「平和の神のもとで」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; エゼキエル書 第13章1-7節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第14章26-40節
・ 讃美歌; 10、152、393
11~14章のまとめ
礼拝においてコリントの信徒への手紙一を読み進めて参りまして、14章の終わりまで来ました。昨年の9月に11章に入った時に、11章から14章にかけては、教会の礼拝をどのように守り、整えていったらよいかについて語られていく、と申しました。11章から14章は、コリント教会からパウロのもとに寄せられたいろいろな質問に答え、あるいはその質問に関連して語られてきたことです。礼拝における男女の服装の問題もありました。主の晩餐、私たちで言えば聖餐をどう行うかについての教えがありました。聖霊によって一人一人に与えられる賜物についての教えがありました。そして、最も大きな賜物、他の全ての賜物を生かす要としての愛についての教えがありました。そして、異言を語る賜物と預言を語る賜物のことが語られてきました。質問に答えていろいろなことが語られてきたのですが、それら全ては、教会の礼拝をどのように守り整えるか、ということに結びついているのです。本日のところは、その部分のしめくくりです。11章から14章までのまとめがここでなされているのです。
あなたがたを造り上げるために
26節にこうあります。「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」。「あなたがたは集まったとき」、つまり教会の礼拝、集会に集まったときのことです。そのときに、「それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈する」のです。それは、それぞれが聖霊によって与えられている様々な賜物が発揮されて、礼拝、集会が行われていくということです。詩編の歌を歌う、つまり讃美における賜物を与えられている者もいる、教えるという賜物を与えられている者もいる、啓示を語る、つまり神様のみ言葉を語るという賜物を持っている者もいる、異言を語る賜物を与えられている者もいる、それを解釈する賜物を持っている者もいる、そういう様々な人の様々な賜物が生かされて、礼拝や集会が行われていくのです。その際に、「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」とパウロは言います。この「造り上げる」という言葉は、コリントの信徒への手紙一において最も重要な言葉の一つです。これは文字通りには、「家を建てる、建築する」という言葉で、そこから、教会を建設する、という意味で用いられています。それは教会堂という建物を建設することではなくて、主イエス・キリストが頭であり、キリストを信じる者たちがその頭に連なってそれぞれの部分として生きる一つの「キリストの体」としての共同体を築いていくことです。それぞれの様々な賜物が発揮されて行われる礼拝、集会によって、キリストの体である教会が造り上げられていくことをパウロは願っているのです。
自分の賜物を発揮する
そのようにパウロが言うのは、コリント教会において、それぞれの賜物が、教会を造り上げるのではない仕方で発揮されてしまっているという事態があったからです。ここの「それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り…」とあるところは、直訳すると、「それぞれ詩編の歌を持ち、教えを持ち、啓示を持ち…」となります。つまり、コリント教会の人々が、それぞれ「自分はこういう賜物を持っている」「自分はこれを持っている」と、自分の賜物を主張し、それを発揮しようとしている、という感じがここには表わされています。つまり彼らは、キリストの体としての共同体を造り上げていくことではなく、自分の賜物、力、能力を発揮することに夢中になってしまっているのです。「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」というパウロの勧めはそういうことを意識しているのです。
異言を語る者は
