なのです。信仰が来る前と信仰が来た後で、歴史は二つに分けられるのです。「信仰が来た」ことによって、世界は決定的に変わりました。この神さまが実現してくださった「新しい現実」を生きることこそ、信仰なのです。

決定的な「新しさ」
 私たちは「信仰が来た」後の新しい世界に生きています。すでに「新しい現実」が与えられています。今、新型ウイルスの脅威の中を生きている私たちは改めてこのことを見つめたいのです。新型ウイルスによってすでに多くの生命が奪われ、その感染はなお終息しているとは言えません。仮に今後ある程度落ち着いたとしても、第二波、第三波への不安を抱えつつ生きていかなければなりません。またこのことによって、私たちの生活は大きな影響を受けています。肉体的にも精神的にも経済的にも多くの方々が苦しんでいますし、その影響は、今後も広がっていくことになるでしょう。そのような中で、2020年は時代の転換点として記憶されることになるかもしれません。新型ウイルスをきっかけとして、仕事や生活の仕方が大きく変わるかもしれないからです。「新しい生活の様式」という言葉も耳にします。実際、すでにリモートワークは進んでいますし、オンライン授業なども始まっています。その変化が一時的なのか、それとも長く続くのかはまだ分かりませんが、いずれにしても将来2020年を振り返って、あの年をきっかけにして世界は大きく変わった、と言われたとしても不思議ではないのです。しかしそうであるとしても、私たちキリスト者にとって、このことは世界の歴史を二つに分ける出来事ではありません。どれほど変化が大きいとしても、そのために多くの試練や忍耐があるとしても、そして一見いくつもの「新しいこと」が起こっていくとしても、その変化や「新しさ」は、私たちにとって決定的な出来事ではありません。より正確に言えば、その変化や「新しさ」は、私たちの救いに少しも影響を与えないのです。私たちにとって決定的な「新しさ」は、「信仰が来た」ことによってすでに実現しているからです。もし私たちが信仰を「持って」いるのだとしたら、信仰が私たちの内側から湧き上がってくるのだとしたら、変化や不安や恐れによって私たちの信仰は簡単に揺さぶられ、枯渇してしまいます。しかし信仰は、私たちの内にあるのではなく外から来たのです。私たちが信仰を「持った」のではなく、信仰が私たちのところに来たのです。その確かさは、私たち自身ではなく、キリストの十字架の死と復活による救いの出来事にあるのです。信仰の到来によって実現した「新しい現実」が、すでに私たちに与えられているし、私たちはその現実をすでに生き始めているのです。

養育係
 「信仰が来る」前の世界で、人間はどのような現実の中にいたのか、パウロは23、24節でこのように言っています。「わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。」ここで律法は「養育係」であると言われていますが、「養育係」という訳は、あまり良い訳ではないと思います。なぜなら私たちは「養育係」と聞いて悪い印象を持つことはあまりないからです。むしろ子どもを大切に養い育ててくれる人を思い浮かべるのではないでしょうか。けれどもパウロはそのような意味で「養育係」と言っているのではありません。この言葉は、子どもたちに礼儀や行儀作法などのしつけをする人を意味しますが、パウロがこの言葉によって見つめているのは、子どもたちをしつけることそのものよりも、しつけのために、養育係が子どもたちを監視し、その行動や自由を制限し束縛することです。23節では「わたしたちは律法の下で監視され…閉じ込められていました」と語られていました。律法の下にあるならば、私たちはなにを言い、なにを行ったのかを絶えず監視されているのです。こんなことを言ったから、こんなことを行ったから自分は駄目だと落ち込んだり、逆にこんなに善いことをしたからと自分を誇ったりするのです。そこには、平安はありません。不安だけがあるのです。監視を気にしていつもビクビクしていなくてはならないからです。自分が監視されているだけではありません。自分も隣人を監視し始めるのです。あの人は律法に違反していると、お互いに裁き合うことになるのです。律法の下で監視され閉じ込められていることによって、私たちが神さまに背き、神さまと隣人とを愛せないことが明らかにされます。ですから律法が、「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となった」とは、律法によって私たちがしつけられ、教育されて、キリストへ導かれたということではありません。そうではなく、人間の行いによって救われる可能性がまったくないことを律法は私たちに突きつけ、ただ信仰によって救われるしかないことを明らかにした、ということなのです。24節の後半で、「わたしたちが信仰によって義とされるためです」と言われている通りです。

決定的な「しかし」
 25節で「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」と言われています。この冒頭の「しかし」こそが、決定的な「しかし」です。信仰が来る前と来た後を分かつ「しかし」なのです。信仰が来たからには、もはや私たちは、私たちを監視し罪の支配の下に閉じ込める養育係、つまり律法の下にはいません。この「しかし」こそ、キリストの十字架の死と復活によって実現した「しかし」であり、私たちを罪と律法の支配から自由にしたのです。「信仰が来た」後の世界で、私たちはどのような現実を生きているのでしょうか。パウロは26節でこのように言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」「新しい現実」において、私たちは神の子です。信仰によって、キリスト・イエスに結ばれて神の子とされたのです。「信仰が来た」ことによって、世界の歴史は決定的に二つに分けられ、救いに与り神の子として生きる「新しい現実」を私たちは生き始めています。しかし「信仰が来た」後の世界で、すべての人がこの「新しい現実」を受け入れたわけではありません。罪の支配が滅ばされキリストの支配が実現し、世界は決定的に変わったにもかかわらず、なお養育係の下に、つまり律法の下に留まろうとするのです。ほかならぬガラテヤの人たちが、律法の支配の下に戻ろうとしていました。パウロは、そのようなガラテヤの人たちに、あなたがたはもはや養育係の下にいるのではなく神の子とされているのだ、と訴えているのです。

キリストを着る
 私たちがキリスト・イエスに結ばれて神の子とされたのは、洗礼においてです。ですからパウロは27節で「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と言っているのです。洗礼によってキリストに結ばれ、信仰の到来によって実現した「新しい現実」に入れられ、神の子として新しく生き始めるのです。パウロは、洗礼を受けてキリストに結ばれるとは、「キリストを着る」ことだとも言っています。キリストを着て生きることこそ、私たちの新しい生き方です。律法の下で監視され閉じ込められていることから解き放たれ、キリストを着るのです。しかし私たちは、自分が「キリストを着ている」ということに戸惑いを感じるかもしれません。もし「キリストを着ている」ことが、キリストのようになろうと頑張ることならば、私たちはそのように生きることができない自分自身に失望するしかありません。けれども私たちは自分の力でキリストを着て、キリストのようになるのではなく、洗礼において、「キリストを着せられている」のです。このことを受け入れ感謝して歩んでいくとき、私たちは確かにキリストに似た者へと変えられていきます。このことを私たちは信じて良いのです。それだけではありません。キリストを着て生きるとは、キリストと一つとされ、キリストに守られて生きることです。キリストは誘惑に打ち勝ち、私たちの誰一人として経験したことがない絶望を十字架の上で味わい、そして神さまによって復活させられ、永遠の生命を生きておられます。私たちはこのキリストに覆われているのです。包み込まれているのです。不安や混乱に紛れるようにして、サタンは私たちを誘惑します。困難な状況の中で、苦しみや悲しみによって私たちは希望を失いかけるかもしれません。けれどもそのような時にこそ、私たちがキリストを着ていることに目を向けたいのです。キリストに覆われて、私たちは、誘惑と絶望に打ち勝つ力と希望を与えられているのです。