自分の賜物を発揮することに夢中になっているコリント教会の様子は、27節以下から推察できます。27、28節は、異言を語る上での注意事項ですが、こう語られています。「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい」。異言というのは、信仰的興奮状態になって、わけのわからない言葉を発することで、それが聖霊の賜物の一つとして尊重されていたのですが、それを語る場合には、二人かせいぜい三人が、しかも順番に語れ、とパウロは言っています。これは裏を返せば、もっと沢山の人々が、われ先に、てんでに異言を語ろうとしていたということでしょう。教会の集会に行くと、あっちでもこっちでも、沢山の人々が異言を語っている、そして次から次へと新しい人が「私も語れる、私にも語らせろ」と異言を語り始める、そうなるともう騒がしいばかりで収拾がつかない、ということがあったのです。パウロは、そんなことでは教会を造り上げることにならない、共同体の形成にならない、と言っています。先週読んだ23節では、そんな所に新しい人が入ってきたら、この人たちは気が変だと思うだろう、とすら言っています。そんな騒がしい無秩序な礼拝ではなく、一度に一人が語り、その語られた異言はその都度解釈されなければならない、つまり、みんなに分かる言葉に翻訳され、説明されなければならない、そしてみんなで、その人の語った異言に、「アーメン、その通りです」と応答できなければならない、そうなって初めて、異言は教会を造り上げるものとなることができるのだ、というのです。ですから、もしもそこに、異言を解釈して分かる言葉に翻訳することができる人がいないならば、集会において異言を語ることはやめなさい、と28節に言われています。その場合には、自分一人の所で、自分自身と神に対して語りなさい、人々の前ではいけない、というのです。
預言する者は
この異言の問題は14章の中心テーマでした。異言に対して、人に分かる言葉で神の恵み、キリストによる救いのことを語ることを預言と言います。パウロは14章で、異言は自分自身を造り上げるのみだが、預言は教会を造り上げる言葉だ、だから、異言よりも預言の賜物をこそ求めなさいと教えてきたのです。しかしだからといって、預言ならば自由に語ってよい、ということではありません。29節から32節にかけては今度は、その預言を礼拝において語る上での注意事項が語られています。そこを読むと、預言についても、異言の場合と同じような注意がなされていることに気づきます。29節には「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」とあります。預言も、二人か三人が、勿論順番に語るのです。人に分かる言葉である預言であればなおさら、何人もが同時に語ったら、せっかくの分かる言葉も分からなくなってしまいます。そしてそれだけではなく、その語られた言葉は「検討」されなければならないとあります。つまり、それが本当に聖書に基づき、主イエス・キリストによる救いの恵みを正しく語っているものであるか、具体的には「イエスは主である」という告白に基づき、またその告白を生むものとなっているか、集まった人々によって検討されなければならないのです。それは、人間の勝手な思いや意見によって教会が動かされてしまってはならないということです。教会の礼拝、集会において語られるべき言葉は、誰かの個人的見解ではなくて、神様のみ言葉なのです。そのために、語られたことはきちんと検討されなければならないのです。ですから皆さんも、私がここで語っていることを鵜呑みにしないで、聖書に照らしてきちんと検討しなければなりません。その責任をまず負っているのが長老会なのです。
黙り、聞く
さらに30節にはこうあります。「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」。誰かが新しく預言を語り始めたら、それまで語っていた人は黙りなさいというのです。これは少しひねくれて読めば、今語られていることが気に入らなかったら、自分が新しく別のことを語り始めればよい、そうしたら前の人は黙らなければならない、ということにもなるかもしれません。そんなふうにして、次から次へと新しい人が語り始めたら、やはり礼拝は混乱し、収拾がつかなくなるでしょう。ここで語られているのはそういうことではありません。この教えのポイントは、「先に語りだしていた者は黙りなさい」というところにあります。つまり、いつまでも一人の人が語り続けていてはいけない、ということです。その人が聖霊によって預言の賜物を与えられ、それによって語っていることは確かでも、預言の賜物は他の人にも与えられるのです。自分には語りたいことがある、という人がいつまでも語り続けて、他の人が語ることができなくなってしまうとしたら、それは神様のみ業を妨げることになります。預言の賜物を与えられている者は、語ることと同時に、黙って、他の人によって語られる預言を聞くこともできなければならないのです。31節には「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」とあります。「皆が共に学び、皆が共に励まされる」、教会が造り上げられていくというのはこういうことです。そのために一人一人が皆、預言をすることが求められているのです。それは、みんなが説教ができるようにならなければならない、ということではありません。