キリスト・イエスにおいて一つ
 信仰の到来によって実現した「新しい現実」において、人と人との関係も新しくされます。28節でパウロはこのように言っています。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ここでパウロは、ユダヤ人とギリシア人、男と女に違いがあることを否定しているのではありません。また現代においては、奴隷という身分があってはなりませんが、パウロが生きていた社会にはありました。パウロはここで奴隷という身分をなくすことについて語っているのでもありません。ここでパウロが見つめているのは、神さまの救いにおいて、私たちは民族や身分や性別の違いから自由にされているということです。「信仰が来た」ことによって、救いにおいては、そのような違いは「もはやない」と言っているのです。このことこそが、キリスト・イエスに結ばれて神の子とされた人たちの新しい関係です。私たちは、「キリスト・イエスにおいて一つ」とされたのです。この手紙においてパウロが語ってきたのは、ユダヤ人とギリシア人、つまりユダヤ人と異邦人についてです。もし救われるために律法の行いが必要ならば、異邦人は割礼を受けなければなりませんでした。それは、異邦人は異邦人のままでは救われないということです。律法の支配の下では違いが強調されます。行いによって、自分とほかの人を比べるからです。パウロは2章14節でかつての自分を「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と語っていました。「人一倍熱心で」や「同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりも」という言葉から、パウロが自分とほかの人とを比べていることが分かります。このことは私たちも他人事ではありません。依然として律法の支配の下に留まり、違いを強調することによってお互いを比べる生き方は力を持っています。そのような生き方に私たちもしばしば陥りがちです。しかし救いは、行いによるのではなく信仰によるのです。お互いの違いを比べることによってではなく、信仰が来て、その信仰によって、キリスト・イエスに結ばれて神の子とされたのです。私たちは等しく神の子です。そこには、もはや民族や身分や性別による違いはありません。しかしそれは、私たちは皆同じだということではありません。あるいはそれぞれ違っていたとしてもその違いは大したことではないということでもありません。私たちはそれぞれに与えられた人生を歩む中で、それぞれに抱えているものがあります。自分の弱さや欠けに翻弄されたり、抑えきれない怒りを抱いたり、拭いきれない喪失や悲しみを抱えていたりします。私たちには違いとしてしか受けとめられないことがあるのです。しかしそのような違いにもかかわらず、私たちは「キリスト・イエスにおいて一つ」とされているのです。まったく別の境遇に生まれ、異なる環境で育ったとしても、信仰がやって来て、一人ひとりを捕らえ、神の子としたのです。救いにおいては、違いはもはや問題とされないのです。教会は、「キリスト・イエスにおいて一つ」とされた者たちの群れです。私たちは今、皆で集まって礼拝を守ることができません。なによりも礼拝において、私たちはキリストの体なる教会に連なり一つとされている恵みに与ります。しかし礼拝が守れなくとも、いえ守れないからこそ、洗礼を受けてキリストに結ばれ神の子とされた私たちが、「キリスト・イエスにおいて一つ」とされていることを想い起こしたいのです。たとえ離れていても私たちは一つであることに希望をおいて、共に集まって礼拝を守れるときを待ち望みたいのです。

キリストのもの
 29節でパウロは「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と言っています。3章6節からアブラハムに与えられた祝福が誰に及ぶのかが語られてきました。ここでは、その結論が語られているのと同時に、「相続人」という言葉によって4章1節とも結びついています。私たちはキリストと結ばれ神の子とされることでアブラハムの子孫であり、神の祝福の約束を受け継ぐ「相続人」です。このことは、私たちが「キリストのもの」であることによって実現しました。私たちが「キリストのもの」であることこそ、「信仰が来た」後の私たちの「新しい現実」です。私たちは「キリストのもの」として生かされているのです。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いに、ハイデルベルク信仰問答は「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです」と答えています。「キリストのもの」であること。それが私たちの人生におけるただ一つの慰めです。それは、慰めが一つしかないということではありません。この慰めのほかになにもいらないということです。私たちの周りには一見慰めに思えることが溢れています。しかし私たちを生かし、恐れと不安から自由にする慰めは、私たちが「キリストのもの」であることのほかにはないのです。私たちは今、変化の中にあり、その変化がもたらす新しさに戸惑いや不安を感じることも少なくありません。変化についていけるだろうか、新しさに適応できるだろうか、どこに向かって歩んでいけば良いのだろうか、と思わずにはいられません。けれども私たちは、「信仰が来た」ことによってすでに決定的な「新しさ」に生きています。その「新しさ」は、不安や混乱をもたらすのではなく、復活と永遠の生命の約束によって、真の希望と慰めと平安をもたらすのです。信仰が私たちの外から中へとやって来て、私たちを捕らえています。このことにこそ私たちの人生の確かさがあります。私たちはこの信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子とされています。この信仰にすべてをしっかり捕らえられ、洗礼を受けてキリストに結ばれたのです。そのことによって、私たちはキリスト・イエスにおいて一つとされています。信仰が来て、「キリストのもの」とされた私たちは、キリストを着て、キリストに覆われて、キリストと共に歩んでいくのです。

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