求められているのは、自分に与えられた神様の恵みを、導きを、感謝をもって、どんなにつたない言葉でもいいから語っていく、ということです。そしてさらに大事なことは、皆がそれを聞き合っていくということです。他の人の語る信仰の言葉、神様の恵みを語る言葉を、皆が共に聞き、皆が共に学び、共に励まされて教会が造り上げられていくのです。ところが、人の語る預言を聞くという姿勢がなく、自分が語ることしか考えていないと、語っているのが異言ではなくて預言であっても、それは教会を造り上げることにならないのです。32節の「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです」というのも、聖霊の賜物によって預言している者は、自分の預言をやめて黙ることもできるはずだ、ということです。預言者の意に服して黙ることのできないような霊は聖霊ではない、それは人間の勝手な思い込みにすぎないのです。
このように見てくると、パウロは、異言はだめだが預言ならよい、と単純に考えているのではないということがわかります。預言もまた、正しく整えられて語られなければ、異言と同じになり、教会を造り上げるものでなくなってしまうのです。そうならないための一番大事なポイントは、自分は黙って、他の人の語る言葉を聞くことができるか、ということです。そういう姿勢を失い、自分が語ることにしか思いがいかなくなってしまう時に、預言も異言と同じになってしまうのです。きちんと聞くことのできない者は、正しく語ることもできません。これは信仰を離れて、世間一般においてもそうですが、信仰において、教会においては、ますますそうなのです。
神の言葉を聞くために
自分は黙って、他の人の語る言葉を聞くことが大切であるというのは、人の言い分もよく聞いて物事を公平に判断しなさい、ということではありません。人の言葉を聞くことが大切なのは、私たちはそれによってこそ神様のみ言葉を聞くことができるからです。他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙る、それは、人の言い分を聞くためではありません。神様の啓示、神様が語られることを聞くためです。私たちは、自分の意見、考えを語っている時、たとえそれが神様のみ心だと思って語っていても、どうしても自分の言葉、自分の思いに捕えられていきます。自分の言葉と神様のみ言葉との見境をつけることはなかなか難しいのです。そのような私たちに、神様は、他の人を通して語りかけて下さいます。勿論その人の言葉も、純粋な神の言葉というわけではありません。しかし私たちはそこに、自分の言葉とは違った仕方で語られる神の言葉を聞くのです。それによって、自分の語っている言葉がふるいにかけられ、神の言葉と私たちの言葉とが振り分けられていくのです。他の人を通して語られる神様の言葉を聞くことの重要性はそこにあります。そういうことを通して私たちは、神様のみ言葉を本当に聞く者となり、それを語る者となることができるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エゼキエル書13章1~7節には、偽りの預言者のことが語られています。偽りの預言者とは、「自分の心のままに預言する者、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む者、神様が語ってもいないのに、『主は言われる』と言っている者」だと言われています。それはつまり、神様のみ言葉をちゃんと聞くことをせずに、自分の思い、考えによって語っている者です。私たちの言葉も、ともすればこの偽りの預言者の言葉になってしまいます。そうなったら、教会を造り上げていく言葉を語ることはできないのです。
コリント教会の問題はそこにありました。彼らは、異言を語るにしろ預言を語るにしろ、自分が語る、自分の賜物を発揮する、ということばかりに思いが行っており、人が語るのを聞き、そしてそこに神様のみ言葉を聞くということがなかったのです。そのように、聞くことなしに語ることばかりが追及されていく時、教会の礼拝や集会は、人間の思いに支配され、混乱し、無秩序に陥るのです。パウロはそのような礼拝に秩序を回復させようとしています。本日の箇所の最後の40節に「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」と言われています。その秩序は、ただ形が整っている、整然と厳粛に行われるということではありません。大事なことは、神様が語られることを「聞く」という姿勢が回復されることなのです。
平和の神のもとで
パウロはその思いを、33節において、「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」という言葉に込めて語っています。神は無秩序の神ではない。みんながそれぞれ自分の賜物を発揮することばばかりを考え、自分の言葉を語ろうとばかりしているような無秩序な礼拝や集会を神はお望みではない。それでは神はどのような礼拝、集会をお望みなのか。私たちの常識では、無秩序の反対は秩序です。ですから、「神は無秩序の神ではなく、秩序の神である」となっても不思議ではないかもしれません。しかしパウロはそうではなく、「平和の神」と言います。神においては、無秩序の反対は秩序ではなく、平和だと言うのです。つまり、神が本当に求めておられる礼拝、集会のあり方は、いろいろなことがきちんと整えられて、秩序正しく整然と行われるということではなくて、平和の神のご支配がそこに確立することなのです。平和の神のご支配、それは主イエス・キリストにおいて実現しているご支配です。主イエス・キリストにおいて、まことの神が私たちと同じ肉体をとってこの世に生まれて下さり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神様はその主イエスを死者の中から復活させ、新しい命を与えて下さいました。この主イエスの十字架の死と復活によって、神様は私たちの罪を赦し、私たちとの間に平和を確立して下さったのです。神様が私たちにとって平和の神であられるのは、主イエス・キリストにおいてです。平和の神のご支配は、イエス・キリストが私たちのまことの主となられるところにこそ確立するのです。この平和の神のご支配の下で生きるために私たちは、聖書を通して神様が語って下さっていることをしっかりと聞かなければなりません。私たちの思いや考えからは、主イエス・キリストにおいて神が私たちとの間に平和を確立して下さったということは出てこないのです。人間の常識や普通の考えからすれば、十字架の死刑に処せられたイエスが神であられるなどということは有り得ないからです。人間の思いから得られるのはせいぜい、イエスという一人の人間が、貧しい人、虐げられている人々のために生き、無実の罪で十字架につけられたのだ、そのイエスの自己犠牲の愛の精神を見倣って、私たちも隣人愛に生きよう、という教えです。けれども、そのような教えにおいては、神様が私たちとの間に平和を確立して下さったということはなくなるのです。つまり、神は平和の神ではなくなるのです。しかし聖書が語り、代々の教会が受け継いできた信仰は、神様が人間となって、苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さり、罪人である私たちとの間に自ら平和を確立して下さった、つまり神は平和の神であられる、という驚くべき知らせなのです。その信仰は、人間の思いや言葉が沈黙し、神様が語られる言葉に耳をすますところにこそ与えられるのです。教会の礼拝や集会は、この神様からの啓示のみ言葉、主イエス・キリストにおける平和の神のご支配を告げるみ言葉が語られ、人間の言葉や思いが沈黙してそれが聞かれる場でなければなりません。預言も異言も、またそれぞれに与えられている様々な賜物も、そのことのために秩序づけられ、用いられていかなければならないのです。
34節以下には、婦人たちは教会では黙っていなさい、という教えが語られています。この教えは、教会における女性の地位をおとしめる、女性差別の教えとしてしばしば非難されます。パウロも当時の社会通念に捕えられていて、男尊女卑の感覚を持っていたのだとも言われます。しかしこの教えも、今見てきた、教会の礼拝や集会のあり方という文脈の中で読まれるべきものです。そしてパウロは、以前に申しましたように11章では、教会において女性が預言をしたり祈ったりすることを当然のこととして認めています。ですからパウロが、一般論として、女性が教会の集会で発言することを認めなかったということはありません。ここに語られているのは、コリント教会において起っていた特殊な事情についてのことのようです。それは、この教会の女性たちが、礼拝で語られた預言の言葉について、ああでもない、こうでもないと批評を始め、その影響によって、礼拝においてみ言葉を聞く姿勢が乱されていたということです。神様のみ前に出て、み言葉を聞く時であるべき礼拝が、人間の思いに支配されてしまっていることが問題なのです。つまり批判されているのは、「女性が発言すること」ではなくて、神の言葉よりも人間の言葉が教会の、礼拝の中心になってしまうことです。そうなってしまったら、その群れは平和の神のもとで歩むことができず、キリストの体である教会へと造り上げられていくことができないのです。平和の神の下で生きるために、私たちは、男であれ女であれ、まず神様の前に沈黙して、その語られるみ言葉に耳をすます、という礼拝や集会を整えていきたいのです。そのためには、一人一人が、語ることよりも聞くことを大事にし、他者を通して語られるみ言葉に耳を傾けていく姿勢を持つことが必要です。そのような礼拝がささげられるところにこそ、主イエス・キリストの体である教会が造り上げられていくのです。